1-5 吹き荒ぶ風 ……ミカエル
文字数 2,775文字
燻りが火をまとい、北の大地を焦がしていく。
戦火を煽る北風に、月盾の軍旗が凍りつく。
目の前の惨状に息を呑むミカエルの横で、弟のアンダースが狼狽える。
「兄上、これから我らはどうすれば……」
いつもは軽口を叩いてばかりの弟は、今は帽子を被り直す癖さえ忘れて硬直していた。
兄弟ともに十歳の頃から軍務に就いてきたが、しかしミカエルもアンダースも、自軍がここまでの追い詰められている光景は見たことがなかった。
弟だけではない。ディーツら歴戦の騎士たちも同じだった。月盾騎士団 の誰もが戦慄し、動揺していた。
「大丈夫だ! 見ろ、本陣の軍旗は健在だ! 父上もセレン様もまだ持ち堪えている!」
大丈夫なことなど何もなかったが、ミカエルはそう言って弟を励ますしかなかった。
確かに本陣には、遠征軍の旗印である、第六聖女の天使の錦旗が屹立している。
だが、誰の目にも勝敗は明らかだった──少なくとも、ここボルボ平原において、教会遠征軍にもう勝ち目はない。
本隊の駐屯地近くにいた月盾騎士団 は戦場に到着できたが、第二軍のヴァレンシュタインや他の遊撃部隊は間に合わない──間に合う前に崩れる──もはや子供でもわかるほどに、教会遠征軍本隊は劣勢だった。
ミカエルは空を見上げた。
斜陽の空は赤く燃え始め、陰鬱な夕陽はゆっくりと西の地平線に沈んでいく。
劣勢の中でもできることはある──しかし、何をすればいいのか──有象無象の逡巡が、ミカエルの頭の中で入り乱れる。振り払ったはずの迷いが、心の奥底をかき乱す。
「お気をしっかり保ちなさい! 貴方はこの騎士団を率いる月盾の長ですぞ! どのような命令であれ、我らは貴方に従います!」
ディーツの声にミカエルは振り返り、返事をしようとしたが、しかし言葉は喉につかえ、出てこなかった。
そんなミカエルを見て、ディーツが語気を強める。
「迷いがあるのなら、私でも他の幕僚でも構いません。何なりと思いを打ち明けなさい!」
ミカエルはディーツの目を見た。歴戦の宿将の目は、眼前の戦火にも臆することなく、どこまでも真っ直ぐだった。
「……これからどうするべきか、副官として助言を頼む」
「我が軍は劣勢ですが、幸いもうすぐ日没です。日没まで持ち堪えることができれば、今日は勝てずとも道は開けます。まずは元帥閣下と合流し、指示を仰ぎましょう」
日没まで──確かにそれまで潰走を耐えれば、今日は勝てなくても道は開ける。再び軍として立ち上がることができる──しかし、それができるのか?
遠目に見える本陣の十字架旗と、第六聖女の天使の錦旗は健在である。幕営の多くは無事で、土嚢や馬防柵もまだ残っており、味方の砲声も聞こえる。土煙と硝煙で状況はわかり辛いが、本陣の味方はまだ士気を保っているように見える。
しかし戦列の両翼からは突破してきた帝国軍騎兵だけでなく、まとまった敵歩兵の集団までもが浸透してきている。野営地の中心部から離れるほど、教会軍の戦列は崩壊している。後退はほとんど敗走に近い状態に陥っており、敵に背を向けて逃亡する味方の数は増加の一途を辿っている。
「この状況で、父と合流できると思うか……?」
「敵軍右翼の背後から、本陣に向け駆けます。戦列の間隙を突き、敵が態勢を整える前に突破すれば、合流は可能です。ミカエル様は月盾の軍旗を掲げ、命令を下すのです」
副官の言葉は強かったが、しかし夕景に焦燥を煽られるばかりで、依然としてミカエルは決断できなかった。
そのときだった。部隊将校の一人である人面甲 のリンドバーグが、おもむろに一歩前に出た。
それに続き、アナスタシアディスとウィッチャーズの部隊も、一歩前に出て整列する。
〈教会〉の十字架旗が、月盾の軍旗が、再び力強くはためく。
背中を後押しするかのような仲間たちの姿に、ミカエルは覚悟を決めた。
「駆ける。本陣にいる父上と、第六聖女セレン様を我らの手でお救いするのだ」
「この状況で敵中突破を図る気ですか!? 本陣に辿り着くどころか、我らも敵軍に呑み込まれるかもしれませんよ!?」
アンダースは狼狽えたが、ミカエルの心は変わらなかった。
「我らは軍旗に誓った。『高貴なる道、高貴なる勝利者』。月盾騎士団 はロートリンゲン家の名誉を、〈教会〉の偉大なる信仰を、神の依り代たる十字架を守る騎士。そして遠征軍総帥たる第六聖女様を守る盾。ここで戦わずしていつ戦う」
