第6話

文字数 15,581文字



夢喰いバク
悪夢解放


    いい日は幾らでもある。手に入れるのが難しいのはいい人生だ。 アニー・ディラード







































































            第六品 【 悪夢解放 】









































  「はぁはぁ・・・。また見ちゃった・・・」

  ベッドからゆっくりと下りて洗面台に向かうと、勢いよく水を出して顔を洗う。

  顔の横に項垂れる髪の毛からも水が滴り落ち、ぐるぐると螺旋を描きながら排水溝へ流れて行く。

  そんなとき、携帯電話が鳴った。この部屋の住人である“米倉舞”のものだ。

  水を止めて、再びベッドに向かうと、枕の横で布団に埋もれている自分の携帯電話を見つけて、耳に当てた。

  「はい、米倉です」

  仕事の電話のようで、舞はただ「はい、はい」と返事を繰り返していた。

  電話を切ると、ため息を吐きながら自分の部屋を見渡し、その後で壁にかけてある、いつも着ているワイシャツとスラックスを見つめた。

  時計の針を確認すると、慌てた様子もなく着替えを始めた。

  歩いて三十分ほどの場所に舞の仕事場はあり、いつものように舞はタイムカードを押すと、自分の椅子に座った。

  「おはよう、舞」

  「おはよう」

  「どうした?また例の夢でも見たの?」

  「うん、まあ」

  肩あたりまであった髪の毛を後ろで一つに縛ると、事務仕事を開始。

  パソコンをパチパチ打っては上司のところへ確認し、また席に戻っては同じ作業を行う。

  仕事は決して楽ではないし、楽しいわけでもない。この仕事の良いところと言えば、定時に来て定時に帰れるところだ。

  朝遅刻さえしなければ何も言われず、自分の仕事をやるだけやれば、毎日同じ時間に帰ることが出来る。





  以前、舞は別の仕事をしていた。

  今と同じ事務の仕事ではあったが、朝は早く起きて机を拭くことから始まった。

  自分が間違えたことでなくてもひたすら頭を下げて謝っていたし、新人が上司に媚びて仕事を放棄したときだって、尻拭いをした。

  理不尽だとか不公平だとか、そんなこと考える暇もなかった。

  夜は定時に上がれることは滅多になく、タイムカードを切った後で数時間のサービス残業をしていた。

  もうこれは法的に違反だと思ったこともあるが、能力とともに給料も比例するシステムだったため、文句は言わなかった。

  しかし、ある日を境に、舞は「早く帰る」ことにこだわるようになった。

  「じゃあさ、舞、そろそろ彼氏作りなよ!もう何年いないの?」

  「え!?なんでそうなるの!?」

  お昼時間。舞は友人と話をしていた。

  「今度、大学の友達と連絡してみるからさ!ね!舞にも青春が来るように!」

  「青春って・・・。私もう今年三二なんだけど・・・」

  コンビニで買ってきたおにぎりとパンを頬張りお昼を終えると、午後の五時半までまた事務仕事をした。

  定時になり上司に挨拶をして家に向かって歩いていると、大きな満月が見えた。

  一般の女性であれば、「綺麗」とか思うのだろうが、舞にとってその満月は恐怖の象徴であり、トラウマでしかなかった。

  部屋に入るとすぐ服を脱ぎはじめ、風呂場へと直行する。

  シャワーを出して頭から浴びると、そのままシャンプーへ手を伸ばし、女生徒は思えぬほど乱暴に洗い始めた。

  わずか一〇分で風呂場から出てくると、上下ジャージ姿、肩にはタオルをかけながら出てきた。

  ビールでも飲もうかと冷蔵庫を開けるが、水と納豆以外何も入っていなかった。

  「・・・なーんもないな」

  それほど広くもない冷蔵庫の中を一回り見ると、舞はぐしゃぐしゃのベッドに横になった。

  「仕事嫌だな・・・」

  携帯電話で音楽を流しながら目を瞑ると、徐々に眠くなってきた。

  ―ヤダ。ヤダ。またあの夢を見るかもしれない・・・。





  満月の綺麗な夜だった。

  コートを着ないと寒いくらいの季節だが、セーターを着ているためか、ヒートテックを着ているためか、充分寒さを凌げている。

  舞は仕事帰り、一人で歩いていた。

  仕事場からアパートまでの道のりには、コンビニだって数件あるし、民家だってある。

  街頭も二、三mの間隔で足下を照らしてくれているため、舞にとって不便でもなければ、怖いと思ったこともなかった。

  もうすぐでアパートにつくというとき、コンビニによって飲み物とおつまみを買って行った。

  「明日休みだ―!今日はビールのんでー、この前録った映画見よーっと」

  口から出す息は微かに白くなり、空へと消えていくのを見ながら、舞は夜の予定をたてていた。

  ―コツ・・・コツ・・・

