第4話 妹の役割

文字数 4,098文字

『鬼滅の刃』の中で、ヒーローである炭治郎とヒロインである禰豆子が兄妹であるのは、非常に巧みな設定だったと思う。

 もちろん、この物語の中で描かれる「絆」は、家族だけの関係を表すものではなく、炭治郎と我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)や、嘴平(はしびら)伊之(いの)(すけ)ら、鬼殺隊の仲間との関係の上にも現れている。だが、前述したようにそもそも炭治郎が鬼殺隊に入った動機は、鬼と化した禰豆子を再び人間に戻すことにあったのであり、二人の関係性が物語の縦糸になっている点は(げん)()たない。

 恋人や夫婦である男女の関係性と兄妹におけるそれは、どこが異なるのだろうか。
 恋人や夫婦というのは、とどのつまり他人同士なので、恋愛感情の変化や性格の不一致などの理由により、その関係が解消される可能性は十分にあり得る。
 それに対し、兄妹は血を分けた家族であるために、その関係性は変化することなく、それこそどちらか一方が死ぬまで継続することになる。

 妹のいない柳田国男は、兄妹の関係を非常に前向きに、こう捉えている。

 かりに兄妹の交情の底の動機に、若い者らしいまた人間らしい熱情がひそんでいたとしても、世にはこれほど無害なる作用がはたして他にもあるだろうか。無害という以上にかくのごとき異性の力は、しばしば他の悪質の娯楽から、単純なる人々を防衛している。あらゆる生物は言わずもあれ、人類の社会においても、新たなる家の分房の行わるるまでの期間、決して相とつぐことあたわざる男女の群れがこうして互いに愛護して最大の平和を保っていた。それがすなわち家庭であった。※1

 少なくとも近代以降の兄と妹は、その関係性の特徴として、たとえ二人がどんなに仲がよくても、恋愛関係には発展しない点が挙げられる。直截的に言ってしまえば、二人はセックスをしないのであり、この理由に拠って、所謂「男女関係」に付随する危険とは無縁であると言えよう。
 兄妹の関係は肉体的な快感を伴わない代わり、安定した精神的な結びつきとして、「無害」且つ「平和」に継続するのである。炭治郎と禰豆子の互いを想う気持ちは極めて強く(こま)やかであるが、恋愛感情とは根本的に異質で、近代的道徳観や性意識を逸脱するものではない。これは、『鬼滅の刃』がパラレルワールド的なものとは言え、一応大正時代という近代社会を背景にしている点を踏まえれば当然である。
 ゆえに、『鬼滅の刃』は、兄妹の関係性を描くことがそのまま、この物語を貫く「家族の絆」というテーマを浮かび上がらせることにつながり、結果として東日本大震災以降、日本社会を覆っていた風潮に、ぴたりと合致したのだと思われる。巧みな設定というのは、そういう意味においてである。

 ただし――
 このような家庭の幸福は、兄と妹の仲がいいことを前提としている。

 実は兄妹の関係性には、恋人や夫婦とは異なる危険が潜んでいる。たとえどんなにひどい兄であったとしても、妹は兄と「きょうだい」であるという関係を解消できないのである。

 こうした兄妹の関係性は、国民的映画と称された『男はつらいよ』※2という作品に端的に示されている。
「フーテンの寅」こと車寅次郎は、ふだんはトランク一つを下げて、旅から旅へという生活を送っているのだが、時おりふらりと葛飾柴又でだんご屋を営む叔父夫婦のもとに帰ってくる。この映画は毎回判で押したように同じ展開で、ささいなことが原因で寅次郎と叔父の間に諍いが起こり、寅次郎は再び旅に出ていくのだが、寅次郎の妹さくらはいつも叔父と寅次郎の間で気をもんだり、泣かされたりするハメになるのだ。

 この映画は、主人公の寅次郎を、渥美清という不世出の喜劇俳優が演じているために、観客は主人公に魅力を覚え、あはははと大口を開けて笑ってみていられるのであるが、もしこの関係性を現実の兄妹に当て()めて考えてみれば、思わずぞっとするほどの家庭内悲劇に変貌を()げる。
 さくらは、博との夫婦関係が円満であるにも(かかわ)らず、毎回この兄によって恥ずかしい思いをさせられたり、泣かされたりしている。しかも、「きょうだい」という関係性が不変であるために、それこそ、兄が死ぬまで、その悲劇の中から(のが)れる(すべ)はない。
 
 こうした兄妹の関係の悲劇を描いた文学作品としては、太宰治が昭和十七年(1942年)に発表した「日の出前」という短篇が挙げられる。

 札付きの不良息子の勝治。家庭の中で最もその被害を受けるのは、妹の節子である。何箇所か、引用してみよう。

 勝治の小使銭は一月三十円、節子は十五円、それは毎月きまって母から支給せられる額である。勝治には、足りるわけがない。一日で無くなる事もある。(中略)小使銭を支給されたその日に、勝治はぬっと節子に右手を差し出す。節子は、うなずいて、兄の大きい掌に自分の十円紙幣を載せてやる。それだけで手を引込める事もあるが、なおも黙って手を差し出したままでいる事もある。節子は一瞬泣きべそに似た表情をするが、無理に笑って、残りの五円紙幣をも勝治の掌に載せてやる。※3