なおも馬首を巡らせる弟を、ミカエルは無視した。
「ヴィルヘルム! 騎士団旗を掲げろ!」
隊の旗手であり、自身の従士でもある十五歳の少年兵、ヴィルヘルムに軍旗を手渡す。
アンダースよりも幼い少年兵が、堂々とした態度で騎士団旗を掲げる。それを見て、アンダースも覚悟を決めたように騎兵帽を被り直した。
ミカエルは古めかしい直剣を抜いた──それは二百年前の〈東からの災厄 〉の時代以前に鍛えられ、代々、月盾騎士団 を率いる月盾の長に受け継がれてきたロートリンゲン家の宝剣であり、華美な装飾が施された昨今の刀剣と比べると無骨だが、そのぶん力強く厳めしい。
剣を握る手に、力を籠める。
怒り──〈黒い安息日 〉の報せを聞いたとき、ミカエルは理解ができなかった。
未だ二百年前の〈東からの災厄 〉の惨禍から人々が立ち直れない状況下で、迫りくる滅びの予感を前にして、なぜ〈帝国〉は自ら戦争の引き金を引き、大陸の秩序の崩壊を助長するのか。
多くの人と国が、古来から受け継がれてきた神の依り代たる十字架と、その盟主たる〈教会〉という名の絶対の既存秩序の下に集まる中、なぜ団結を拒み野心を剥き出しにするのか。
意志──これは〈教会〉という国家の信仰と威信を守るため、大陸の平和と安寧を保つため、そして〈帝国〉の皇帝グスタフ三世による前代未聞の蛮行、〈黒い安息日 〉の報いを受けさせるための戦いである。
鉄の修道騎士と称えられる父ヨハンの息子として、〈教会五大家〉筆頭たるロートリンゲン家の騎士として、今こそ、その大義を示すときである。
「聞け! 勇敢なる月盾の騎士たちよ! これより我らは、元帥閣下と第六聖女セレン様がいる本陣に向かい駆ける! 道中、あの悪辣極まりない皇帝グスタフの犬どもが行く手を塞ぐだろう! しかし恐れるな! 邪魔する者は容赦なく追い払え!」
掲げられた月盾の軍旗に、古めかしい直剣に呼応し、騎士たちが一斉に剣を抜く。
「神の依り代たる十字架の御名の許に──私に続け!」
戦火を煽る北風に、月盾の軍旗が凍りつく。
目の前の惨状に息を呑むミカエルの横で、弟のアンダースが狼狽える。
「兄上、これから我らはどうすれば……」
いつもは軽口を叩いてばかりの弟は、今は帽子を被り直す癖さえ忘れて硬直していた。
兄弟ともに十歳の頃から軍務に就いてきたが、しかしミカエルもアンダースも、自軍がここまでの追い詰められている光景は見たことがなかった。
弟だけではない。ディーツら歴戦の騎士たちも同じだった。
「大丈夫だ! 見ろ、本陣の軍旗は健在だ! 父上もセレン様もまだ持ち堪えている!」
大丈夫なことなど何もなかったが、ミカエルはそう言って弟を励ますしかなかった。
確かに本陣には、遠征軍の旗印である、第六聖女の天使の錦旗が屹立している。
だが、誰の目にも勝敗は明らかだった──少なくとも、ここボルボ平原において、教会遠征軍にもう勝ち目はない。
本隊の駐屯地近くにいた
ミカエルは空を見上げた。
斜陽の空は赤く燃え始め、陰鬱な夕陽はゆっくりと西の地平線に沈んでいく。
劣勢の中でもできることはある──しかし、何をすればいいのか──有象無象の逡巡が、ミカエルの頭の中で入り乱れる。振り払ったはずの迷いが、心の奥底をかき乱す。
「お気をしっかり保ちなさい! 貴方はこの騎士団を率いる月盾の長ですぞ! どのような命令であれ、我らは貴方に従います!」
ディーツの声にミカエルは振り返り、返事をしようとしたが、しかし言葉は喉につかえ、出てこなかった。
そんなミカエルを見て、ディーツが語気を強める。
「迷いがあるのなら、私でも他の幕僚でも構いません。何なりと思いを打ち明けなさい!」
ミカエルはディーツの目を見た。歴戦の宿将の目は、眼前の戦火にも臆することなく、どこまでも真っ直ぐだった。
「……これからどうするべきか、副官として助言を頼む」
「我が軍は劣勢ですが、幸いもうすぐ日没です。日没まで持ち堪えることができれば、今日は勝てずとも道は開けます。まずは元帥閣下と合流し、指示を仰ぎましょう」
日没まで──確かにそれまで潰走を耐えれば、今日は勝てなくても道は開ける。再び軍として立ち上がることができる──しかし、それができるのか?
