第2話

文字数 10,533文字


夢喰いバク
味気ない夢


 人は、自然の悪を知ることを学んで死を軽蔑し、社会の悪を知ることを学んで生を軽蔑する

シャンフォール





































































           第二品 【 味気ない夢 】







































  「いや~、先日の会議での発言、感動しました!」

  「ハハハ、いやなに、大したことではないよ」

  「増税の話、私も賛成ですよ。だいたい、国民のために集めているというのに、なぜあれほどに叩かれなければいけないんでしょうね。良く頭を使えばわかることではありませんか」

  「世の中金だ。どんな名声や権力よりもお金で人を左右出来る。金以上に簡単に扱えるものがあるかね」

  男たちの下卑た笑い声が響く大理石の廊下。

  三人の男たちは皆立派なスーツを身に羽織っており、特に真ん中にいる男は、ビシッと着こなしたスーツの裾から金色の時計をのぞかせる。

  ひときわ目立つその時計は、ざっと軽く見積もっても100万円以上する高価なものだと分かる。

  ネクタイも綺麗にアイロンがかけてある、もしくは新品のものであろうほどにシワ一つない。

  「神田議員、今後ともよろしくお願いします」

  「ああ、わかってる」

  二人の男が離れていくと、一人残された男は、朝入ってきた裏口から自分の住んでいる豪華な家へと帰って行く。

  通常の家の二倍はあると思われる立派な家の玄関には、番犬であろうドーベルマンが二匹うろうろとしている。

  オートロック式のドアを閉めると、ピカピカのフローリングが目に入る。

  リビングに向かうと、必要以上の大きさのソファに上着を放り投げる。

  家のあちこちにはセキュリティシステムが設置されており、侵入者はネズミであろうと入れそうにない。

  神田守、今年で五五になる国会議員である。

  元は自営業でレストランを経営していたが、どういう経緯があってか、国会議員の選挙に出ることになった。

  地元の人達から慕われていたため、予想以上に票を獲得出来、初出馬で初当選をした。

  しかし、それは五年も前のことである。

  税金は決して上げない、一般人の味方を謳い、金には呑まれないと豪語していた神田だが、今ではその面影すら残っていない。

  「律子、律子!」

  「どうしました?貴方」

  「正人は大学どうなんだ?」

  「それが・・・」

  神田の妻、律子は神田と大学のときに知り合い、卒業後結婚した。

  正人という男児にも恵まれたが、政治の世界に入ってからというもの、神田は律子にも正人にも、以前ほど関心を示さなくなっていた。

  気になっているのは体裁ばかりで、本人のことではない。

  正人は小さいころから野球が好きで、小学生から高校、ずっと野球一筋で頑張ってきた。

  その努力もあってか、幾つかの大学からスポーツ推薦で誘われているのだが、学力で入れと神田に言われ始めていた。

  厭味ったらしく言う神田が正人は大嫌いで、今ではほとんど顔を合わせない。

  「まったく・・・。政治家の息子が三流大学なんて笑われないよう、お前もしっかり正人のこと見てろ。まさか、まだ野球を続けているんじゃないだろうな」

  「それは・・・」

  「すぐに辞めさせろ!あんなもの、役に立たん!」

  ガチャ―・・・

  そっと開かれたドアの向こう側には、Tシャツにジーパンというラフな格好で立っている、神田の息子、正人の姿があった。

  「正人、いたのか」

  「・・・・・・」

  「丁度いい。そこに座りなさい」

  自分の向かいにあるソファを顎で指す神田を、正人は無視して冷蔵庫へ向かう。

  「正人!」

  「・・・っせーな」

  冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、コップに注ごうとした正人の手首を、神田が強く掴みあげると、自然と二人は睨みあう。

