第5話

文字数 5,179文字

「先生、今日も早いな。何を書いてるんだ?」
「うわっ!?」
 授業が終わって早々、僕は倉庫に引っ込んで書きかけのノートを広げていた。授業が終わった時点で早見の姿が見えなかったから、今日は来ないのかと油断していたのだ。
 今書いていたのは、小説そのものではない。これはまだ、書き始めにも満たないメモ書きみたいなものだ。
「い、いや……これは」
「新作か? いや、いいんだ。せっかくの作品を途中で見せてくれと無粋なことを言うつもりはない。完成を楽しみにしている」
「あ、ああ……書けたらな……」
 愛想笑いをどうにか貼りつかせながら、僕は背中にたっぷりと冷や汗を書いていた。ノートの上に書きつけていたのは、まさしく早見を参考にした人物の設定だった。こんなものを本人に見られたら、さすがに言い訳ができないだろう。
 それに、これを見せられないのにはもう一つ理由がある。早見をもとにしたキャラを主人公にしてみたら、思ったよりも明るい話になりそうだったのだ。今まで薄暗い話ばかり書いてきた僕がこんなものを書いていると知られるのが、気恥ずかしくてならない。このむやみに自信満々な男は、それを見ても照れたりなんてしないのだろうけど。

 僕は慌ててノートを閉じると、咳ばらいをして仕切り直す。
「えー、僕の話はともかく。昨日の宿題はどうだ? 自分史は書けたのか」
「ああ、だが……すまない、先生。頑張っては見たんだが、これが限界だった……」
 早見が持ってきた自分史は、申し訳なさそうにする必要がないほどに細かい文字で埋められていた。相変わらず、一晩で書いたとは思えないほどの出来だ。
「いやいや、これだけあれば十分だって。モデルの仕事を始めたときのことも書いてあるし、めちゃくちゃ参考になりそうだ」
「参考?」
「……えーっと、遺書の添削をするときの参考に」
 苦しい言い訳をしながら、僕は早見の自分史を順繰りに見ていく。モデルを始めたのは小学生の時か。僕は芸能関係に疎いから詳しいことは分からないが、キャリアはかなり長いのだろう。
 横に長い紙を開いていくと、中学校に入学したあたりで目が止まった。なぜなら、その続きがまったく書かれていなかったからだ。
「……これは」
「だから言ったじゃないか。これが限界だったと」
 すねたような口調で、早見は小さくつぶやく。さっきの言葉は、途中までしか書けていないという意味だったのか。

「まあ、その続きはまた今度でいいとして……これまでお前が書いたものを見てきて、一つ気づいたんだ。もしかしてお前、あまり小説とか読まないんじゃないか?」
「確かにその通りだが、なぜだ?」
「読みやすい文章には、流れってものがあるんだよ。分かりやすくいったら、起承転結だな。その筋道が通っていれば、多少書くことに詰まっても、自然と続きが出てくる」
 早見は真剣な顔で頷いている。いつの間にか小さなメモ帳を手に、僕の言葉を書き留めているようだ。
「今のままでは読みづらいだけだが、独特な言葉遣いはお前の個性と言ってもいいだろう。そこをなくすよりは、全体の流れを整えた方が良いものになる……と思う」
 これは、何度か早見の文章を読んでいるうちに本当に思ったことだ。
 自分史を書かせたことで、早見の中でも書きたいことがある程度定まったことだろう。あとは文章構造に徹底的に手を入れれば、早見の文章は見違えたように読みやすくなる。だからこそ、きざったらしい言葉や言い回しなんかはそのまま残しておいても問題はない。
 別に、本気で早見の文章をいいものにしようと思っているわけではない。ただ単に、少しはそれらしいことを言っておかないと「先生」としての信頼関係を維持できないと思っただけだ。
「さすがだ、先生。俺一人では、そんなこと思いつきもしなかった。俺の人を見る目に間違いはなかったな」
 狙い通り、早見は実に嬉しそうに頷きながらメモを取っていた。まあ、こいつは何を言ったところでこの調子なのだから、たいして意味はないのかもしれないが。