  後ろから、誰かの靴音が聞こえてきた。しかし、何もアパートに住んでいるのは自分だけではないし、近くには他の民家だってある。

  残業帰りのお父さんたちかもしれないと、舞は特に気にしていなかった。

  鼻歌交じりに歩いていた上機嫌の舞だったが、ふいに誰かに腕を引かれ、力任せに歩かされてしまった。

  「??ちょっと!話して下さい!」

  腕を掴んだ人物へと視線を送ると、見知らぬ男の人だった。

  乱暴に掴むその腕を何とか払いのけようともがいたり、出来るだけ大きな声を出して助けを求めたりもした。

  誰も助けに来ぬまま、二人は公園のトイレへと着いた。

  「いい加減にしてください!何なんですか!?警察を呼びますよ!」

  「うるさい女だ」

  「は!?」

  男に対して文句を言おうとした舞だが、急に視界がくるりと変わり、背中に冷たく硬い感覚を覚えた。

  ここはトイレだ。トイレの床に寝るなんて始めてだ。

  そんなことを考える余裕があったのは最初のうちで、男は寝かせた舞の上に跨ると、いきなり舞の首に唇を這わせた。

  「!!!!!!!」

  気持ち悪さに気付き、先程よりも大きな声で叫ぼうとするが、口の中にハンカチを入れられてしまう。それも、自分のハンカチを。

  口の端から出てしまう自分の唾液さえ、今の状況では何とも気持ち悪いものだ。

  これから自分に何が起ころうとしているのか、分かるのだが知りたくはなかった。

  雑に破られる自分の服に、脳内に纏わりつく男の笑い顔と声。

  ほんの十分ほどの出来事だったのだろう。舞にとっては地獄の数時間にさえ思え、男が立ち去ってからもしばらくの間は起き上がれなかった。

  自分の部屋に着いたのは、夜中の一時過ぎ。

  ぼんやりとベッドに腰掛けていた舞だが、自分にされたことを思い出すと、自分の身体が気持ち悪くて、何度も何度も身体を洗った。

  肌が赤くなり、痛いとさえ思ったが、それでも綺麗になったとは思えなかった。

  『君だって、本当は気持ちいいんだろう?』





  「・・・!!!」

  がばっと勢いよく起き上がると、そこは自分の部屋だった。

  「はぁ・・・。夢か。だよね」

  額には若干汗をかいており、舞は掌で軽く汗を拭うと。ベッドから下りて水を飲みに行った。

  仕事場を変えてからは、さほど距離は変わっていないが引っ越しをし、定時に帰れるようにもした。

  定時にあがることが出来れば、夜に帰るよりも大勢の人がいる。

  警察に被害届を出したが、実際警察に行って話しをしてもすぐに犯人が捕まるわけではなく、満月だからといって顔をちゃんと見てもいなかった。

  いや、あの状況で顔など見られるだろうか。

  「もうちょっと寝よう」

  少し冷たくなった布団にもぐると、大きく欠伸をして夢に戻った。







  「おや・・・?」

  暗闇の中をさ迷い歩く男、バクは今舞の夢を見ていた。

  「この娘、確か・・・」

  以前にも夢を見たことがあるのか、舞の夢を見ては首を傾げ、納得したように頷いてはまた首を傾げていた。

  椅子に腰かけて足を組むと、手を顎に添えて目を瞑ると、眉間にシワを寄せたままうーん、と唸ってしまった。

  数分経った頃、バクは目を開けて息を吐く。

  「そうかそうか。やっぱそうか。前にも食べたな、あの夢は。なんでまだ見てる?そんなにトラウマなのか?」

  クツクツと嗤って足を大の字に広げると、バクは舞の夢を見ながら首を大きく左右に振り、鼻歌を歌い始めた。

  「面白い人間はまだまだいるんだな。一方で、つまらん人間も多く存在する」

  自分の唇を舐めると、バクは真上、つまり舞の夢は全く見ずに、音だけに集中しようと耳を傾けた。

  頭の中では舞の夢を再生しつつ、過去の思い出にも浸っていた。





  ―数年前

  バクは見かけは変わらず、性格も変わらず、人様の夢を物色していた。

  先程食した夢が相当不味かったのか、バクは酷く不機嫌で、髪の毛を真っ黒にしたまま舌打ちを連続でしていた。

  イライラしたまま夢の中を歩いていると、ふと気になる夢が視界に入る。

  その夢の中の住人は二十代の女性と思われ、夜中一人で歩いていた。そこまではよくある日常の夢だろうと思っていた。

  だが、女性は知らぬ男に腕を掴まれどこかへ行き、そのまま襲われていた。

  叫ぼうにも叫べぬ状況になり、男はただ自らの欲を満たす為、快感を味わうためだけに女性を傷付け、女性は涙を流し苦痛に耐えた。

  満足した男は、バクから見ても気味の悪い満面の笑みを浮かべて女性から去って行った。

  一方、女性はしばらくその場から動くことが出来ず、夢はそこで途切れた。

  それからというもの、バクは頻繁にその夢を見ることになるが、途中で消えることもあれば、最後まで見られる時もある。

  バクにとって興味があったのは、数回同じ夢を見る人間は多々いるが、こうも多いのは始めてだったことと、その内容だ。