  「野球はもう辞めろ。いいな」

  「・・・なんであんたの言う事なんか聞かなきゃいけないんだよ」

  「俺の言う事が聞けないなら、この家から出て行くんだな」

  「・・・ちッ」

  牛乳とコップを乱暴にテーブルに置くと、正人は神田に掴まれていた腕を振り払い、部屋を出ていった。

  ダン!ダン!と苛立ちをぶつけるように階段を上って行くと、バタン!と力強くドアを閉める音が響いた。

  「正人の気持ちも分かってあげてください。今まであんなに頑張ってきたのに・・・」

  「そもそも、お前がしっかりしないから、正人があんな風になったんだろう!」

  律子に怒鳴りつけると、神田はネクタイを緩めながら部屋を出ていった。

  階段を上がると、正人の部屋とは真逆の方向にある自分の部屋へと向かい、一人用にしては大きいソファに腰掛けた。

  神田の部屋に置いてある大きなテレビを点けると、芸能人が亡くなったというニュースや、スキャンダル、どれも同じ顔に見える少女アニメなどが流れる。

  そのテレビの音をBGMにしてしばらく目を瞑っていた。

  そのころ、正人は一人部屋で黙々ととある作業にとりかかっていた。

  修学旅行のときに使ったドラムバッグを広げ、その中に洋服やら日用品やらを乱雑に放り投げていく。

  野球の試合で使った帽子やユニフォーム、何かの大会で優勝したときのトロフィーにメダル、友人たちと撮った記念写真。

  すべてが否定されてしまったようで、正人は悔しそうに下唇を噛みしめる。

  荷物を詰めたのはいいものの、行くあてが見つからなかったため、正人はベッドに腰をおろして両手を絡めて額につけた。

  「正人」

  「・・・母さん」

  「本当に出ていくなんてこと、しないわよね?大丈夫、お母さんがもう一度頼んでみるから。ね?野球、好きなんでしょ?」

  座っている正人と目線を合わせるように、律子は両膝を揃えて床につけた。

  「無理だよ。今の父さんじゃ。言う事聞く、優秀な息子が欲しいんだから。野球ばっかりやってた俺はなれないよ」

  息子の部屋でこんな会話がされているとは、呑気にうたたねしている神田にはわかるわけもない。

  リラックスするために目を瞑っていただけだったのが、徐々に眠気に襲われ始めた神田。

  ベルトよりも少し突き出たお腹を気にしつつ、神田は夢の世界に堕ちていった。







  「みろ!ハハハハ!!実に愉快じゃないか!」

  目の前に積み上げられた大量のお札、それは決して神田本人が稼いだものではない。

  所謂“税金”なのだが、増税を実施した挙句に、そのお金を国民の為、国のために使わずに私利私欲のためだけに使おうとしているのだ。

  自営業のときには、一生見ることなど無いだろうと思っていた札束、札束、札束。

  湯水の如く使っても、何度でも溢れてくる、人間よりも信頼できる“お金”を、神田は自分の周りに散りばめた。

  その金を使い、神田は酒を呑み、女と遊び、消えることの無い札束を何度も何度も与えた。

  「キャー!さぁすが先生!!」

  「素敵―!あい、先生だ―い好き!」

  「こらこら、大人をからかうんじゃない」

  「だってー、先生ってばお金いっぱいくれるしー」

  強いのか弱いのかも分からないお酒をぐいぐい呑んで行くうちに、神田は自分の意識が無くなって行くのがわかる。

  「う・・・ん」

  「貴方、どうかしました?大分うなされていましたよ?」

  「いや、なんでもない。それより、何か用か?」

  「夕飯が出来たので、呼びにきただけですけど・・・」

  「そうか」

  よっこらせ、と神田が重たそうに腰を上げようとしたとき、ズボンに入れっぱなしにしていた携帯から、リズミカルな音楽が流れてきた。

  「はい、神田です。はい。はい。ええ、勿論です。では失礼します」

  携帯を切ると、電話中の声のトーンより低くやる気の無い声で、律子に言う。

  「食事は外でしてくる。車の用意をしろ」

  「え?・・・はい」

  詳しいことは分からないが、きっと神田の力を借りたがっている若手議員との食事でもあるのだろうと、律子は大人しく車の手配をする。

  神田を見送ると、律子はため息をついてリビングへ戻った。

  車で約束の場所に辿りつくと、神田は運転手にまた連絡するとだけ伝え、歴史のある老舗の中に入って行った。

  「先生!お待ちしておりました!さ、どうぞこちらへ」

  促されるままに席に座るや否や、神田の前に運ばれた、律子には到底作れそうにも無い御馳走が並ぶ。

  好き嫌いのある神田は、嫌いな人参や枝豆を横に移動させながら、料理を口に運ぶ。

  「先生。今度初出馬する息子の則夫です。どうか、先生のお力添えをお願いします」

  「お、お願いします!」

  ペコペコと頭を下げる、同じ議院とその御子息。

  お酒が運ばれてくると、すぐさま反応して神田の許に向かい、グラスにお酒を注いで神田に呑むように勧める。

  それをぐいっと呑み干せば、意味のわからない褒め言葉が飛んでくる。

  それさえも心地良く、神田は次々に酒を流し込んでいった。

  「で?君はどんな政治をしようと思っているのかね?」

  「は、はい!」

  一見、親の七光りで育ってきたような他人の息子だが、何でもハイハイと親の言う事を聞くところは、正人と違うと感心する。