「話はまだ終わってない。だから、お前はまず読書経験をつけた方がいいんじゃないか。それが今日の宿題だ」
「読書、か……」
 無意識にだろうか、珍しく顔をしかめる早見を安心させるように僕は笑う。
「安心しろ、そんなに難しい本じゃない。決して明るい話じゃないが、読みやすいと思うよ」
 僕は鞄の中から、一冊の本を取り出して早見に差し出した。
 だが、早見はそれを受け取ることもせず、ただ驚いたように目を見開いている。ただでさえ大きくて印象的な瞳が、そのまま顔から零れ落ちてしまいそうだ。
「なんだ。何か気に食わないことでもあるのか?」
「……これ、先生が貸してくれるのか?」
「ああ。突然本を読めって言われても、普段読まないんだったら何を選んでいいか分からないだろう。もしお前に読みたい本があるんなら、それでもいいけど」
「ない、全くない! いや、むしろこれがちょうど読みたいと思ってたんだ!」

 なぜか早見はムキになったように、必死に言い募る。好きなおもちゃを目の前にちらつかされてる子供みたいだ。
 僕はその必死さが面白くて、ついからかってしまう。
「……こんな数年前に一作書いたっきりのマイナー作家を? なんだ、お前もずいぶんな読書家じゃないか。いやあ、だったら僕のおすすめなんかいらないかもな」
「あ……ち、違う、そういうわけではなくて……」
 本をもとへ戻そうとすると、早見は予想通りに慌て始める。そうしていると、ただの高校生にしか見えない。
 早見の狼狽ぶりに僕は思わず吹き出しながら、
「冗談だよ。僕の勧めたものに興味があるんだろ? そうならそうと素直に言え」
「……ああ」
 両手で本を受け取りながら、早見は白い歯を見せて笑った。
 本の貸し借りだなんて、本当に友達みたいだ。ふとそう思うと、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「……いいか。ページに折り目でも作ってみろ、お前の指も折ってやるからな」
「はは、それは怖いな。丁重に扱わせてもらおう」
 と、大切そうに早見が本を抱えた。だが、すぐにその顔は曇ってしまう。
「けれど、これを読んだところで上手く自分史の続きが書けるかどうか……」
「なんでだ? 」
「中学のことを書こうと思うと、どうしても手が止まってしまうんだ。なんと言うか、何を書いていいか分からなくて……」
「ふうん、なるほどな。普通、最近のことの方が書きやすいもんだけどな」
「……すまない」
「いや、別に責めてるわけじゃないよ。一日でこれだけ書ければ上等だって」
 僕としてはフォローしたつもりなのだが、早見の表情はいつになく暗い。その思いつめたような表情のまま、早見はぽつりと言葉をこぼした。

「なあ、先生。先生は何のために小説を書いているんだ?」
「なんだよ、突然。そんなのぺらぺら言うことじゃないだろ」
 と、答えを軽く拒否してみても、早見はその視線を緩めない。ただの興味本位で聞いているわけではなさそうだった。
「いいじゃないか、俺はこれだけ自分のことを先生に見せてるんだ。先生のことだって少しくらい教えてくれ」
 一向に引き下がらない早見を意外に思いながら、僕はどうしたものかと考える。けれど、早見の言うことにも一理ある。一方的に早見のことだけを嗅ぎまわって、自分だけは秘密主義というのはフェアじゃないだろう。

「何のためって……別に、そんなたいそうなこと考えてないよ。強いて言えば……自分のため、かな」
「自分のため?」
「……なんていうかさ」
 こんなことを聞かれるのは初めてだ。上手く話せるか分からないけど、僕は思いついたことを素直に話していく。不思議と、聞こえがいいように話そうとか見栄を張ろうという気にはならなかった。
「普通に過ごしてると、嫌なことっていっぱいあるだろ。失敗したり、誰かにからかわれたり……そんなの当たり前だし、絶対になくならないことだ。物語の中でも、障害がないとつまらないしな。でも、自分の言葉で嫌なことを書いてみると、それにどんな意味があるのか、どんな結果になるのか納得できる気がするんだ」
「自分の言葉、か」
「まあ、言ってみれば自己満足なのかな。その気になれば誰にでもできることだよ」
 言葉にしてみると、ずいぶん自分勝手で子供じみた動機だ。とにかく自分を目立たせたいから自殺してやりたいと言っている目の前の男と、根っこのところは同じなのかもしれない。
 けれど、早見は僕の言葉を笑うことなく、ただゆっくりと首を横に振った。
「そんなことはない。自分の言葉で自分を表現するという行為は、俺からしてみれば途方もなく困難で勇気を要する作業だ。嫌なところや目を背けたい部分を正直に見つめなければいけない。その上、書いたものを大勢に見られるなんて、考えただけでも逃げ出したくなりそうだ」
 自分から遺書を書きたいと言ったことのはずなのに、早見は意外なほどに弱気な口調でそう言った。二面性があるというのか、それともまだ自分の中でも迷いがあるのだろうか。
 けれど、早見が口にした『勇気』という言葉は、確かに僕の胸を温かくした。本気でからかいに怒っているのなら、クラスの奴らを捕まえて殴りつけてやるべきなのかもしれない。だが、非力な僕はそれができない。文章を書くことで立ち向かっているつもりでも、実は自分の殻にこもって逃げているだけじゃないかという気持ちがあったからだ。

