二十七 四年前

文字数 11,397文字

 上野の東叡山寛永寺は、徳川家の菩提寺で、上野の山全体を占める広大な境内に数多くの諸堂が建っていた。
 江戸初期の天台宗の僧で、東叡山寛永寺を創建した天海が桜を好み、吉野から桜を移植したことから、上野の山一帯は桜の名所となり、春には多くの花見客が訪れた。
               (出典:日本文化の入り口マガジン 和樂webより抜粋)

 四年前の弥生(三月)下旬。
 快晴のこの日。与力の藤堂八郎は同心たちとともに、東叡山寛永寺の境内にいた。
 花見でごった返す境内は喧嘩や強請、巾着切りなど犯罪が絶えない。藤堂八郎は同心たちと花見の人波に不審な者がいないか目を光らせていた。

 藤堂八郎は桜の梢の下を歩く人波に見覚えがあった。日本橋元大工町の人たちである。満開の桜の華で梢が垂れ下がって、下を歩く人の髪に触れそうだ。いずれ髪を引っかける者がいるだろうと思っていると、上背のある女の髪が梢に触れた。髪は乱れなかったがキラリと光る物が梢に残った。女は気づかぬまま、人波とともにその場を通り過ぎていった。
「これ、待たれよ。簪が・・・」
 藤堂八郎は手を伸ばして飾りを壊さぬように梢から簪を取って、呼び止めた女に渡した。
 呼び止められた女は満面の笑顔で藤堂を見た。
「ありがとうございます。八郎様」 
「八重さんではないかっ」
 八重の背の丈は五尺七寸(約百七十一センチメートル)。大きな目の童顔で肩が小さく、その割りに尻が大きめだ。顔だけ見ていると少女のようだが、容姿は女らしさが溢れている。巷の男は背丈のある女を嫌うが、大柄な八郎から見たら八重は小柄だ。

「八郎様はお役目ですか」
 八重は八郎を笑顔で見つめている。斬殺死体や無頼漢を相手にしても動じない八郎も、この八重の笑顔には心を動かさぬわけにはゆかない。初めて会った時からその感動は変っていない。
「人が増えれば犯罪が増える。野暮なお役目でな・・・。
 親爺様は達者か」
「はい。長屋の皆さんとあちらに・・・」
 八重が指さす人波に、笑顔で八郎にお辞儀する者がいる。八重の父の源助だ。
「親爺様たちと花見でござるか」
 源助の周りに日本橋元大工町の大工の家族や指物師の家族がいる。八郎は源助のまなざしが八重に何か告げるように動いたような気がした。

「しばらく見ぬうちに、八重さんは美しゅうなられたな。女の色香がでてきた」
 八郎は感じたままを言った。この八重をいずれ妻にしたいと思う八郎である。
「まあ、八郎様ったら・・・。でも、うれしい。
 よろしかったら、ごいっしょにいかがですか」
 八重は父親たちの花見の席を示して八郎を誘った。
 八郎は同席したかったが、今は花見の人混みを見まわる、お役目中である。のんびり酒を飲むなどできない。
「ありがたいが、お役目中ゆえ、気持ちだけいただきます」

「そうですね。無理に誘って、上役さんに咎められては八郎様が困りますものね」
 今宵、長屋にいらっしゃってください」
 八重は白い歯を見せて頬をほんのり赤く染め、八郎廊に微笑んでいる。
「お誘い、ありがたく受けとめました。親爺様によろしく伝えてください。
 さあ、皆に遅れぬように。梢に気をつけなされよ」
「わかりました。必ず長屋に来てください。積る話もあります・・・」
「あいわかった。今宵、必ず伺います」
「お待ちしています」
 八重は丁寧にお辞儀して父親たちがいる花見の席へ歩を進めた。
 八郎は八重の姿を目で追いながら、周りの人の動きに目を走らせた。


