第2話

文字数 5,268文字

 昨日の反省を生かして、今日は最初から人目につかないところで原稿を進めることにした。といっても、図書室は相変わらず工事中で使えない。だが、昨日校舎をうろつきまわっているうちに、僕はいい場所を見つけていた。
 放課後の校舎にはまだ多くの生徒が残っているが、音楽室や美術室を通り過ぎて階段を上っていくと、その気配はどんどん遠くなる。僕は誰もいない廊下をさらに奥へと進み、「第四倉庫」と書かれた教室の前で立ち止まる。
「よっ……と」
 がたがたと音を鳴らしながら建付けの悪い引き戸を空けると、中にはこもったような空気が立ち込めている。その埃っぽさに閉口しながら、僕はまず窓を開けた。昨日も掃除したはずなのに、一日やそこらでは積もった埃はなくならないものだ。

 ここは校舎の最上階、茶道室や書道室など、めったに使われない教科の教室が集められているフロアだ。その中でも一番突き当りにあるこの倉庫は、誰からも忘れられ、年単位で足を踏み入れられていないような雰囲気を持っていた。本来ならば鍵をかけておくべきだと思うが、教師でさえこんな場所があることを忘れてしまっているのではないだろうか。
 とはいえ、静かなところで落ち着いて作業をしたい僕にとっては、この上なく好都合だ。教室の余った備品を放り込んだのか、幸いなことに机も椅子もそろっている。埃っぽいのと居心地が悪いのは我慢して、さっさと原稿を書き上げてしまおう。
 床を掃いてパイプ椅子を広げるころには、狭い倉庫の中の空気はおおむね入れ替わっていた。せっかくだからこのまま外の空気を感じながら作業に入ろうかと思ったその時、

「……おい」
「!?」
 開けっ放しにしていた入り口から、声がかけられた。
 しかしそれは、空き部屋を勝手に利用している僕を責めるような調子ではなかった。むしろ、僕を警戒している様子が感じられる。何より驚いたのは、その声が教師ではなく、同年代の男子のものだったことだ。
「……早見?」
「……勝手に後をつけたのは謝る。だが、俺はお前に話したいことがあるんだ」
 すらりとした体を見せつけるように胸を張り、早見薫は堂々とした様子で倉庫の入り口に立っていた。

「……とにかく入れよ。そんなところに突っ立ってると目立つだろ」
 僕は迷いながらも、突然の闖入者を迎え入れることにした。
 話がある、なんて曖昧な口実への警戒はもちろんしている。だが、有名人の彼がそこに立っていれば、ようやく見つけた秘密基地が誰かに見つかってしまうとも限らない。
 そして何より、僕は好奇心を抑えられなかった。成績優秀、眉目秀麗、温厚篤実を地で行くような人間が、教室の隅っこで埃を舐めているような陰キャに何の用があるのか、明らかにせずにはいられない。
 これは卑しくも物書きの末席を汚している僕の、どうにもできない病気みたいなものだ。面倒なことになると分かっていても、ちょっとでも面白そうなことには首を突っ込まずにはいられない。もしかしたら創作の役に立つかもしれないし、書いている話に使えそうなネタが転がっていれば儲けものだ。
 しかし、早見は倉庫に入ったきり、怒ったような顔をして立ち尽くしたままだ。せっかく僕が手ずから広げてやったパイプ椅子にも腰を下ろさない。
 本当に何をしに僕へ会いに来たのだろう。まさかいきなり殴られたりはしないだろうが、となるとカツアゲだろうか。僕が自分のポケットに入った小銭の額を考えていると、早見は思いつめたような顔で突然、自分の懐から何かを取り出した。その唐突な動きに、僕の生存本能が警報を鳴らす。

「まさかナイフか!? やめろ、展開が早すぎるぞ! まだお前のキャラも十分立ってないのに! 僕を刺すなら、せめて自分の生い立ちと辛い過去と僕への恨みや怒りを原稿用紙十枚以上で述べてからにしろ!」
「これを……読んでくれないか?」
「うう、まさかこんなところで道半ばで倒れることになるとは……油木死すとも自由は死せず……って、ん? 何これ、手紙か?」

 早見が差し出していたのは、小さな封筒だった。同級生の女子が授業中に回しているようなファンシーなものではなく、無地の真っ白な封筒だ。
 ナイフじゃないなら、果たし状だろうか。まさかラブレターってこともないだろうし。
「これ、僕が読んでもいいの?」
「ああ、読んでもらうために書いたからな。だが……なぜとか、これはなんだとか聞かないんだな」
「だってそんなの、読めば分かるだろ。どれどれ」
 可愛らしいシールなどではない、味気ない無地のテープを雑に剥がして中を開く。便せんに書かれていたのは、本人と同じく癖のない、整っていて読みやすい字だった。
 だから問題は、その内容だった。