  ズラズラと今の政治の改善点も含めながらの話は、正直、神田は興味が無かった。

  ようは、自分に従うのか、従わないのか、ただそれだけなのだ。

  「でありますから、今後は・・・」

  自分でお酒を注ぎ足して呑んでいると、則夫が心配そうな表情で神田の顔色を窺い始めた。

  「ああ、実に立派だ」

  「あ、ありがとうございます!」

  半分以上、というよりもほとんど聞いてはいなかったが、適当に褒めて自分の味方につけようと思った神田は、とにかく称賛した。

  「君も呑みなさい」

  神田がお酒を持って則夫に進めれば、遠慮がちにグラスを持って神田に近づく。

  幾らの金を借りようと思っているのだろうか、選挙活動に幾ら資金がかかるかわかっているのだろうか、そんな疑問が出てくる。

  だが、足りなくなれば搾り取ればいい。

  必要性の無いと思われる会食が終わると、神田は運転手を呼んで家へ帰る。

  車のバックミラーには、二人がいつまでも神田を見送る姿が見え、とても滑稽に感じるが笑いは出ない。

  酒のせいでボーッとしている頭が、休憩したいと訴えてきた。

  「着いたら起こしてくれ」

  「かしこまりました」

  あっけなく手放した意識は、暗闇に葬られた。

  暗闇から灯りが現れると、神田はその光に向かって迷わず歩き出す。

  その先に広がっていたのは、数時間前に見た夢よりもはるかに高く積まれたお金で、神田は口角をあげてお金を懐にしまう。

  「一億なんて軽いですな。国の為に、もっと税金をあげる必要があるのではありませんか?」

  「確かに」

  高く積まれたそれらを眺め、神田は淡々と話す。

  国会で増税を説得すれば、議員からは拍手喝采、国民からは感謝の言葉を浴びながらお金を渡される。

  「先生、頑張ってください!」

  「信じてます!どうかこのお金も使ってください!」

  「任せてください。私がこの日本を変えてみせます!」

  この金をどう使っても、私は国民から支持される―・・・

  ニヤニヤが止まらず、神田は自分にたかってくる国民を、心の中では見下しながら、謙虚な姿勢で握手をして回る。

  最後には手を振って家へと着くと、神田は金庫にしまってあるお金を確かめる。

  交通を便利にするためといった道路、もっと日本やその土地を知ってもらおうという試みの箱物、年金や医療代を安くし、国民の支出を抑えるためだと言った将来・・・。

  実行するにはお金がかかり、時間もかかる。

  国民の中でも選ばれた人間なのだから、多少のことは許されるだろうと思い、今まで貯めてきたお金は、決して正規のルートで得たものではない。

  詐欺の様な手口で国民の支持を得、お金だけを得て、実行までには時間と費用がかかると言ってきた。

  「騙される方が悪いんだ。この世には利口か馬鹿か。利口な人間が生き残れるようなシステムになってるんだ」

  金庫に鍵をかけると、神田は誰かに呼ばれている感覚に陥る。

  「誰だ?」

  「・・・い、先生、到着いたしました」

  「ん?ああ、御苦労」

  垂れかけていた涎を手の甲で拭うと、神田は車から下りた。

  チャイムを鳴らせばすぐに律子が出てきて、お風呂にも入らずにソファに横になってしまった。

  「あなた、風邪ひきますよ」

  「五月蠅い」

  律子の言葉など聞かず、神田はものの数秒でいびきをかいて寝てしまった。

  「父さん、変わったよ」

  「正人・・・」

  隣の部屋で寝ている神田に対し、正人はボソッと呟いた。

  正人の正面に座った律子は、そんな息子を見て眉をハの字に下げ、ゆっくりとテーブルの上の料理に目を向けた。

  「早くご飯食べちゃいましょ。明日も早いだろうし」

  「母さん」

  「なに?」

  「・・・なんでもないや。いただきます」

  小さく口を開き、律子に何かを言おうとした正人だったが、その口からは正人の想いが出てくることはなかった。







  真っ暗な世界に立っているのは神田ただ一人。それは嬉しいことなのか寂しいことなのか、神田は特に何も思わずに歩き出した。

  「これは夢か。どうせ見るなら、容姿端麗で気の効く妻に、優秀で融通のきく息子がいてほしいものだな。」

  文句をぶつぶつと言いながら歩いていると、目の前にポツッと灯りが現れた。神田はその光の方へと歩いていく。

  「お・・・」

  そこには、先程自分が言ったとおりの、何処から見ても別人となった妻のような女性と、真面目そうに参考書に目を通す息子らしき男がいた。

  しばらく神田は何も言わずにそこに突っ立っていると、女性が声をかけてきた。

  「あら、貴方。お帰りなさい。今日もお疲れでしょう?お風呂、沸かしましょうか?」

  「ああ、頼む」

  ニコリと微笑む女性に鼻の下を伸ばしていると、隣から声をかけられる。

  「お父さん、お帰りなさい。僕は明日司法試験なので、今日は先に寝ます」

  「そうか」

  丁寧に神田に向かってお辞儀をすると、男は二階へと上って行った。お風呂場から戻ってきた女性は、次に食事の支度を始める。

  淡いピンク色の生地に小さな花が散らばっているエプロンをつける女性は、妻にするには綺麗すぎるほどの美貌を持っている。ごくりと喉を鳴らしていることにさえ、神田自身気付いていない。