 寛永寺の境内を歩く大店の主らしき男に、ふらふら歩いてきた若い男がぶつかった。その男は、ごめんよと大店の主らしき男に言って、さらに女連れの若い男にぶつかり、その後、まともに歩きだした。
「待てっ」
 同心の岡野智永と岡っ引きの鶴次郎が、大店の主らしき男にぶつかった男の腕を後ろ手に捻りあげて捕えた。
「なんだよっ。俺が何をしたってんだっ」
「巾着を盗ったなっ」
「どこに巾着があるんでえっ。なんなら、裸になるぜっ」
 男は盗みの白を切って粋がっている。

 そこに、捕えられた男がぶつかった、女連れの男と女を引っ立てて、八郎と同心たちが現れた。八郎の手には盗られた巾着がある。
「お前が巾着を盗んで二人に渡し、お前が、盗んでいないと白を切った。
 言い逃れしても、我らが見ていた」
 八郎の言葉で捕縛された三人が黙った。
「岡野、松原、連れてゆけ。野村、見まわりを続けろっ」
「はいっ」
 同心岡野智永と松原源太郎と岡っ引きたちが、捕縛した者たちを連れてその場を去った。八郎と同心野村一太郎と岡っ引き銀次は人混みの者たちに不審な動きをする者がいないか目を光らせた。


 夕刻。
 八郎は日本橋元大工町の、八重の長屋を訪ねた。八重への思いで八郎の胸の鼓動は高鳴っている。
「今宵は招いていただき、ありがとうにござる。手土産にこれを・・・」
 八郎は角樽の酒と肴を八重に渡した。八重の手が八郎の手に触れた。八郎の鼓動が、さらに高鳴った。
「八重さんの好きだと話していた島田屋の蒲鉾と肴だ」
 八郎は胸の高鳴りを押えて冷静に言った。
「うれしい。覚えていてくださったのですね」
「忘れぬ・・・」
 八郎は八重を片時も忘れたことがなかった。
「さあ、お上がりください」
 八重は笑顔で八郎を見つめている。
「はい」
 八郎は長屋に上がって、二本差し(打刀と脇差)を畳に置いて、気持ちをおちつかせた。

 四年前、仙台藩は冷害による飢饉のため、藩による現物支給や資金調達が限界を超えた時期があった。藩の財政悪化に苦しんだ藩主は、藩士が町人になるのを許可した。藩士の口減らしだ。仙台藩から江戸に出てきた佐藤源之介改め源助は指物師として娘の八重とともに日本橋元大工町の長屋で暮らしていた。源助には妻の奈緒と妹がいたが、江戸に出てきた早々、ふたりは江戸の水が合わぬと言って親戚を頼って仙台に戻っていたが、八郎はその事を知る由も亡かった。

「夕餉を用意しましたから、お酒をつけますね。蒲鉾も肴も、おいしそうだこと」
 八重は角樽の酒を銚子に注いで、竃で沸かした湯で銚子の酒に燗をつけ、流しでかまぼこを切って肴とともに皿に載せ、夕餉の膳に添えた。
「親爺様はどうした。いっしょに飲みたいと思っていたのだが」
 八郎は八重を妻にしたいと八重の父の源助に話すつもりでいた。

「今夜は花見の続きだと言って、寄合所で飲んでます。何でも飲むきっかけにするから、困ります。さあ、お食べくださいな。お酒をどうぞ」
 八重は銚子を手に取って八郎に酒を勧めた。
「すまぬな・・・」
 八郎は盃をとった。八重は八郎の杯に酒を注いだ。
「いただきます」
 八郎は杯の酒を飲んで杯を膳に置いた。箸をとって八重が作った菜をつまんだ。
「この和え物はうまいっ」
「そう言っていただけて嬉しいです。蒲鉾、いただきます」
「八重さんも・・・」
 八郎は箸を膳に置いて銚子を取り、八重が持った杯に酒を注いだ。
 たがいの杯に酒を注ぎながら二人は夕餉を食べた。