『お父さん、お母さん、これまでお世話になった皆さん。先立つ不孝をお許しください。俺はこれから、楽園(パラダイス)へと旅立ちます』
 そこまで読んだところで、僕は一度開いた便せんを折りたたんだ。
 そして、どこか緊張した面持ちで僕を見つけている早見につかつかと歩み寄り、
「これ、遺書じゃないか!?」
 思いきり突き返した。

「その通りだ! いやあ、やはり見るものが見れば分かるのだな」
 先ほどまでの硬い面持ちが嘘のように、早見はなぜか嬉しそうに相好を崩している。顔立ちが整っているからか、少し表情をほころばせるだけでぱっと印象が明るくなる。
 いや、そんなことを冷静に観察している場合ではないような気もするが。
「分かるに決まってるだろ! なんだこの読みづらい文章は! 一文目をまともに書いておきながら、楽園にパラダイスとルビを振るな! こんな短時間でテンションが乱高下する!」
「そうだ、そこが問題なんだ!」
 僕の叱責にも構わず、早見は真剣な目つきで僕を真っすぐ見つめる。
「いざ書いてみたはいいものの、遺書というものは何を書くべきか非常に難しい。自分のことを深く書かねばならないのに、独りよがりになってしまっては遺書を残す意味がない」
「お前の文章はそれ以前の問題な気がするけどな……」
 なんでこんな顔のいい男が、真面目な表情で遺書の出来について悩んでいるのを聞かなきゃならんのだ。
 だが、早見は僕の呆れた目線など気にもしてないような素振りで、熱っぽく話し続ける。

「だが、そんな灰色の日々に救世主が現れた。君だ!」
「僕が? 救世主?」
「ああ、そうだ。覗き見たようで申し訳ないが、昨日君の文章を読ませてもらっただろう」
「ああ、そういえばそんなことあったな……」
「俺は君が書いたものを見て、感動したんだ。分かりやすく整理された構成、豊富な語彙、そして何よりも、ちょっと目にしただけでも夢にうなされそうなほどの不気味で気味が悪い文章に!」
「……それ、褒めてるのか?」
「もちろんだとも! 書きかけのものをたった一枚見ただけで、俺は昨日トイレに行くにも風呂に入るにも何度も背後を確認せざるを得なかった! 眠る間際には久々に愛用のぬいぐるみに世話にもなった!」
「……」

 想像力が豊かなんだな、という皮肉は言わなかった。こいつ自身の表現には問題があるものの、ストレートに褒められればやはり悪い気はしない。
「君の文章力には、それだけのパワーがある。そこで相談なんだが……」
 ようやく本題に行きついたとばかりに、早見は僕に一歩近づいて両肩に手を置いた。長身から見下ろされ、僕は無意識に息を呑む。
「俺に遺書の書き方を教えてほしいんだ」
「……いしょの書き方?」
 医学書の省略形だろうか。もしくは、奇書の言い間違いか。
 僕の頭が都合のいい変換をしようとするが、
「ああ。俺は近いうちに自殺しようと思ってるんだ!」
 早見はそんな抵抗をあっさりと打ち砕いた。
 目の前で満面の笑顔を浮かべた美少年が、突然不気味なもののように思えてくる。思わず尻尾を巻いて逃げ出したい欲求に駆られるが、奴が入り口を背にして立っているせいで逃げ場はない。狭い倉庫が、殺人現場のようにも思えてくる。

「あの……悩みとかあるなら、僕じゃなくて教師に相談したほうがいいと思うぞ? 担任の空井は信用できないかもしれないけど、数学教師の須賀とか意外と真面目に見えるし……」
「悩み? そんなものがこの早見薫にあるわけないだろう?」
 とにかく遺書から話をそらそうと思って言った言葉に、早見は不思議そうに眉を寄せた。そんな表情もいちいち様になっている。
「……なんだよ、何か辛いことがあるから自殺なんて考えてるんじゃないのか?」
「まさか! 先生、君はひとつ大きな勘違いをしているな」
 早見は大げさな仕草で長めの前髪を払うと、安心させるように僕に向かってにっこりと微笑みかける。その美術品みたいな笑顔に気を取られて、勝手に先生呼ばわりされたことに突っ込みそこねてしまった。