遠目に見える本陣の十字架旗と、第六聖女の天使の錦旗は健在である。幕営の多くは無事で、土嚢や馬防柵もまだ残っており、味方の砲声も聞こえる。土煙と硝煙で状況はわかり辛いが、本陣の味方はまだ士気を保っているように見える。
しかし戦列の両翼からは突破してきた帝国軍騎兵だけでなく、まとまった敵歩兵の集団までもが浸透してきている。野営地の中心部から離れるほど、教会軍の戦列は崩壊している。後退はほとんど敗走に近い状態に陥っており、敵に背を向けて逃亡する味方の数は増加の一途を辿っている。
「この状況で、父と合流できると思うか……?」
「敵軍右翼の背後から、本陣に向け駆けます。戦列の間隙を突き、敵が態勢を整える前に突破すれば、合流は可能です。ミカエル様は月盾の軍旗を掲げ、命令を下すのです」
副官の言葉は強かったが、しかし夕景に焦燥を煽られるばかりで、依然としてミカエルは決断できなかった。
そのときだった。部隊将校の一人である
それに続き、アナスタシアディスとウィッチャーズの部隊も、一歩前に出て整列する。
〈教会〉の十字架旗が、月盾の軍旗が、再び力強くはためく。
背中を後押しするかのような仲間たちの姿に、ミカエルは覚悟を決めた。
「駆ける。本陣にいる父上と、第六聖女セレン様を我らの手でお救いするのだ」
「この状況で敵中突破を図る気ですか!? 本陣に辿り着くどころか、我らも敵軍に呑み込まれるかもしれませんよ!?」
アンダースは狼狽えたが、ミカエルの心は変わらなかった。
「我らは軍旗に誓った。『高貴なる道、高貴なる勝利者』。
なおも馬首を巡らせる弟を、ミカエルは無視した。
「ヴィルヘルム! 騎士団旗を掲げろ!」
隊の旗手であり、自身の従士でもある十五歳の少年兵、ヴィルヘルムに軍旗を手渡す。
アンダースよりも幼い少年兵が、堂々とした態度で騎士団旗を掲げる。それを見て、アンダースも覚悟を決めたように騎兵帽を被り直した。
ミカエルは古めかしい直剣を抜いた──それは二百年前の〈
剣を握る手に、力を籠める。
怒り──〈
未だ二百年前の〈
多くの人と国が、古来から受け継がれてきた神の依り代たる十字架と、その盟主たる〈教会〉という名の絶対の既存秩序の下に集まる中、なぜ団結を拒み野心を剥き出しにするのか。
意志──これは〈教会〉という国家の信仰と威信を守るため、大陸の平和と安寧を保つため、そして〈帝国〉の皇帝グスタフ三世による前代未聞の蛮行、〈
鉄の修道騎士と称えられる父ヨハンの息子として、〈教会五大家〉筆頭たるロートリンゲン家の騎士として、今こそ、その大義を示すときである。
「聞け! 勇敢なる月盾の騎士たちよ! これより我らは、元帥閣下と第六聖女セレン様がいる本陣に向かい駆ける! 道中、あの悪辣極まりない皇帝グスタフの犬どもが行く手を塞ぐだろう! しかし恐れるな! 邪魔する者は容赦なく追い払え!」
掲げられた月盾の軍旗に、古めかしい直剣に呼応し、騎士たちが一斉に剣を抜く。
「神の依り代たる十字架の御名の許に──私に続け!」