六 祝言の使い

文字数 1,219文字

 それから半月余り後。
 文月(七月)中旬の晴れた昼四ツ(午前十時)。

「あと三日もすれば、私の手も空く。
 二人で挨拶に行けるのに、ほんとうに独りでよいのだね」
「はい、旦那様。
 旦那様が忙しい折は私も忙しくして、旦那様の手が空いた折りは誰にもじゃまされずに二人で過しとうございます・・・」
「そうですか。すまないね・・・」
 菊之助は多惠の言葉に胸が熱くなった。こんなところも八重に似ている・・・。
「それでは、お前からも山王屋さんに、
『ぜひとも、祝言にいらっしゃってください。
 主はここのところ多忙にて、多惠が独りで挨拶にきました』
 そうお伝えください」
「わかりました。それでは旦那様、行ってまいります」
 店先で、多惠と菊之助はそんな言葉を交した。端から見れば、二人は今生の別れを交しているかのように思えた。
 多惠は番頭の平助とともに、呼び寄せた二挺の駕籠に乗った。
 駕籠舁きが駆けだすと。菊之助は多惠の駕籠が見えなくなるまで、店で駕籠を見送った。
 呉服問屋加賀屋があるここ日本橋呉服町から千住中村町の口入れ屋山王屋まで、徒歩で一時。駕籠なら半時ほどである。

 四ツ半(午前十一時)過ぎ。
 多惠と番頭の平助が乗った駕籠が、千住中村町の口入れ屋、山王屋に着いた。
「さあ、これで昼餉を食べておいで。九ツ半(午後一時)にここに来ておくれ」
 番頭の平助は加賀屋菊之助に言われとおり、たっぷりと昼餉のための心付けを駕籠舁きたちに渡した。駕籠代の払いは加賀屋に戻ってからである。

 事前に菊之助が山王屋与三郎に文を届けていたため、与三郎は多惠を待っていた。
 座敷で挨拶がすむと、多惠は与三郎に、葉月(八月)初旬の祝言の日取りを伝えた。
「ぜひとも列席させていただきます。旦那様によろしくお伝えくださいまし。
 さあ、昼餉を用意しておりますので、こちらへいらっしゃってくださいまし」
 与三郎は快く述べて、多惠と平助を隣の座敷に案内した。

 多惠と平助は与三郎を交えて昼餉の席に着いた。
「さあ、まず一献さしあげます」 
 与三郎は平助に酒を勧めた。
「本日は加賀屋菊之助の使いですので、それを全うしませぬと・・・」
 平助はそう言い訳する割りに、
「もう、使いはすみましたよ。お気軽になさってくださいまし」
 と言う与三郎に、
「いえいえ、そう言われましても、加賀屋に戻って主に報告したその時、ようやく使いを果たしたと言うもの・・・。しかしながら、そう言われますと・・・」
 と答えて杯を差しだしている。そして一杯が二杯になり、二杯が三杯なり・・・。
 平助は酔い潰れた。

「多惠、こっちに・・・。
 平助の杯には眠り薬が仕込んでおいた。小半時は目を覚まさない・・・」
 与三郎はそっと小声で多惠を隣室の奥座敷に呼んだ。
「多惠・・・」
「平助が起きてしまう・・・」
「たっぷり眠り薬を仕込んでおいた。小半時は目が覚めねえ・・・。
 襲撃は祝言の日から七日目の夜だ・・・」
 奥座敷で与三郎はそう囁いた。
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