第3話

文字数 4,511文字

 一晩寝ても、早見みたいな華やかな人間とあんなに会話したことが信じられない。昨日のことは何かの間違いではないかと思ったが、早見は翌日の授業が終わると、さっそく僕の机へと寄ってきた。
「先生、昨日忙しそうにしていたのはもういいのか? だったらさっそく、俺の……」
 まるで前からの友人みたいに、早見は親し気に話しかけてくる。当然のことだが、四月からここ数ヶ月、僕のような陰キャと常に人の輪の中心にいる早見に、一切の交流はない。それが一変したことを不審に思っているのか、クラスの奴らの視線が僕ら二人に突き刺さっているのを感じる。
「っ……おい、僕は職員室で用を済ませてから向かう。お前は先に行っていろ」
「え? でも……」
「うるさい。分かったな」

 早見の返事を待たず、僕は自分のカバンをひっつかんで教室を逃げ出す。早見も授業中からちらちらと僕のことを気にしているのには気づいていたが、まさか教室でいきなり話しかけてくるとは。
 もちろん向かう先は職員室ではなく、例の倉庫だ。昨日書いていた原稿はまるっと没にして、早見の話を聞きだして新しい小説を書き始める予定だった。
 僕は一段飛ばしに階段を駆け上がると、そのままの勢いで倉庫に駆け込む。閉じた扉を背にしてしばらく息をついていると、ためらいがちなノックの音が聞こえた。
 僕は曇りガラスの向こうの背の高い影を確認してから、扉を開く。

「……お前、誰か余計なのを連れてきたりしてないだろうな」
「いや、一人だが……先生、用は済んだのか?」
「あんなの人目を避けるための嘘に決まってるだろう、馬鹿者」
 早見は僕の言っていることが本気で理解できないようで、首をひねりながら倉庫に入ってきた。
「どうしてそんな嘘をついたんだ? 」
「あのな、お前みたいに目立つ奴が僕なんかに話しかけたら、そりゃクラスの奴だって妙に思うだろ。人気者に媚びてるつもりか、なんて因縁をつけられたら、たまったもんじゃない」
「人気者なんて……急に褒められると照れるな。だが、先生の言うとおりだ。俺の配慮が足りなかったな、すまない」
 と、早見は驚くほど素直に僕に頭を下げた。こいつに陰キャの自意識が理解できるわけがないと思っていたのに、あっさりと非を認められると、きつく言い過ぎたかと思ってしまう。僕は気まずい気分を味わいながら、乱暴に椅子に腰かけた。
「とにかく、教室とか人目がつくところで僕に話しかけるのは控えてくれ。悪目立ちしたくないんだ」
「ああ、先生が言うなら従おう」
「よし、じゃあさっそく本題に入るぞ。お前の書いた遺書とやら、一通り読ませてもらった」

 と、僕は昨日あずかった封筒を早見に手渡す。もちろん中身はコピーを取って、PDFもPCに保存済みだ。
「おお、どうだっただろうか? 俺のパッションは伝わったか?」
「そんなわけないだろう馬鹿者。あんな読みづらい文章、僕だって頼まれてなければ一行目で投げ捨てていた」
「そんな……!」
 にべもなく答えると、早見はがっくりと肩を落とす。僕からすれば、あんなに読みづらい文章なんてわざと狙って書いたのかと思ったくらいだ。だが、こいつにとっては本気だったらしい。
「お前、たしか成績はいい方だっただろう。国語だけ極端に悪いとかなのか?」
「まさか。この早見薫に苦手科目など存在しないさ。前回の模試だって校内三位だ」
「なんだと!? 僕より上じゃないか!」

 何でもないことのように言われた早見の順位に、僕は思わず目を剥く。
 この学校は、県下ではトップを争う進学校だ。毎日の課題も定期テストもかなりのボリュームと難易度があり、生半可な努力で上位に入れるものではない。
 成績優秀だという噂は聞いていたが、そこそこ真面目に勉強している僕よりも上だとは。
「それにしても、先生は俺のことに詳しいんだな。なんだか照れるな」
「嫌味か貴様……こんな完璧超人、噂にならないわけがないだろ……っていうか、噂の方が控えめなくらいじゃないか……」
 うめくように答えながら、僕ひそかに納得していた。
 芸能活動をしているというだけでも一般的でないのに、そのうえ成績優秀で人格にも大して問題がないと来れば、教室の中にいる奴らとは話なんか合わないだろう。身の回りの人間が劣っていて、自分だけが特別なのだと思う気持ちもわかる。その特権意識とある種の孤独が、軽い自殺願望に結びついているのではないか。
 だからといって、僕の好奇心を手加減してやるつもりはないが。

「俺としても国語は得意なつもりなのだが、文章を書くとなるとなかなか思うようにはいかない。ましてや、それが人生で最後に残す言葉になると考えると筆が止まってしまってな」
「なるほどな。そういえば、昨日言ったものは持ってきたか?」
「もちろんだ! 言われた通りにたくさん持ってきたぞ、先生!」
 早見は満面の笑みを浮かべて、机の上に大量の紙をぶちまけた。
 騒々しい動作のせいで埃っぽい空気が巻き上げられた気がして、僕は思わず顔をしかめる。
「すごい量だな、これは」
「だって、多い方がいいと言ったのは先生だろう」
「まあ、そうだけどな。っていうか、その呼び方やめろよ。なんか気恥ずかしい」
「なぜだ? 教えを乞う側が敬意を表するのは当然のことだろう」
 揶揄する様子もなく、早見は僕の不平をさらりと受け流す。敬意なんて男子高校生の口からは滅多に出ない言葉だが、王子様のような見た目の奴が言うと、妙に様になるから腹が立つ。
 僕はその苛立ちをごまかすように、紙束の上から適当に何枚かを手に取った。ルーズリーフを埋め尽くすように書かれているのは、流れるような美しい文字だ。書いてあるのが小学生の作文以下の文章でなければ、いくらか見ごたえもあるのに。

