第4話

文字数 10,909文字


夢喰いバク
食あたり

自由でないのに、自由であると考えている人間ほど奴隷になっている。 ゲーテ







































































   第四品 【 食あたり 】











































  「えー!?加奈恵、浩太くんと別れちゃったの―!?」

  「あんなにラブラブだったじゃん」

  「浩太の奴、近所の大学生の女とデートしてたんだよ!?マジ信じらんない!」

  小野加奈恵、一六歳の高校生。

  特にこれといった風貌的特徴はなく、今時の高校生だ。髪の毛は矯正をかけており真っ直ぐで、まゆげは薄い。

  校則違反であろうスカートの短さと、携帯電話。

  友人たちに彼氏の浩太と別れた話しをしていると、チャイムが鳴って数学の先生が教室に入ってきた。

  ノートと教科書は机の上に出してあるが、それを開くことは無い。

  先生も諦めているのか、加奈恵に何かいうことはなく、淡々と授業を始めていく。

  その間も加奈恵はひと目も気にせず携帯を開き、誰からも連絡の入っていないメールボックスを何度も見直す。

  “浩太”と書かれているボックスを睨みつけ、頬杖をついて窓の外を見る。

  十二時を過ぎて先生が教室から出ると、サッと教科書を机の中にしまった。購買で買ったパンを一つだけ食べた後、加奈恵は保健室へと向かった。

  「先生ぇ~。体調悪いから寝るね~」

  「また?サボりじゃないの?」

  「先生ひどい。私だって体調悪くなる時くらいあるんだから」

  「それは悪かったわね。空いてるベッド使っていいわよ」

  「はーい」

  かかとの折れた上履きを脱ぎ捨てると、加奈恵はベッドに横になり、携帯を頭の横に置いて眠りに着いた。





  「加奈恵。加奈恵」

  「・・・?誰?」

  「俺だよ。浩太」

  「は?何なの?何しに来たの?」

  いつの間にか、加奈恵の前には一人の少年がいた。

  黒く短い髪の毛をしており、肌は少し焼けている。いかにも“スポーツ少年風”な少年だった。

  それは加奈恵にとっては会いたくも無い人物であり、さらに、少年、浩太の隣には、加奈恵の見た大学生の女性もいた。

  「その女と付き合ってんでしょ?別に今更紹介とかいいんだけど」

  「違うって。俺の話聞いてよ」

  「マジふざけんな」

  「加奈恵。ごめん」

  浩太は徐々に加奈恵との距離を詰めていくが、ある一定の距離になると、加奈恵は蔑んだ目で浩太を見ながら後ずさる。

  浩太を思い切り睨みつけた後、その後ろで余裕そうに笑っている女性を睨む。

  「浩太君も大変ね」

  「は?」

  女性の言葉に、加奈恵は思わず顔を歪ませた。

  茶髪のボブ、淡いピンクの唇、つけまつげで長くなったまつ毛、チークで赤くなった頬、生まれながらと思われる大きな瞳、細い手足と指。

  ニッコリと笑って加奈恵を見た後、浩太の傍に寄った。

  浩太の袖を指先で軽く引っ張ると、触れそうなほどに顔を近づけ、加奈恵を挑発する。

  「ねぇ、浩太君。もう一回ちゅうしよう?」

  自分には出したことの無い甘えた声で女性が浩太に言えば、浩太は戸惑って加奈恵と女性を交互に見やる。

  女性が目を瞑って唇を浩太に突き出すと、浩太も目を閉じてゆっくり近づく。

  浩太の行動にいらついているのか、女性の全てにいらついているのか分からないが、加奈恵は思わず浩太を引っ張って頬を叩いた。

  浩太は驚いたように目を見開き、女性はそんな加奈恵を見ても笑っていた。

  「意味分かんない!!キスすんだったら他所でやれよ!」

  「加奈恵・・・」

  「来んな!」

  一刻も早く二人の元から去ろうとした加奈恵だったが、数歩歩いた先には先程まで自分の背中にいた女性が立っていた。