「俺は今の生活が、悲しかったり辛かったりするから死にたいと思うんじゃないんだ。むしろ、その逆だと言ってもいい! 嬉しくて、楽しくて、心の底から満たされた瞬間に自殺することで、俺は自分の人生を完璧な幕引きを迎えたいんだ!」
「……ああー、なるほど。そういう系ね」
 僕に見せつけるように大げさなに抑揚をつける早見に対して、僕の頭は急速に冷めていった。
 高校生になって第二次性徴を迎えたと言っても、僕らの頭の中身は子供の範疇のままだ。危険なものには惹かれるし、死や滅びといった不吉なものに心を躍らせる気持ちだってまだまだ現役だ。僕だって殺人鬼が次々と人を殺す小説なんて書いているんだから、その気持ちは分かる。
 それでも、少しずつ客観的な視点を得ていくことで、死も生もありふれたことだと学んでいく。自殺や自傷が特別な人間ができることだと盲信するのは、視野が狭いと言わざるを得ない。英雄じみた自殺願望なんか、それこそ十四歳で卒業しておくべきものだろう。

「そういう系、とはどういうことだ?」
「……えーっと。ほら、27クラブって聞いたことないか? ジム・モリソンとか天才的なアーティストで、27歳で死んじまう人が続いたんだ。それはただの偶然じゃなくて、才能を見込んだ神様が特別なクラブに集めてたって話だよ。それが本当かどうかは分からないけど、爆発的な人気になることはあったみたいだぜ。お前の言ってることもそれと同じだろ?」
「ふむ、なかなか面白い話だな。確かに、俺の才能を見込んだ神が楽園から俺を手招きしているというのは、悪くない想像だ」

 僕の適当な相槌に、早見はまんざらでもなさそうに腕を組んで頷く。27クラブは広く知られている話だが、それだけで人気が得られるものか。まったくこいつの考えは、甘すぎると言ってもまだ足りない。砂糖をそのままかじったみたいに、味わっているこちらが痛みを感じそうな甘さだ。
 それにしても、だ。こんな恵まれた男でさえ、そんな中二病じみた願望を持っていることに僕は少し驚く。いや、むしろ満たされた環境にいるやつの方が、案外風変わりな欲望に取りつかれやすいのかもしれない。痴漢を繰り返す男もだいたいは高学歴で真面目な人間が多いって聞くしな。
 まったく、遺書だなんて物騒な言葉を聞いたせいで、柄にもなく取り乱してしまったのが恥ずかしい。冷静になって考えてみれば、高校生が死にたいと言い出すなんてよくある話だ。やれやれ、僕もまだまだ考えが甘かった。

「それで、どうなんだ? 俺に遺書の書き方を教えてくれる気はないか?」
「……そうだな」
 最初はもちろん、知ったことかと切り捨てるつもりだった。しかし、考えが変わった。
 あと数年も経てば、下手したら来週にでも、こいつはきっと飽きる。モデルの仕事が忙しくなるなり彼女ができるなりすれば、自分が自殺を考えて遺書まで書いていたことなんてすぐに忘れてしまうだろう。
 そこでしばらくたって客観的な視線を得た時に、果たしてこいつは僕に持ち掛けた話をどう思うのか。想像するだけで、ちょっと面白そうじゃないか?
 まあ、何もなくても陽キャの思考を間近で観察するいい機会だ。最悪、次回作のネタにでもしてしまおう。
 頭の中であざとく計算をしつつ、僕は最大限に友好的な笑みを浮かべた。
「実は、僕もお前の文章はなかなか興味深いと思ったんだ。僕でよければ、指導してやろう」
「! 本当か! ではよろしくな、先生!」
 大きな目をきゅっと弓なりに細めると、早見は僕に向かって手を差し出した。まだ何か読ませるものがあるのかと思ったが、その手には何も握られていない。

「? なんだ、受講料でも払えっていいたいのか?」
「それを払うのは俺の方ではないか? いや、対価はもちろん考えているが、これは握手の申し出だ」
「……あくしゅ」
 こいつ、友好関係になった相手とは握手をするものなのか。政治家みたいだな。
 恐る恐る、見慣れない品種の大型犬を触るような気持で手を差し出すと、早見は素早く僕の手を握ってにこりと笑った。唇の隙間から白い歯が覗く。薄暗い倉庫の中で白々と輝くそれが、ひどく場違いに見えて笑いだしてしまいそうだった。
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