第9話 ノート

文字数 4,038文字

 莉奈が亡くなってちょうど二週間が過ぎた月曜日の放課後。
 再び模型同好会の部室を訪れた室井慎也は、手に赤いロールバーンのノートを持っていた。
「今日、高木先生が出てきたの知ってるだろ? このノート、莉奈が亡くなった次の日の夜に高木さんの自宅に届いたそうだ。莉奈は予め日時指定して発送したらしい。俺たちのことを話したら特別に貸してくれたけど、明日の朝には返すことになってるんだ」

 ノートには星野莉奈の心の内が記されていた。そして、慎也はその文面を声に出して読み始めた。

『大好きな高木先生
お世話になりました。いろいろとお話を聞いてくださり、ありがとうございました。

高木先生がこのノートを読んでくださるとき、わたしはもうこの世にいないはずです。
でもどうか、わたしのために悲しまないでください。

一つ、先生に伝えておきたいことがあります。
それはわたしが誰も恨んではいないということ。
人生を終わらせようと決めたとき、わたしは初めて安らぎを覚えました。
今はとても気持ちが軽く、むしろ爽やかにさえ感じています。

わたしは生きることにずっと違和感を感じていました。
勉強も部活も全身全霊で取り組んできましたが、それは真剣に何かに取り組んでいるときだけ、そんな違和感を忘れることができたからです。全力で集中することは努力でも苦労でもなく、わたしにとっては気持ちが楽になれる……ただそれだけでした。その代わり、わたしは結果を出したときの達成感も、結果が至らなかったときの無念さや屈辱感もあまり感じません。
走り幅跳びの決勝で二位になったとき、良かったねと祝福してくれた人、残念だったねと励ましてくれた人……大勢の人に声を掛けていただきました。でも、わたしが感じていたのは歓びでも悔しさでもなく、ただ終わったという脱力感と虚無感だけ。
そんな時わたしは母のことを考えます。

私の両親はもう七年も前に離婚しています。それなのに母は私のためにずっと自由を奪われたままです。
「莉奈はいいわね。パパに愛されてるから」それが母の口癖です。
でもわたしは、母が言うように父に愛されているとは到底思えません。
誕生日には父からバースデーカードとオンラインのギフト券が送られてきますが、そこには直筆のサインさえもありません。もちろん何も贈ってくれない親もいるでしょう。我が家はそれなりに裕福ですし、そういう意味では恵まれていると思います。ドバイに単身赴任している父は、毎年クリスマスになるとプレゼントを持って帰国します。けれども、正月まで家にいても書斎に閉じこもったっきりで会話は殆どなく、母が話しかけても事務的な事以外は返答しません。わたしが話しかければ、少し余所余所しい感じで何か応えてはくれますが、それが母には「愛されている」ということになるのでしょう。

我が家がそんなふうに変わってしまったのは、まだわたしが十歳のとき。
わたしが初潮を迎えた日の出来事をよく覚えています。友達の中にはケーキを食べて家族で祝ったという子もいましたから、その意味はわたしも知っていました。それに、どう対処すべきかもわかっていたつもりでした。でも不安だったわたし以上に、母はしばらく前から気もそぞろで、わたしが自分のことを打ち明けても「よかったわね」とひとこと言ってくれたきりでした。
深夜に目覚めてしまい、なかなか寝付けずに二階のトイレに行くと、階下から父の声が聞こえてきました。母を一方的に責めているようでした。わたしは両親に気づかれないようにそっと階段を降り、壁際で聞き耳を立てました。
そのとき耳にした父の一言一句は、今でもはっきりと思い出せます。
「なにが亜麻色の髪の乙女だ。よりによって学校の学習机の上で股を広げ、下品な男達に弄ばれたり舐め回されたり、仕舞いにはそんな汚らわしい男達に犯されて……。それでよくしゃあしゃあと教会のバージンロードを歩けたもんだ」
父の声はとても冷酷な響きを持っていました。両親の様子が不自然なことは一週間以上前から気づいていましたが、父の言葉でその理由を理解しました。
「離婚届は昨日提出した。お前は佐々木夕子であって、もう星野家の人間ではない。莉奈が僕の子供だということはDNA鑑定で明らかになったけれど、あの子には半分お前の汚れた血が流れている。もし今後星野家に相応しくないような行為や行動があったら親子の縁を切る。特に男女間のふしだらな行為があったら即刻だ。いいか? お前はこれ以降、星野家の家政婦として留守中のこの家を守り、莉奈の養育係としてあの子が星野家に相応しい大人に成長できるように世話をするんだ。それが僕がお前に向けてやれる最大限の慈悲心だ」
その後、父は赴任先のドバイへ一人旅立ちました。

それ以来ずっと、母は自分のことを「ママ」、父のことを「パパ」と呼びます。彼女の時間は私が十歳だったあの年で止まったままなのです。
母はもう父とは無関係なはずなのに、ずっとこの家に縛られ、わたしを育てるためだけに生きています。
わたしがいなければ母は自由になれるのです。