「八重さんはいくつになった」
「十八です」
「婚期だな・・・。いい人を見つけたか」
 八郎は八重の、いいえ、と言う返事を期待した。
「まだ、誰も・・・」
 八郎はほっとした。まだ、八重には相手がいない。
「良い人はおらぬのか。八重さんなら男が放っておかぬだろう・・・」
「いますが身分が違います・・・」
 八重はそう言って、八郎の杯に酒を注いだ。
「それはこまたったな」
 八郎は銚子を持って八重の杯に酒を注いだ。

 八重が蒲鉾をつまみながら言う。
「八郎様はあたしをどう思いますか」
「見目麗しくかわいい。妻にしたいくらいだ」
 八郎は本音を言った。
 八郎が八重と知りあったのは、八重の家族が江戸に出てきて奉行所に人別帳の記載を届けた四年前だ。まだつきあいもないその時から、八郎は、将来、八重を妻にしたいと思っていた。

「それなら、今宵だけでも八重をもらってください・・・」
「八重さんの良い人というのは・・・」
「はい。初めて会った時から、八郎様も八重を慕っているのは存じておりました。
 違いまするか」
 そう言って八重は伏し目がちに肴を食べている。
「八重さんは私の心を見透かしていたか・・・」
 互いに相思相愛だったか・・・。八郎は八重が作った菜をつまみ、酒を飲んだ。
「はい。見透かしておりました・・・。
 今宵は八重を八郎様の妻にしてください。父は帰ってきませぬ・・・」
「わかった・・・」
 八郎は、八重が戯れに、つかの間の夫婦を演じようとしていると思って承諾した。

「女房殿。注いでくれぬか」
「はい。どうぞ、旦那様。蒲鉾も、おいしゅうございます。
 今日のお役目はいかがでした」
「巾着切りが多くてな。強請、喧嘩、いろいろあった」
「大店の奉公人も花見に出かけたら、留守になった御店に盗人が入りませぬか」
「大店はそれを気にして、留守にしないよう心がけておる」
「大店の商人は、花見もゆっくりできませぬなあ」
 そう言って八重は八郎の杯に酒を注いでいる。
「なあに、土蔵がしっかりしておれば、留守にしたとて盗人は手を出せぬ」
「そうなのですか」
「盗人の中に、錠前屋でもいれば、話は変ってくるが・・・」

「あら、話が野暮な話になってすみません」
「ところで日頃八重さんは何をしておるのだ」
「はい、仕立と読み書き算盤の教授を・・・」
 外で雨の音がする。春の雨だ。これで桜は散る・・・。

「降ってきましたね・・・」
「うむ。親爺様は濡れて帰って来ようぞ」
「今夜は、向こうに泊るでしょう。
 遣らずの雨です。八郎様も帰れなくなりました。ゆっくり飲んでくださいな・・・」
 八重は藤堂八郎の杯に酒を注いだ。
「すまぬな・・・」
 八郎は杯を置いて八重の手から銚子を取って八重の杯に酒を注いだ。
「今夜はここに・・・」
「うん・・・」
 八郎はいつのまにか、八重とともにいるのが当り前に思えてきた。


 それから半時ほど後。褥に二人の姿があった。
「八郎様・・・。八重はこの時を一日千秋の思いで待っておりました。
 八郎様の優しさに触れたあの時から、身も心もこのとおり、とろける思いです」
 八重は初めて八郎に会った時を思いだして八郎の胸に顔を埋めた。
 八郎は八重を抱きしめた。思いは八郎も同じだった。八郎の求めに応じて八重は八郎の手に自分の手を添えて導いた。八郎に身体を擦りつけて八郎の唇に唇を触れた。
「声が・・・」
「親爺さんは気を利かせた。声は気にするな・・・」
 八郎はそう言いながら八重を抱いた。
「声が出てしまいます。八郎様がはじめてのお情けというに・・・・」
「初めて会った時から、私は思っていた。女房になってくれぬか」
 八郎は八重の目を見つめて、導かれた手をそっと優しく動かした。
「うれしい・・・」
 八重は八郎に抱きついた。
 枕元にある有明行灯の明りは暗い。八重は八郎に身を任せて八郎を引き寄せた。八重は八郎に抱かれて女の幸せを感じた。