「それにしても、まさかこんなに失敗作があるとは思わなかったよ。これだけ書くのにどのくらいかかったんだ?」
「人に見せるのなんて初めてだからな! つい気合が入って、書きすぎてしまった!」
「書きすぎたって……これ、今までに書いてきたものじゃないのか?」
 僕は昨日の帰り際、早見に今までに書いた遺書を持ってこいと言った。あの口ぶりならば、間違いなく僕に見せたもの以外にもいくらか書いたものがあるだろう。書いた時期が古いものほど、こいつの弱みになりそうな痛々しい文章が拝めるかと思っての提案だったのだが。
「ああ、先生に見せるのにあまり昔のものを引っ張り出しても意味がないだろう? 微力ながら、俺にできる最善を尽くさせてもらった」
「そ、そうか……」

 早見が得意げに持ってきたルーズリーフは、ざっと見ただけでも五十枚はありそうだ。ちなみに僕の経験から言うと、四百字詰めの原稿用紙を十枚埋めるのに丸一日はかかる。手書きでこれだけの量を書くのは、生半可な気持ちでできることではない。僕から見える態度がどうあれ、こいつの自殺願望はある程度熱の入ったものなのだろう。と言っても、どうせ死ぬことをリアルに考えてるわけではないのだろうけど。
 黙り込んだまま考えていた僕をどう思ったのか、早見は急に自信に満ちた笑みを引っ込め、顔を伏せる。
「……やはり、先生から見れば程度が低いものだっただろうか。これでも努力はしたつもりなんだが……」
「え? あ、いやいや」
 しまった、ここで早見の自信を無くさせるのは得策ではない。もっと僕を信頼させて、いろいろと打ち明けてもらう方が都合が良いのだから。僕は失策を挽回するため、咄嗟に言い繕う。

「感心してたんだよ。よくこれだけ書いたものだなと思って。うん。確かに改善の余地はちょっと……結構……かなりあるけど、その情熱は立派なものだよな、うん」
 ぽかんと口を開けた後、きまり悪そうに視線を逸らす。なんだろう、そんなに変なことを言ったとは思えないんだけど。
 早見はそのまま何度か口を開け閉めした後、
「そう褒められるようなことじゃないよ、こんなもの……」
 と、小さな声で呟いた。
 なんだ、これくらいのお世辞で照れているのか。モデルなんかやってるくせに、案外うぶな奴だ。っていうか、さっきと言ってることが矛盾してるような気もするが。
「まあ、最初は誰だってこんなもんだろ。お前だっていいものを書くために僕から指導を受けるって言ってたじゃないか」
「ああ、うん。そうだったな」
 と次に顔を上げた時には、元通りの自信に満ちた笑顔が浮かんでいた。褒められると自信をなくし、慰められると元に戻るなんて、変な奴だ。

「で、お前の文章を読んだ感想なんだが」
「ああ、手加減なく頼む」
「感覚的な描写が多すぎる気がするな。自分がどう思ったか、どう感じているかでほとんどが埋まっている」
「しかし、この遺書は俺が言いたいことを残すためなのだから、それが当たり前ではないか?」
「だとしたら、この書き方じゃ逆効果だよ」
 僕は文字で埋まったルーズリーフを一枚取り上げ、該当箇所にペンで線を引きながら話を進める。
「『今の生活に満足している』『悩みはない』『俺は幸福だ』……これは全部、お前の感情の話だ。それはそれでいいんだが、お前がそう思う理由がほとんど書かれていない。これじゃあ、読んでいる側にもお前の気持ちは伝わらないだろう」
「なるほどな、理由か……書いているときは伝わりやすさなど考えたこともなかった。とても参考になる」

 僕としては当たり前のことを言っただけのつもりだが、早見は重要なアドバイスを受けたかのように、目を閉じて深く頷いている。
 こんな適当な助言にそこまで感心されると、ひよこの爪の先くらいにはある僕の良心が痛まないでもない。しかも、僕が今からやろうとしているのは文章能力向上のための指導なんかではないのだから。
 それでも、ちっぽけな罪悪感ごときで僕の好奇心は止められない。
「だが、いきなり具体的に自分の感情の理由を書いてみろといってもなかなか難しいだろう。そこで、今日の宿題だ」
 と、僕は用意しておいたものを早見に手渡した。
 用意といっても、B5の紙を何枚かテープで繋げて、横に一本直線を引いただけだが。線の一番右端には「0歳」、左には「現在」と書いてある。

「先生、これは……?」
「それを年表に見立てて、自分が生まれてから今までの簡単な自分史を書いてみろ。思い出をさかのぼっていくうちに、嬉しかったことや悲しかったことも思い出せるだろ? 遺書にはそれを細かく書けば、自然と分かりやすい文章になる」
 というのは建前で、これももちろん早見の黒歴史を確認するためのものだ。いくら今が輝かしい立ち位置をお持ちだからと言って、過去を振り返れば恥ずかしいことはいくらでもあるだろう。どうせなら、全部僕にさらけ出してもらおう。
「これを埋めていけば、よい遺書が書けるようになるのか?」
「も、もちろんだ。言っておくが、聞こえのいいことばかり書くんじゃないぞ。ありのままを書かなきゃ練習にならないからな」
「……ああ、分かった。どこまでできるか分からないか、書いてみる」
 神妙な顔で頷き、早見はセロテープだらけの不格好な年表を大事そうに折りたたむ。
その時、妙に明るい電子音が狭い倉庫の中に響いた。
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