第6話 マッサージ師さん

文字数 1,772文字

その日は、朝から落ち着かなかった。まさかこのマンションに、仁が来るなんてことになるとは思わなかった。早めに起床し、念入りに部屋の掃除をする。施術が行われるベッド周りは、特に気を(つか)った。物置になっている部屋は戸を閉めて、隠しておくことにした。

予約時間の夕方四時、五分前にインターホンが鳴った。
「今日はマッサージ師さんでっす!」
玄関ドアを開けると、マッサージの白いユニフォームを着た仁が、元気に挨拶し立っていた。手には黒いダウンジャケットと、大きなボストンバッグを持っている。
「すごい。お店はそんな制服まで用意してるのか」
仁は、チャット画面のままの人懐こい笑顔を見せた。
「いや、さすがにこれはないです。今日のために、自分でネット注文したんですよ。将来着るかも知れませんし」
挨拶もそこそこに、「早速始めましょう」と言うので、寝室に案内した。
窓際に置かれたベッドを整えている時、後ろ手にドアを閉めながら、
「棚橋さん…僕の仕掛けた罠に、うまく引っ掛かってくれましたね」
いつになく神妙な顔をした仁が言った。
「いま棚橋さんと僕とは、密室で二人っきりです」
そう言いながら歩み寄ってきて、
「さあ…これから二人で、濃厚な時間を楽しみましょう」
耳元で囁いた。驚き、慌てて仁の体を押しのけ、
「おい! 俺はそういうのはいい、って言っただろ!」
本気で焦った表情で言った。仁はいつもの明るい笑顔に戻り、可笑(おか)しそうに大声で笑った。
「冗談っすよ、冗談! ああ、ほんとノンケからかうの面白いわ。僕の生き甲斐なんです」
冗談なんだか、半分本気なんだか。これは油断出来ないかも知れない。

本来なら客に裸になってもらいオイルマッサージをするらしいが、今回はトレーナー姿のまま、仁が持参したタオルを被せた形で行われた。
「おかしな所を触ったりするなよ」
さっきの言動があったため、マッサージが始まってからもそう言って念を押しておいた。仁は笑った。
「棚橋さん、新鮮だなあ。他のお客さんはみんな、逆に「触って触って」って言うのに」
さほど期待していなかったが、マッサージは程よい力加減と凝りを捉える的確さで、極上の気持ちよさだった。途中、うとうとと眠りに落ちてしまいそうになったほどだ。仕事で溜まった重い疲れが、一気に解消され軽くなったように感じた。

「上手だなあ。気持ちよかったよ。仁は、プロのマッサージ師を目指しているの?」
「はい。棚橋さんを見習って、これから学校で学んで『あん摩マッサージ指圧師』の資格を取るつもりです。本当はいまのバイト楽しくてずっと続けたいんですけど、三十歳定年制なんで。でも、肝心の学費がまだ用意出来ないんですよね。がんばって貯めているつもりなんですけど」
現在、店が寮として用意しているワンルームマンションに住んでいるので、バイトを辞めたら出て行かなければならないという。
「じゃあ、これからもお店で指名して、学費や引っ越し費用作りに協力するよ。仁なら努力家だし頑張り屋だし、大丈夫。才能あると思うし、きっといいマッサージ師になれるよ」

その時、再び玄関のインターホンが鳴った。
「そうだ。特上のお寿司を予約注文していたんだった。もうマッサージはいいから、飲みながら一緒に食べよう」
寿司を取りに行きリビングに置いてから寝室に戻ると、テディベアのぬいぐるみを手に取っている仁の姿が見えた。
「あ」
ベッド脇に置いたままにしていたんだった。少し気まずくなる。
「可愛いなあ。ぬいぐるみと一緒に眠ったりしているんですか? なんだか意外だな」
「『はるたん』だよ」
「『はるたん』?」
「別れた息子の名前、温人っていうんだ。ここで一緒に暮らしていた頃、はるたんと呼んで可愛がっていた。もともとは息子のおもちゃなんだけど、いまは身代わり」
仁は少し切なそうな表情になり、そっとぬいぐるみを元の位置に戻した。
「そんな大切なもの、勝手に触ってしまってごめんなさい。お寿司も、余計にお金を使わせてしまって」
既に、日が暮れ始めていた。窓から、太陽が西の空を染めつつ沈んでいく光景が見える。
「離婚した後は、話し合いで慰謝料も養育費も払っていないんだ。いまの俺には、特に生き甲斐も趣味もない。使い道のない金で応援しているから、頑張って夢を叶えろよ」
込み上げてくるものがあったのか、仁は何も言わず、ただ深々と頭を下げた。

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