  自分が被害にあっている夢、というよりは、それを客観的に見ている夢なのだ。

  あまりの出来事で他人事のように思っているのだろうと思っていたバクは、何度か夢を見てから、その夢を残さずに口にした。

  苦みと甘みと渋みと若干の辛みの交じったその夢は、バクにとって御馳走だった。

  一瞬にしてバクの髪の毛は眩しいくらいの金色に変わり、その表情は恍惚としていた。



  「俺に夢を喰われたくせに、生意気にまた同じ夢か」

  目をゆっくりあけて舞の夢に目を向ければ、口角をあげてニヤリと笑い、ガバッと身体を前のめりにした。

  そのまま勢いよく立ち上がると、夢を食べるための準備を始めた。

  そんなことを知らない舞は、うとうととした中で合間合間に、見たくない夢を繰り返し見ていた。

  ピピピピピピピピピピピ・・・

  十分おきに鳴る様にしておいた携帯のアラームがなり、バッと目を開けると、心臓がバクバクと速く動いていた。





  「まーい!明日飲み会セッティングしたから、来ない?格好いい人来るって~!」

  「・・・私はいいや。明日は一日ゴロゴロするから」

  「えー。折角のチャンスだよ?そろそろ結婚とか考えないの?」

  「結婚?翠は結婚したいの?」

  「当たり前でしょ!仕事出来ないし、あんまり昇進しないし・・・。一日でも早く結婚して、寿退社するの!」

  「へー・・・。頑張ってね」

  あの日からというもの、男性に対して酷く警戒心を持ってしまっている舞。

  同僚に対してはもちろんのこと、仕事上では尊敬をしている上司でさえも、一定の距離を保っている。

  悪いのはあの日のあの男なのに。

  「あー!吉永くん!吉永君、明日暇?暇なら、飲み会行かない?」

  「飲み会?」

  吉永というのは、舞たちの同僚であり、出世出来るはずなのになぜか出世を拒んでいる、将来有望な若者、のはずだ。

  舞はあまり話したことはないが、同僚たちからも先輩達からも慕われている。

  「米倉さんも行くの?」

  「え?私?私は行かない・・・」

  「そうなの?じゃあ、俺もいいや」

  「えー、なんでー?いいじゃん」

  少し対談をして、正確には舞の友人の翠と吉永が話しをして、互いに仕事場へと戻って行った。

  その途中、翠がなぜか嬉しそうにフフフ、と舞を見ながら笑っていた。

  「・・・なに」

  「フフフフフフフフ・・・・!吉永くんと舞かー・・・。意外と合うのかもね」

  「は?」

  「恋が芽生えるのも時間の問題ってことね」

  「恋?」

  隣でずっと笑っている不気味な友人に冷たい視線を送りながら、舞はパソコンを開いて作業を再開した。





  アパートに帰ってシャワーをかるく浴び、ビールを飲みながらテレビを見る。

  実家から届いたタオルやチンすれば食べられるご飯などの詰め合わせは、舞にとっての必需品にもなっている。

  レンジで数十秒温めて、その上にレトルトのカレーをのせて食べる。

  なんとも女性らしからぬ食事光景だと分かっているし、改善しなくてはいけないとも思っているが、挫折した。というか、面倒臭かった。

  一人分の食材を買ったところで腐らせてしまうし、賞味期限も何度切れたものを口にしたことか。

  テレビも一周して見るものがないと、舞はテレビを消してソファに転がる。

  「・・・私は孤独死するのか」

  ぽつりと呟いた言葉に、舞は自分でも思わず苦笑いしてしまった。

  そのまま寝静まって数分、また同じ夢を見たのだが、徐々に暗闇に紛れて行く。

  「う~ん・・・。相変わらず美味いな」

  パクパクと子供でもあまりの甘さに飽きるわたあめを、バクはものの数秒で平らげてしまった。

  「これで夢は見なくなるはず・・・」

  ちらっと舞の夢を見てみると、暗くなっているのが見えた。背中を向けて別の夢を探しに行こうとしたとき、何やら違和感を覚えた。

  食べ尽くしたはずの夢は、再生されていた。

  目を見開いて舞の夢に近づき、まじまじと夢を観察してみても、他の夢と変わった点は見られず、バクは首を傾げた。

  そして何を思ったのか、バクは暗闇の中を駆け抜けて行き、とある場所についた。

  書庫室の様だが、本はきれいに本棚に整理されているわけではなく、あちらこちらの空中に漂っている。

  その中から迷わずにある一冊に手を伸ばすと、数時間かけて分厚い本を読み進めた。

  口を僅かに開けて微かに動かしながら読みふけたあと、バクはまた舞の夢までいき、何度も何度も夢を食べてみた。

  それでも舞の悪夢は消えなかった。

  「なるほど。となると、この夢は・・・」

  ―夢の連鎖反応。

  一つの答えに辿りついたバクは、別の夢を探し始めた。

  「これか」

  ぴたり、とバクが足を止めた先には、見覚えのある夢。見覚えはあるが視点は異なる夢。

