第1話

文字数 11,951文字

夢喰いバク
食べるに至らない夢

                                   登場人物



                                           バク

                                           その他人間たち







































































 寒さにふるえた者ほど太陽を暖かく感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。

ホイットマン







































































          第一品 【 食べるに至らない夢 】









































  ここは誰も立ち入ることの出来ない場所。

  それは、天国でも地獄でもなく、無限に広がる闇の中でありながら、所々にぽつぽつと見える灯りを頼りに歩かねばならない。

  例え有能な者であっても、その場所に行くことすら自由には出来ない。

  そう。これは誰も確認出来ないお話。



  「退屈だ~。最近の人間はぐっすり寝るからな。夢の一つも見やしない。」

  そんな真っ暗闇の中で生活をしている、いわば闇の中の住人は、あたりをキョロキョロと見渡している。

  どこかに灯りが無いものか、ひたすら探していた。

  「あ。あんなところにちっぽけな夢があった。・・・まぁ、餓死するよりマシか。」

 

  「いいじゃないか。先生と仲良くしよう。な?」

  「ダメだよ、先生。」

  男が暗闇の中に浮かぶ灯りのもとへ行ってみると、四十代半ばと思われる男と、いたいけな十代の女の子がいた。

  「大丈夫だ。紀美加くんが黙っていれば、誰にもバレないぞ。」

  会話からして、生徒と先生であることは分かったものの、そっと灯りの許の方を覗いてみると、どうやらこの夢は男の先生の夢のようだ。

  紀美加という女の子が実際に受け入れているかは甚だ疑問だ。

  男がそっと紀美加の肩に触れると、少しだけ力を入れて、自分のほうへと顔を向かせた。

  顔を赤く染めた紀美加が、上目遣いで心配そうに男のほうを見ると、それだけで男は満足気に口元を歪めた。

  そして、紀美加の唇と自分の唇を触れさせた・・・。

  一部始終を見ていた住人の男は、その日は何もせずに見ていただけだった。





  「紀美加―!おはよう!」

  「おはよう。」

  「ちょっと、紀美加。またあの変態見ているよ。大丈夫?何もされてないよね?」

  「うん。」

  黒髪で前髪を眉毛少し下あたりまで伸ばし、耳の下で二つ縛りにしている少女、紀美加の後ろから歩いてくる男。

  紀美加の通っている学校の先生、井ノ原雄三、今年で四十八になる。

  薄くなった髪の毛は、白髪になることさえ出来ずに散ってゆき、清潔感のない無精ひげは女生徒たちから陰口を言われる。

  ―ああ。夢の中ではあんなに俺を慕っていたのに・・・。

  纏わりつくように紀美加の背中を眺めている井ノ原は、周りの生徒からも、他の先生からも気味悪がられている。

  教室に着いて出席を確認していくが、紀美加のときだジロジロと観察をする。

  授業中になっても、生徒達は誰一人として真面目に話を聞こうとはせず、井ノ原の悪口を書いたメモを回し合っている。

  それを知っていながら、井ノ原は何も言えずにいる。

  職員室へ向かえば、校長先生や教頭先生に呼ばれ、生徒達の指導について厳しく言われ、生徒たちの親からは非難される。

  「くそっ!俺のせいじゃないぞ!」

  ぶつぶつと文句を言って、壁を蹴ってストレスを解消しようとすると、どこからか女生徒の声が聞こえてきた。

  「ねぇねぇ!井ノ原さぁー、紀美加のこと絶対狙ってるよね??」

  「紀美加、大人しいから。何か強く言った方がいいって!気持ち悪いとか!」

  「うん・・・。」

  「あんなんだから、結婚も出来ないんだよねー!何してるかわかんないじゃん!授業中だって、なんか独り事言ってるし!」

  「不気味だよねー」

  キャハハ、と笑いながら去って行った女生徒たちの会話を聞いてしまった本人は、そっと女生徒たちを見つめた。

  そこに紀美加の背中があることを確認すると、妄想に耽る。