翌日夕刻。
 八郎はその日の役目を終えて八丁堀の組屋敷に帰宅した。
「父上。指物師の源助の娘を妻にしたい。源助は元仙台藩士、佐藤源之介です」
 夕餉の膳を前にして、八郎は八重との一夜と八重への思いを父の藤堂八十八と母の綾に話した。
「それ相応の気構えがあって、女と一夜をともにしたのであればかまわぬ・・・。
 そうは言っても源之介は今は町人であろう。身分が違う・・・」
 父はそう言うが、母は余裕の顔で微笑んでいる。町人の八重と与力といえど武家の藤堂八郎だ。身分に違いがある。ふたりが夫婦になるには、八重が武家の養女になって八郎に嫁がぬ限り、ふたりは夫婦に成り得ない。その事を母は理解している。

「父上は八重をどう思いなさる」
「良き娘だ。器量も良く才がある。武家の娘なら、ぜひともお前の妻にしたい。
 お前の母の若い時によく似ておる・・・」
 与力の役目についていた四年前の八十八は、仙台藩士から町人になった佐藤源之介とその家族に面識があった。今、源之介は源助と名乗って指物師をしている。
 佐藤源之介は元仙台藩士なれば事はさほど難しくはない。八重を、我が従弟の吟味与力藤堂八右衛門の養女にして八郎の妻にすればいい・・・。
「なんとか手立てを考えてみよう・・・」
 八十八は妻の綾を見た。血は争えぬ。私が綾を娶る時も八郎と同じ立場であった。八十八は小舟町の米問屋山形屋吉右衛門の次女の綾に一目惚れした当時を思いだした。
 綾は八十八の叔父、吟味与力藤堂弥之助の養女になり、その後、八十八に嫁いでいる。
 今、叔父は他界して藤堂弥之助の子息で八十八の従弟の藤堂八右衛門が吟味与力の役目に就いている。八重を八右衛門の養女にして八郎に嫁がせればいい・・・。

「旦那様、私に何か御用がおありですか」
 八十八の視線に気づいて、綾が箸を止めた。
「いや、綾に会うた当時を思いだしてな・・・」
「まあっ。あなたったら・・・。
 一緒になれねば、飯も喉を通らぬから、ぜひとも妻になってくれ、何とかする、と言って・・・。それから一夜をともにして・・・」
「そうであったな・・・」
 夕餉の膳を前に両親は祝言前の出来事を懐かしんでいる・・・。この親にして己があるのか・・・。
 八郎は心の中で苦笑いしていた。


 卯月(四月)初旬。
 八郎の役目が非番のその日。
「親爺様。八重さんを嫁にください。この通りです」
 八郎と八重は長屋の畳に手を着いてお辞儀した。
「藤堂様。私は町人。身分の違いを心得ております。武家の御新造に町人の娘がなるなどとうてい無理というものです」
「源之介殿は元は武士なれば、事はさほど難しくはありませぬ。八重さんを吟味与力の従叔父藤堂八右衛門の養女にして私の元に嫁ぐ段取りを講ずるよう、手筈を整えたいと思っております」
「そこまで、手をまわしていましたか・・・。
 私が務めていた藩は財政に窮して口減らしをしておりました。藩に見切りをつけた私は八重を町人に嫁がせたいと考えて、藩の許しを得て武士を辞め、江戸に出てきたのです。その八重がまた武家に嫁ぐとは・・・」
 八重の父源助は正座した自分の膝頭を見つめている。ここは日本橋元大工町の長屋だ。土間に作りかけの書き物机が有る。
「親爺様はどこで指物師の修業をなさったのか」
「冷害による不作が続いて藩は財政難でした。それで指物をこしらえて売るよう指導したのです。それがきっかけで指物を覚えました。指物は評判になり、指物師は江戸に招かれたのです・・・」
「そうであったな。そうしたことで大工町や鍛治町ができたのだったな・・・」

