第8話

文字数 3,807文字

 廊下を走りながら、須田は早口で話す。
「昔、俺の友人に早見と似た奴がいたんだ。明るくて友達が多い男だったんだが、冗談みたいに『死にたい』っていう奴でな。俺も本気で取り合わなかったんだが、ある時信号無視してトラックに飛び込んじまった」
「……」
「それで死ぬことはなかったんだが、大きな後遺症が残ってな。俺はその時、心の底から後悔した。だからもう、手が届く奴を見逃したくないんだ」

 職員室を出て階段に差し掛かった時、須田は僕を引き留めて向き直った。
「油木、お前はここで待っていなさい。後は教師に任せろ」
「駄目だ。僕が行かなくちゃ意味がない」
「油木!」
「今あいつを説得できるのは僕だけだ。あんたが行けば、余計にあいつを刺激することになる。そうだろ?」
「……っ」
「……僕が時間を稼ぐから、先生は下で準備をしてほしい。万が一のこともあるから」
 その『万が一』が具体的にどんなことを指すのかは、お互いに言わなくても分かっていた。
「……学校中からマットを集めてくる。お前も無茶はするなよ、頼むから」
「当たり前だ!」
 須田が頷いたのを見て、僕は屋上へと続く階段に足をかけた。さっきから須田の携帯からかけ直している電話番号は、なぜかずっと通話中のままだ。だからきっと、まだ間に合うはずだ。

 屋上へ続くドアは、僕の確信を裏付けるようにわずかに開いていた。
 それをタックルするような勢いでぶち破る。屋上に降る雨は、想像していたよりもずっと強かった。天から落ちる水で霞む屋上のフェンスの向こうに、見慣れた長身が立っている。
「……早見っ!」
「やあ、先生。来てくれたのか」
 早見は振り返り、フェンス越しに僕へ向かって微笑んだ。いつも通りの、百万人の好みを完璧に計算しつくしたみたいな、非の打ち所がない笑顔だ。
「お前……なんでこんなこと……!」
「何度も言っただろう。俺は自殺しなければならないんだ。しかも、人生の絶頂にあるときに」
「嘘をつくな! お前、今が人生の頂点なんかじゃないだろう!? モデルはとっくにやめてるし、カンニングも自白したんだぞ! 今のお前の評判は、最悪といってもいいくらいじゃないか!」
 叫びながら一歩近づくと、早見は少し驚いたみたいに目を開いた。そしてすぐに、美しい瞳を歪ませる。それは、僕が初めて見る表情だった。
「そんなことまで知っているのか。だとしたら、俺が死ななければならない理由も伝えなければならないな」
「理由なんか知ったことか! お前の遺書は、まだ一度も完成してないだろう! 中途半端なまま投げ出すなんて、僕はそんなことを教えたつもりはない!」
「いいや、もう十分さ。ちゃんと完成原稿は用意してきた」

 早見は眉を下げて笑うと、懐から折りたたまれた紙を取り出した。それが雨に濡れるのにも構わず、広げて朗々とした声で読み上げる。
「前略、親愛なる現世の皆様。この私、早見薫は私生活のストレスと芽が出ない芸能活動の心労から、カンニング行為を行いました。今まで私が取ってきた成績の全ては、不当な行為によるものです。これでは世間の皆様に合わせる顔がないので、死んでお詫び申し上げます。以上」
 舞台役者のように堂々と読み終えると、早見はそれを丁寧に織り畳んで差し出した。僕に受け取れと言っているように。
「さあ、先生。俺の最後の宿題だ。きちんと採点してくれるよな」
 奇妙なほどに落ち着いた早見の声に言いようのない不安を覚えながらも、僕は早見へ向かって歩き出した。フェンスをよじ登って降り立った向こう側の足場は、幅にして五十センチもない。小柄な僕でさえ立っているのがやっとなのに、早見が真っすぐ立っていられるのが不思議だった。

「……本当に来てくれたんだな。嬉しいよ、先生」
 しかし、僕は早見が差し出した遺書を受け取りはしない。
「どうしたんだ? 安心してくれ、道連れになんてするつもりはないよ。まさか、俺を疑ってるのか?」
「いいや、お前はそんなことをする奴じゃない。それどころか、お前には自殺なんてできっこない。お前みたいに臆病で、そのくせ自尊心だけは人一倍強い奴に」
「……それはどうかな」
 わざと挑発するように顎を上げた早見を無視して、僕は続ける。