  「違う、違うぞ。紀美加はそんな子じゃない。あいつらが紀美加を悪い子にしているんだ。紀美加に教えてやらないと。」

  足音を立てないようにその場を離れると、井ノ原は階段を下りていった。

  授業が終わると、井ノ原は紀美加に近づいていった。

  しかし、その前に友人達によって部活動へと連れ出されてしまった紀美加を、井ノ原はただ茫然と眺めていた。

  紀美加は陸上部のため、職員室からもよく見えた。

  ―今日も可愛いな、紀美加。

  夕方になると次々に部活が終わって行き、試験問題を作っていた井ノ原は、紀美加が帰っていたことに気付かなかった。

  肩を落として家に帰れば、外に干しっぱなしだった洗濯物を取り込んで、夕飯に買ってきた弁当を食べ始めた。

  その後軽くシャワーを浴びると、そのまま布団に横になり、眠ってしまった。







  「紀美加、どうして先生のことを避けるんだ?」

  「避けてなんかいないわ。先生のこと好きよ。」

  紀美加の頬に手を添えようとしたが、紀美加はそれを避けるように遠ざかり、顔を下に逸らせる。

  二つ縛りにしている紀美加だが、ゆっくりとゴムを取ると、長いさらっとした髪が靡く。

  一歩一歩紀美加に近づくと、井ノ原は紀美加の髪を触りだした。

  そのスキンシップは徐々にエスカレートしていき、頬、首、腕、腰、お尻など、スキンシップというには過剰な行動になっていく。

  井ノ原はそれに満足したのか、紀美加を抱きしめようと腕を伸ばしたが、思いもよらない声が聞こえてきた。

  「それは所謂“セクハラ”というやつだな。」

  「!?」

  勢いよく顔を動かしてみたが、右にも左にも、上にも下にも、誰も見つからないどころか、自分と紀美加以外はいなかった。

  気のせいかと思い、紀美加に視線を戻すと、紀美加の姿がぼんやりと消えかかってきていた。

  「紀美加!!!」

  急いで腕を伸ばし、紀美加を助けようとした井ノ原だったが、紀美加の姿は薄くなっていき、やがて消えてしまった。

  膝をついて落ち込んでいる井ノ原の許に、気配も無く近づいてきた男。

  「現実世界ではあんなこととても出来やしない。だから夢の中でその欲望を満たしているというわけか。」

  「!!!誰だ!」

  立ち上がって後ろを振り向くと、そこには顔以外は真っ黒な男が立っていた。

  全身真っ黒な服を着ているのか、それとも服を着ていないのかは分からないが、顔と薄ら見える髪の毛以外は、見えなかったのだ。

  「昨日も夢を見たが、実に滑稽だな。現実世界では叶えられないことを、夢の中でだけでもいいから叶えたい・・・。その虚しさもまた人間の儚さか。」

  「誰だと聞いているんだ!紀美加を返せ!」

  「返せと言われても、これはお前の夢だ。消したのはお前だ。俺じゃない。そもそも、この俺を誰かと聞く時点でおかしい。」

  顔と髪の毛だけが動く姿は、なんとも気味悪いものなのだが、井ノ原は納得がいっていないようだ。

  「誰だ!言わんと、お前も夢から消すぞ!」

  「ほう。夢の住人を消せるのか。何様だ。」

  一旦、井ノ原を通り過ぎた男は、くるりと顔を向き直して、井ノ原へと向かってきた。

  良く見ると、男は耳にピアスをつけており、目を細めてニコリと笑いかけてきた。

  「俺の名は“バク”。聞いたことくらいあるだろう。最近、俺の腹を満たすほどの食が見つからない。そこで、お前の夢は美味なるものかと調べていたんだ。」

  「夢を喰うっていう・・・あのバクか?・・・ハハハ。俺を馬鹿にするのも大概にしろ!そんなものがいてたまるか!」

  バクと名乗った男を信用しない井ノ原は、バクに向かっていきなり殴りかかった。

  だが、避けられたわけでもないのに、バクに攻撃は当たらず、井ノ原の身体がバクを通り抜けていったような感覚になった。

  踵を返してバクにもう一発殴りかかろうとした井ノ原だが、そこにバクはいなかった。

  何処にいるのかと探していると、上も下もないような、わからないような場所の中央にいるのが見えた。

  井ノ原の感覚が正しいかは定かではないが、その場所は自分の頭上よりも上の位置に存在していた。

  「お前の夢を見ていて、いくつか分かった事がある。」

  「なっ・・・なんだ。」

  「お前は紀美加とかいう女が好きなのだな。先生と生徒という間柄にも係わらず、恋愛感情を持ってしまったのか。それに、現実世界ではどうやら今のように強気な発言も出来ないようだ。夢の中で、なれない自分を演出している。」

