第7話

文字数 2,295文字

 それからしばらく座り込んでいるうちに、僕は最悪なことに気が付いた。
 早見に貸していた原稿のことだ。他の本はともかく、あれだけは返してもらわないといけない。
 舌打ちしたいのをこらえて、僕はのろのろと机に伏せていた身を起こす。とはいえ、早見が出ていってから数十分経った今から追いかけても、奴に追いつけるわけがない。いつの間にか降り始めていた雨も、僕に諦めろと言っているようだった。
 今度顔を合わせた時でもいいかと思ったが、もうすぐに夏休みになってしまうということを思い出し、結局舌打ちをする。原稿自体が惜しいというよりも、あいつが僕のものを手元に置いているという状態が嫌だった。
 何もかもを返してほしい。原稿そのものだけではなくて、僕があいつにかけた言葉もすべて。そんなこと、できやしないけど。

 僕はあれだけ早見と時間を過ごしていたのに、連絡先さえ知らなかった。早見がスマートフォンを使っているのは仕事の連絡の時だから声をかけづらかったというのもあるが、そんなに親密に連絡をとらなくても僕らは上手くやっていけていたからだ。今となっては、それが良かったのかどうかも分からないが。
 椅子から立ち上がったところで、取るべき行動が決められない。とりあえず倉庫を出るべきだとは思うのだが、その後僕はどこに行けばいいのだろうか。中途半端に戸を開けたままで立ち尽くしていると、遠くからゆっくりと足音が近づいてくるのが聞こえた。
 まさか早見が引き返してきたのかと僕は身を固くするが、その考えはあっさりと裏切られる。

「油木、またここにいたのか。明日から夏休みなんだぞ、今日くらい早く帰ったらどうだ」
「……須田」
「あのなあ、先生くらいつけろって」
 その言葉に僕は無意識に拳を握り、そんな自分が嫌になる。元から先生なんて呼ばれる身ではなかったのに。
「いや、そんな話は後だ。お前、早見がどこにいるか知らないか?」
「……知らないよ。僕はあいつの友達でも何でもないんだから」
 自分で言ったことなのに、胸の奥が爪でひっかかれたように痛む。けれど須田は、僕よりもさらに深く眉間にしわを刻んでいた。

「……早見にな、カンニングの疑惑がかかってるんだ」
「え?」
「正確に言うと、疑惑じゃないな。なにせ、本人が自白してきたんだから」
「どういうことだ?」
「ついさっきのことだ。真っ青な顔をした早見が職員室に駆け込んできて、今までのテストで自分はカンニングをしてるって言ってきたんだ。しかもその後、詳しいことを聞く前にどっかに行っちまった。お前なら居場所を知ってるんじゃないかと思ったんだが……」
「……なんだそれ。裏切ってたのは僕だけじゃないってことか」

 ため息交じりに吐き出した言葉は、自分でも思ってたより強く自嘲の色が滲んでいた。
「学校としては詳しく早見に事情を聴かなきゃならんのだが……ここにいないとなると、例の友達のところか」
「……? あいつ、モデルの仕事だって言ってたはずだけど」
「モデル? ……油木、何か勘違いしてるんじゃないか? 早見はこの学校に入学する前に、芸能活動はやめているぞ」
「なんだって? だったら、あいつはなんで授業を抜け出したりしてたんだ」
「詳しくは知らんけどな、入院中の友達のところに通ってるらしいぞ。本来ならそんな勝手な行動は許されんが、早見は成績が良かったから黙認してるんだ。それに、友達の状態もなかなか難しいらしいからな。面倒見がいいもんだよな」
「でもあいつ、僕にはずっとモデルの仕事があるって忙しそうにしてたんだけど……」
「……何か妙だな。油木、早見に連絡してみた方がいいかもしれん。職員室まで来てくれるか?」
 嫌な予感がする。早見が僕に嘘をついた理由と、突然告白されたカンニング。そして、何度も何度も、執拗なくらいに鳴っていた電話。例えば、それが何かの狙いに沿って引き起こされていることだとは考えられないだろうか。
 僕は胸騒ぎを抑えつつ、須田に連れられて職員室へと向かう。緊張感の漂う職員室で、僕は須田から渡された緊急時の連絡先を見つつ、番号を打ち込む。数コールの後、電話はつながった。
『……はい』
「早見か? 僕だけど」
『……先生?』
 電話の向こうの早見の声は、砂を落とすようなノイズ交じりで、どこかか細く震えていた。まるで早見じゃない誰かと話しているみたいだ。でも、僕を先生と呼ぶ人間なんてこの世でお前しかいない。
”現在地を聞け。なるべく落ち着いたように振る舞え”
 須田が僕にメモを見せた。その字は、あれだけ几帳面な板書をする人間とは思えないほど乱れていた。
「お前、早見なんだよな? 今どこにいるんだ?」
『ごめん、先生』
 質問には答えず、早見は静かに謝った。その声に被るように、部活動の終了時刻を告げるチャイムが鳴った。電話口の向こうからも、同じ和音の響きがかすかに聞こえている。
『遺書の練習は、もう十分だ。俺は今から、死ぬことにした』
「早見!?」
 次の瞬間、通話は終了した。すぐにかけ直すが、聞こえるのは無機質な呼び出し音だけだ。最悪の想像が脳裏によぎり、僕は恐る恐る須田の顔を見上げる。

「……今、通話の向こうでもチャイムが聞こえた。まだ早見は校内にいるんじゃないか」
「どこだ!? 教室か!?」
「いや、違う……人の声はしなくて、代わりに雨の音が聞こえていた。とすれば、校庭……いや、違う。屋上だ!」
「……!」
 須田と僕は同時に同じ結論に達して、目を合わせて頷いた。
「ちょ、ちょっと、須田先生? 今の通話は……」
「詳しい話は後だ!」
 背中からの声に須田が吼えて、僕らはただがむしゃらに走り出した。
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