「町人になるのは、八重も承知したことでした・・・。
 八重は気が変ったのか」
 源助は優しいまなざしで八重を見ている。
「いえ。変ってはおりませぬ。武家の暮らしは堅苦しくて息が詰ります。
 でも、藤堂様とはともに暮らしたいと思っています。八郎様に初めて会った時からそう思っていましたし、これからも、ともに暮らしとう思います」
 八重の言葉に八郎は言葉が無かった。

 八郎の顔色が変ったのを源助は見逃さなかった。
「八郎様。ここで暮して、ここからお役目へ出かけるのはできませんか」
「なぜにそんな事を」
「娘の思いは遂げさせたい。それだけです」
「私がここからお役目に行けば、八重さんの思いが叶うのか」
「藤堂様は八重と暮らしたいとは思いませんのか」

「それは思う。妻にしたいと話したはずだ・・・」
 八重はそこいらの男たちより背が高い。童顔で顔だけ見ていると少女のようだが容姿は女らしさが溢れている。巷の男は背丈のある女を嫌うが大柄な八郎から見たら八重は小柄だ。八郎は八重をこの上なくかわいいと思っている。
「だがな、私も御上からお役目を授かっている与力だ。何日も組屋敷をあけられぬ・・・」
 与力の藤堂八郎は将軍から俸禄を受けて奉行所に所属する通常の与力だ。祖父の代からお役目のために八丁堀に三百坪の組屋敷が与えられている。町奉行個人から俸禄を受ける家臣の内与力ではない。与力藤堂八郎の妻は、八丁堀の組屋敷の切り盛りと与力の家柄の体面を保たねばならないのだ。

「この長屋で、八重に目を掛けてやってください」
 源助は八郎と八重に頭を下げた。
 八郎はふしぎに思った。八重が私の正妻になろうとしないのはなぜだ・・・。
 八郎は八重を問いつめなかった。八重には仙台藩で食い詰めた苦い思いがあり、二度と武家と関わりたくないと思うのは当然に思えたが、源助の話を聞いていると、武家の妻になりたくない理由が他に有るように思った。
 八郎は腹を決めた。しばらく長屋に通ってみよう・・・。
「わかりました。この事。私の親に話したい。それでいいですね」
「もちろんです。八重とともに、御両親にお話しください」
「わかった。八重もそれでいいな」
「はい」
 八重はよけいな事を言わずに八郎の考えに同意した。

 八郎は八重を連れて八丁堀の組屋敷に帰宅し、八重とともに源助の話を両親に説明した。
 その後。父八十八と従叔父の藤堂八右衛門によって、八郎と八重の関係は町奉行へ報告された。その結果、町奉行立合いの元で、吟味与力である従叔父藤堂八右衛門による源助と八重の吟味がなされ、八重は藤堂八郎の側室として町奉行に認められた。町人風に言うなら妾である。(江戸期の妾は現代の愛人とは違う。江戸期の妾は、夫の家族や一族から認められた、れっきとした第二の妻である)