  ワナワナと拳を振るわせ、井ノ原はバクに怒りを露わにするが、バクは淡々と自分のことについて語り始めた。

  「俺はお前らの世界など知らないが、さぞかし期待外れな場所なんだろう。これまでにも何億人もの人間の夢を食してきたが、美味なる夢は数えるほど・・・。ここ数百年で、人間は夢さえもあまり見なくなってきている。」

  真っ暗闇の中、どこを見ているのかはっきりとはいかないが、遠くの方を見ているのは間違いないだろう。

  舌をペロッと出してそのまま自分の唇を舐めると、バクは井ノ原にこう言った。

  「お前の夢を食べるのはもう少し後にしよう。今のままでは、食あたりを起こしかねないからな。」

  バクがすうッと消えたかと思うと、それと入れ換わりに、紀美加が現れた。

  「先生。ねぇ先生?」

  「紀美加!戻ってきてくれたのか!」

  「先生、紀美加のこと好き?」

  「ああ!勿論だ!」

  随分会っていなかった恋人同士のように、井ノ原は紀美加に抱きつき、紀美加もそれに応える。

  「紀美加・・・!!!」







  翌日、井ノ原は薄ら笑いながら登校していた。

  それは、誰から見ても気味の悪い笑みであって、当然のように、紀美加もそれを見て何事だろうと眉間にシワを寄せていた。

  授業も職員会議も終え、上機嫌なまま廊下を歩いていた。

  すると、どこからか聞き覚えのある愛しい声が響いてきて、どこだろうと探していると、屋上へと繋がる階段の方からだとわかった。

  影に隠れて盗み聞きをしていると、紀美加の戸惑っている言葉が聞こえてきた。

  ―誰だ?紀美加を困らせているのは・・・。

  相手の顔を確かめようとすると、会話の内容までもが鮮明に耳に入ってきた。

  「僕と付き合ってほしいんだ!・・・ダメかな?」

  「ええと・・・私・・・。」

  「付き合ってる人、いるの?」

  「そういうわけじゃ!!」

  「じゃあ、好きな人がいるとか・・・?」

  「それは・・・。」

  その話に集中していたのは、当の本人達だけではなく、聞き耳を立てている井ノ原にとっても、聞き逃してはならない内容だった。

  自分だと答えてくれるだろうか、と淡い期待、淡いまでもいかないほどに小さな小さな期待をして聞いていた。

  「私も・・・岡本くんが好き・・・。」

  「本当!?よかった!」

  若い二人が青春を謳歌している中、一人の中年男は見るも無残に、心を打ち砕かれていた。

  ―何?紀美加は岡元が好き?

