「言葉」の目覚め
文字数 5,054文字
夏が始まろうか、という時期だった。子熊は突然、自らの異変に気付いたのである。茂みの隅で兄熊とじゃれながら母熊の帰りを待っていた時のことだった。
その異変は「音」から始まった。なぜか兄熊の鳴き声が別の「音」に聞こえるようになったのだ。これまで聞いてきたものとはまったく異なる「音」の響きに、
これは、一体?
と、驚いた子熊は兄とじゃれ合うのをやめた。
そうして子熊は木の幹に寄りかかり、重たい頭を持ち上げ梢を見上げた。子熊の感じた異変が音だけに留まらないと気付くまでに、それほどの時間を要さなかったのは言うまでもない。
木の葉の間でチラチラと揺れる白い光。
その太陽の光に刺されて葉脈を際立たせる深緑の葉。
風に揺られてさわさわと鳴り響く葉擦れの音。
遠く、近く、ほとんど喧騒のように鳴り響く鳥の鳴き声に、水気を含んでむわりと漂う土の香り。
兄熊から漂う獣の匂い。
何もかもがこれまでと違っていた。今までにないほどに世界は躍動していたのだ。そして、そのように世界を「感じている」ということに「気付く」、この感覚さえ子熊には新鮮だった。
ぼくはどうしてしまったのだろうか。
子熊は驚きや怯えを覚え、その感情に困惑し、気持ちを落ち着けようと自らの手をじっと見つめた。それは確かに自分の手である。しかし、寸刻の間に何かが大きく様変わりしてしまった手でもあった。
そうしてしばらく子熊が自分の手を見つめていると、先ほどまでともにじゃれ合っていたはずの兄熊が突然子熊の
悲しい?
子熊はその感情の意味がわからず、そして戸惑った。困惑や戸惑うということの意味も説明はつかなかったが、それが決して良いものではないということはすぐに理解できたのである。
しばらくすると母熊が戻ってきた。
いつもであれば真っ先に駆け寄り、その乳を求めた子熊である。しかし、今日に限って子熊はそれができなかった。
母熊が子熊を拒んだのである。
なぜか。
子熊が異質のものになったからだ。
母熊は兄熊を引き寄せると、子熊を睨みながら低く唸った。子熊は再び戸惑ったが、母熊の方はすでに覚悟を決めていた。
我が子のひとりは森に供された。
すでに彼らの世界は隔たれたのだ。
もはやそこにあるのは我が子の姿を借りた不可侵の生き物でしかない。
それは我が子ではないのである。
母は子を諦めねばならなかった。捨てねばならなかった。そして、今すぐに子熊のもとを去らねばならなかった。
そのため母熊は兄熊を促し、子熊に背を向ける。それを見た子熊は思わず叫んだ。
「待って!」
自分の口から飛び出した「音」に子熊は飛び上がった。一体これは何だというのだ。一体どうしてこんな「音」が出せるのか。しかし確かに自分は今、その「音」で母熊を呼び止めようとした。母熊を自分のもとに繋ぎとめようとした。
悲しい叫びだ。
そんな「音」では母熊に何も通じないということも子熊はわかっていたのである。子熊の心には「寂しい」という気持ちが芽生え、目から大粒の涙が零れ落ちた。
寂しい、悲しい、虚しい、苦しい。
それからどれほどの時間、子熊は一人で泣いていたであろうか。
「おやおや」
と、突然頭の上に降り注いだ低く優しい声に驚き、飛び上がった子熊は涙をひっこめ顔を上げた。黄金の毛並みを持つ鹿が目の前に立っていた。
特別な鹿だ。
この鹿のことは以前から子熊も知っていた。熊も他の肉食の動物のいずれもがこの鹿のことは避けて通るのである。
なぜか。
そんなことは考えたこともない。けれども、この鹿が他とは違うのだということを、この森に住むすべての動物はその本能で理解し、受け入れている。
「大丈夫。そんなに泣くことでもないのだよ」
と、その鹿は長いまつげを真っ直ぐに子熊に向け、なんということもないような軽い口調で言う。
