第1話 境界線

文字数 1,583文字

孤独は、恐怖だった。
孤独な生活になってみてから、わかった。真の孤独は恐怖だと。

朝目が覚めると、不安と孤独の恐怖がすぐに襲いかかってくる。そんな時は、紛らわすように横に置いたテディベアのぬいぐるみに声をかける。
「はるたん、おはよう」
もうじき三十四歳になろうという男の言動とは思えなかった。他人に見られたら、気持ち悪いと思われることは間違いない。

『はるたん』は、今年四歳になる息子『温人(はると)』の愛称だった。二年前、妻と一緒に家を出て行った幼い温人。ぬいぐるみは、温人が気に入って大切にしていたものだ。それを温人本人だと思って、両手でぎゅっと抱きしめる。すると魔法のように、不安と恐怖が少し和らぐ。

ベッドから起き上がってからも、日中仕事をしている時も、夜眠りにつく前も。いつだって、温人のことが頭から離れない。無邪気な笑顔。自分の腕の中で安らかに眠る寝顔。元気にしているだろうか、いま何をしているだろうか、と。温人のことを考えない時はない。温人の幸せを願わない日はない。

考え始めると独り悶々とするばかりなので、何かの作業に集中するようにしている。朝はすぐにベッドから抜け出し、コーヒーとハムエッグの簡単な朝食を用意したり、洗濯などの家事を無心でこなす。
いま住んでいるのは、3LDKの賃貸マンションだ。三人で住んでいた頃は狭く感じていたが、一人になった今では掃除するのも億劫に感じる。一部屋は二人が残した置き土産、温人のおもちゃや写真、洋服などが残された物置部屋となっている。

妻、いや元妻の香織(かおり)は家を購入したがっていた。出来れば新築庭付き一戸建ての注文住宅。もしくは都市部タワーマンションの最上階。勝気で負けず嫌い、虚栄心の強い女王様気質な性格。現在もだが、住宅メーカーでインテリアコーディネーターを務めているので、尚更だろう。誰もが羨む、他人に自慢出来るような持ち家を欲しがっていた。そのことで、よく言い争いになった。
「終身雇用もなくなりつつあるのに、昔の価値観で長期ローンを組み莫大な借金を抱えるのは危険だ。病気や何かの事情で払えなくなった場合、売却しても最悪自己破産になるかも知れないんだぞ」
「あなたみたいに臆病だったら、いつまで経っても家なんか買えやしないわ。結局、自分がローン組むのが怖いだけじゃない。いい? 大きなリスクを取らなければ、大きなリターンは得られないの。温人に一生賃貸住宅に住まわせるつもり? 本当に男らしくないわね!」
「男らしくない」「役立たず」「情けない」「優柔不断」「意気地なし」
これらの言葉はよく使われ、毎日のように罵られた。
だが結局、慎重になって家を購入しなくて正解だったのだ。香織との結婚生活は、わずか二年で破綻したからだ。いま思うと、この結婚は失敗し短期間で終わることを、心のどこかで感じ取っていたのかも知れない。かといって、ずっとこのまま賃貸住まいでいいとも思わない。やはり、本心では持ち家の安定感と安心感は欲しい。
しかし、先が見えずどういう間取りでどのような場所で購入すればいいのかもわからないのだ。この先再婚するとしたら、またパートナーの意見も聞かねばならない。現在は不動産会社に勤めているが、今後転職するかどうかもわからない。あれこれ考えているうちに、もう三十五年ローンを組むのも危うい年齢になってきた。

「情けない」という香織の罵倒が胸に響き思い返される。
本当に、これからどうしたらいいのかわからない。
自分はずっとこのまま、孤独な一人暮らしなのか。温人とも、半年ほど前から会わせてもらっていない。このままずっと、一生会うことはないのだろうか。どうこう考えても仕方がないので、何か没頭出来る趣味でもあればいいのだが、自分にはそれもない。
苦しい。
孤独と不安にもがき苦しみながら、なんとか水面ぎりぎりの境界線で呼吸を保ちながら生きている。

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