  加奈恵を見て勝ち誇ったように笑えば、フフフ、と作ったように声に出して笑う。

  「加奈恵ちゃん?浩太君、年上好きって知ってた?」

  「はぁ?別に関係ないし」

  「・・・そう。じゃあ、私が浩太君と何したっていいでしょ?チューだって、それ以上のことだって」

  「!好きにしろよ!おばさん!」

  「フフ。じゃあそうさせてもらうわ」

  「浩太くーん」と名前を呼びながら、後ろにいる浩太のところに向かう女性に何も言う事の出来ない加奈恵。

  イライラが止まらないまま、道なき黒い道を進んでいった。





  「・・・変な夢見たし」

  目を開けて意識を取り戻すと、見慣れた保健室の天井が入る。

  ふー、と小さく息を吐いて携帯に手を伸ばす。画面をいじって時計を確認すると、すでに下校時間になっていた。

  完璧にサボってしまったと思いつつ、保険の先生に挨拶をして教室に帰っていく。

  教室にはすでにクラスメイトは残っていなかった。

  部活に勤しんでいるものもいれば、家に直行しているもの、バイト先へと行っているものもいることだろう。バイトは許可されていないが。

  机の脇にかけてある鞄を手に取りさっさと帰ろうとすると、ある教室から人の声が聞こえた。

  「いいよなー。A組の能島さん!!胸でけーし、可愛いし」

  「わかる。体育で走っている時、上下に動いてるぜ」

  「プールん時なんか最高だよな!ちょっとぽちゃっとしてるものまた・・・!!」

  馬鹿みたい、と思ってそのまま立ち去ろうとしたとき、思いもよらない名前が聞こえてきた。

  「あいつは?小野!確か、浩太と付き合ってんだよな?」

  動かそうと浮かした足を廊下の床に戻し、盗み聞きする心算はないが、興味本位から息を潜ませる。

  「小野は問題児だもんな」

  「軽そうだよな」

  「あれ?浩太って、D組の綾乃ちゃんと付き合ってんだと思ってた」

  「綾乃ちゃんみたいなぶりっ子は浩太のタイプじゃねぇだろ」

  「そういや、浩太と小野、別れたって噂聞いたぜ」

  「マジ!?」

  確かに、浩太には綾乃という女と以前付き合っていたと聞いていた。

  自分よりもその名前が出てくることが気に入らず、加奈恵は反対側の階段から校舎を出ることにした。

  下駄箱に着いて靴を履いていると、声をかけられた。

  「小野さん?」

  「?」

  鳥の鳴くような声だな、と思い首を少しだけ動かすと、そこにはついさっき聞いた名前の人物がいた。

  「D組の藤崎綾乃です。えっと・・・浩太君と別れたって聞いたんだけど・・・」

  「・・・そうだけど、何?」

  「・・・そっかぁ。よかったぁ」

  両手を頬に添えて、なんとも乙女チックに首を傾け喜んだ綾乃は、加奈恵にとってとても癪に障った。

  ぱっちりお目目を加奈恵に向けると、綾乃はのんびりとした口調で言う。

  「じゃあ、浩太君に告白してもいいよね?きっと、OKしてくれると思うんだけど、一応確認しておかないと、と思ってぇ」

  「あっそ」

  これ以上係わり合いたくない加奈恵は、綾乃から逃げるようにして去って行った。

  家に着いてドタドタとニ階にあがると、自分の部屋に入って乱暴にドアを閉める。

  「何なんだよ!どいつもこいつも!」

  鞄をベッドに放り投げると、ポケットに入っている携帯が鳴りだした。

  椅子に腰かけて足を組み、携帯を取り出して画面を操作すると、イライラの根本とも言える浩太の名前が表示された。

  メールを開いてみると、謝罪の言葉と「話がある」との内容が書かれていた。

  時間と場所も指定されているが、夢の内容やさっきのこともあり、加奈恵はそれに対して返事をすることはしなかった。

  夜ごはんは喉を通らず、風呂に入ってすぐにベッドに横たわる。

  もう一度メールを開いて浩太からの文章を読み直すが、苛立ちだけでなく、喜びも隠せないでいる自分にさらに苛立つ。