「君にとっての世界は確かにこれまでとは大きく変わってしまったが、それを
「……あなたは?」
子熊は問いかけた。このように「言葉」がするすると出てくることにまだ戸惑いがあったが、それでも子熊は問わずにはいられなかった。
「他のみんなは私とキジカと呼ぶね」見ての通りの毛並みをしているからだろう。
と、キジカと名乗った鹿は答える。
「どうしてそんな見た目なの?」
子熊は続けて問うた。キジカは少し首を傾げ、少し考えるそぶりを見せる。
「……ふむ、それは私にもわからないのだよ。最初からこの色ではなかったはずだがねえ」
でも、もう長いことこの色をしているから、もうすっかりと体に馴染んでしまったよ。
と、キジカは囁くように言いながら耳を器用に動かした。
「さて、小さな熊の坊や。君のことはさっきアカモズが見かけて私に声をかけてきたのだ。だから私はこうして、この場に君を迎えに来たというわけだ」
「……迎えに?」と、子熊が言えば、「そう、迎えに」と、キジカは頷く。
そうしてキジカは優しく言った。
「いいかい坊や。君は『言葉』を手に入れた。そうすると、必然『言葉』を話せる動物としか仲良くなれないものなのだ」
「どうして?」
「それは坊や、私が答えなくてもわかっているはずだがね」
「…………」
子熊は口を噤み、じっとキジカの瞳を見つめた。
言われてみれば確かにその通り、最初から子熊もわかっていたのかもしれない。
世界はすでに隔たってしまっている。さっきまで仲良くじゃれ合った兄熊も、優しく抱きしめてくれた母熊も、この先もう二度と子熊を顧みることはない。
再び「悲しい」という感情が子熊を襲い、
「それならぼくはどうしたら?」
と、思わずキジカに問いかけた。キジカは答えて言った。
「見たところ、まだ君は母親の乳を必要とするようだ。しかしどうやらそろそろ別の食べ物を探すべき時だ。狩りや採集のことであれば私よりもクロダヌキが適任だろう」
「……クロダヌキ?」
「君よりずっと先輩の動物だが、我々の中では君に一番近い生活をしているからね。だからしばらくは、何事も彼を頼るといい。なあに少し気が荒いが、悪いやつでもない」
さあ、行こうか。
と、キジカは子熊を促した。それでも子熊は座りこけたまま、じっと上目遣いにキジカを見つめるだけである。
怪訝に思ったキジカが「どうかしたか?」と、問いかけると、子熊はもじもじと俯いて小さな声を出した。
「その、背中に……乗ってもいい?」
キジカは愉快そうに笑った。
「困った甘えん坊だ」
さあ、ほら。
キジカは子熊に近寄りゆっくりと前足を折りたたんだ。それを見た子熊はおそるおそるキジカに近付き、よじ登り、首元にしがみつく。
「爪は立てないでおくれよ」と、立ち上がりながらキジカは言った。「でも、私に振り落とされないようにしっかりと掴まっているんだよ」
「難しいよ」
と、子熊は笑った。
「そうだね」と、キジカは静かに応えた。
──世の中というものは、そんなものなのさ。
歩き出すキジカの揺れ心地に、うっとりとなりながら子熊は言った。
「ぼくはどうして、『言葉』が話せるようになったの?」
キジカは答えた。「簡単さ、君は神様の〈気配〉に触れたのだ」
「それは、いつ?」
「『言葉』を認識した時だ」
「そんな感じはしなかったのに?」
「それでも触れたのだ」
「神様はどんな生き物?」
「さあ、それは私にもわからない。誰にもわからないのだよ」
「そうなの? 誰も会ったことないの?」
「そうとも。私も誰も、神様に会ったことはない。私たちのように森の生き物の姿をしているのか、それともこの森には存在しない生き物の姿をしているのか、それは誰にもわからない」
「この森には存在しない生き物?」