  腰ほどまであるブラウンの髪の毛は後ろで一つに縛ってあり、時折落ちてくる髪の毛を耳に欠ける仕草は、妻というよりも女だ。

  平静を装い、神田はソファに腰掛けた。

  「おい」

  「なんです?」

  「・・・いや、なんでもない」

  目の前にいる、文句のつけようのない美人な妻に、神田は自分を見失いそうになる。

  お風呂が沸いたためお風呂に入り、ゆっくりと時間をかけて疲れを癒してお風呂を出ると、同時に鼻を掠める良い臭いがしてきた。

  腰に布を一枚巻いただけの格好でリビングに向かうと、テーブルに並べられた御馳走が目に入る。

  女性は神田に気付き、クスクスと笑いだした。

  「やだ貴方ったら。寝巻くらい着てくださいよ」

  一旦ニ階に上がった女性は、持ってきた寝巻を神田に渡す。それを受け取ると、神田は適当に羽織り、椅子に座った。

  「仕事はどうです?接待も大変なんでしょう?」

  「まあな。どいつもこいつも俺に近づく奴は金目当てだ」

  金色色に輝くスープを一口口に含むと、なんとも言えない深い味わいが喉を通っていく。体の芯まで温まる感覚に、神田はホッとする。

  ゆっくりと夕食を済ませ、寝床につくがなかなか寝付けない。

  原始的に羊でも数えるか、と考えていると、ギィっと部屋のドアが静かに開いた。

  「?」

  重い体を傾けると、そこには細身の寝巻を着ている女性が立っていた。

  体のラインがピッチリと出ており、女性特有の膨らみはしっかりと出ていて、ウエストは細く、太ももはほどよく太い。

  風呂上がりなのか、火照った顔に少し濡れている髪の毛、それも縛っていない。

  「あなた・・・。久しぶりに一緒に寝てもいいかしら?」

  否定する理由などどこにもなかった。自分の布団に入ってきた女性に、神田は少なからずドキドキしていた。

  そっと女性の方に視線を移すと、女性と目が合った。

  「フフ。なんだか、恥ずかしいわね」

  「そ、そうだな」







  そのころ、そんな景色を眺めてリンゴを齧っている男が一人・・・。

  キラリと光る男の瞳は、獲物を目の前にした肉食獣のようで、自然と唾液の分泌も多くなってくる。

  リンゴを芯ごと食べ尽くすと、男は嬉しそうに爪を齧った。

  「クソ不味そうな夢だが、下手物ほど美味いそうだからな・・・。喰ってみる価値はあるかもな」

  ゆっくりと景色に近づいていくと、悪びれた様子も無く景色に向かって唾を吐いた。

  その唾がかかったのか、女性と良い雰囲気になっていた神田の顔には、生温かいものがかかった。

  「どうかしたの?」

  「いや、気のせいか?」

  女性の腰に手を当てて自分の方に引き寄せると、女性の唇目掛けて自分の唇を押しあてようとした。

  しかしその時、美しかったはずの女性が醜い顔になってしまった。

  「・・!?ヒィッ!!!」

  「あなた?」

  「来るな!あっちに行け!」

  そうは言いながらも、神田は自ら布団を抜け出し、一階にかけ下りていった。冷や汗が出てくるのも忘れ、神田は落ち着こうと水を一杯飲む。

  モデルよりも女優よりも綺麗だった女性が、いきなり醜い女性に・・・。自分の身に一体何が起きたのか、いや、夢なのだからそんな高望してはいけなかったのか・・・。

  そんなことを考えていると、徐々に視界が暗くなってきた。

  「せっかくの美人を・・・。まあ仕方ないか」

  「せっかくの美人を、どうしたかったのかな?」

  「なに?」

  暗くなっていく視界の中、ぼんやりと浮かんでいる怪しげな男に、神田は思わず顔を顰める。

  「実際、あんな美人が妻に欲しかった?あんな賢い息子が欲しかった?自分の思い通りに動いてくれる家族が欲しかった?んで、あわよくばあの美人さんとなんかしようとした?」

  「なんなんだ貴様!」

  口角をあげてニヤリと笑うと、男は高らかに笑いだした。

  「これはこれは失礼いたしました!俺はバク。夢を喰う化け物です。しかし、貴方の夢はなんとも淡白だ。美人な妻に優秀な息子、欲しいと願ってもすでに手遅れなものだ!さらに、貴方は税金を私利私欲に使っている・・・。これは果たして法にひっかからないのか・・・?いや、そんなわけないよね?だとしたら、それがバレたら貴方はどうなるのかな?」