  髪の毛も乾かさずに目を瞑ると、あっという間に寝てしまった。





  「浩太君。綾乃、浩太君のことずっと好きだったの!綾乃と付き合って?」

  また悪夢だ。

  そう思いながらも夢から自力で起きることの出来ない自分に、加奈恵は仕方なく告白シーンの一部始終を見ることにした。

  狙った上目遣いをする綾乃に、浩太はニコリと笑う。

  「いいよ」

  「ホント!?嬉しい!!」

  あまりの嬉しさからか、綾乃は浩太に抱きついた。

  自分の姿が二人から見えているのか分からないが、見えているのにとっている行動だとしたら、あまりにも酷だ。

  加奈恵が目の前の光景から目を背けようとすると、綾乃と一瞬目が合った。

  見えている。

  そう確信は出来たが、綾乃も加奈恵を見たのは少しだったため、文句の一つもいうことが出来なかった。

  綾乃から視線を浩太に移しても、浩太は全く加奈恵を見ようとはしない。

  「こんな夢みるほど、乙女じゃないんだけど」

  ブツブツ言いながらため息を吐くと、後ろから声を殺した笑い声が聞こえてきた。

  「?誰?」

  眉間にシワを寄せて振り向くと、そこには暗闇の中気配を感じるだけだった。

  誰かいるのは分かるが、どこを見ても暗くてその存在の確認は困難だ。

  五感を頼りに気配に近づいていくと、人間とは違うが、人間のような形の物体にぶつかった。

  「これはこれは失礼。人間の恋や愛というものは複雑かつ怪奇なものですね」

  「何言ってんの?」

  暗闇に目が慣れてきたことと、あたりが少しだけ明るくなってきたのを感じた加奈恵がその物体を確認する。

  思わず加奈恵はギョッとしてしまった。

  それもそのはず。目の前にいたのは多分人間。だが、髪の毛は滅多に見ない緑色をしており、片手にわたあめを持っていた。

  人間だと疑いたくなるのはそれだけではない。首から下、身体の部分がいつまで経ってもちゃんとした形として見えてこないのだ。

  顔はきっとイケメンの部類に入るが、纏っている雰囲気が不気味で妖艶。

  「誰?」

  「それはさておき、あれ、放っておいていいのかい?」

  言葉づかいに気を付けて加奈恵に話しかけるバクは、浩太と綾乃が未だ抱き合っている方を見てたずねた。

  バクの視線の先をちらっと見て、明らかに苛立ちが倍増した加奈恵。

  面倒臭そうに「別にいいよ」とだけ言葉を返した。

  「復讐すればいいのに。愛憎ですね」

  「あいぞ・・・?」

  「・・・要するに、人を愛する気持ちは憎しみにもなる、ということです。復讐は予習復習の復習ではありませんよ?仕返しのほうの復讐ですからね」

  「馬鹿にしてんの?」

  わたあめを一口パク、と食べてその甘さに満足したのか、バクは加奈恵が復讐の夢を見ないかと期待をしていた。

  そんなバクの心中を知らない加奈恵の言葉は、バクの期待をバッサリ斬った。

  「嫌」

  「・・・なぜ?」

  「ここは夢ってことくらい分かってるの。夢の中で幾ら復讐したってしょうがないじゃん」

  「・・・(冷静と言うべきか、愚かしいというべきか」」

  首を動かして浩太と綾乃へと顔を向けると、加奈恵はまた深いため息を吐く。

  それを見たバクは、今日は諦めて大人しく帰ろうと、加奈恵が二人を見ているうちに、そっと暗闇の中へと消えていった。





  「おはよー、加奈恵!」

  「おはー」

  「ねぇ、聞いた?D組の藤崎!浩太君に告白してたってよ!真理子が告白現場見ちゃったって言ってた!!」

  「・・・あっそ」

  朝からの友人の話の内容にイライラした加奈恵だが、関心なさそうに振る舞い、自分の席に乱暴に座った。

  自分の元彼氏の浩太と、一部の男子には人気の藤崎綾乃の話をして盛り上がっている友人。

  ケラケラと他人の噂話をしては喜びに浸っている。