「勇気ねえ。僕、中学校でもこんな感じだったから、周りの奴にいつも色々言われてたから。なんていうか、荒れた学校だったからさ。からかわれたり否定されるのが毎日で、嫌な思いをするのには慣れてるんだよ。……でも、そうだよな。何かを書いたり、人に見せたりするのって、勇気がいることだよな」
 僕はなぜ、聞かれてもいないのにこんなことを話しているのだろう。こんな暗い思い出が、早見に分かるはずもないのに。けれど、今ここで僕の本心を伝えたいという気持ちを抑えられなかった。
 早見は僕の話を黙ったまま聞いている。そしていきなり、意を決したように顔を上げた。
「俺も……俺の学校にもあったんだ、いじめ。殴ったり蹴ったりの身体的な暴力はないが、一人をターゲットにしてずっとからかったりとか……それで、学校に来なくなった友達がいて……俺には、何もできなくて……」
 一度は上げたはずの視線が、自分の言葉の重さで落ちていくようにうつむいていく。
 僕はその様子にうろたえながらも、頭の別のところで早見の言葉を注意深く咀嚼していた。中学のことを考えると続きが出てこないと言っていたのは、そんな理由があったのか。
 早見は目立つ人物だとは言え、集団行動が何よりも是とされる空間においては、物を言うのは結局は数だ。クラスの多数派がターゲットとして選んだのなら、早見のような人物だとしても、中途半端な同情は逆効果になったのではないか。

「そいつが学校に来なくなって、最初のうちはクラスにも罪悪感とかなんとかしようみたいな空気があったのに、驚くほどすぐに元通りになった。そうやって誰からも忘れられていくなんて、俺は絶対に嫌だ。……だから俺は、誰の記憶にも残るように死ななければならないんだ」
 そこまで一息に言い切ると、早見は僕の存在を思い出したかのようにはっと目を向ける。そして、眉を下げてほんの少しだけ口元を緩めた。
「すまない、暗い話になってしまったな」
「いいよ。僕は根暗なんだから、暗い話が好きなんだ。ため込んでるなら今のうちに話してみろよ」

 僕は本気で言ったつもりなのだが、早見は僕の言葉を声を上げて笑った。それは先ほどの薄い微笑みではなく、喉から無理やり絞り出したみたいな硬質な笑い声だった。
「いや、もう話すことは何もない。早見薫に悩みなんてないからな」
「……そうか。まあ、気が向いたらでいいよ。僕に見せなくても、何かを書くだけで頭の中が整理されていくこともあるしな」
 早見の態度の変わりようを不自然だと思いつつ、僕はそこに踏み込むことができなかった。
 どうしようもなく気まずい沈黙が訪れた瞬間、早見のポケットから明るいメロディが鳴り響く。
「! ……先生、すまない」
「ああ、また仕事か。本は焦って読まなくてもいいからな。借りパクは許さないが」
「もちろんだ!」
 僕の返事を聞き終わるよりも先に、早見は自分の鞄をひっつかんで倉庫を飛び出していった。
 もしかしたら、僕はその背中を引き留めるべきだったのかもしれない。早見が珍しく見せた暗い表情や、中学時代の話をもっと詳しく聞いておきたいという気持ちは、確かに僕の中にはあった。それと同時に、あいつの感情にもっと丁寧に向き合ってやりたいという思いも僕の中には育ち始めていた。
 だが、その思いはひと月も経たないうちに裏切られることとなる。
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