子熊が首を傾げた時、轟音とともに空を一羽の巨大な鳥が飛び去って行った。子熊が「言葉」を得る前からこの森の上を飛び回っている鳥だ。しかしどうしたことだろう。その姿を見てもこれまでは何とも思わなかったのに、今の子熊はどうにも不思議な気持ちで落ち着かない。
「あれは、生き物じゃないよ」
「そうだね。あれは生き物じゃない」
「あれは何?」
「さあ、なんだろうかね」
キジカは茶化すように答え、笑った。「いつかその意味がわかるときが来るかもしれないね」
「神様のこともわかるようになる?」
「もしかしたら、そうかもしれないよ」
「ぼく、神様に会ってみたいな」
「それはいい考えだ」
キジカは言った。「誰も会ったことのない神様に会うことができたら、とても素晴らしい」
「でしょ?」
「うん」
「……ねえ、さっきの生き物じゃないあの鳥はさ」
「うん?」
「なんだかとても気味が悪いと思うんだよ」
「どうして?」
「うん」
「うん?」
「…………」
返事がないことを訝しんでキジカが振り返ると、子熊はその背の上で器用にバランスを取りながらすやすやと眠っていた。
「……まあ、いいだろう」
と、キジカは微笑み、正面に向き直る。「今日は、小さなその体に抱えるには重たすぎるほどのことが起きたのだから」
今はだから、ぐっすりと眠るがいい。
そう呟いたキジカの上を、再び巨大な鳥が通過する。キジカはもちろん知っていた。あれは鳥ではない。人の造った空飛ぶ乗り物だ。
そしてキジカはこんなことも知っていた。時折森の先に見える赤い光。それが人間の街を飲みつくす紅蓮の炎の光だということも。
人の世がかつてないほどに荒れている。
キジカはそれを知っていた。多くの人が死に、多くの人が嘆いている。
だからもうすぐ……。
「おい、キジカ!」
声をかけられてキジカが振り返ると、すぐ近くの木の下に黒いタヌキが立っていた。
「おやクロダヌキ」
おどけて返事を返したが、クロダヌキはふんと鼻を鳴らしてキジカを睨み、すぐにその背ですやすやと眠る子熊に視線を動かした。
「現れたのか?」
「ああ、現れた」
キジカは頷く。「だからもうすぐだ」
「もうすぐか」
キジカの言葉を反芻しながらクロダヌキは空を見上げた。
神の〈気配〉に触れた〈色なし〉の動物が現れる時、願いを抱えた人の子がこの森を訪れる。それは森の運命のようなものだった。
しかし、彼ら〈願う子〉がどのような形でやってくるかは誰にもわからない。
時にはひとりで勝手にやってくることもある。時には〈色なし〉の動物に導かれることもある。いずれにしても〈願う子〉は必ず〈色なし〉の動物の前に最初に現れるのだ。それも森の運命のようなものだった。
そして一人と一匹はともに助け合い、絆を深め、さらにはその声を神に届ける〈願い池〉を求め、いくつもの試練を越えながらこの森を探索することになるのである。
しかし、必ずしも〈願う子〉が〈願い池〉に辿り着けるとは限らない。
同様に〈色なし〉の動物がこの森に定着するとも限らなかった。
しかも〈願い池〉に辿り着いた先に待ち構える一人と一匹の結末は、残酷なことに離別以外あり得ないのである。神は彼らに、必ず別れの涙を与えるのだ。
「そのチビに導かれる〈願う子〉には、果たしてどんな未来が待っているのかね」
クロダヌキが憐れみを滲ませながら呟くと、キジカは静かに笑い声をあげた。
「そんなことは誰にもわからない」
そうしてキジカは、何かを諦めたように賢しげな、そうしてやりきれないとでも言うかのように悲しげな顔をして、深い深い息を吐き出した。
時に未来は、神でさえ予想しなかった方向へ転ぶこともある。だから子熊の未来も、いずれこの森にやってくる〈願う子〉の未来も、誰にも確かなことは言えないものなのだ。
──我々は、不確かな世界の上で確かに生きている。
キジカの上で眠る子熊はすやすやと寝息を立てていた。己の背中にのりかかる重責などまだ知らぬ、あどけない寝顔をキジカとクロダヌキに見せながら。