  動揺を隠せずにおろおろしていると、階段を下りてくる二つの影が見え、急いで近くの教室へと隠れる。

  パタパタと仲良く手を繋いで去って行く影を、口を開けたまま眺めていた井ノ原。

  未だに信じられないといった様子で、ただただ隠れた教室で呆然としていた。

  授業にも身が入らないままでいると、いつも以上に、生徒たちの自分に対する陰口が囁かれているのが分かる。

  夕方になり、職員室の窓から紀美加の姿を眺めていると、紀美加と目が会った気がした。

  期待を胸にじぃっと見ていると、紀美加は顔を真っ赤にして手を振ってきた。

  まさか自分に、と思った井ノ原が手を軽く上げて振り返そうとした時、紀美加の許に、あの岡本が駆け寄って行くのが見えた。

  挙げかけた手は行く手を失くし、虚しく中途半端な高さで止まっていた。

  幸せそうに微笑んでいる紀美加を、素直に祝福できないでいる井ノ原は、部活動が終わるよりも早く、学校を出た。

  車で十五分ほど離れている自分のアパートまで着くと、冷蔵庫の中を開けてため息を吐く。

  「・・・何もないな。」

  おかずに出来そうな食材も無く、冷凍食品も入っていない冷蔵庫には、缶ビールが二本あるだけだった。

  そのうちの一本を取り出し、広げっぱなしの布団に胡坐をかく。

  プルタブを指で開けて一気に喉に流し込むと、ぐしゃっと缶を潰し、そのまま布団に横になって眠ってしまった。

  「紀美加・・・。」







  「紀美加、どこにいるんだ?」

  「先生!」

  「紀美加。岡本と付き合っているのか?」

  「違うわ。私・・・。」

  「どうした?」

  今の今まで、自分を慕い、自分を好きだと言ってくれていた紀美加が、ふいに口を閉ざしてしまった。

  何事かと、井ノ原は紀美加の顔を覗きこもうとした。

  すると、紀美加はいきなり井ノ原の頬を平手打ちで叩き、その後、しまったと口を半開きにした状態で井ノ原を見つめた。

  思いもがけない行為をされ、驚いているのは井ノ原自身。

  「紀美加?」

  「ごめんなさい、先生!」

  涙目になり、許しを乞う紀美加に、井ノ原は生唾を呑む。

  ―そうだ。これは夢なんだ。だったら・・・。

  夢だと分かっているからこそ、井ノ原は紀美加を夢の中だけでも自分のものにしようと、様々な思考を張り巡らせる。

  現実では自分のものにならない紀美加を、夢の中でなら・・・。

  そんな考えが浮かんだ井ノ原は、紀美加に触れようと手を伸ばした。

  「紀美加・・・。」

  ―ピタッ・・・

  井ノ原の動きが、止まった。

  目の前にいる、まだ十代の少女に対し、自分は何をしようとしていて、何と言う感情を抱いてしまっているのだろうか。

  突然芽生えた理性に、井ノ原だけでなく、紀美加までもが動きを止めてしまった。

  「先生?」

  首を傾げて自分を見あげてくる少女は、なんとも愛おしい。

  欲望と理性の狭間で揺れていた井ノ原だが、紀美加を見ていたら、簡単に決着はついてしまった。

  「紀美加」

  もう一度触れようと伸ばした手は、紀美加に触れることはなかった。

  すぐ近くにいるはずの紀美加は、姿がだんだんと遠のいていき、走っても走っても追いつかないほどに足元は重い。

  「紀美加!」

  ハッ、と目を開けると、そこは真っ暗の中にも見覚えのある、自分の部屋の天井だった。

  「はぁはぁ・・・」

  未だ手に持っていた缶ビールからは、残っていた中身が出てしまっており、布団の端の方を少しだけ濡らしてしまっている。

  携帯を取り出して時間を見ると、朝の三時を過ぎたころだった。

  缶ビールをゴミ箱に捨てて、お風呂にでも入ろうと準備を始めると、十分もしないうちにシャワーを浴び終えた。

  再びごろん、と布団に横たわると、もう朝方だというのに、また眠気に襲われてしまう。

  置時計と携帯のアラームを五分だけズラしてセットすると、もう一度夢の中で会えるであろう、紀美加の許へと飛んでいった。

  目を閉じればすぐに紀美加は現れ、井ノ原を歓迎してくれる。

  自分の前にいる紀美加は、いつものような制服姿ではなく、私服だった。

  薄手のシャツに淡いピンク色のカーディガンを羽織り、膝上五センチほどの丈の白いスカートを穿いていた。

  「先生!何乗る?ジェットコースター?」

  「紀美加の好きなのでいいよ」

  「ふふふ。じゃあ、コーヒーカップ!」

  二人でコーヒーカップに乗り、ぐるぐると気持ち悪くなるまで回し、次にジェットコースター、メリーゴーランド・・・。

  楽しい時間がまたたくまに過ぎていく。

  「先生、最後に観覧車に乗ろう?」