  卑下た男の笑い声とともに、女性を組み敷いて非道な行為をしている夢は、バクから見ても悪趣味だと感じた。

  だが、悪趣味の夢と夢の味は比例するとは限らず、反比例とも限らない。

  ―ひとまず、こいつの夢を見てみるか。

  連鎖反応という言葉は正しいのか、共鳴といったほうがいいのだろうか、それとも同調とでもいうべきなのか。

  自分の想い人となら良いことでも、悪夢の元凶が相手だ。

  男の夢を覗いていたバクは、ただただ男の快楽に溺れる感覚が不快で仕方なく、途中で投げ出した。

  「楽しい思い出、忘れたくない思い出、大切な思い出。それらが夢に現れるのは実に面白くないが、こいつの夢は似ているが違う。ムカつくな」

  自分の夢の中で何が起こっているか知らない男は、夢から覚めるとダルそうに首を回す。

  生欠伸をしながら洗面台に向かい、ボサボサの髪の毛をガリガリとかく。

  コップにさしてあるはみがきを持って、あるかないかくらいの量の歯みがき粉を少しだけつけて歯を磨く。

  仕事の準備をして仕事場につけば、男はピシッとした背広で椅子に座った。

  「本庄部長、おはようございます」

  「おはよう」

  朝から仕事をテキパキこなすその姿は、まさしくエリート。

  会社は何十キロ離れた場所からでも分かるほどの高さがあり、外壁は鏡のように眩しく、一方でグリーンカーテンがちらほら見える。

  社内は白で埋め尽くされており、食堂もレストラン以上に広く豪華だが、一般の人でも入って食べられるようになっている。

  本庄と呼ばれた男は、昼になると社外へ行き、適当な店で食事をとった。

  午後の会議を終えると、男は定時より少し遅めに会社を出た。

  一旦家、といっても高い高いマンションに帰ると、透明のテーブルに置いてある何年か前に購入したノートパソコンを開いた。

  どこにも繋がっていないそのパソコンのフォルダの中には、愛らしい動物達や自然の画像が入っていた。

  横にある棚からCDを一枚取り出すとパソコンに入れる。

  ”ストレス解消の癒しの音楽”と書かれたそのCDからは、ザザー、とほどよい心地になる波の音や、鳥の囀り、ハープの音が流れた。

  一時間ほど聴いたあと、男は鼻歌を歌いながらシャワーを浴びた。

  必要ないくらいに大きいテレビをつけると、ソファに腰掛けて缶ビールをグビグビ飲んだ。

  ピッポウ、ピッポウ、ピッポウ・・・

  あまり聞かない着信音が聞こえてきたため、男は身体を伸ばせるだけ伸ばして携帯電話を取って電話に出た。

  「もしもし、本庄ですが」

  『・・・・・・』

  「もしもし?どちら様ですか?」

  『・・・ツーツーツー・・・』

  何も言わずに切られてしまった電話に首を傾げながらも、男は再びビールを口に運んだ。





  「・・・これはどうやって使うんだったかな」

  暗闇の中、何かの小さな機械に四苦八苦しているのは、どうやらアナログには弱いデジタルな夢の住人。

  多分、どうにか使うと現代の人に連絡が取れるのだろうが、使いこなせていない。

  どうにか動かそうとしていたバクだが、全く動かせない機械に徐々に苛立ってきて、暗闇の中へ放り投げた。

  「もし、今夜も同じ夢を見るようなら、こいつは相当の悪だな」

  腐りかけのリンゴを頬張り、バクは眉間にシワを寄せた。

  しばらくすると、目の前に男のものと思われる夢がザザザ、と見え始めた。

  静かな夜が流れて行く光景は、男のものと思われる。

  他の人間たちと異なることと言えば、バクにも伝わる男の不気味なまでの己自身の欲望と切れた理性の入り混じる“舌舐めずりの感情”であろうか。

  多少ズレた感覚をもっているとはいえ、男のバクでさえも気持ち悪さを感じるのだから、女性にとってはそれ以上に感じるだろう。

  「お」

  視界に入る女性は、きっとバクも知っている女性だ。

  今バクが感じ取っている男の脳内は、“羊を見つけた狼”といったところだ。

  何かを頭に乗せる感覚があった。きっと自分の着ているフードを、顔を隠すために被ったのだろう。

  そのまま男は女性の後をしばらく着いていき、警戒していないかなどをチェックしていた。

  女性は公園の横を通り過ぎ、近くに建っているアパートに向かって歩いて行こうとしたのが分かった男は、いきなり走り出した。

  力付くで女性の腕を掴むと、公園の中に入り、今は使われているのは分からない様なトイレへと入っていく。

  乱暴に女性を床に押し倒すと、男は女性の服に手をかけ、首に顔をうずめた。

  その後は、女性の嗚咽交じりに咽ぶ声と、男の息遣いだけが空間を埋め尽くした。

  「何が愉しいのかさっぱりだ」

  男の夢を見終えたバクは、口直しにリンゴジュースを飲み出した。とはいっても、リンゴを片手で潰したところに口を持っていっただけなのだが。

  行儀の悪い飲み方をしたところで、バクはニヤリと口角をあげて暗闇に消えていった。

 





