第7話 キャラと私
文字数 516文字
「デッサン」と称して二編の短編を書いてみましたが、私の実力ではこれが限界でした。
と、言うのも、この二編の短編から観測者としての『私』を廃すると、難易度が爆上がりするからです。「数々のランナー達とすれ違いながら歩いていくと」と表現したが、三人称だとどうするんだろうこれ?
昔のサブカル論で、私小説の『私』は、所詮キャラじゃないかって議論がありました。確かにフィクションとしての登場人物という意味では『私』はキャラかもしれません。ですが、『私』がキャラであることと、自然主義者達が観測者としての『私』をどう配置したのかという文学史は、理論がすれ違う気がします。
「遠くでサンドウィッチマンが漫才をしているのが分かったが、ちょっと何言ってるか分からない」と、こう言った記述を可能にするのが『私』で、「記憶にある兄貴と同じ屁の匂いだった」という記述を可能にするのが『私』です。叙述の幅を広げたり、制限したりする装置としての側面がある。
同一性を担保として、脚本、監督、演出、俳優を貫くのがキャラで、アライメントととして規定をし、ゲームマスターとプレイヤーの解釈を一致させるのがキャラという概念です。
これは全く別のものだと言わざるを得ない。
と、言うのも、この二編の短編から観測者としての『私』を廃すると、難易度が爆上がりするからです。「数々のランナー達とすれ違いながら歩いていくと」と表現したが、三人称だとどうするんだろうこれ?
昔のサブカル論で、私小説の『私』は、所詮キャラじゃないかって議論がありました。確かにフィクションとしての登場人物という意味では『私』はキャラかもしれません。ですが、『私』がキャラであることと、自然主義者達が観測者としての『私』をどう配置したのかという文学史は、理論がすれ違う気がします。
「遠くでサンドウィッチマンが漫才をしているのが分かったが、ちょっと何言ってるか分からない」と、こう言った記述を可能にするのが『私』で、「記憶にある兄貴と同じ屁の匂いだった」という記述を可能にするのが『私』です。叙述の幅を広げたり、制限したりする装置としての側面がある。
同一性を担保として、脚本、監督、演出、俳優を貫くのがキャラで、アライメントととして規定をし、ゲームマスターとプレイヤーの解釈を一致させるのがキャラという概念です。
これは全く別のものだと言わざるを得ない。
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