  「ああ、いいよ」

  赤く染まって行く空に、浮かび漂う雲、その中に舞う鳥達。

  ガタン、ゴトン、と小さな音を出して、ゆっくりゆっくり動く観覧車の中で、紀美加は外を眺めてはしゃいでいる。

  窓に手をつけて、井ノ原に背を向けるようにして、椅子に膝立ちしている紀美加。

  「先生!すごく綺麗だよ!」

  「・・・ああ。そうだね。」

  自分に背を向けている紀美加を見つめ、紀美加と二人きりの空間にいられるという、高揚した気持ちを胸に留めていた。

  井ノ原の目には、紀美加の背中以外に、色っぽさのある項に細い腰、スカートから見える足は白く、少しむっちりとしている。

  はしゃいでいる紀美加の隣に行き、そこに腰を落とす。

  「先生!ちゃんと見てる?ほら見て!」

  「見てるよ」

  紀美加の横顔を、目を細めながら見ていると、急に耳障りな音が邪魔をしてきた。

  『ジリリリリリリリリリリリリリリリリ』

  バシッ、と乱暴に頭の上にある、起床時刻を報せた置物を叩くと、井ノ原は戻ってきてしまった現実に舌打ちをする。

  まだ疲れのとれていない身体を強引に起こし、右手の小指で耳を軽くいじる。

  テレビを点けると、昨日来日したハリウッド女優のインタビューが流れており、チャンネルを変えた。

  天気予報は対して変わっていなく、しばらく雨は降りそうにないらしい。

  どこかの学校では、窓ガラスが割られたという事件が発生し、またある学校では教師がモンスターペアレントに耐え切れず自殺をしたという。

  「・・・・・・」

  興味のあるニュースに辿りつけなかった井ノ原は、テレビを消して車のキーを掴んだ。







  学校に着いた井ノ原は、職員室に行って自分の机のある場所へと向かう。

  「おはようございます」

  「ああ、井ノ原先生。おはようございます。今日は英語の小テストをやろうという話が出たんですけど・・・」

  小さな用紙に書かれた英語の問題を眺め、小テストを承諾すると、井ノ原は今日の予定を確認し始めた。

  授業で使うプリントを印刷し、まとめてホチキスで止める。

  時間が経って、ぞくぞくと生徒達が登校し始める。

  チャイムと同時に教室に入ると、紀美加と岡本が仲良く話をしているのが見えたが、井ノ原を見つけた生徒達は、自分の席へと戻って行く。

  「おはよう。出席をとるから、呼ばれたら返事をするように」

  一人一人の名前を呼び終え、授業に入ってプリントを渡す。

  さして聞く気のない生徒たちは、ノートに落書きをする者もいれば、隣の友人と話をしている者もいる。

  ちらっと紀美加を見ると、他の生徒と比べると至って真面目に授業を聞いており、真剣にノートをとっている。

  そんな紀美加の姿が、夢の中の紀美加と重なってしまう。

  授業を終えて教室を出るとき、岡本がすぐさま紀美加に近寄り話しかけ、紀美加もそれに応えているのが見えた。

  首筋をボリボリかいて、次の授業の準備を進めようとしたとき、科学の先生から話しかけられる。

  「井ノ原先生。次の4組の数学の一時間、いただけませんか?授業が遅れていまして・・・。井ノ原先生の授業は進んでいると聞きまして・・・」

  進んでいる、という表現は正しくはなく、生徒たちが話を聞いていないから先に進んでしまっているだけなのだ。

  だが、仮眠を取りたいと思っていた井ノ原にとって、願ってもいない機会だった。

  「ええ。いいですよ」

  次の授業が無いとなると、井ノ原は三時間近く授業がないことになる。

  井ノ原は隠れて寝ようと、その場所を探していると、生徒指導室の奥に和室の休憩室があったことを思い出した。

  そこに向かうと、案の定誰もいなく、井ノ原は携帯でアラームをセットし、寝始めた。

  いつもなら、すぐに寝つけるはずの井ノ原だが、先程の紀美加と岡本を見てしまったからか、なかなか寝付けないでいた。

  閉じた瞼の裏で紀美加の姿を思いだしていると、いつもより時間はかかったものの、なんとか寝つけることが出来た。

  「紀美加・・・」

  また夢で会えるだろうか、そんなことを考えながら寝ていると、また笑顔の紀美加が現れた。

  「先生、顔色悪いよ?どうしたの?」

  「そんなことないよ」

  「そう?」

  紀美加に心配をかけまいと、井ノ原は必死に笑顔をつくった。

  「ね、先生。私、岡本君と結婚しようと思うの」

  「・・・・・え?」

  いきなりの事に井ノ原が目を大きく見開き驚いていると、紀美加はクスクスと笑って、井ノ原の腕を軽く叩いた。

  「フフ、先生、冗談よ」

  「なんだ、驚かすな」