  「本庄部長、この資料を確認していただけますか」

  「ああ。そこに置いておいてくれ」

  「はい」

  身だしなみの整った本庄は、何も知らない女性たちからすれば魅力的なのかもしれないが、それは虚構。

  「本庄部長。本庄部長に会いたいという方がお見えになっておりますが、どうなさいますか?」

  「今日は誰にも会う予定は無かったはずだが」

  「ええ。しかし、どうしてもお会いしてお話がしたいと・・・・・・」

  「そうか。わかった。十分したら行くと伝えてくれ。下にいるんだろう?」

  「そうです。では、伝えておきます」

  特に大きな仕事を抱えている最中でもなく、知り合いという知り合いもいない。

  一応身だしなみと、名刺を持っているかを確認すると、本庄はエレベーターとエスカレーターを使って待合室まで歩いた。

  キョロキョロと辺りを見渡すと、綺麗なブラウンの髪の毛を指に絡める青年の姿があった。

  「お待たせしました。私になにかお話があるとか」

  「・・・・・・ああ。はじめまして」

  本庄の呼びかけに気付き、ゆっくりとこちらに顔をむけた青年は、ごくりと唾を飲むほどに綺麗な顔立ちをしていた。

  鼻筋もスッとしており、唇は薄いが血色が良いからか少し口紅をつけたように赤い。

  二重の瞳は若干釣り目で、まつ毛は長く、ハーフなのか日本人ではないのか、アイスブルーの色を輝かせていた。

  グレーのTシャツを一枚と、最近はあまり見かけないダボダボしたズボン。

  青年を椅子に腰かけるように促すと、本庄は待合室にある自販機に自分のカードを当て、缶コーヒーを二本手に取った。

  「コーヒーでよかったかな」

  「ありがとうございます」

  フッと口元を緩ませて御礼を言う青年に、本庄は笑みを返した。

  「それで?話と言うのは?君とはどこかで会ったことがあるのかな?」

  「いいえ。ありません」

  「では、なぜ私に?」

  貰った缶コーヒーを両手で挟み、その間でコロコロ転がしていた青年が、動きを止めぬまま本庄の目をじっと見据えた。

  「見たんですよ」

  「?何をかな?」

  「あなたが、女性に乱暴したところを、です」

  一瞬、指先に力が入り、さらに顔を硬直させてしまった本庄だが、すぐにいつもの爽やかな笑顔に戻る。

  「なんのことかな?」

  ゆっくりと、囁くように言葉を紡ぐ青年の声に、本庄は耳を傾けた。

  丁寧に椅子に座っていた青年だったが、ふう、と一息吐いたところで、上半身を背もたれに預け、軽く首を傾げながら本庄を見る。

  そして、妖艶に笑う。

  「僕は思わず、その光景に、虫唾が走りました」

  「・・・・・・」

  淡々と話を続ける青年に対して、本庄の心臓はドクンドクンと大きな音をたてて身体中の血液を脳へ巡らせる。

  「理性とは、人間に与えられた能力の一つ。言葉もまた然り、です。しかしながら、あなたは、理性を制御しきれず、貴方自身の、本能、欲望、に従い、実行した。結果、あなたは“ひとときの快楽”を得、女性は“一生消えない傷”を得た。それはアンフェアであると、僕は思いました」

