2-3

文字数 1,908文字

 霧とも靄とも思えるような、小さな雨粒だった。
 右眼から流れる血を洗い流せもしない。



 路地裏、ペレストロイカ近くの小さな開業医。
 寂れて他に客はいない。裏口のようなアルミのドアに、医院である事を示す看板が貼り付けてある。
 そこでイツキは右眼の治療を受けた。治療後に闇医者と聞いて、法外な請求を覚悟したが、

「タダでいい」

 その女医は不満そうにそう言って、領収書を書き殴った。

「杉野イツキ君、だっけ? 君の父親から治療費はもらっている……何年も前にね」

 メモ書きの紙を差し出されたイツキ。右眼に眼帯を付けて、遠近感が掴めず取り損ねた。
 文字は読めた。治療費は法外どころか、ゼロに等しい。支払い済みになっていた。

「絆創膏代くらいのつもりだったが……まぁ約束は約束さ」

 再度手を伸ばし、イツキはメモ書きを手にした。

「……」

「……ミハイルと勝負をしたんだね。父親の代わりに」

「……知っているのか?」

「お抱えだからね。だからこの医院は、表通りからは見えないが“同志”とやらの帰り道からは見つけやすい場所にある。情報も入るよ」

「だけど父は……」

「きっと想定済みさ、敗北も。なにしろミハイルは“ペレストロイカ”の創立者にして、運営部の最高指導者なんだから。あの場所がどういう場所か、一番知っている男さ。誰かを陥れる事を哲学の範疇の外に置いている」

 “最高指導者”というのなら、全てを捻じ曲げられる。あの地下はミハイルの胃の中とも言える。
 もし現況からこの後の全てを予測の上で、最終的に孤児院施設が残る為の最善の策として、父があえて死を選んだのだとしたら――ミハイルやこの女医の話を聞く限り、そう思える。
 しかし、とすれば。

(何故父の死体は、涙を流していたのだろう)

 論理的に辻褄の合わない事がある。
 例えばそれがもっと内面的で不可視の事象に於ける、人間でなければ持ちえない逸脱性を――

「痛ッ……」

 右眼を抑えた。
 痛み止めを打たれた筈なのに、傷口の痛みが消えない



 帰路、唯花はずっと泣いていた。
 涙を止めるにはミハイルの死体が必要だと思った。
 銀の皿にミハイルの首をのせて差し出せば、彼女はまた笑って舞えるのかもしれない。
 ミハイルに対する殺意がイツキの中で正当化されていく。右眼の痛みが何よりの証拠だとすら思えた。
 黒場潤はあの男に殺された。
 汚れなき魂の尊厳の為には、報復が必要だった。



 午前零時。右眼の傷口の痛みに耐えながら、やっとの思いで施設まで辿り着いた。

「イツキ!?」

 ロビーのソファーに座っていた琴乃は、イツキの顔を見るなり立ち上がった。
 琴乃は慌てて駆け寄ってきた。

「どうしたのその眼!? 真っ赤じゃない!」

「え?」

 言われてイツキは右眼につけられた眼帯、その下を指で触れた。赤い血がまだ流れ出ている。眼帯の下部は、真っ赤に染まっていた。

「…………治療したんだけどな……」

「ほらイツキ座って! 血拭くから! ほら早く!」

 半ば強引に、琴乃はイツキをソファーに座らせる。泣き止んでいた唯花も心配そうに見ている。唯花もイツキの出血には気付いていたが、ずっとどうすればいいかわからずにいた。
 琴乃は救急箱を持ってきた。だが、薬も包帯もろく入っていない。琴乃はその現状に苛立ちながら、ティッシュで血を拭いとった。

 イツキはその間、ただ呆っと、何も無いロビーの空間を眺めていた。





 ――執着なんてしていない場所だと思っていた。

 無くなろうが、奪われようが、何も感じない場所だと思っていた。
 決して綺麗だとは言えない、便利だとも言えない、ただ、数十人の孤児が雨風を凌げるだけの古い建物。
 それを誰の物にもしたくないと。
 なれば自分が“支配”し続けていたいと。

「そうだ、ここは……俺が貰ったんだ……」

「え?」

 イツキの呟きを、琴乃は聞き取れなかった。

「父さんが俺にくれたんだ……だから、俺の物だ。誰にも譲らない…………」

 何一つ、他人になんか渡したくなくなった。
 ロビーも個室も、このソファーもこのティッシュも、止められた水道も空の救急箱も、唯花も琴乃も。
 手放さなければ失わない。
 数日前までここで笑い、走り回って生きていた子を想う。
 たった一つだけ手放して後悔した経験は強烈なトラウマになり、それは支配欲と独占欲へと変わり、イツキは憑り付かれた。

「イツキ! あんたまた血が……!」

 出血が酷くなっていた。だが、イツキは気に留めない。

「琴乃……」

「何?!」

「お前はずっと、俺が守るから……」

「え……」

 琴乃が頬を赤く染めた。

「な、な、何、あんた急にそんな……」

 そんな琴乃を見て、漸くイツキの殺意は和いだ。

 やがて、血も止まった。
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