「どんなに好きな人がいてもあなたは絶対にキス以上のことを許しちゃだめ。それ以上はパパのことを裏切ることになるから。わかったわね」
わたしはずっと母からそう言われてきました。

インターハイが終わって、去年から陸上部のキャプテンとしてわたしを支えてくれた室井慎也先輩にわたしは好意を持っていました。
決勝を終えた夜、そんな彼に無理なお願いをしました。
母の経験を少しでも共有出来れば、母の苦しみが理解できるんじゃないか? 母の立場に立てるんじゃないか? 中学生くらいの頃からそんなことを考えていたからかもしれません。
翌朝、大好きな人を汚してしまった強い罪悪感が津波のようにわたしを襲ってきました。

新学期が始まって、わたしは彼と顔を合わせるのが次第に苦痛になってしまったんです。
その時はじめて高木先生に相談しました。でもわたしは全てを明かすことができませんでした。
担任の小山先生が言うように、大学受験に専念するために陸上部の退部を考え始めたそんなときでした。隣の模型同好会の部室から、わたしをモデルにフィギュアを作ったと言う声が聞こえてきたんです。最初は聞き間違いかと思いましたが。
父の言葉を立ち聞きしたときと同じように、彼らの部室にそっと忍び込んで、四人の話を聞きながらその様子をじっと眺めていました。
椅子の上で両脚を広げたフィギュアの顔は少し母に似ていました。それはあの日見たビデオの映像と重なりました。
まるで何かが乗り移ったように、わたしは彼らの前で裸になりました。
その中には同じクラスの鈴木君もいました。心の中で「星野止めろ!」と叫んでいる声が聞こえたような気がしたんです。彼はわたしのことを買いかぶっている。だから醜いわたしの本性を見れば目が醒めるに違いない……そんなことを本気で信じたんです。わたしはなんて傲慢な女でしょう。

衣服を整えながら、信じてくれた同級生まで裏切ってしまったことに、わたしはまた罪悪感を覚えました。
父も母も裏切ってしまった愚かな自分。好きな人も、同級生も裏切ってしまった醜い自分。

わたしが生きていくことで、これからいったい何人の人を傷つけ苦しめてしまうのでしょう?

小学生の頃から何人かの男の子がわたしを好きと言ってくれました。
何も知らなかった愚かなわたしは、そんな自分を誇りにさえ思っていました。
でもあの日以来全てが一変しました。それまで彼らを見下していた傲慢で冷酷な自分に、わたしは気づいてしまいました。
ほんとうのわたしは醜く穢れた存在。こんなわたしを好きにならないで。わたしはあなたの気持ちに応えられない。いつか必ずあなたを裏切ることになる。
告白される度にそんなことを思いながら、それでもできるだけ相手を傷つけないように断ってきたつもりでした。

去年の夏休み、中学のときの同級生の宮下謙君から突然手紙を受け取りました。その彼に返事を書いたときも、わたしは自分なりに配慮したつもりでした。でも、彼はわたしの手紙をポケットに入れたまま、新学期に学校の屋上から飛び降り、帰らぬ人になってしまいました。
わたしという存在がなければ、彼は十五歳の命をあんな形で終えることはなかったはずです。

ふと、自分のいない世界を想像してみました。
それは今よりずっと美しく調和のとれたものでした。
きっと皆さんにご迷惑をおかけすると思います。
でも、しばらくすれば全てがあるべき姿に落ち着くはずです。

先生にはほんとうに感謝しています。
もちろん、担任の小川先生や、陸上部の大澤先生。
それに大好きだった先輩や陸上部の仲間たち、そして同級生たちにも。

わたしは辛くて苦しくて悲しくて死んでいくのではありません。
ほんの少し生きることに違和感を感じただけなんです。

だからどうか必要以上に悲しまないでください。

星野莉奈』

 慎也は擦れる声で噎びながら漸く最後まで読み終えたが、模型同好会の四人もずっと長い間啜り泣いていた。
 最初に口を開いたのは山下裕太だった。
「こんな大事なノート……高木先生はどうして貸してくれたんだろう?」
「一人で抱えきれなかったんじゃないかな?」と室井慎也が応えた。「高木さんは年度一杯で学校を辞めるそうだ。カウンセリングを専門にするみたいだよ」
「こんなことが二度と起こらないように、って高木先生も思ってるんだろうね」柳宗一郎が言った。「あんな子が死ななきゃならないなんて不条理すぎるから」 
「でも、生きることに違和感を感じてたって……オレはわかる気がする。」遠山薫はそう言いながら、黒いドレスを着たフィギュアを見上げた。
「みんなもわかってるだろうけど、校庭にいる誰にもぶつからないよう、星野はタイミングと場所を選んで跳んだんだ」そう言うと、鈴木悟は莉奈の笑顔を思い浮かべた。「やっぱり忘れられないよ。先輩には悪いけど、俺もやっぱり星野莉奈が好きだった」

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