  「ハハハ、待ってくれ。君はさっきから何を言っているのかね?私が女性に?断じて有り得ない。神に誓おう。私は決して女性に乱暴などしていない」

  渇いてきた喉を潤す為に、自ら買った缶コーヒーを口に入れる本庄だが、青年の視線をずっと感じる。

  ちらっと腕時計を確認する素振りを見せると、本庄は逃げるように言う。

  「では、私はそろそろ仕事に戻らないと。申し訳ないね。君はその正義感を持って、本当の悪者を退治してくれ」

  立ち去っていく本庄の後姿を、青年はじっと見ていた。

  待合室のドアが閉まる瞬間、青年の表情は優雅で、ゆっくりと口元を緩めながら徐々に歯を見せて弧を描いた。

  バタン、と完全に閉まったドアの中では、手に持っていた缶コーヒーを開けずにゴミ箱へと放り投げた。

  「見苦しい男だ」

  椅子から立ち上がると、待合室を出て本庄のいる会社から抜けだした。

  外の風を受けてなびくブラウンの髪の毛。全てを見据えているような蒼い瞳。街を抜けて行く青年の姿は、次第に消えて行った。





  「舞~、合コン合コン♪」

  「行かないってば。私は真っ直ぐ家に帰る」

  「舞が来ないと吉永くんも来ないじゃない。吉永君が来ないと、男性陣に華が無いじゃない。というわけで、舞行こう!」

  「何よそれ」

  帰り支度をさっさと済ませた翠は、化粧もばっちりしてあり、いつもはスキニ―を穿いているのに今日はスカートだ。

  分かりやすい友人に思わず笑っていると、翠は首を傾げる。

  「ね!お願い!」

  「いーや。明るいうちに帰るの」

  わざとらしく頬を膨らませた翠だが、渋々了承し、諦めて舞を置いて先に退社した。

  まだ仕事をしている先輩に挨拶をすると、舞は上着のポケットに両手を突っ込み、足早に帰宅した。

  帰るとすぐにカーテンを閉め、ベッドに腰掛けてしばらくボーッとした。

  枕をギュッと抱きしめて、未だに電気を点けていない部屋の隅を眺めていると、携帯が音楽とともに震えだした。

  「・・・どうしたの?今、お楽しみ中じゃないの?」

  『ヘヘヘ~。まあ、そうなんだけどさ。舞がいないと寂しいよ~』

  「翠って呑むとそんな感じになるんだっけ?」

  『あっ!そうだ!トイレに行こうと思ってたんだ!じゃあまたね!』

  勝手にかかってきて、勝手に切れてしまった電話とその相手に、呆れながらも思わず笑ってしまった。

  ベッドから下りて電気を点け、寝る準備をする。

  「ふぅ」







  「これはいいな」

  足を組んで椅子に座る男、バク。

  目の前にあるのは、いつもは一つの映像だったのだが、今は二つの映像を並べてあった。

  バクから見て右側には所謂“加害者”の夢があり、左側には“被害者”の夢があり、それらは同じ内容のものではあったが、視点が真逆であった。

  舞の夢を食べた日、舞の夢は消えることはなかった。

  それは加害者、本庄が未だに夢を見続けていることが関係しており、運命の赤い糸ならぬ、因縁の黒い夢。

  きっと、本来の舞の記憶は断片的なものだった。

  しかし、本庄が夢に対する、夢の中で見ている過去の事実に対する強い思いによって、舞の夢にも影響が出てきてしまっている。

  客観的な視点から言うのであれば、バクにとって両者の夢は“見飽きた”。

  餌でしかない夢にこだわる理由があるとすれば、それは食べたはずの夢が再生されていることだ。

  その日から、バクは舞の夢を食べ続けることにした。

  数日経っても、数カ月経っても、舞が悪夢から解放される事はなく、バクはしばらくの間、オレンジ色の髪の毛で生活をしていた。





  「吉永君、これ来週使う資料なんだけど」

  「ありがとう、米倉さん」

  コピーした資料を吉永に渡して自分の机に戻ろうとした舞だったが、ニッコリ笑った吉永の言葉によって、制止された。

  「米倉さんって、見た目と中身すごくギャップあるよね」

  「は?」

  内心、この野郎とも思った舞だったが、周りには上司もいるため、グッと堪えた。

  「そんなものないと思うんだけど」

  「あるよ。どんなギャップか言ってみようか?」

  「結構です」

  唇を少しだけ尖らせながら机に戻ると、上層部らしき人が現れ、上司のもとへいって何やら興奮気味に話をしていた。

  話を聞いた途端、上司は大声で叫んだ。

  「皆聞け!大手会社から仕事の依頼があった!これからすぐに打ち合わせに行くから・・・米倉!」

  「はい!?」

  「暇そうだな!一緒に行くぞ!」

  「暇じゃありません!」

  定時に帰れなくなる、と瞬間的に悟った舞は必死に理由をこじつけたのだが、結局上司と一緒に打ちあわせに行くことになってしまった。

  タクシーに乗って着いた場所には、高い高い、それはもう高い建物があった。

  思わず見上げてしまった舞に、上司が急かす様に名前を呼ぶ。

  案内されて辿りついた部屋には、絶対に必要無いと思われる調度品が並んでおり、舞は口を開けて眺めていた。

  「ここでお待ち下さい」

  丁寧にお辞儀をして出ていった秘書を見届けたあと、数分後に社長と思わしき男の人が部屋に入ってきた。

  軽く挨拶をして仕事の話をすると、時計の針は定時を過ぎ、夜八時を回っていた。

  エレベーターを降りて、出口へ向かうためのエスカレーターに乗っていたとき、ふと、舞は視界に入った何かに拒絶反応を覚えた。

