第3話 妹との絆

文字数 1,756文字

 面白いことに、柳田国男の『妹の力』を今読むと、最近社会現象となるほどの人気を博したあるマンガ作品が思い浮かぶ。
 そのマンガ作品とは、パラレルワールド的な大正時代を舞台にした兄妹の物語――そう、『鬼滅の刃』である。

 この物語の主人公竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)は、家族を鬼に惨殺され、唯一生き残った妹・禰豆子(ねずこ)まで鬼にされてしまう。炭治郎は妹を人間に戻し、家族の仇を討つため、鬼殺隊の一員となって鬼と闘ってゆく……。

 ただ、この物語において注目されるのは、絶体絶命の危機に陥った炭治郎を救ってくれるのは、いつも鬼となった妹・禰豆子の不思議な力だという点である。正に「妹の力」なのだ。

 妹の力が最も発揮された場面の一つが、『鬼滅の刃』第5巻で、炭治郎が「蜘蛛の鬼」累と対決するシーンであるが、ここで注目されるのは、他の鬼を恐怖で支配することによって疑似家族を構成している累が、炭治郎との対話の中で「絆」という言葉を使うところである。

 累:僕たちは家族だ 強い絆で結ばれているんだ※1

 それに対して、炭治郎は以下のように反論する。

 炭治郎:強い絆で結ばれている者は信頼の匂いがする だけどお前たちからは恐怖と憎しみと嫌悪の匂いしかしない こんなものを絆とは言わない 紛い物…偽物だ!!※2

 累の主張と炭治郎の主張は、果たしてどちらが正しいのだろうか。今の日本人は当然炭治郎を支持する筈である。だからこそ、この物語は圧倒的多数の人々の感動を呼んだのだとも言える。

 しかし、「絆」という言葉の本来の意味を考えた場合、事情は少し違ってくるのだ。
 例えば、『精選版 日本国語大辞典』(小学館)に拠れば、「絆」とは「人の心や行動の自由を束縛すること。人情にひかれて、自由に行動することの障害となること。また、そのようなもの」となっている。「束縛」とか「障害」とか、明らかにマイナスイメージである。興味深いことに、この語釈からすれば、累のように恐怖によって他者の「心や行動の自由を束縛する」関係の方が、むしろ炭治郎より「絆」という語の本来の用法に近いのである。

「絆」が、完全にプラスイメージを表す言葉として脚光を浴びるようになったのは、東日本大震災以降と考えて、まず間違いはないと思われる。木村朗子は『その後の震災後文学論』の中で、次のように指摘する。

 考えることを免れさせるための道筋は、早い段階から巧妙にしこまれていた。「絆」ということばがやたらと喧伝されたが、それは復興へ向けて一致団結することを求めていたのであって、被災者と組んで国や東京電力の責任を訴えることをサポートする方向へは進まなかった。「風評被害」ということばが流布し、放射能被害をいうことは、福島県をはじめとする東北の復興のさまたげになるとして厳しく非難され、結果として放射能被害など存在しないかのようによそおわれるようになった 。※3

 このように「絆」という語が本来持っていたマイナスイメージが払拭され、人と人との美しい結びつきを表す言葉として広く日本社会を覆う一方、別の極めて重要な問題が覆い隠されてしまったのは、木村の指摘する通りだと思われる。だが、ここでその問題について更に踏み込んで追究するのはやめておく。

 わたしが確認しておきたいのは、『鬼滅の刃』全体を貫くテーマである「絆」が、東日本大震災を機に称揚され、定着してしまった意味において表現されているという一点なのである。
 木村は『震災後文学論―あたらしい日本文学のために』※4の中で、東日本大震災と関わりを持つ小説や映画を「震災後文学」と定義しているのだが、なぜかマンガ、アニメ作品は含めていない。

 ただ、東日本大震災との関わりという点から見れば、2016年2月から『週刊少年ジャンプ』で連載の始まった『鬼滅の刃』も、当然「震災後文学」に含めて然るべき――いや、その影響力の強さからすれば、ある意味この作品こそ、「震災後文学」を代表するものだと言ってもいいのではないかと思う。


※1 吾峠呼世晴『鬼滅の刃』5、集英社、2017年、頁数記載なし。
※2 同上書。 
※3 木村朗子『その後の震災後文学論』、青土社、2018年、P8~P9。
※4 木村朗子『震災後文学論―あたらしい日本文学のために』、青土社、2013年。 



 
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