 ふた月半ほど後。
 水無月(六月)七日、夜四ツ(二十二時)。
 日本橋呉服町の呉服問屋越後屋の主、幸之助は奥座敷の褥に入った。
 褥に横たわる妻の菊は襦袢姿だ。
「だいて・・・」
 菊は幸之助をぐっと引き寄せた。幸之助は菊の襦袢をとって抱きしめた。
「旦那様・・・」
 菊ははだけた襦袢の胸に幸之助の手を導いた。菊は全てが一年前に亡くなった前妻に似ている・・・。そう感じながら幸之助は菊を背後から橫抱きにした。
 菊之助の手と唇に応じ、菊は身体を菊之助に擦りつけた。
「声が・・・」
「気にしなくていい。ここは奉公人の臥所から離れている」
 幸之助はそう言いながら菊を抱いた。
「そのようにしては、声・・・」
「私は菊なしで生きてゆけない・・・」
 幸之助は菊の目を見つめた。
「ああっ、なんてことを・・・」
 菊は幸之助に抱きついた。
 枕元にある有明行灯の明りは暗い。
 菊は幸之助に身を任せた。

 睦事がすんで幸之助から寝息が聞えると、菊は睦事では見せない不敵な笑みを浮かべて、褥の下から手の平に乗る大きさの桐の箱を取りだし、幸之助が革紐で首に掛けている鍵をつまんだ。そして、桐の箱の中に詰っている粘土に鍵を型押しした。

 十四日後。
 水無月(六月)二十一日。
 この日の朝、呉服問屋越後屋は仕入れ先や出入りの業者などへの支払い日だった。
 主の幸之助は大番頭や番頭や用心棒たちとともに土蔵に入った。
 幸之助は空になっている金蔵を見て、内密裏に町方に知らせた。表立って奉行所へ知らせると火付盗賊改方が動いて、怪しいと思われる者が冤罪に問われるからだ。土蔵が破られて土蔵内部の金蔵から奪われた金は二千両に及んだ。

 町奉行から八郎たち与力と同心に、内密裏に夜盗を捕えるよう指示が下った。
 しかし、町方の探索にも関わらず、これといった手掛りもないまま二日が過ぎた。

 二十三日、宵五ツ(午後八時 戌ノ刻)。
 八郎が日本橋元大工町の長屋に帰宅した。八重は夕餉を食べずに待っていた。
「遅うございましたな。お役目、ご苦労様でした。夕餉を・・・。お酒をどうぞ」
 八重は夕餉の膳を八郎の前に置いて杯を八郎に持たせて、銚子の酒を注いだ。
「八重も飲んでくれ・・・」
 八郎は膳に杯を置いて八重の手から銚子をとった。
「はい・・」
 八重が杯を持つと八郎は八重の杯に酒を注いだ。

「お役目は進んでいますか」
「うむ。これから話すことを内密にできるか」
「はい。承知しています」
「越後屋に盗人が入ってな。どうやって土蔵の錠前を開けたか、わからんのだ」
 八郎は酒を飲みながらそう話した。八重も酒を飲んで肴をつまんだ。
「錠前を開けるなら、鍵を使ってでしょう」
 八重が八郎の杯に酒を注いだ。
「鍵は主がいつも首にかけておった。風呂に入る時もだ」
 酒を注がれた杯を置き、八郎は肴をつまみ、銚子を取って八重の杯に酒を注いだ。
「外すことはあるでしょう」
 八重はそう言って酒を飲んで微笑み、肴をつまんでいる。

「いつ外すと思うか」
 八重が頬を赤くした。
「睦事の時は、身体に何かついていたら、じゃまに思います・・・。
 それに睦事のあとは熟睡します・・・。
 主が眠れば、若い御内儀は、鍵を描き写すなど、好きな事ができまする」
「なるほど」
 たしかに、男の気が緩むのは睦事の後だ。男にはわからん女の感覚か・・・。

「もしやして、今、御内儀は、御店を留守にしているのではありませぬか。
 御内儀はどんな方ですか」
 八重はそう言って銚子をとって、八郎に酒を飲むよう促した。
「そういえば女房の顔を見ていないな・・・。
 女房は後妻だ。嫁いで半年ほどになるらしい。明日、内密に探ってみる・・・。
 八重の考えを聞かせてもらって助かった。ありがとう。感謝する」
「何をおっしゃいますか。旦那様の助けになれば・・・」
「うむ。大いに助けになった。酒はこれまでにしよう。飯をよそってくれぬか」
「はい。はよう食べて、休みましよう」
「今宵も、よいのか」
「はあい、もちろんですっ」
 八重は顔を赤くして茶碗に飯をよそった。