「小使銭」を巻き上げるだけではない。勝治は節子の着物まで質に入れてしまう。読んでいて身もだえするような気分になるのは、節子が兄の悪行を親に言いつけるどころか、親に知られないよう必死で兄をかばうところである。
 節子はお金がなくてどうしようもなくなると、「顔を真赤にして」母に頼む。母には「勝治ばかりか、お前まで、そんなに金使いが荒くては」と叱られるが、黙って耐える。何も知らない母は、こんなことも言う。

「矢絣の銘仙があったじゃないか。あれを着たら、どうだい?」
「いいわよ、いいわよ。これでいいの」心の内は生死の境だ。危機一髪である。
 姿を消した自分の着物が、どんなところへ持ち込まれているのか、少しずつ節子にもわかって来た。質屋というものの存在、機構を知ったのだ。どうしてもその着物を母のお目に掛けなければならぬ窮地におちいった時には、苦心してお金を都合して兄に手渡す。勝治は、オーライなどと言って、のっそり家を出る。着物を抱えてすぐ帰って来る事もあれば、深夜、酔って帰って来て、「すまねえ」なんて言って、けろりとしていることもある。後になって、節子は、兄に教わって、ひとりで質屋へ着物を受け出しに行くようにさえなった。※4

 ここまでしてくれる妹に、兄はどうやって報いるか。兄妹の父は画家である。自分の描いた絵が消えていくので、さすがに勝治の悪事に気づき、声を震わせて叱責すると、勝治は節子が告げ口したと勝手に思い込んで、節子を(むご)い目に遭わせる。

 恥ずかしさが極点に達すると勝治はいつも狂ったみたいに怒るのである。怒られる相手はきまって節子だ。風の如くアトリエを飛び出し、ちくしょうめ! ちくしょうめ! を連発しながら節子を捜し廻り、茶の間で見つけて滅茶苦茶にぶん殴った。
「ごめんなさい、兄さん、ごめん」節子が告げ口したのではない。父がひとりで、いつのまにやら調べあげていたのだ。
「馬鹿にしていやあがる。ちくしょうめ!」引きずり廻して蹴たおして、自分もめそめそ泣き出して、「馬鹿にするな! 馬鹿にするな! 兄さんは、な、こう見えたって、人から奢られた事なんかただの一度だってねえんだ」意外な自慢を口走った。ひとに遊興費を支払わせたことが一度も無いというのが、この男の生涯に於ける唯一の必死のプライドだったとは、あわれな話であった。※5

 地獄である。
 これが恋人や夫であれば、別れる方法もあろう。しかし、「きょうだい」の「絆」を断ち切ることはできない。どんな人間の屑であろうと、節子は兄妹という関係性の(おり)から逃げられない。
 節子の地獄は、結局父親が兄を殺してくれるまで続くのである。
 父親による息子殺害の件が警察の知るところとなり、家族全員が取り調べを受けることになるのだが、この作品のラストは以下の通りである。

 節子は、誰よりも先きに、まず釈放せられた。検事は、おわかれに際して、しんみりした口調で言った。
「それではお大事に。悪い兄さんでも、あんな死にかたをしたとなると、やっぱり肉親の情だ、君も悲しいだろうが、元気を出して」
 少女は眼を挙げて答えた。その言葉は、エホバをさえ沈思させたにちがいない。もちろん世界の文学にも、未だかつて出現したことがなかった程の新しい言葉であった。
「いいえ」少女は眼を挙げて答えた。「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」※6

 この作品は、勝治と節子の間の「肉親の情」なるものが、実は一種の道徳的、社会的な束縛に過ぎなかったことを明らかにする。節子は勝治に親愛の情を持っていたから、虐待を受けつつも、かばい、尽くしたのではない。勝治が

そうせざるを得なかったのだ。兄の死によって、兄妹という関係――「絆」が解消された時初めて、節子は悪夢から覚めたように、「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」と言い放つことができたのである。
 
 それにしても、この程度の台詞を書くために、太宰が「エホバをさえ沈思させたにちがいない」とか、「世界の文学にも、未だかつて出現したことがなかった程の新しい言葉」などと大袈裟な表現を用いなければならなかったところに、当時の妹を縛っていた「絆」の苛酷さが如実に現れていて慄然とする。
 こんな不当な仕打ちを受けながら、自分を虐げていた者の死に対し、涙を流して「悲しむ」ことを期待され、求められる存在。

 それが、近代日本の道徳観と社会規範によって定められた「妹」という役割であった。


※1 柳田国男『妹の力』、角川ソフィア文庫、1971年、P21。
※2 渥美清主演、山田洋次監督で1969年に第一作が公開され、主演の渥美が死去する1995年までに48作が制作された国民的喜劇映画。特別編的な内容も含めると計50作となり、世界で最も作数の多いシリーズ映画として『ギネスブック』にも載っている。
※3 太宰治『きりぎりす』、新潮文庫、1974年、P279~P280。
※4 同上書、P282。
※5 同上書、P290~P291。
※6 同上書、P299。 
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