第6話 妹の溜息

文字数 1,386文字

「妹の力」とは、いったい何なのだろう。

『鬼滅の刃』において、禰豆子が炭治郎のために発揮する神秘的な力は、柳田国男が『妹の力』で論じたように、古代から女性が持つと信じられてきた、「目に見えぬ精霊的な力」と関わりがあるのかもしれない。ただ、禰豆子がその「妹の力」を発揮するのは、炭治郎も禰豆子を命懸けで守るからであり、決して禰豆子の一方的な献身ではない。だから、この兄妹の「絆」は美しいものとして、多くの人々の心を動かしたのである。

 わたし自身、『鬼滅の刃』にすっかりハマった一人であるので、炭治郎と禰豆子の兄妹愛に象徴される「絆」の美しさ、すばらしさを認めるのに吝かではない。
 だが、「絆」のプラスイメージばかりが脚光を浴び、この語が本来持っていた筈のマイナスイメージが、いつの間にかきれいさっぱり切り捨てられてしまった現代日本社会には、どこかひやりとするような危うさが潜んでいないだろうか。

 禰豆子の「妹の力」は確かに美しい。だが、見方を変えれば、禰豆子がそうした力を発揮せざるを得ぬほど彼女を取り巻く世界は苛酷なのである。しかも、妹に兄を選ぶ権利はなく、一旦「きょうだい」になってしまえば、その関係を解消するという選択肢は存在しない。禰豆子の兄が炭治郎であったのは、ただの偶然による、奇蹟みたいな幸運に過ぎないのだ。

「絆」とは、ある意味逃げることを許されぬ関係性の鎖であり、それは現実問題として、「炭治郎と禰豆子」よりも、むしろ遥かに多くの「勝治と節子」を生み出す恐れがあるような気がする。
 
 これがのどかな時代なら、まだいい。兄と妹の距離は遠く、それぞれ勝手に生きていけばいいだろう。ところが、日本社会は停滞どころか、戦前に回帰しようとしているようにさえ見える。両親の老後の問題もある。親子の、そして兄妹の絆は断とうとしても断てない。
 菅義偉首相は所信表明演説で、「自助・共助・公助」を掲げたが、「自助」が一番目にきていることに対して、例えば毎日新聞の「論点」には、「『困ったことがあっても、まずは自分で何とかしろと言われているようだ』と反発の声も上がる」※1と書かれている。

 この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう。※2

「火垂るの墓」を書いた野坂昭如は、2015年12月9日の日記にそう記し、その僅か数時間後に急逝した。
 そして、今は2021年。
 日本という国が、どんどん時代を遡行していく。遡行しつつ、閉塞する。コロナ禍がそれに拍車をかけている。
 この国は、再び家族というものを過剰に頼りにし、その「絆」に縋りつかざるを得ない社会に戻ってしまうのだろうか。

 なんか、嫌だな。

 勝治と節子の悲劇に、太宰治は「日の出前」というタイトルをつけた。
 太宰治がこの作品を書いた昭和十七年(1942年)、日はまだ昇っていなかったことになる。
 それから、八十年近くの時が過ぎた。
 普通に考えれば、日はとっくに昇っていなければおかしいのだが……。

 世の多くの妹の目に、兄というものが依然として(はなは)だ残念な、ロクでもない存在として映ってしまうのはなぜだろう。

 だから妹たちは、そっと溜息を()くのだ。

 もう。
 しっかりしてよ、お兄ちゃん。
 しっかりしてよ、日本。


※1 毎日新聞、2020年11月20日付。 
※2 野坂昭如『絶筆』、新潮社、2016年、P379。


 
 

 
 
 

 
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