第10話 パヴァーヌ

文字数 2,382文字

 星野家のリビングルームで、星野純一郎と高木由紀子がテーブルを挟んで向かい合っていた。莉奈が由紀子に託した赤いノートを読み終えると、純一郎は徐ろに口を開いた。
「ここに書かれていることは……確かにすべて真実です。それにしても、まさかあの会話を莉奈が聞いていたなんて……」
「莉奈さんは、お父さんも、お母さんも傷つけたくなくて、このことをずっと心の中に仕舞い込んでたんじゃないでしょうか」
 両の掌で顔を覆ってしばらく嗚咽していた純一郎は、気を取り直して深々と頭を下げた。
「見苦しいところを見せてしまってすみません。莉奈が、娘が先生を信頼していたことはよくわかりました」
「私は……自分の力不足をつくづくと感じています。ほんとうに信頼してくれてたら、莉奈さんはノートに思いを託すのではなく、私に直接話してくれたと思うんです」
「先生に落ち度はありません。これは家族の問題です。私たちの歪んだ家族関係……いや私の無神経な態度やあり方が莉奈の心を深く傷つけてしまったことは、これを読めばよくわかります」

 夕子は寝室で休んでいた。
 莉奈が亡くなった日の深夜、夕子は多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。心配になって訪問した由紀子に発見されなかったら、そのまま命を落としていた。一人っ子で、両親を相次いで見送ったばかりの夕子は付き添いも見舞いもなく、由紀子は毎日病室を訪ねた。退院後も夕子は一人では葬儀の出席もままならなず、二週間の休暇届を出した由紀子がずっと一緒に過ごしていた。
 由紀子の献身的なサポートで少しずつ健康を取り戻し始めてはいても、夕子はまだ一人娘の自死を受け止めきれずにいる。

「夕子さんともいろいろお話しさせていただきました。莉奈さんが十歳になるまでは、ほんとに明るく楽しいご家族だったそうですね」
「夕子は先生の目から見てどうですか? 自殺未遂で済んだのは先生のおかげだって聞きましたが、私が夕子から彼女の人生を奪ってしまったこと……実は今頃になって後悔してるんです。七年ドバイで暮らすうちに考え始めました。自分は不寛容すぎたんじゃないかって」
 純一郎は語り続けた。
「去年から現地で通訳兼秘書として働いてくれているソニアという二十四歳の女性がいます。実に頭の良い子ですが、シリア出身の彼女は十三歳の時にレイプされ、そのまま妻にされた辛い過去を話してくれました。その頃のシリアでは、レイプの加害者でも被害者と結婚すれば罪に問われないうえに、逆に被害者は汚されたものとして戒律によって罰せられる恐れがあったそうです。けれどその夫も戦いで命を落とし、幼い娘も餓死させてしまい、ソニア自身も栄養失調で死を覚悟したときに、国境なき医師団に命を救われたそうです。その後、彼女は避難先のエジプトで英語を学び、働きながら学校を出て、二十二のときにUAE——アラブ首長国連邦にやってきた。彼女の命を救った医師が日本人だったために、日本人のところで働きたいと願って私のところに紹介されてきたんです」
「こんなことを言っては失礼かもしれませんが、夕子さんも……」
「レイプされたようなものです。先進国と思われていた日本で、卑劣な手段で合法化されていても、夕子がされたことはソニアがされたこととあまり変わらないんじゃないかって……」
「お父さん……それにもっと早く気づいて欲しかったです」
 しばらく沈黙が続いた。

 やがて純一郎のすすり泣く声がリビングに響き始めた。
「申し訳なかった。莉奈になんて詫びたら良いんだろう……」絞り出すように言うと、純一郎はそのまま泣き崩れた。
 一緒に涙を流しながら、由紀子は自分の父親とそれほど歳の変わらない男になんと声を掛けたらよいか迷っていた。

 人の気配を感じ、由紀子が見上げるとそこに夕子が立っていた。
「夕子さん……大丈夫ですか?」
 別れた妻の姿を見ると、純一郎はその前に跪いた。
「君にひどいことをした。こんなことになってしまって……今更許してくれなんて言える自分じゃないのはわかってる」
「私を許してくれるの? パパが許してくれたらそれでいいの。莉奈と三人でまた水族館に行きましょう」


 夕子が一人娘の死を受け容れるには、更に二か月を要した。そうして夕子が漸く精神的に落ち着いた頃、純一郎はクリスマス休暇より少し早く帰国した。莉奈の百箇日法要を営んだあと、二人は話し合った末に再度婚姻届を提出することを決めた。

 年が明け、由紀子はしばらく借りることになった夕子の愛車に二人を乗せ、空港まで見送った。
 ロビーで由紀子に頭を下げ、純一郎と夕子は互いに手を取り合ってドバイ行きの搭乗ゲートを進んでいく。やり直しのヴァージンロードにも見えるその場所で、幾度も振り返りながら手を振り、ゆっくりと歩を進める二人の後ろ姿は、まるでパヴァーヌを踊りながら行進する中世のカップルのようだった。
 莉奈は和解した両親をどんな気持ちで見つめているのだろう……そう思うと由紀子の眼に涙が溢れ、潤む視界の中で二人の姿は消えていった。

『だからどうか必要以上に悲しまないでください』

 由紀子は莉奈の笑顔を思いながら涙を拭った。
 残された自分たちが前に進むこと。それが何よりも莉奈の供養になる——あらためてそう確信した。

 バッグから着信音が聞こえ、歩き始めた由紀子は立ち止まってスマートフォンを取り出す。
「はい」
(高木先生ですか? 二年D組の遠山薫です)
「遠山君。どうしたの?」
(先生、学校を辞めてカウンセラーになるって聞きましたけど……)
「室井君から聞いたのね? まだどこに勤めるかは決まってないけど」
(その前に、一度僕の話を聞いてくれますか?)
「いいわよ」

 自分を必要としてくれる人がいる限り、その地を目指して進んでいこう。そう自分に言い聞かせながら、由紀子は再び歩き始めた。


         <完>
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