  「でもさー、浩太君フッたんでしょ?」

  何気ない一言にピクリと反応してしまった加奈恵だが、友人たちは誰一人として気付いていないようだ。

  心のどこかでそれを望んでいたが、実際に聞くとなぜか嬉しくなってしまう。

  加奈恵はあくまで平常心を装った。授業中もいつものように携帯を開いてブログを更新したり、今こうだああだ、ということを載せていた。

  教室移動の時間になり、加奈恵たちは体育館へと向かっていた。

  階段を下りていき長い渡り廊下を歩いていると、体育館から戻ってきたと思われる集団が向かい側からやってきた。

  その中には、加奈恵が今会いたくない人物もいた。

  「加奈恵、浩太君だよ」

  「うるさいよ」

  「ごめんごめん」

  浩太と目が合った気がしたが、加奈恵は気付かないふりをして、互いにそのまますれ違った。

  バレーで多少べたついた身体を鬱陶しく思いつつ携帯をいじると、チカチカとメールの着信があったことを知らせるランプが点いていた。

  なんとなく分かっていたメールの相手は、加奈恵の予想通りだった。

  ― from 浩太

       今日、放課後暇?―

  きっとこいつはあれだ。自分に未練があるわけではなく、彼女がいない自分がみっともないとか、格好悪いとか思っているんだ。

  そんなひねくれた加奈恵の考えを知らない浩太からのメールに、一言返事をする。

  ― 暇じゃない ―

  掃除も終わって皆が部活動やバイトに向かう中、加奈恵は浩太に会わないようにと時間をずらして教室を出た。

  だが、下駄箱には欠伸をしている浩太がいた。

  「おー。加奈恵」

  「メールの意味ないじゃん。読んだ?」

  「読んだ読んだ。でも、加奈恵って暇だけど怒ってるとき、暇じゃないって、それだけ返事来るから、ああ、暇なんだ、って思った。実際暇そうじゃん。暇だろ?」

  「ムカつく」

  「知ってる。まあ、それはいいとして。どっか寄ろうぜ」

  ニカッ、と浩太の笑顔を見せられてしまっては、加奈恵は強く否定することは出来なかった。

  惚れた弱みとは、きっとこのことなのだろう。憎んでいるはずの浩太の笑みを見て「太陽みたい」などという言葉が頭の中を流れてしまう。

  不機嫌な表情を保ち、二人は学校から少し離れた場所にあるファストフード店に入った。

  「加奈恵。何食う?」

  「いらない」

  「すいませーん。照り焼きセット一つでドリンクはウーロン茶。あとは・・・りんごジュース一つ」

  ズボンの後ろポケットから財布を取り出してお金を渡すと、浩太は渡されたトレーを持って店の一角へと歩いた。

  腰を下ろすと、口をへのじに曲げた加奈恵を呼んで自分の前に座らせる。

  注文したセットの飲み物とハンバーガーを自分の前に置き、ついていたポテトを二人の間に置く。さらに加奈恵の分の飲み物を加奈恵の前に差し出す。

  加奈恵が座るときにはすでに齧り付き始めていた。

  「部活は?」

  「さぼった」

  「いいの?試合近いんじゃないの?」

  「んなこと言ったって、加奈恵がメール無視すっから」

  自分の前にあるジュースを眺め、飲もうかどうしようか迷っていると、浩太が頬を膨らませながら話を続けてきた。

  「でさ、なんでいきなり別れようってなったわけ?」

  「はあ!?」

  その声は加奈恵自身も驚くほど大きくなってしまい、店員さんや他の客が加奈恵たちの方を見ていた。

  口に含んだバーガーを笑って出しそうになってしまったのか、浩太は懸命に口を押さえて笑っていた。

  ゴホゴホと数回咳込んだあとウーロン茶を喉に流し、加奈恵を見る。

  「お前、声でかい」

  「ってか、何言ってんの!?本気で聞いてる?それ?」

  「マジマジ。なんでか分かんねぇんだけど。だってさ、別に何も無かったよな?」

  「あんたが浮気したんでしょ」

  「浮気?俺が?」