  「何を馬鹿な。バレもせんし、その時は妻も息子も道連れだ。あの二人を置いて逃げることだって出来るんだ」

  「ああ、なるほど。最低な夫で最低な父親で最低な人間だ」

  バクに食ってかかろうとした神田だが、その前に自分の意識が遠くなっていくのがわかった。口を開こうにも、手を動かそうにも、脳からの指令が伝わらない。

  手放した意識を必死に探していると、何やら耳障りな音が聞こえてきた。

  「なんだ?」

  重い瞼をなんとか開けると、そこには数人の男たちが神田を取り囲んでいた。

  「神田守だな?」

  「ああ、そうだ。何事だ?」

  「横領の疑いがある。これが逮捕状だ。大人しく署まで来てもらおう」

  「証拠があるのか?」

  「ああ。山ほどな」

  バサッと神田の前に出された資料は、今まで神田が受け取ってきたお金の明細であった。警察の上層部にも根回しをしておいたはずなのに、と神田は唇と噛む。

  「お前の横領に係わった警察関係者はすでに刑務所の中だ。残念だったな」

  「・・・そうか。妻と息子には?」

  その二つのキーワードを聞いた警察官らは、互いの顔を見合わせ、神田を哀れむような目つきで見た。

  「奥さんと息子さんは家にいません。こんな置き手紙がありました」

  「なんだと?」

  白い封筒を開けて中身を出すと、またもや白い紙が入っていた。三つ折りになっていた紙を開くと、そこには妻、律子のものと思われる綺麗な字が並んでいた。

  ―あなたへ

    何も言わずに出ていくことを許して下さい。しかし、あなたがしてきたこと、目を瞑るわけにはいきません。正人の夢を潰す権利も、あなたにはありません。

    私は正人を連れて出ていくことに決めました。今までお世話になりました。

    さようなら

                                                       律子―

  震える手で紙はぐしゃぐしゃになっていき、自然と身体から力が抜けていく。

  喪失感、そんな言葉一つでは足りない何かが神田から無くなった。垂れ頭の神田を見ていた警察は、腰から手錠を出し、神田の腕にはめた。

  ガシャン、と冷たく響いたその音は、もはや神田の耳には聞こえなかった。

  警察署に着き取調室に連れて行かれた神田は、ただ生気を失った抜け殻でしかなく、まともに話さえ出来ていないようだ。

  自分が二人を捨てることはあっても、自分が捨てられることはないと思っていたのだ。

  律子は自分が政治家になる前から一緒で、神田のことを誰よりも理解してくれていると思っていたし、正人だって小さい頃は自分を尊敬していてくれた。

  いつからだろうか。そんな家庭に罅が入ってしまったのは。神田は、きっと自分が変わったのだと分かっていた。

  必死に家庭の為に働いてはきたが、歳と取るのは止むを得ない。

  楽にお金を稼げる方法など無いのだが、人間とは欲深いもので、楽に楽に、と考えてしまう。

  「で?いつからこんなことを?」

  「・・・いつからだったか・・・」

  今はそんなことどうでもいい。正直、今の神田にはたった二つの問題を対処出来るだけの理性を持っていなかった。

  何不自由なく生活させてきたはずだ。他の家庭よりは良い暮らしをさせてきたはずだ。

  でもこうなってしまったのは、自分のせいか。それとも・・・。

  必死に自分を正当化させようと言い訳を考えるが、常に横切る律子と正人の不満に満ちた表情。

  「きみには、家族がいるかね?」

  「え?」

  急に神田から質問され、警察官は少し驚いたように目を開いたが、姿勢を直して答える。

  「まあ。いますよ。」

  「奥さんは、文句を言うかね?」

