第8話 港の見える丘  

文字数 2,772文字

結局、野毛から桜木町駅まで歩いて観光バスに乗り、以前に行った『港の見える丘公園』に行くことにした。仁に、展望台から夕陽を一緒に見ましょう、と勧められたのだ。

バス停を降りると、左に『港の見える丘公園』と彫られた石碑のある入口を通る。右に緑が広がる通路を少し歩くと、やがて左側に鳥の翼を想起させる広い展望台が見えてきた。五段ほどステップを上ると、港やベイブリッジ、マリンタワーなど横浜の街並みが青空の下、目の前に広がった。
「ああ、気持ちがいい。いつ来ても、ここは気分が清々しくなるなあ。ついこのあいだも、一緒にここに来ましたよね」
目前に植樹が広がる手すりに両手をついて、仁が言った。何も答えなかったが、確かにいつ来ても観光客が多いのに、ここは人混みで空気が濁る、ということはないような気がする。

手すり沿いに奥へ歩いていき、並べられた木製ベンチの一つに座った。目の前にベイブリッジ、左には映画の記念に建てられた二枚の旗が風になびいている。
「息子さんのこと、気遣い出来ずに申し訳ありませんでした」
左に座った仁が、改めてそう言って頭を下げた。
「こっちこそ、いきなり店に押しかけてみっともないところを見せてしまって、ごめん。元嫁にひどいことを言われて、少しおかしくなっていた」
昨夜の電話での会話を、わかりやすく仁に話して聞かせた。仁は傾聴(けいちょう)しながら理解を示すよう数回頷くと、
「棚橋さん、棚橋さんのことを深く傷つける人と、これからはなるべく接触しないようにしてください。以前の奥様は、どうもそういう方だったようですね」
温人のことさえなければ。そう思ったが、黙って聞いていた。

「男とか女とか、年上とか年下とか関係ない。肩書きも関係ない。ただ一緒にいて心地のいい人、気持ちが楽になれる人、自然体でいられる人を選ぶようにしてください。僕は棚橋さんと一緒にいると、心地がいいし気が安らぐ。生意気に聞こえるでしょうが、そういう人を選ぶべきなんです」
そう言ってから仁は、照れくさそうに少し笑った。
「なんだか、告白みたいになってしまいましたね。僕は棚橋さんのパートナーにはなれない、恋人にはなれないのをよくわかっているつもりです。前にも言ったように、弟でいい。弟として、これからもずっと棚橋さんのそばにいたいんです」
「ありがとう。営業トークにしても嬉しいよ」
仁は片目を瞑り、苦笑いしながら首を傾げた。
「現在の関係だと、そう思われても仕方がないかも知れませんね。実は僕はもう、これ以上棚橋さんに金銭的な負担をかけたくないと思っています。学費は、自力でなんとかします。これからは今みたいに、プライベートな関係を築いていきたい。もちろん棚橋さんが許してくれれば、の話ですけど」

西の空に、日没が行われようとしていた。周囲に散った灰色の雲を巻き込みながら、茜色の夕陽が沈んでゆく。
「丘の上の愚か者、沈む太陽を見る」
突然仁がそう呟き、驚いて横顔を見た。
「ビートルズの曲に、そういう曲があるんだそうです。僕のお客さんに五十代後半のビートルズファンの方がいて、そういう歌詞なんだと教えてもらいました。一説によりますと、ビートルズにインドで瞑想を教えたマハリシという人のことを歌った曲なんだそうです」
「ザ・フール・オン・ザ・ヒル?」
わりと有名な曲だったと記憶する。
「確か、そんなタイトルだったかな? 気になって、音楽アプリで検索して聴いてみたんです。リコーダーの音色が印象的な、なんだか切なくなるような美しい曲でした。でも歌詞は、孤独で嫌われ者の愚かな男のことを書いた歌詞なんです」
自分も数回ラジオで聴いたことがある。だが、そんな歌詞だとは知らなかった。
「ポール・マッカートニーが書いた曲なんだそうです。お客さんいわく、愚か者ってある種ポールの最大の褒め言葉だって言うんです。ただの愚者、馬鹿っていうんじゃなくって、なんというか周りのことは何も気にせず考えず、我が道を行く、というか」
仁の顔が、徐々に夕陽色に照らされていく。
「たとえ馬鹿と言われても、自分の信念を貫き通し生きていく、というか。スティーブ・ジョブズの言葉に、『Stay hungry,Stay foolish』ってありましたね。あれと同じような意味だと思うんです。あの『foolish』も、クレイジーなくらいでいい、無鉄砲なくらいでいい、という肯定的な意味が含まれている気がします。そういう意味での愚か、だと」
仁の顔から、ゆっくり沈む太陽へと目を移した。

「僕は、棚橋さんは賢すぎる、と思うんです。だから考え過ぎてしまって、理屈にとらわれ身動きがとれなくなる。周りの目を気にせず何も考えず、もっと馬鹿になってもいい。周りがなんと言っても、ただ自分の信じる道、本音で感じる道を行けばいい、と思うんです」
そうなんだろうか。自分は、考え過ぎているように見えるのだろうか。けれど、なんとなく思い当たる部分はある。
「タロットカードに『The Fool』、愚者というカードがあるんです。僕、母親が趣味でタロット占いやっていたから、わかるんですよ。タロットカードって、大アルカナ二十二枚と、小アルカナ五十六枚の計七十八枚あって、『愚者』は大アルカナの0番なんです。ゼロから始める、とか世間にとらわれず無心で冒険してみる、とかそういう意味があります。このカードも、やはり同じような意味なんです。ポジティブで前向きな馬鹿、です」

急に体の奥から得体の知れないものが湧いてきて、その衝動に突き動かされベンチを立った。まっすぐ前に走り出すと両手で手すりを強く握り締め、まるで昔の青春ドラマのように、沈む太陽に向かって思いきり叫んだ。
「俺は馬鹿になるぞう!」
仁も真似をして真横まで駆け寄って来て、
「僕も馬鹿になるぞおぉぉ!」
沈む太陽に向かって叫んだ。
「あ、僕の場合は、もう馬鹿になっているんでした」
右の拳で頭をこつんと叩き、そう付け加えた。笑いながら、二人でベンチに座り直した。ようやく、笑顔を取り戻すことが出来た、とその時感じた。

「温人のことも、あまりあれこれ深く考えなくてもいいのかな」
ぼそり、そう呟くと、
「あおむけに流される」
仁は言った。
「神様の作った深い河に、何も考えずあおむけに流されてみてください。不安、恐怖、雑念、固定観念など、すべてを捨てて。力を抜いて流されてゆくと、自分が本当に求めているもの、辿り着くべき所に行き着くことが出来ます。神様の作った河は、とても深いですよ。人間の足元には、とても及ばない。人の足では、到底届かないんです」

ひとつ、わかったことがある。仁は、決して馬鹿なんかではない。
港の見える丘の上で、愚か者が沈む太陽を見ていた。

思い出の品が詰まったあの物置部屋を片付けて、仁に住んでもらったらどうか。
そんなことを考えていた。




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