  「!?」

  「米倉、どうした?」

  「いえ・・・・・・」

  キョロキョロ辺りを見渡してみると、舞は一瞬にして目をこれ以上ならないくらいに大きくした。

  顔を逸らして会社を出ると、上司に挨拶して早歩きで帰っていく。

  「嘘でしょ。有り得ない」

  はぁはぁ、と小さく肩を上下させて呼吸を整えるが、目を閉じれば先程目にしたものを肯定せざるを得なくなってしまう。

  間違いなく、“あの日の男”であった。

  会社にとっては利益となる最高の出来事であったが、舞にとっては脳裏に焼きついた過去の事象を思い出す最悪の出来事だった。

  毎回のように見ていた悪夢だが、その日から、恐怖のあまり途中で起きてしまうようになった。

  「ほう・・・・・・。何やら動きがあったようだな。それにしても、やはりこの夢は消えないか。どうしたものか」

  あれから何度も夢を喰い、試行錯誤を全くせず夢を喰い続けたバクだが、今に至る。

  首を右に傾けて夢を見、逆に傾けては夢を見、また逆に動かして見てはを繰り返しているうちに、バクは一応考えた。

  「そうか。男の方を消せばよかったのか」

  一人で解決した様子のバクは、一旦舞の夢を見るのを止め、本庄の夢の中身に集中することにした。

  本庄の夢は相変わらずのものだった。







  「同じ夢は見飽きないのか」

  「なんだお前は」

  本庄の夢に語りかけたバクの前には、舞を襲ったばかりの本庄の姿があった。

  バクをみるなり眉間にシワを寄せていたが、欲を出しきったからか、清々しさの残る表情をしていた。

  そんな本庄に興味のないバクは、クンクンと犬のようにあたりの臭いを嗅ぐ。

  何を不審者のようなことをしているのかと思っている本庄だったが、バクはウンウン、と首を上下に動かすと、本庄に向かって歩いてきた。

  ニヤリと笑うバクに、本庄は逃げようと一歩後ずさってみたが、なぜか足が動かなかった。

  「人間とやらは、自分の過ちには気付きにくい生き物だな」

  「はあ?」

  「均衡は取れないと知りながらも、生きて行かなければいけないとは・・・不憫だ」

  「さっきから何を言ってるんだ」

  痺れを切らした本庄が、鼻で笑いながらバクに話しかける。

  「お前は誰だ?」

  「それは大した問題ではない。ここで問題視すべきことは、何故人間は同じ過ちを繰り返すか、ということだ」

  「さっきからわけのわからないことを・・・」

  本庄がバクに文句を言おうと距離を縮めると、バクの姿が一瞬見えなくなり、気付くと本庄の後ろに立っていた。

  びっくりした本庄が慌ててバクから離れようとすると、バクと目が合う。

  真っ赤になったバクの目に、身体の自由は奪われ、口角の隙間から見える牙は、本庄の動物としての本能が危険を察知した。

  「ああ、そうだ」

  バクが顔を本庄から背けた瞬間、本庄は一気に走ってバクから逃れようとした。

  しかし、本庄に背を向けながら、バクはククク、と喉を鳴らして、本庄の許へと飛んでいった。

  「そう急ぐな。お前の快楽も欲望も、もうじき消える」

  「はぁはぁ・・・何なんだお前!!」

  本庄の目に映ったのは、口を大きく開けているバクの姿・・・・・・。





  「まずまずだな」

  ペロリ、と唇についたわたあめを舐めとったバクは、砂嵐だけが流れる映像を眺めていた。

  そして少し経つと、目の前の映像は何かを映し出し、バクは頬杖をついて大きな欠伸をしてそれを見る。

  なにも映っていない真っ暗な夢。それはさっき夢を食べられてしまった本庄のものだった。

  首を傾けながら動かないバクだが、左手をスッとあげて椅子の肘かけをコンコン、と叩くと、どこからか何かが飛んできた。

  真っ黒の正方形の箱には、鍵を差し込む鍵穴は見当たらず、ブラックホールのようだ。

  その黒い箱がバクの膝にまで飛んでくると、バクは何の言葉か、何処の国の言葉か、何と発音しているのか分からないような言葉を発した。

  それと同時に、黒い箱からは様々な色の物体が飛び出て来て、本庄の夢へと入って行った。

  目の前の映像には本庄の姿と、さきほど飛び出て行った物体が映し出されていた。

  「なんだ!?これは!?」

  驚いている本庄は、すでに舞を襲った記憶は残っていないと思われる。

  本庄の周りを飛び交うその物体は、今までバクが食べ尽くした夢の中でも悪夢だけが集まったものだ。

  「どこまで耐えられるか、見物だな」

  いかにも興味無さそうにしているバクは、映像の中の本庄さえ見ようともせず、目を瞑って静かに音楽でも聴いているかのようだ。

  夢の中で悪夢を見せられている本庄は、しばらくすると意識を手放した。

  それに気付くと、バクは本庄の夢の中で暴れている悪夢を呼びよせ、黒い箱の中へと再び戻した。

  照明が暗くなるように本庄の映像も暗くなると、バクは満足気に笑いながら暗闇へと姿を消した。



  しばらくして、本庄は目を覚ました。

  そこはいつもの自分の部屋だったのだが、何かが違う様な、足りない様な・・・・・・。

  それが何か分からないまま会社に向かうと、いつもはなんなくこなせる仕事が、なかなかはかどらなかった。

  毎日そうした仕事をしていると、本庄の評判は徐々に落ちて行き、地位も危うくなる。

