第4話 折れた恋心

文字数 2,782文字

 鈴木悟は、同級生の星野莉奈に恋をしていた。

 入学式の日に悟は手帳を落としてしまい、あちこち探し回ってもなかなか見つからず、半ば諦めかけていたときだった。
「鈴木君……だよね?」と後ろから声を掛けられ、振り向いたときに手帳は星野の手にあった。「これ、あなたのじゃない? 廊下に落ちてたの」
「星野さん……だよね?」と彼女を真似て確かめるように言ったのは、フルネームを覚えていることを悟られたくなかったからだ。「どうもありがとう! さっきから探してたんだ」
「よかった!」と微笑んだその笑顔に、悟は一発でハートを射貫かれてしまった。

 部活動が始まると、どこの部にも所属しない帰宅部の悟は、トラックを全力疾走する莉奈の姿をよく眺めていた。その美しいフォームと、時折見せる笑顔に悟の恋心は募っていった。

 練習が休みの日の放課後、莉奈が悟の前を歩いていた。友達と別れて一人で駅に向かうその後ろを少し離れて歩きながら、悟はこれじゃまるでストーカーだ……と思ったが、並びかけて声を掛けるほどの勇気もなかった。
 横断歩道にさしかかったとき、点滅し始めた歩行者信号を見て莉奈が駆け出した。意外に大胆なことをするな……と悟は思ったが、交差点に近づいて莉奈が急いだ理由がわかった。シルバーカーと呼ばれる歩行用カートを押しながら、信号が点滅してものろのろと歩を進めるお婆さんを見つけた莉奈は、交差点で待つドライバーに頭を下げながら、その老人が横断歩道を渡りきれるまでフォローしていたのだ。
 お祖母ちゃんっ子だった悟は、高嶺の花と思っていた莉奈にそのとき強い親しみを感じた。

 ある朝、駅から学校に向かう通学路の交差点で、自転車の小学生がトラックに轢かれそうになってその場に倒れた。気づかないのかトラックはそのまま行ってしまい、憤りを感じながら悟がその子に近づいたとき、莉奈が駆け寄って来て一緒に起こしてくれた。幸い接触は無かったようだったが、子供は転んだ拍子に膝を擦りむき、自転車はチェーンが外れていた。莉奈は怪我を手当てし、悟は外れたチェーンを直してあげた。
 そのおかげで遅刻することになった二人は、仲良く遅刻届を提出したが、莉奈が一緒だったため、職員室に疑う者はいなかった。
「鈴木君、ありがとう。あの子感謝してたよ」と笑う莉奈のえくぼが悟の脳裏に焼き付いた。

 夏休み、莉奈がインターハイ決勝まで駒を進めていたことを悟は知らなかった。
 二年ぶりの家族旅行で、母親の実家のある松坂に滞在中にそのことを知った悟は、心底がっかりしていた。もし予め知っていたら山形まで応援に行きたかった。野鳥を捕りたいと言って父親から誕生日に買って貰った望遠ズームレンズは、ほんとうは莉奈を撮影するためのものだったのだから。
 陸上競技の決勝当日、インターネットには莉奈の写真がいくつかアップされていた。

 期末試験を終え、上位十人だけが張り出される成績発表で、星野莉奈は学年七番の位置にいた。上の下から中の上あたりをウロウロしている悟には、そんな莉奈が遠い存在に思えた。

 正月三が日の翌朝、悟は三十九℃近い高熱にうなされる。十一月に予防接種を受けたはずだったのに、病院で検査を受けるとA型インフルエンザに罹患していた。
 学校を一週間以上休むことになった悟が、久々に登校すると年明けに席替えが行われており、星野莉奈と隣の席になっていた。そして莉奈は、悟が休んでいた間のノートを黙って貸してくれた。

 悟にとって莉奈は女神に匹敵する存在になっていた。
 借りたノートの後ろに「君が好きだ」と鉛筆で書いて、すぐに消したが、その代わりに大きめの付箋メモにこう書いた。

『星野莉奈さま
 ノートをありがとう。
 今までほんの数回しか話したことがないのに、僕はあなたの笑顔と優しさの虜になりました。
 あなたのような素敵な人にはきっと彼氏がいると思うけれど、それでも僕は勇気を持って伝えます。
 あなたが好きです。
          鈴木悟』

 悟は付箋をノートの一番後ろのページに貼り付けると、母親が用意してくれた泉屋のカップインクッキーズと一緒に、休み明けに莉奈に手渡した。

 翌日、悟は不自然に莉奈を避けた。
 授業が終わる度に間髪を入れずに席を立ち、一目散で教室を後にする。そのまた翌日も同じように悟は莉奈を避けていた。けれど、一日の授業が終わって席を立とうとした悟に、莉奈の方から声をかけてきた。
「鈴木君……このあといい? 十分後に屋上に来てくれる?」

 死刑宣告を待つ囚人のような気分で悟が屋上に到着すると、莉奈はすでに待っていた。
「クッキーありがとう。母が好きな銘柄だったからすごく嬉しかった」
「いや、先にお礼言わなきゃならないのはこっちなのに……ノートほんとにありがとう」
 莉奈は笑いながら、軽く首を横に振った。
「走り書きみたいな字でちゃんと読めたか心配だったの」
「すごく綺麗な字だった。でも……ごめん。変なこと書いちゃって」
「ううん。そのことなんだけど……」
 聡はゴクリと唾を飲み込んだ。
「わたしのことそんな風に言ってくれて、ありがとう」
 莉奈の意外な言葉に悟は驚いた。
「あ、いや。俺なんか言える資格ないのに……」
「そうじゃなくて……」
 そのとき、莉奈が泣いているように悟には見えた。
「わたし……あなたが思ってるような綺麗な女の子じゃないの。だからわたしのことそんな風に思わないで」
「いや、ごめん。悪かった」
「謝らないで、悪いのはわたしのほうだから。すぐに言えなくてごめんね」

 間もなく悟は、莉奈が陸上部の先輩で元キャプテンの室井慎也と付き合っているという噂を耳にした。長身でイケメンの室井先輩と星野は、確かに誰が見ても似合いのカップルだった。

 翌年のインターハイは三重県の伊勢競技場で開催された。
 悟の一家は、母親の郷里と父親の郷里である長野に一年おきに家族旅行をしていた。しかし悟が二年連続で松坂への旅行をリクエストしたことを両親に不思議がられ、インターハイ決勝に出場する同級生を応援したいと正直に打ち明けた。その相手が以前にノートを貸してくれた女の子だと知った母親も、是非応援したいと競技場に同行することになった。

 決勝の二回目を跳んだ莉奈を望遠ズームで探した悟は、漸くファインダーの中にその姿を収めたが、意外に記録が伸びなかった莉奈は、足を投げ出して辛そうな顔をしていた。悟は、その手前で莉奈のふくらはぎや太腿をマッサージしている男性が室井先輩だということにすぐに気づいた。
 きっと二人は、ベッドの上でそういうことをやっているんだろうな……そう考えた瞬間に、悟が心の中に隠し持っていた嫉妬の炎がメラメラと燃え始め、しかしそれはものの五分もしないうちに鎮火した。
 悟は、自分の恋心が今度こそ根元からポッキリ折れたことを自覚した。
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