僕を道連れに自殺してみろと言うんじゃないか?」
「……っ!?」
 その時初めて、余裕に満ちた笑みを浮かべていた早見の顔が崩れた。その表情はすぐに元通りに取り繕われるが、それでもどこかほころびがあるように見えた。
「すまない、先生。何を言ってるか分からないな」
「……最初から不自然だとは思っていた。お前みたいなやつが自殺したいと言い出す理由もそうだが、何よりお前は、何もかもができすぎる。芸能活動をしながらこの学校で成績上位をキープするなんて、生身のまま空を飛ぶより困難だ」
「だからそれは、カンニングで……」
「それもある程度は事実なんだろうな。だが、成績はカンニングだよりだとしても、一晩で遺書のプロトタイプを何十枚も書いたり、自分史を細かく書くなんて、普通に考えたら不可能だ。


「……!」
 雨を煽る風が強く吹き、思わず僕はフェンスを掴んでしまう。けれど早見は、強く僕をにらみつけたままだった。まるで、視線だけで僕に縋りつこうとしているかのように。
「どうして遺書の書き方を教わるなんて方法を思いついたのかは分からない。だが、予測はできる。名誉を貶めて自殺させたいほど憎い人間がいるなら、その罪を効果的に知らしめなければ意味がない。僕みたいに友達がいない奴なら、少し優しくすれば簡単にお前のことを信じるだろう。その上で怒らせて目の前で自殺してやれば、きっと早見薫の悪評を触れ回ってくれると思ったんじゃないか」
「……違う。これは全部、俺が自分で考えてやったことだ」
「そう言えって言われてるのか?」
「違う……!」

 胸ポケットを抑えながら、早見は弱々しく僕の言葉を否定した。
「全部俺が悪いんだ! 俺が最初に植村に話しかけたから……! そんなことでいじめが始まるなんて思わなかったんだ! だから、植村が学校に行けなくなったのも、自殺未遂をしたのも俺のせいで……俺は責任を取らなくちゃいけなくて……!」
「……ずっとそう言われてたのか。その植村ってやつに」
 僕はフェンスから体を離すと、それを手がかりにしながら早見に近づく。早見が後ずさろうとするのを捕まえて、その胸に顔を寄せた。
「おい、どうせ聞いてるんだろう! いいか植村、お前の計画は失敗だ! すでに教師が動いて、僕らの足元にはマットが準備されてる! 今から飛び降りても死にやしない!」
「……えっ」
 早見は視線を落とすが、地上ではまだマットが数枚運ばれただけだ。まるっきり嘘ではないが、ただでは済まないだろう。
 だが、そんなことはこそこそと音声を聞いているだけの相手に分かるはずがない。そして、僕がどれほど怒っているかも。
「それにな、僕はお前の思い通りになんかならない! 早見がどんな遺書を残しても、僕に見せた態度が全部偽物だったとしても、僕は本当のことを話し続けてやる! こいつは僕を、勇気がある人間だと言ったんだ! その言葉で、僕は確かに救われたんだ! 世界中の誰がこいつを悪く言おうと、僕は証明し続けてやる! こいつの、僕の友達のおかげで、僕は胸を張っていられるんだって!」

 僕はきっと通話がつながっているであろう、早見の友人に向かって叫ぶ。そいつは、学校にいるべき時間でさえ早見を呼びつけずにはいられなかったような自己主張と支配欲の強い人間だ。そんな奴が、自分が描いたクライマックスを監視しようとしないはずがない。
 だからこそ、僕はここで立ち向かわなければならない。
「勘違いするなよ、僕は作者であって役者になった覚えはない! お前の書いた三流シナリオに従ってたまるものか!」
 胸倉を引っ張って、半分ポケットから顔を出したスマートフォンに向かって僕は叫んだ。途中からは、僕は植村よりも早見に怒っていたのかもしれない。いくら植村の思惑を暴こうと、早見がそれに従うつもりならば、僕にはどうすることもできない。逆に言えば、早見次第でこの状況は簡単に解決してしまうのだ。早見が、そいつのいいなりになるのを諦めてくれれば。

「……お前もだ、早見。そいつに従って、そいつのために死ぬのはやめろ。お前が死んだところで、償いなんてできるわけがない」
「……じゃあ、俺はどうすればいいんだよ……俺はどうやって植村に償えばいいんだ……」
「反省文の書き方を教えてやる。それでも駄目なら、僕だってそいつのところに行って頭を下げてやる。僕の生徒の不手際は、僕の責任だ」
 早見はそれでも、握りしめたままの遺書を手放さない。その瞳が、僕と何もない宙の間をふらふらと揺れている。
 最後の選択ができるのは、早見だけだ。僕はその前で祈ることしかできない。
 その時、雨に紛れて小さな声が聞こえた。

「……だ」
「……えっ?」
 早見は慌てたように胸ポケットを探り、小さな端末を耳に当てた。そして、あっけにとられたような視線を僕に向ける。
「……興ざめだ、って。植村が」
 その瞳が泣きだしそうに歪んだ。力なく開かれた早見の左手から、濡れてぐしゃぐしゃになった紙が一枚、風に吹かれて飛んでいく。それを見て、僕は自分でも知らずと微笑んでいた。
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