  「そんなのいつも言われてますよ」

  「そうか。・・・お子さんは?」

  「2歳と7歳がいます。上が男で下が女の子です」

  子供の話をしている警察官の頬が緩くなったのを確認すると、神田は以前は自分もそうだったな、と思い出した。

  「可愛いでしょうね・・・。ああ、何の話でしたっけ?」







  「もふもふ・・・」

  変な効果音で何かを食している男は、神田を散々馬鹿にしたバクだ。

  わたあめの形になった神田の夢を食べているのだが、バクの周りには水と思われる透明な液体が入った容器が所せましと置かれている。

  「美味いには美味いが、これほどまでに水分が奪われる夢は初めてた。だがまぁ、なんと美味な夢だ」

  わたあめ一口、水分、わたあめ一口、水分を交互に繰り返しやっと食べ終えると、バクはお腹を摩って満足そうに唇を舐める。

  徐々に赤色に変化する髪の毛に、バクは少し不満気だ。

  「この色は何とかならないのか」

  髪の毛の色が気に入らないバクは、早く違う味で舌を満たそうと考えた。

  「今度の夢はもっとみずみずしいといいなー」

  身体を左右に動かしながらブツブツ一人で話すバクだったが、真っ暗闇の中に何か感じたらしく、目を細めた。

  そのまま瞳だけを動かしていると、バクはニヤッと歯を出して笑う。

  コツコツと何か感じた方向へ足を進めていくと、そこから見える景色に歪んだ興奮を覚える。

  「あの人間の夢はありきたりだな。それなのにあんなにも満足感に満ちている・・・。いや、ありきたりではあるが人間では決して出来ない行動だからこそ、か。なんとも喜劇」

  いまだに喉にわたあめが残っている感覚になりながら、バクは夢の住人を観察する。

  当の本人はバクに見られていることなど知る由も無く、夢の中で、現実では決して出来ない行動をしている自分に鼓動を速めている。

  それは誰もが見たことあるであろう、『空を飛ぶ』というもの。

  現実逃避ともとれるその夢の中だけの行動は、その人間にとっては特別なものだ。

  理由などには興味無いバクは、ゴクリ、と耳に聞こえてきそうなほどの音で生唾を呑んだ。

  まだ真っ赤に染まったままの髪の毛のことなど忘れ、バクはその人間が夢から覚めて現実の世界の戻るのを待った。

  5時間ほど経って、ふと夢から覚めたその人間は、いつもと同じ天井を見つめていた。

  顔を横に向ければカーテンがあり、まだ暗いのであろうカーテンの外側をしばらく見つめると、再び眠りについた。

  しかし、5分も経たないうちに目が覚めてしまい、仕方なく身体を起こした。

  1階からはトントン、とリズミカルな包丁の音が聞こえてきて、朝であることを示していた。

  パジャマのまま下りて行けば、新聞を持っている父親と、朝食と弁当を作っている母親の姿があった。

  「ママ・・・」

  「あら、おはよう」

  「流亜。一人で起きられたのか。偉いな」

  「今日もね、るあ、お空飛んだの」

  「良かったわね。気持ち良かった?」

  「うん!鳥さん達と一緒に飛んだの!」

  少女の名は鈴岡流亜、4歳。ごく普通の家庭に産まれ、ごく普通の環境で育っている。

  ただ一つ、少女は純粋であった。それは大人では有り得ないほど。子供といえども、疑うことを知らない、透明な心。

  きれいすぎた心が生み出す悲劇。

  それは、バクの大好物・・・。

  


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登場人物紹介

バク:夢の中の住人。人間たちの夢を食べて生きている。

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