第6話

文字数 2,679文字

 驚いたことに、早見は翌日すぐに本を返してきた。
 よほど肌に合わなかったのかと思ったらその逆で、面白くてページをめくる手が止まらなかったらしい。興奮して長々と感想をまくしたてる早見はなかなかの見ものだった。僕は乞われるまま、さらに何冊か本を貸した。
 早見はそのすべてを、数日のうちに読み終わって僕へと返した。なんでも、モデルの仕事は待ち時間が多いから読書には向いているのだという。
 僕が貸したのは、最初の一冊をはじめとしてどれも自分が特に気に入っているものばかりだ。これまで僕は、自分が好きなものを誰かと一緒に楽しむ経験なんてしたことがない。だから、僕が勧めたものを早見が読んで、感想を言ってくれるのが嬉しかった。僕もある意味、『生徒』の成長ぶりに舞い上がっていたのだろう。
 そんな早見の嘘を信じこみ、親しくなったとさえ勘違いしていたのが、何よりの間違いだったのだと思う。

 そんなやり取りが何回か続いて、一学期ももう終わろうかという頃になっていた。つまりは、期末テストの時期だ。この読書修行もテスト期間は休みにしていたから、早見と話すのは一週間ぶりのことになる。
 ようやくテストの山から解放されたはずなのに、倉庫に向かう僕はいつになく緊張していた。それはやはり、早見に貸した本に理由があった。正確に言えば、まだ本にはなってないものだからだ。
 僕はこのテスト期間に入る前に、早見に自分が書いた小説を押し付けた。原稿用紙にして三十枚ほどのそれは、今まで僕が書いた中で一番自信があるものだった。驚いた様子の早見に、感想はテストの後で聞かせろ、とだけ言って僕はその場を逃げた。
 書きかけのものを見られたことはあるが、最初から最後まで仕上げたものを見せるのは始めただ。いったいあいつは、どんな言葉を聞かせてくれるのだろうか。恥ずかしくなるくらいの言葉で褒めたたえられるのか、いや、意外と厳しく批評してくれるのかもしれない。どちらにせよ、早見の感想を聞くのが待ちきれなかった。
 不安と期待で手のひらにびっしょりと汗をかきながら、僕は倉庫の扉を開く。中に電気がついていたから、先にいるのは分かっていた。長い足を組んで何かのプリントを見つめていた早見は、ノックもせずに戸を開けた僕を見て慌てて立ち上がる。その膝から落ちた紙を何の気なしに拾った僕は、驚きに目を見開いた。

「これ……ブログ?」
「先生、それは……」

 早見が読んでいたのは、何かのウェブサイトをプリントアウトしたものだった。書かれている内容からして、どうやら個人の感想サイトらしい。そしてその記事がレビューしている本は、僕が以前に早見に貸したものだった。
 記事の中のいくつかの言葉には、几帳面に赤い線が引かれている。その単語や文章は、早見の口から僕が聞いたものと寸分たがわず同じだった。

「なんだこれ……お前、ブログなんかやってたのか? ……って、はは、そんなわけないよな」
「……先生」
「僕が貸した本を読むの、そんなに面倒だったか? だったら言えよ、誰かの感想なんか猿真似する前に!」

 僕は怒りに任せて、薄っぺらい紙を丸めて地面にたたきつける。
「先生! 話を聞いて……」
「うるさいっ!」
 感情のままに怒鳴りつけると、早見が息を呑む音が聞こえた。僕がこんなに怒るなんて思ってもみなかったのだろうか。だとしたら、僕もずいぶん侮られたものだ。
「……お前、よくやったもんだな。僕を馬鹿にするのが、そんなに面白かったのか?」
「違う先生、俺は……」
「何が違うんだよ! お前はずっと、文章が書けない阿呆のふりをして僕をからかってたんだろ! こんなことまでして、僕を調子に乗せるのが目的だったんだ、違うか!」
「……」
 僕が発した言葉は、狭い室内にわんわんと響いて吹き溜まる。相手が何も言い返さないのが、さらに苛立ちを加速させていく。
「ああ、なるほどな! 人気者の早見薫様には、友達もいなけりゃ賢いわけでもないくせに孤立している僕のことが、そんなに珍しかったわけだ! 適当におだてて話を合わせながら、僕の観察日記でもつけるつもりだったのか! 恥ずかしくないのか、この嘘つき野郎め!」
 それはまさしく、僕が早見相手に行っていたことだった。自分のことは棚に上げておきながら、被害者意識だけを募らせて相手を糾弾している。その身勝手さを自覚しながらも、僕の口は止まらなかった。
 ひとしきり言いたいことを吐き出しても、まだ胸の中の苛立ちは収まらない。次に何を言えばこいつを傷つけられるか、どうすれば貶められるかと考えていると、早見がゆっくりと口を開いた。
「先生だって、嘘をついてるだろう」
「なんだと?」
「俺に聞こえのいいことばかり言って、心の中では俺を馬鹿にしてるじゃないか! 気がつかないとでも思ってるのか!?」
「……っ!」
 言い返さなかったのは、早見の言葉を認めてしまったのと同義だった。僕の方だって、確かに早見を下に見ていた。それでも、いい奴だと思っていたのに。友達だと、思っていたのに。

「お前に……お前に何が分かるんだ! 僕がお前のことをどう思ってたか、何も知らないくせに!」
 叫びながら、僕は自分の視界がにじんでいくのを感じていた。そこには、怒りだけではなく裏切られた悲しみも確かに混じっていることを認めずにはいられなかった。
「僕がお前と仲良くなったと勘違いして、舞い上がってるのを見るのは楽しかったかよ。お前は何でも持ってるくせに、馬鹿にするんじゃない!」
「……先生」
「やめろよ、その呼び方!」
「……すまない」
  からかわれるのには慣れていると言ったのは事実だ。誰に何を否定されても、僕自身が傷つくことはないと思っていた。一番許せないのは、心を許しかけた自分と、その相手を利用してやろうと思っていた自分だ。
 僕の荒い呼吸だけがうるさく聞こえる中に、場違いなくらいに陽気でチープなメロディが鳴り響いた。何度も聞いた、早見を呼び出す着信だ。
「……行けよ」
「先生……」
「もういいよ。お前と僕は、最初から違う世界の人間なんだ。安心しろよ、言いふらしたりしないから。ただ元の他人同士に戻るだけだ」
 早見は何も答えない。その間も、着信音は途切れずに早見を呼び続けている。繰り返される明るいメロディは、こんなところに引きこもるしかできない僕に立場の違いを思い知らせるようだった。
「……ごめん」
 もう一度だけ謝って、早見は倉庫から出ていった。
 足音が遠ざかっていくと同時に、倉庫の中には静寂が訪れる。まるで、世界中から見捨てられたみたいな気分だった。
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