3-4 仮初の親子 ……ヤンネ
文字数 3,935文字
夜闇に、〈帝国〉の黒竜旗がはためく。
ストロムブラード隊長に続き、ヤンネは幕舎に入った。
机と椅子、軍用書類と思しき書簡、あとは寝台と暖房器しかない簡素な室内。従者が暖房器に火を灯し、薪が小気味いい音を立て燃え始める。
隊長が兜を置くと、従者が手際よく胸甲を外す。焼かれた騎士の家紋のマント、帝国騎士の証である
騎士殺しの黒騎士が、よく知る養父に変わる。
軍服姿になったストロムブラード隊長は、ヤンネに座るよう促すと、ペンを片手に手記を開いた。
机上のロウソクが、薄汚れた手記を照らす。紙面には、びっしりと文字が書かれている。
「それは、
「そうだ。こうして記録を残すのが、妻との約束だ。戦が終われば、持って帰る」
そう言うと、ストロムブラード隊長は、手元のペンをインク瓶に浸し、紙面に走らせる。
「ユーリアへ何か伝えたいことがあれば、書いておこうか?」
気を使ってくれる養父と、実母に代わり養育してくれたストロムブラード夫人・ユーリアを思い出し、ヤンネは気恥ずかしくなった。殺伐としていた心は、少し穏やかになっていた。
「故郷の者たち……、姉上や、弟や妹たちの面倒を、よろしくお願いしますとだけ書いて下さい。ご夫人にあまり心配させたくはないので……」
「わかった」
隊長がペンを走らせる間に、
「ありがとう」
礼を言ったが、
「南からの輸入品の中でも、かなりの希少種だ。俺は好きだが、お前の口に合うかな?」
茶は北部では全く生産されていないため、〈帝国〉での流通量は少なく、一部の貴族の嗜好品に留まっている。平民であるヤンネには、もちろん馴染みがない。
何気なく匂いを嗅ぎ、ヤンネは顔をしかめた。口にした茶は温かかったが、潮の香りとでも形容すべき異臭がした。
「ダメそうだな」
ヤンネの顔を見て、ストロムブラード隊長が笑う。隊長の机上に茶を置く
大陸南部──〈古の聖戦〉のあとも、〈教会〉の支配力が及ばない異教徒の地──話でしか知らないその地から運ばれたという煎茶は、不味かった。
ストロムブラード隊長の個人的な護衛である
この人は、明らかに女だった。唯一露わになる目元、そして指先は、間違いなく若い女である。そして、隊長の愛人との噂もあった。子供に恵まれなくても仲睦まじいストロムブラード夫妻を知るヤンネにとって、
どうにか茶を飲もうとしたが、中身は減らなかった。
蜂蜜酒が飲みたい──そう思った。
「さて、本題に入ろう」
ヤンネが茶を飲み終える前に、ストロムブラード隊長が茶を飲み干し、ペンを置く。
「お前の親父、オッリはしばらく療養させる。その間、
紙面のインクの乾き具合を見ながら、黒騎士が命令を告げる。
「何十年ぶりだろう。俺の知ってる奴も減ったし、ちゃんと言うことを聞いてくれるといいが」
「親父の代わりに、俺に
淡い期待を胸に、ヤンネは
これはチャンスである。不在の父よりも有能であることを証明すれば、隊長だけでなく、帝国軍の上層部にも認めて貰えるかもしれない。そうなれば、〈
しかし、対面するストロムブラード隊長の顔に、それまでの笑みはなかった。
「勝ち戦、それも追撃戦で副官のローペを死なせておいて、よくそんなでかい口が利けるな」
背筋に冷たいものが走る。騎士殺しの黒騎士と呼ばれる男の瞳が、暗く澱む。
「親父に盾突いてばかりの十五のガキに、部族の古参兵が大人しく従うと思うのか? 族長の息子、オッリの長男でなければ、お前はとうの昔にくびり殺されているぞ」
放たれる圧が、視界を、思考を覆う。
軽い気持ちで発言したことを、ヤンネは後悔した。たとえ馴染みある養父であっても、それ以前に、この人は帝国軍人である。それを忘れていた。
「二百騎の指揮さえ覚束ない者に、千騎の指揮など務まらん。それに、
「うちの大半は、親父と同じ野蛮人です。
ストロムブラード隊長は
「自分で作った部隊にこんなこと言うのも何だが、
羨ましそうに話すストロムブラード隊長の黒い瞳には、本当に羨望の色が浮かんでいた。そして、ほんの少しの悲しみも……。しかし、ヤンネは釈然としなかったし、不満だった。
「俺よりも、あんなチンピラの方が使えるんですか? そもそも、あんな頭のイカれた親父、隊長の仲間には相応しくないですよ……」
「それ以上は言うな、ヤンネ。もちろん、お前には期待している。しかし、俺にはまだオッリが必要なのだ」
黒騎士に凄まれ、ヤンネはまた唇を噛み締めた。
言葉の一つ一つが、臓腑に突き刺さる。
それは、ローペや部下を死なせたことよりも、屈辱的だった──つまり、自分はまだ父よりも信頼されていない。
屈辱感に苛まれるまま、ヤンネは席を立った。
「ヤンネ。親父を殺してでも、
背後から、ストロムブラード隊長が声をかけてくる。その口調は優しかったが、どこか棘も感じさせた。
「じゃあ、いつまで待てばいいんですか?」
「時の移ろいは早い。いずれ奴も衰える。そうすれば、自然と時代は移り変わる」
何を悠長な──それまで、あの蛮族の所業に耐えろというのか。この人は、自分は父親を殺しておきながら、他人にはそれを許さないというのか。
ふと、マクシミリアン・ストロムブラードという存在が、羨ましく、ズルいとさえ思えた。
実父を殺害して家督を奪ったと噂されるこの人は、結果として没落した下級貴族から出世し、第三軍団の騎兵隊長にまでなった。そして騎士殺しの黒騎士と称され、敵味方から畏怖されている。
「オッリは……、まぁ親としてはアレだが、それでもお前を後継者として認識している。それはとても幸せなことだ」
あんなのが、父親であってなるものか──母から何もかもを奪い、子供だけを産ませ、その子供を物のようにしか考えない人間など。
それに比べ、ストロムブラード隊長は、親身に接してくれた。その言動は、厳しくも温かかった。しかし、ストロムブラード夫妻は育ててくれたというだけで、実の両親ではない。
「幸せ……? あんな親父……、迷惑なだけっすよ」
「実の父親に見捨てられるよりは、マシだろう」
「それが、隊長が自分のお父さんを殺した理由ですか?」
訊ねた瞬間、見返す黒い瞳から、温もりが消えた。
それは禁句だった。
ストロムブラード隊長は、自身の過去をあまり話さない。そもそも、知られたくないようにも思える。普段なら、遠回しに訊ねても、はぐらかされる。
しかし今は、知りたかった。その視線は触れ難い圧を放っていたが、今はどんな言葉が返ってきても、怖くなかった。
「お前が期待するような答えはないよ」
しかし、事務的ともいえる返答は、ヤンネの気持ちをはぐらかす。
「命令があるまでしっかり休め。貴重な休息だ」
そして、ストロムブラード隊長は会話を切った。
ヤンネは隊長の言葉に振り返り、一礼した。
去り際、ロウソクの灯りに照らされる黒い影は、うっすら滲んでいた。
隊長幕舎を出たものの、ヤンネはどこに足を向けていいかわからなかった。
雪原に、虚ろな足音だけが鳴る。
雪降らぬ夜は暗く、冬の夜風は、ただひたすらに冷たかった。