  惚ける気だ、と感じた加奈恵は、浩太から目線を外してため息を吐いた。

  こんな男を好きになった自分が悪いんだと、一六歳にして自分の男運の無さを憂いた加奈恵に、浩太は首を傾げた。

  「した覚えはねぇけど、悪かったよ。俺、加奈恵のこと好きだから、また付き合おうぜ」

  「してた」

  「誰と?」

  「近所の大学生の女の人。デートしてた。それに、この間藤崎さんに告白されてたでしょ」

  「告白は浮気と関係ねぇだろ。・・・大学生って、瞳さんのことかな?瞳さんは彼氏いるし、この間は荷物持ちで買い物付き合わされたけど、浮気はしてねぇし」

  淡々と話をする浩太の顔を観察していた加奈恵は、浩太が嘘をついていないように感じた。

  もしかしたら自分の勘違いだったのか、だとしたらなんと恥ずかしい嫉妬をしてしまったのだろうと、そっぽを向いて誤魔化す。

  「・・・あー。そういうこと?」

  加奈恵の様子を見てニヤッと笑った浩太に、なぜかイラッとしてしまった。

  「加奈恵は可愛いなー」

  恥ずかしさとなぜか悔しさから、加奈恵は席を立って店を出た。

  どこにも寄らず、決して前から目を逸らさずに歩き続けて家に着くと、真っ直ぐに洗面台へと行った。

  鞄を適当に投げると袖をまくって顔を洗いだした。

  「ムカつくー!!!!」

  タオルでガシガシ顔を拭いていると、携帯に着信が入った。

  誰からかを確認すると舌打ちをして自分の部屋に向かう。ベッドに鞄を叩きつけて携帯の電源を切る。

  制服のまま仰向けに寝転がって目を瞑ると、浩太の顔が浮かんでくる。

  青春の一ページなのだが、今の加奈恵にはそんなこと関係無い。ただただなんとなく恥ずかしく、恥ずかしく、恥ずかしい。







  「小野さん、浩太君のこと好きなの?」

  「加奈恵ちゃん、浩太君のことどう想ってるの?」

  藤崎綾乃と、おそらく浩太の言っていた“瞳さん”という大学生が二人並んで加奈恵の前に立っていた。

  こんなに夢に出てくるなんて、実は何か縁があるんじゃないかとまで考えてしまった加奈恵。

  しかし、今日は珍しく浩太の姿は見えなかった。

  「浩太君ね、事故に遭ったんだって」

  ―え?

  「交通事故。ついさっきだって。意識不明の重体で、首は折れてるって。回復は望めないらしいよ。自発呼吸も出来ないから、機械つけてるって」

  ―なんで?

  「『今日は加奈恵に会いに行くんだ』って言ってたらしいよ」

  「浩太君に会いに行かなくていいの?」

  またなんやかんや自分への嫌がらせをしに来たのだろうと思っていた綾乃と瞳だが、二人からの話に加奈恵は一瞬呼吸を忘れた。

  足がなかなか動かず、普通であれば走っていくとか、タクシーを止めるとかするのだろうが、今の加奈恵にそんな平常の考えは浮かばなかった。

  どこの病院かも聞いていないのに、向かっている先には見覚えの無い病院が建っていた。

  何号室かも分からないまま走っていくと、浩太が横たわっているのが見えた。

  綾乃と瞳が言っていたように、浩太は意識が無い様だ。耳からは血が出ており、手足はとても浮腫んでいた。

  ―浩太、浩太。

  声に出して名前を呼んでいるつもりなのだが、声が出ている感覚が無い。

  ピッピッ、と心拍数や脈拍が表示されている機械があるが、それが良い状態なのか悪い状態なのかすら分からない。

  ―浩太、起きてよ。

  いつもなら、鬱陶しいくらいに名前呼んでくれるでしょ。いつもなら、ニコニコしてすぐに返事してくれるでしょ。

  ―まだ何も浩太に言ってないのに。

  浩太の身体に触れようと手を伸ばして見たが、なぜか触れることが出来ない。

  ベッドごと浩太の身体が加奈恵から遠ざかって行き、今自分のいる場所から加奈恵は動く事が出来ないでいる。

  一瞬、真っ暗闇に覆われて目を閉じたが、再び目を開けばそこはまた見たことの無い場所だった。

  ―何処?