  自分の腕に絡んできた紀美加を引き寄せ、腰を撫でていると、紀美加はまだフフフ、と笑っていた。

  「大人をからかうんじゃない」

  「ごめんなさい」

  本気で謝っているようには見えないが、笑いながらも謝罪の言葉を口にする紀美加を見ていると、井ノ原も自然と笑顔になる。

  鼻を掠める良い匂いは、紀美加の髪の毛のものだろうか、それとも香水だろうか。

  顔を紀美加の頭を近づけようとすると、紀美加が急に顔をあげてきたため、井ノ原は思わず顔を遠ざけた。

  特に何を言うわけでも無く、紀美加はただ井ノ原に笑いかけ、絡めていた腕を離した。

  「紀美加・・・」

  「じゃあね、先生」

  「え?」

  何処かへ行ってしまいそうになった紀美加を、引き止めるべく言葉と共に、身体を動かそうとした井ノ原。

  だが、粘着質のようなもので貼り付けられているのか、足は動いてはくれない。

  どんどん先に行ってしまう紀美加を叫んでいると、背後から声が聞こえてきた。

  「先生?」

  「!紀美加!」

  行ってしまったとばかり思っていた紀美加が、今また自分の目の間にいることを確認した井ノ原は、紀美加の傍に駆け寄る。

  「どうしたの?」

  「いや、なんでもないよ」

  ホッ、と胸を撫で下ろし、紀美加のことを抱きしめようとしたが、ふと井ノ原はある違和感を感じ取った。

  「?」

  じーっと紀美加を見ていると、紀美加の姿が徐々に見えなくなっていったのだ。

  それが、自分の目のせいなのか、夢が覚めそうになっているだけなのか、それは分からなかったが、とにかく紀美加が見えなくなっているのだ。

  「紀美加!?」

  足は重く、上半身だけが無意味に抵抗を繰り返している。

  「紀美加・・・!!!!」

  真っ暗闇になったのは紀美加だけではなく、井ノ原自身も、手や足を見ようと思っても、暗くて見えなくなっていた。

  すると、不思議と頭の中がぼんやりとしはじめ、貧血のような、お酒を飲んだあとのような感覚に襲われ始めた。

  もう何も考えられないほどに逆上せた頭で、井ノ原はなんとか起きまいとその場に留まる。

  なんとか抵抗をしていた井ノ原だったが、抵抗むなしく、暗闇の中を堕ちていった。

  「・・・ん?」

  目を開けた井ノ原は、そこが自分が休憩していた部屋だと理解すると、首を傾げた。

  「何か忘れているような・・・。気のせいか?」

  携帯を開いて時間を確認すると、すでに二時間半ほど経っていたため、井ノ原は生徒指導室を出て職員室へと戻った。

  自分の席に着いて、通知表をつける次期が近づいてきたと、コメント欄に何を書こうかと考え始めた。

  一人一人の通知表を開いていくと、ふと、ある生徒のとき無意識に手が止まった。

  名前の欄に書かれた指名は“野上紀美加”。

  「野上か・・・。あいつはいつも真面目にやってるな。」

  今時、ストレートパーマもかけずに、きちんと耳の下で二つ縛りを実行している真面目な女生徒。

  「野上?・・・野上・・・?」

  自分の言い方に何か違和感を覚えた井ノ原だが、それが何なのか、答えは出て来なかった。

  キーンコーンカーンコーン・・・

  チャイムが鳴り、井ノ原は書き途中の通知表を閉じて保管庫にしまうと、次の自分の授業がある教室へと向かった。

  案の定、生徒達はまだお喋りに夢中で、井ノ原が教室に入ってきたことに気付いている生徒さえ、ほとんどいない。

  教室を軽く見渡すと、そこにはさきほど違和感があった野上紀美加の姿があった。

  岡本という男子生徒と一緒に話をしており、その姿は、歳を取った井ノ原から見ると何とも微笑ましく思えた。

  再びチャイムが鳴ったところで、井ノ原は声を出す。

  「ほらー席に着けー。授業始めるぞー」

  ザワザワとまだ少し話は聞こえるものの、井ノ原は授業を始めた。







  「ねぇ。最近さぁ、井ノ原先生、紀美加のこと見なくなったよね。」

  「思った!何でだろうね?」

  「やっと諦めたのかな?ハハハ!まぁ、もともと無理だったんだよ!」

  「もとから私なんて見て無かったんだよ」

  「それは無いって!」

  部活帰りの道で、紀美加と友達は井ノ原についての話をしていた。

  以前であれば、授業中にも痛いほどの視線を送っていた井ノ原が、急に真面目な良い先生になってきたため、生徒達は驚いていたのだ。

  自分では何処が変わったのかわかっていないのは、井ノ原本人くらいだ。

  「それよりさぁ、知ってる?二組の小林さん、コンサート行ったんだって!」

  「何の?」

  「何だっけ?今流行ってる・・・なんかのグループの!」