 翌日。水無月(六月)二十四日、昼過ぎ。
 越後屋に入った一味が捕縛された。主謀者は越後屋幸之助の女房の菊だった。

 夕刻。
 八郎は、従叔父の吟味与力藤堂八右衛門に呼ばれて、藤堂八右衛門の組屋敷にいた。
 八右衛門は八郎から、八重が説明した越後屋の土蔵の鍵の件を聞いて苦笑いした。
「八重の智恵で事件が解決したのか。その事、奉行に報告しておこう。
 八重は我が娘の香織より二歳下だが智恵がまわる。八重を我が養女にして、お前の正妻にしたいものじゃな」
 八重は元は武家の娘だ。一通りの礼儀作法は知っておろう・・・。
 八右衛門はそう思った。かつては娘の香織の婿に八郎をと思ったこともある八右衛門だが、すでに香織は婿を迎えている。
「それにしても、八重と源助をどうやって説得するか・・・」
 八右衛門も八郎も、将軍から俸禄を受けて奉行所に所属する通常の与力だ。八右衛門は、八重が与力の八郎の妻として八丁堀の組屋敷の切り盛りと与力の家柄の体面を保つことに専念して欲しいと思っている。

「八重は、日頃、何をしておるのだ」
「子どもたちに読み書き算盤を教え、呉服町からの仕立の仕事をしております」
 北町奉行所と日本橋元大工町戸の長屋の距離は三町ほど。長屋から八丁堀の組身屋敷は七町も離れていない。
「八重は、長屋を離れたくない理由があるのだと思います・・・」
 八郎は八右衛門にそう言った。
「調べてみてくれ」
「非番の時に、探ってみます」
 八右衛門の指示に八郎はそう答えた。 


 越後屋の夜盗の一件が解決した。与力の藤堂八郎に休みが与えられたが、いつもの習慣でいったん奉行所へ朝五ツ(午前八時)に出仕して、非番だったと気づいて日本橋元大工町の長屋に戻った。
 長屋に戻ると、朝餉の片づけを終えて、多八重は仕立物をしていた。
「旦那様。どうしました」
 八重は仕立の手を休めずに八郎に微笑んでいる。
「今日は事件解決の褒美だと奉行が非番にしてくれたのを、忘れておった」
 八郎は二本差しを外して刀箪笥に入れた。この刀箪笥は、八郎のために八重の父源助がこしらえた特別な品だ。
「それは良うございました。そしたら、旦那様にお願いがあります。
 聞いてくださいますか」
「わかった。聞こう」
「今日一日、八重が何をしているか、見守ってくださいな」
「ただ見ているだけで良いのか」
「はい。見ていてくだされば、その場が引き締まりまする」
「お目付役のようだな」
「はあい。お目付役です」
 八重は朗らかに、甘えるようにそう言った。

「どこでお目付をするのだ」
「ここです。
 朝五ツ半(午前九時)から昼四ツ半(午前十一時)までと、
 昼九ツ半(午後一時)から昼八ツ半(午後三時)までです」
「手習いと算盤だったな・・・」
 八重が長屋で読み書き算盤を教えているのは知っているが、実際にどうやって教えているか訊いたことがなかった。書き物机もないこの長屋の六畳でどうやって読み書きを教えるのだろう・・・。