  辺りを見渡しても誰もおらず、加奈恵はなんどもなんども首を回して、誰かいないかと探していた。

  いつまで経っても一人きりでいると、加奈恵は思わず不安になって泣きそうになる。

  ―浩太はどこにいる?

  パッと前に見えたのは、小さい頃の加奈恵と加奈恵の家族だった。

  母親の膝の上に座って足をバタバタさせている加奈恵と、父親とチャンバラごっこをしている加奈恵の六歳違いの兄。

  そこで急に夢は途切れた。

  今は遠くで一人暮らしをしている兄と、一緒に住んではいるがあまり話さない父親と母親。

  「・・・浩太」

  ぽつりと天井を見ながら呟かれた言葉に、加奈恵はゆっくりと身体を起こした。

  虚しくベッドの隅に置かれた携帯を手に取ってメール画面を開くと、文字を打っては消し、また打っては消しをしばらく続けた。

  よし、と覚悟を決めて送信すれば、すぐに返事は返ってきた。

  制服から私服へと着替えを済ませると、家の鍵と携帯だけを持って玄関を閉めた。

  そのとき、丁度母親が帰ってきたところだった。

  「あら加奈恵、今から出かけるの?」

  「・・・うん。ちょっと。夕飯までには帰るから」

  「分かった。気を付けてね」

  「うん」

  少しだけ肌寒い中、ワンピースとダッフルコートを着て待ち合わせ場所へと向かう。

  浩太の家から待ち合わせ場所まではそんなに時間はかからないはずなのだが、加奈恵と別れてから何処かに寄ったのだろうか。

  なかなか到着しない、といってもまだ携帯の時間は五分しか進んでいない。

  まだかまだか、と待っていると、後ろから人が近づいてくる気配を感じた。

  「わっ!」

  「もっと可愛い声出せよ」

  ケラケラ笑って登場した浩太はフードのパーカーにカーゴパンツを履いていた。

  手にはホットのココアとカフェオレを一つずつ持っていて、加奈恵の頭の上にココアを乗せたのだ。

  「なんだよ?話って」

  「・・・・・・んとさ、色々考えたんだけど」

  「何を?」

  「色々。でさ、浩太に言っておこうと思って」

  「・・・・・・」

  カフェオレをグイッと飲み干した浩太は、加奈恵の方を見るわけでもなく、飲み終えたカフェオレの缶をじっと見ていた。

  「浩太」

  「ん?」

  「・・・・・・好きだよ」

  「・・・・・・拾い食いでもしたのか」

  こんなときに何を言うか、と文句を言おうと浩太の方を見た加奈恵だったが、浩太のハニカミを見た瞬間、思わず笑ってしまった。

  「我儘になっちゃうけど、もう一回付き合おう。浩太の浮気は見なかったことにする」

  「いや、俺浮気してねぇって」

  しばらくの間、二人はなぜか分からないまま笑い合っていた。

  携帯を開いて時間を確認してみると、母親からの電話が入っていたことに気付き、加奈恵は「あ」と言って顔を顰めた。

  すでに冷たくなってしまったココアの缶を握りしめたまま、浩太を見る。

  「今日はもう帰る。お母さん待ってるから」

  「ああ。じゃあ、明日な」

  「うん。じゃあね」

  ココアの缶を眺めながらニヤついて歩いている自分に、加奈恵は思わず顔を左右に振った。

  幸福感に満たされた加奈恵は、家に帰っても家族に気味悪がられるのだった。







  「はぁ・・・・・・。なんということだ。折角最高の食材となるための調味料を教えてやったというのに。こんなクソ不味いものになってしまうとは」

  徐々に灰色に染まっていく髪の毛の傍らにある、床に捨てられたわたあめ。

  額に手を当て、さきほどからずっと下を向いている黒い男、バクは、自分の前に差し出された「幸」という名の毒に近い塊にため息を吐いた。

  何度も何度もため息を吐いた後、顔をあげて手をどければ、目を細めて大きく口を開けて欠伸をする。

