第1話 妹の困惑

文字数 2,173文字

 ――兄なんて、ロクなもんじゃない。

 これが、世の大多数の妹の、偽らざる心境ではないだろうか。
 妹にしてみれば、物心ついた時から、家の中に自分より年上の、汚くて食いしん坊で、間が抜けているくせに意地悪な存在がいるわけで、正直迷惑なことこの上ない。

 現代日本において、兄と妹の年の差は、だいたい二つか三つ。すると、義務教育課程において、同じ学校に在籍する期間があることを免れ得ない。
 小学校では、不幸にも兄と同じ学校に在籍する時期が何年も続くことになる。廊下などで屡々(しばしば)兄と遭遇する。これが、サッカー部のキャプテンをつとめているような爽やかな兄なら、妹だって「お兄ちゃん」と可愛く呼んでやるのに(やぶさ)かではないだろう。

 ただ、どういうわけか、世の大部分の兄はもっさりして、髪は朝の寝ぐせのまま、なぜか口を半開きにしてぼんやり佇んでおり、知能的に何か問題があるのではないかと心配になるほどだ。
 思わずぎょっとして、慌てて目を逸らし、一緒にいた友達の死角になるよう、さりげなく兄のいる場所を迂回しようとするのだが、ふだん鈍いくせにこういう時に限って目敏く、変な笑顔を浮かべてこちらを見て、あげくに手まで振ってきたりする。背筋が寒くなるとはこのことだ。総身(そうみ)に嫌な汗が吹き出す。

「え? もしかしてお兄さん?」
 虚心に訊く友達の言葉が耳を刺し、心を(えぐ)る。できるならば否定したいが、状況的に無理だ。仕方なく引きつった笑顔で僅かに手を振り、走るようにしてその場を立ち去る。
 年が二つ離れている場合は、中学校に入ってもまだ、校内で兄に遭遇するという危険があるため、二歳年下の妹は中学二年になる四月が待ち遠しい。

 ただ、学校では会わなくなっても、家では会う。これはもう回避しようがない。思春期の兄というのはなんだか動物じみていて、正直傍らによるのも気持ちが悪い。しかも時々、自分の部屋に隠れて妙なことをしている。それならちゃんと鍵をかけておけばいいものを、ルーズ且つ詰めが甘い性格だからかけちゃいない。こちらは鉛筆削りかなんか借りるつもりでうっかりドアを開けてしまい、見るべからざるものを見てしまって凍りつく。
 ()(らい)、兄と妹の関係は冷え冷えとしたものとなり、家の中でも殆ど口を利かないという状態がかなり長く続く。

 世の多くの妹にとって、兄とはかくの如き存在ではないだろうか。

 ところが、世間には仲睦まじい兄妹の物語がゴマンとある。不思議だ。困惑する。まったく理解できない。ライトノベルの世界には、「妹ライトノベル」だとか「妹ヒロインライトノベル」などとカテゴライズされる作品群さえ存在する。
 わたしはネットで、その「妹ライトノベル」なるものの特集記事を見たことがあるが、「妹」という存在に対する男子の妄想が渦巻いているようで、おぞましさに(はだ)(あわ)()つほどだった。

 こういう身勝手な妄想は、妹がいない男の頭に湧くものと相場が決まっている。これは何も昨日今日始まったことではなく、今を去ること100年近く前、大正十四年(1925年)に、既に以下のような妄想を書き綴っている男がいるのだ。

 新しい時代の家庭においては、妹の兄から受ける待遇がまるで一変したように見えるけれども、今後とても女性の社会に及ぼす力には、方向の相異まではないはずである。もし彼女たちが出でて働こうとする男子に、しばしば欠けている精緻なる感受性をもって、最も周到に生存の理法を省察し、さらに家門と肉親の愛情によって、親切な助言を与えようとするならば、惑いは去り勇気は新たに生じて、その幸福はただに個々の小さい家庭を恵むにとどまらぬであろう。※1


 この男の妄想の中の妹は、顔立ちの愛くるしく、しかも性格の明るい少女である。容貌のことにはさすがに触れていないが、そうに決まっている。性格については、この文章の別のところで、「その天性の快活をもって家庭を明るくし」云々と書いてある点から明らかである。

 また、「精緻なる感受性をもって、最も周到に生存の理法を省察し、さらに家門と肉親の愛情によって、親切な助言を与えようとする」などと鹿爪(しかつめ)らしく書いているが、要するに兄のくだらない話を、いつも目をくりくりさせながら面白そうにきいてくれ、時に気の利かない兄のために適切なアドバイスまでしてくれる、聡明でかわいい妹がお望みなわけだ。
 妹だって、いろいろ悩みもあれば、落ち込んだり、機嫌が悪くなったりすることもあるだろうという想像力が、きれいさっぱり抜け落ちているところがさすがである。

 この妄想男、名を柳田国男という。
 日本民俗学の創始者にして、近代日本を代表する思想家の一人とも称される大学者をつかまえて妄想男呼ばわりはないだろうと叱られそうだが、「われわれのような妹を持たぬ男たち」※2とあるように、柳田国男には妹がいない。※3
 だから、いくら大学者でも妄想は妄想である。

 ただ、この柳田の文章、面白いことは面白い。有名なので、引用部分だけでわかった方も多いだろうが、『妹の力』という論考である。これを材料に、ひとつエッセイのようなものを書いてみたいと思う。


※1 柳田国男『妹の力』、角川ソフィア文庫、1971年、P34~P35。
※2 同上書、P35。
※3 柳田国男は、男ばかりの八人兄弟の六男として生まれた。 

 


 

 
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