  異動が出たかと思えば、それは本庄が最初にいたころの仕事ばかりで、それ以来、本庄は会社の隅に追いやられることとなってしまった。

  一方、舞は順調に仕事をこなしていた。

  「舞―、これってさ」

  「ああ、それは後でまとめて処理するから、そこ置いといて」

  なぜだか、気分がすっきりする日々を送れている舞は、それが何故かは未だに分からなかった。

  今まで毎日のように見ていた悪夢を見ることもなくなり、少しずつだが忘れられるようになってきた。

  「舞、舞」

  「何?」

  「吉永くんとはどうなってるの?」

  「吉永くん?どうもなってないけど」

  相変わらず恋愛トークをしたがる友人の翠に半ば呆れながら、舞は先日の出来事を思い出す。

  大きな仕事だと喜んだ“あの男”のいた会社の株が下がって行き、「話は無かったことに」と舞の会社から言ったようだ。

  何があったのか分からないが、舞にとっては嬉しいことであった。

  夜が怖くて、一人で道を歩くのが怖くて、男の人を見るだけで距離を取ってしまうようにもなり、仕事も変えて服装も変えた。

  でも、今はもう平気だ。

  「米倉さん」

  「吉永くん?どうかした?」

  「明日休みでしょ?ご飯でも食べに行こう」

  ニコニコと笑みを浮かべながら舞に話しかける吉永に、いつもなら断るところなのだが、気分がすっきりしている今の舞は違った。

  「いいけど、明日飲み会あるって聞いたよ?吉永くんも行くんでしょう?」

  「飲み会には行かないよ。折角米倉さんがOKしてくれたのに。じゃあ、決まり!また後で連絡するよ」

  手を振って、資料を持ったまま去っていた吉永を見ていると、後ろから笑いを堪えている声が聞こえてきた。

  それが誰か瞬時に分かった舞は、後ろを振り向きざまに頭をコツン、と叩いた。

  「ヘヘヘ、よかったじゃない!舞にもついに、やーっと春が来たわね!」

  「・・・・・・春ねぇ・・・・・・」







  「さて、無作為抽出の末に選んだ夢がアレで正解だったな。若干ムカつきはあったものの、俺の見極めは間違いではなかったな。さすが俺と言うべきか。教え子に恋心を抱いた中年の儚い夢、自らのことしか考えていない政治家の浅はかな夢、純粋すぎる子供の現実逃避の夢、彼氏とどうのこうのという女子高生の幼稚な夢、死神に喰われそうになった病人の拙い夢、立場はどうであれ、過去を忘れられずにいた男女の喰い違う夢。どれもこれも人間の欲や自尊心、己を可愛いと思うあまりのものだ。憐れで虚しい」

  暗闇の中に響き渡る一人の男の声。

  嘲笑うようにして見えた白い歯が、ただただ暗がりの中にはっきりと浮かんだ。

  辺りは真っ暗闇だというのにも係わらず、男は何の迷いも無く進んで行き、ぽつり、ぽつりと浮かぶ灯りに向かって行く。

  吸い込まれるように、引き寄せられるかのように、はたまた、餌を見つけた猛獣のように。

  「この世は決して幸福じゃない。だからこそ俺の空腹は満たされる。夢を見ることで苦しむ者もいれば、反対に歓喜する者もいる。現実から離れた世界でしか赦されない愛、夢、理想、生死、欲望・・・・・・。そんな世界に生きていて何が良いのか、俺には理解出来ないね。百年後には何人の人間が残っているのか分かりかねるが、まあ、ほとんどがいないだろう。これから先、もっと美味い夢を見る人間がいることを願うとしよう」

  灯りを上から覗きこめば、誰のものとも分からない夢が広がっていた。

  いつの間にか持っていたリンゴに力をこめると、リンゴはいとも簡単にその原型を崩していき、汁がポタポタと零れた。

  汁だけを舌で舐め取り、すでに形の無いリンゴを芯ごと口に頬張った。

  その間にも色が変わる続ける髪の毛に気付くと、前髪を指で弄びながらも、不機嫌そうに笑って髪の毛を弾いた。

  黒に呑まれた男は、誰にも知られず、誰も知らない世界で生き続けて行くのだー







  「舞、吉永くんとの食事、どうだった?」

  「おいしかったよー。久しぶりに食べたよ、ドリア」

  「そうじゃなくて。いや、そうじゃなくて。ちょっとは距離縮まったのー??」

  「うーん・・・・・・。変わらないよ。ご飯食べて、映画見ただけだもん」

  「映画!?何の!?」

  喰いついてくる翠に、舞は思わず一歩後ずさる。

  「何のって・・・えーと、最近の若い女優さんが出てるやつ。タイトルなんだっけ」

  「恋愛映画?」

  「そうだと思う。キスシーンもあったし」

  そんなことを平然という舞に、翠は両手を頬に添えて一人楽しく「きゃーきゃー」と騒いでいた。

  小さくため息を吐き、舞は肩を震わせて笑う。

  「ねぇ翠、今度買い物行こうよ」

  「うん!行こう行こう!」

  なんでもない日々に戻ったが、それは舞にとって街に待った日常であった。





  「誰もが皆待ち焦がれているような日常など、所詮は一時のもの。誰もが皆何事もないように過ごす日常ほど、忘れやすく、時に大切だと気付く」




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登場人物紹介

バク:夢の中の住人。人間たちの夢を食べて生きている。

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