  楽しげにお喋りをして帰る生徒達を、井ノ原は職員室の窓から眺めていた。

  「あ。井ノ原先生。今晩、行きませんか?」

  「いいですね。いやぁ、ひさしぶりだなぁ。誰かと呑むなんて」

  今日のうちにやっておける仕事を終わらせると、井ノ原は今まで溜まった何かを吐き出すように、大声で話して笑った。

  最初に頼んだジョッキのビールを喉に流し込むと、何とも言えない快感が脳内と身体を駆け巡って行く。

  次々に頼んで気持ち良くなってくると、徐々に話はエスカレートしていく。

  生徒たちの話から親の話、校長先生の話もPTAの話など、情報共有としてはちょっと過激な内容もあったものの、参考になるものばかりだった。

  「この間なんか、親御さんから『先生は、どちらの大学出で?』って聞かれて、正直に答えたら、『その程度の大学を出た先生に、教えられるのかしら?』って言われちゃったんですよー!!」

  「俺もありましたよ。柔軟体操で肉離れした生徒がいて、親から散々言われましたよ・・・」

  ビールの残りが少なくなっていたため、井ノ原は他の先生の分もビールを注文すると、また話の聞き役に徹した。

  今まではほとんど話した事が無かった先生達は、立派で何も言われないのだろうと思っていたが、皆苦労していることを知り、安堵した。

  「それにしても、井ノ原先生、変わりましたよね。前はなんか暗いっていうか・・・。けど、最近はきはきしてきて、すごく活き活きしてるっていうか・・・。何かあったんですか?」

  「いえ。私自身、何が変わったのか分からなくて・・・」

  皆が知っている“以前の自分”を知らない井ノ原は、ただ苦笑いをするしかなかった。

  飲み会が終わって解散したのは、すでに“今日”が“昨日”へと変わってしまった時間で、井ノ原は酔いつぶれてしまった古典の先生を送っていくことになった。

  結局、井ノ原が自分の部屋に辿りついたのは、午前二時少しまえの頃。

  お風呂に入らないと気持ち悪いと分かっていながらも、徐々に頭痛へと変化してきた快楽に、井ノ原は耐えられなかった。

  その日は風呂にも入らずに寝てしまい、ただなんとなく、いつもとは違う充実した気持ちで寝つけた。

  余程疲れていたのか、井ノ原は夢を見ることはなく、ぐっすりと寝られた。







  「なんとも滑稽な人間だ。」

  薄暗いどころか、真っ暗な闇の中で響く声の主の手には、わたあめがあった。

  白くふんわりとした甘いであろうそのわたあめを、声の主は棒の部分をくるくる回して遊び、遊び終わると一舐めした。

  舌を出して眉間にシワを寄せると、手の中でわたあめをゴミ箱に捨ててしまった。

  「・・・。さてと・・・次はどいつの夢を喰うかな。」

  暗闇の中のため、何処に何があるのか分からないはずだが、声の主には分かっているようで、迷わずに何処かへと突き進んでいく。

  ポッ、と灯った灯りの許に向かうと、声の主は喉を鳴らして笑う。

  「それにしても、面白い夢だった。・・・だが、面白いだけで、現実味の無い妄想になど弧海は無い。胃もたれをおこしそうだ。」

  弧を描いた口元も、すぐに一直線を紡ぎ、声の主は退屈そうに欠伸をした。

  お腹のあたりをゆっくり摩ると、徐々に声の主の髪の毛の色が変化してくる。

  闇のように真っ黒に染まっていた髪の毛は、何とも見え難いが、紫色に変わっており、いつの間には手にはリンゴ飴を持っていた。

  口直しをするかのように、声の主はリンゴ飴を舐めはじめる。

  足下にある夢を眺めていると、そこにリンゴ飴の欠片が、パラッ、と落ちる。

  「夢を喰っただけで忘れてしまうような想いなど、所詮その程度だったということだな。それにしても、人間はつくづく虚しい」

  コーティングされている飴を割って、その中に隠れているリンゴへ到着すれば、ほどよい甘みと酸っぱさが口の中を踊る。

  足下の夢を見下していると、途端に声の主はリンゴ飴を投げ捨てた。

  「これは美味そうな夢だ」

  キラキラと、新しい玩具を見つけた子供のような目つきになった声の主は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

  「さて。このバクの腹と心を満たしてくれる夢であることを願って、こいつの夢をしばらくの間観察させてもらおう」





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登場人物紹介

バク:夢の中の住人。人間たちの夢を食べて生きている。

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