「一度に五人です。朝と昼の刻限で一日十人。
 三日に一回の割りで来るから、全部で三十人。
 この長屋の子どもたちに読み書き算盤を教えられまする」
 八重は微笑んでいる。そして、柳行李に仕立物と針道具を入れて部屋の隅へ押しやり、もう一つの柳行李から反物の切れ端を縫い合わせて作った敷物を出して、畳みに拡げた。
 どうやら、この敷物の上で書き物をさせるらしい。それにしても、なぜこれほどにしてまで読み書き算盤を教えるのだろう・・・。
 八郎がそう思っていると八重が語りはじめた。

「仙台藩の冷害による飢饉で苦しんだのは、百姓や町人でした。読み書きができなかったばかりに、悪徳商人の証文に騙された者も多ございました。
 読み書きができれば、借金の証文を熟読して、騙されて、田畑の借用証文や家を手放すことも、娘を売ることも、己の命を絶つこともなかったはずでした・・・」
 八郎の疑問に答えるように、八重は涙ながらにそう説明した。


 朝五ツ半(午前九時)頃、三々五々子どもたちが集った。土間に立って挨拶する八郎を見ると、子どもたちは
「こんにちは、八重お姉ちゃんの旦那様」
 と礼儀正しく挨拶して部屋に上がった。八重の指示に従って敷物に正座し、持ってきた風呂敷包みを開けて墨箱を取りだした。
「さあ、今日の練習は・・・」
 八重は衣紋掛けに、今日練習する文を書いた和紙を吊して、子どもたちに和紙を渡した。
 八郎が八重の長屋から出仕するようになって三ヶ月近くになる。長屋の子どもたちとは顔見知りだ。日頃は腕白な子どもたちも、八重の前では態度が違う。八重は礼儀作法も教えているらしかった。
 八郎は土間から、衣紋掛けに吊された和紙の文を読んでその字を和紙に書き写す子どもたちを見続けた。

 午前中の教授が終った。子どもたちは、来た時のように礼儀正しく挨拶して帰っていった。
「今日は旦那様がいたので、みなが静かに無駄なく学びました。
 いつもはにぎやかなのですよ。今日は旦那様がいたので静かにしていたのです」
「なるほど、お目付役の意味がわかった」
 この狭い長屋で、読み書きの練習は大変だ。こんな事を、八重はこの長屋で暮すようになって以来、ずっと続けてきた・・・。仙台での冷害による飢饉を体験しただけに、百姓町人への思い入れが強いのだろう・・・。
 この日、八郎は八重の成す事を黙って見守り続けた。


 翌日。出仕後。
 八郎は従叔父の吟味与力藤堂八右衛門に、昨日の八重の様子を報告した
「うむ。読み書き算盤を教えるきっかけは、読み書きできなかった百姓が飢饉の際に、悪徳商人に騙された事だったとはな・・・」
 吟味与力藤堂八右衛門は驚くと同時に、八重の思いに感銘を受けた。そして、なんとしても八郎の正妻にしたいものだと思った。
 しかしながら、八重を組屋敷に閉じこめたのでは、八重は思いを果たせなくなってしまう。そうなっては、これまで八重が行ってきた事が無駄になる。八重の才を埋もれさせてはならぬ。八郎の正妻としても、読み書き算盤の教授者としても、才を活かす方法はないものか・・・。
 八右衛門は思案に暮れた。
「八郎。奉行に話してみよう」
「はい」
 八郎と八右衛門は奉行所で奉行に話を取り次いでもらった。

「夜盗事件の解決と言い、読み書き算盤の教えと言い、殊勝な行いだ・・・。
 何とかして、八郎の正妻にしたいものじゃ・・・」
 八右衛門の話を聞き、奉行はそう言った。
 
 その後。
 従叔父の吟味与力藤堂八右衛門や町奉行の助力にも関わらず、八重は父源助が故郷の仙台で他界したことから気を病んだ。八重は理由も話さず八郎に、
『三行半を書いてくれ』 
 とせがんだ。理由を話さぬ八重に困りながらも、八郎は嫌々ながらこれを承諾した。
 ともに暮し始めて二年目の夏、三年前の夏だった。
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