  「とかく人間とは不可思議な生き物だ。他の動物とは違って知恵や言葉を持っていながら、それを大いに活用してはいない。否、活用出来ていない。縄張りや子孫繁栄、弱肉強食という、本来人間を含む動物が持っている本能が薄れはじめているのか。それとも、自分達が最も優れていると思うがあまりに油断している結果なのか。なんにせよ、こんな不味いのはそうそうない。今回のケースが、一部の心理的精神的に幼稚で歪んだ大人であった場合、きっと俺好みの美味な味付けになったんだろうが、まだ子供過ぎたな」

  一気に話すとまだ諦めきれていないのか、加奈恵の夢に変化が現れないかと期待していたが、その後何日経っても、何カ月経っても変化が無かった。

  それどころか、ますます浩太とのラブラブな夢を見るばかりで、バクにとっては食あたり以外のなにものでもなかった。

  トボトボと暗闇の中をさまよい歩いていると、生気の無かったバクの表情が一変した。

  ガバッと何処かの誰かの夢に反応を示し、へばりついていた。

  その姿はまるで、おもちゃ屋のショーウィンドウから中のおもちゃを見ている子供の様だ。

  さっきまでの屍のような表情と動きはどこへやら。目をキラキラさせて涎を垂らしていたバクは、手の甲で涎を拭きながらゴクリと唾を呑んだ。

  「これは美味な夢とみた!」

  バクは嬉しそうにペロリと舌で唇を舐めていると、急に眉間にシワを寄せた。

  「邪魔者がいるが・・・まぁいい。俺の食事の邪魔は誰にもさせん」

  床に捨ててあった先程のわたあめをゴミ箱に捨てると、早速バクは夢の中の観察を始めた。







  「真人くん。血圧測るから、袖まくってね」

  「はい」

  「今日は元気ないわね。どうかしたの?」

  「別に。ねぇ、先生。俺の病気はいつ治るんですか?それとも治らないんですか?」

  真っ白なナース服を着た看護師さんの隣で、白衣を着た年配の男の医者に問いかければ、いつも決まった答えが返ってくる。

  「治るとも。時間がかかるだけだ」

  血圧の器具を外すと、今度はパジャマの前を開けて聴診器をあてられる。

  自分でも分かる心音を他人に聞かれることにも慣れてきて、「奥寺真人」と書かれたプレートのベッドに上半身だけを起こして座っている男の子。

  「よろしくおねがいします」

  母親が先生と看護師に頭を下げる姿を背に、真人は窓の外を眺めた。

  先生が去ってから母親が何か言っていた気がするが、何を言っていたのかは全く聞かずに適当に相槌だけを打っていた。

  最初は六人部屋にいたのだが、なぜか途中から個室へと移されてしまった。

  そんな理由はなんとなく分かっている。きっと自分は悪い病気になっていて、他人に移ってしまう可能性を考えたんだ。

  確かなことは知らないが、そう思っている真人は読みかけの本を開いた。

  小さいころから身体は良くなかった。でも入院だってしたことはないし、小学中学と皆勤だった。

  高校生になってから体調が悪くなって、学校を休みがちになった。

  勉強なんて嫌いだったけど、病院でずっとベッドに座ってるくらいなら、学校の椅子に座って先生に怒られていた方がいい。

  真人は母親と病院関係者以外来ない病室で一人、一日を過ごしていた。

  「助からないなら、さっさとあの世に連れていってほしいよ」

  一番の親不孝だけど。

 



  死者を導くのは死神の役目。

  死者を喰らうのはハゲタカの役目。

  死者を崇めるのは信者の役目。

  死者を裁くのは閻魔の役目。

  死者を唄うのは時代の役目。

  死者を嫌い、死神を嫌い、ハゲタカさえ喰らい、信者を嗤い、閻魔を堕とし、時代とともに人間を憂うのは・・・・・・




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登場人物紹介

バク:夢の中の住人。人間たちの夢を食べて生きている。

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