第10話 長屋の暮らし

文字数 2,397文字

 そして、その結果がこの様だ。
 その長屋は銀座大火(明治5年)で焼け落ちた後に再び建てられた、まだ新しく比較的に綺麗な長屋だった。だからますますお化けなんて出そうもなかった。

 けれども思えば、怪異は1日目から現れていた。
 俺が見に行けといわれたのは木造長屋の一部屋だ。荷物をまとめた俺は1週間ほど留守にすると下宿に伝え、意気揚々とその部屋に転がり込んだ。普段は煮炊き風呂炊き雑務雑用なんでもござれと請け負う代わりに、同郷の篤志家(とくしか)の家に居候をしている。それをまるきり長屋の一部屋を1人で使えて雑用もないなんて、それだけで大儲けだ。
 化け物なんているはずがない。これで追加で五十円などと、土御門は馬鹿なんじゃないかと思ったものだ。

 けれども夜、最初は何か変だな、と思った。
 しんと夜がふけるにつれ、パチリと木がはぜるような音がした。その途端、真っ暗な部屋の中で、誰かに見られているような気配がしたのだ。そう、なんだか妙な気配だ。すぐ近くで誰かがうろつきまわっているような気がするが、隣のようにも思えない。壁を耳に当ててみてもグゴァと隣人のいびきが聞こえるだけで何かが動く気配もない。
 けれどもそれだけだ。木の家というのは多少なりともそういう妙な気配はあるものだ。

 おかしいと思ったのは2日目だ。
 部屋の端の壁からカタカタと音がしていることに気がついた。何やら壁がふるえているような。
 壁の向こうに誰かがいて、何かをしているのだろう。うるせえぞと怒鳴ったが、止む気配はない。
 思わずドンと叩いた壁は、冷たく湿っていた。叩いたせいか音は止んだが、妙に気持ちが悪い。だが、気のせいだ。なんだか妙な気配は一晩中続いたが、そんなことはまま、ある。
 布団に寝転ぶと、戸口の障子の先に月でも出ているのか、障子に映った柳の影がプランと揺れた。そんなものだ。

 そして3日目。
 珍しく早く長屋に帰るとなにやら様子がおかしい。薄暗い長屋の隙間にちろちろとオレンジ色の夕陽が照り返し、軒や木々の黒い影がずんと長く伸びて地面をまだらに染め上げている。それは妙に不吉を暗示させる色合い。心の臓がざわりと嫌な感じに撫でられる。
 ここはこんなに薄暗かっただろうか。いや、もとより長屋というのは薄暗いものだ。これほど建物が密集しているのだから。

 水戸(長屋入口の戸)をくぐる。陰になって顔の様子もよく見えぬが、何人かの奥方が井戸端でざわざわと立ち話をするのに軽く会釈して奥に進む。
 妙にしん、としてやがる。
 昨日の帰りは深夜だが今日は夕方。一昨日の暮れに挨拶回りした時はもう少し人気(ひとけ)があったような気がするが。

 じめりと蒸し暑いのにふるりと身震いがした。
 お化けなんていやしねぇ。いるはずがねぇ。いるならとっ捕まえて、大学に売りつけてやる。
 けれども障子を開けて部屋に入るも、その妙にまとわりつく空気は変わらなかった。
 荷物を置き、気を取り直して炊事の準備をしようと井戸に向かった時には既に、日はどっぷり暮れていた。向かいの長屋では行燈のぼんやりした明かりが灯って人の影が揺れ動いていたが、井戸の周りには既に誰もいない。

 その夜半、ざわざわと長屋全体がざわめき始めた音で目が覚めた。じっとり汗をかいている。気持ち悪い。それにやけに蒸し暑い。蒸し暑すぎて骨が軋む心持ち。
 すると、とてて、と外で小さな音がする。まるで子どもが走っているような。こんな夜中に子どもが? けれどもその音も長屋の外を走っているようにも思われない。言うなれば、この足元から。畳の下、から。そんな馬鹿な。
 そして次第に長屋全体がカタカタと小さく揺れ始める。それは前日の壁が揺れる、という現象を大きく超え、まるで長屋全体がうねるようにミシミシと揺れたのだ。
 すわ地震か倒壊か、と慌てて長屋を飛び出す。けれども外はシンと静まり返ってリリと虫の声だけが響き、十三夜月が煌々と照っていた。

 まるで何事も起こらなかったように静か。
 なんだ? 何が起こっている?
 よく考えたら地震ではない。地震ではこのような揺れ方はしない。これは縦揺れでも横揺れでもない。ただ、ねじるような、目が回るような、揺れ。

 そこで俺は何故、この長屋に先程違和感を持ったのか気がついた。振り返ってキョロキョロ見回したが人の気配が全くしなかったのだ。
 どうなってやがる?
 向かいの長屋は真っ暗の中でもどことなく人いきれを感じる。けれども俺の長屋の左右に連なるどの部屋も妙に冷たく感じられた。
 しばらくまんじりともせずに外で様子を伺い、ようやく空が白み始めた頃に室内に戻る。いつのまにやら気持ち悪さは失せていて、ホッとしてコトンと眠りについた。
 その翌朝。朝餉の用意に井戸端に向かったときだ。
「おや、お前さんは一昨日越してきた方だね」
「この長屋、人が住んでねぇんですかい?」
「……お前さん何を言ってるんだい? いないはずがないじゃないか。もう日が出てずいぶん経つ。みんな出かけたんじゃないのかね?」
 ちょうど出てきた向かいの長屋の奥方に聞くと、俺の間借りしている長屋の部屋は全て埋まっているはずだという。そして昨夜地震など起こらなかったと。

 日が昇って隣家の様子を見に行くと、もぬけの殻だった。それで何かおかしいと思ってその長屋、全部で7()を巡ったが誰もいない。いや、多少の家財は置かれていた。けれども人の気配はまったくなかった。少なくとも今朝に米を炊いた様子はない。
 誰もいない。
 まるで何者かにかどわかされたかのように。

『どうもお化けが出るんですって』

 涼やかな声が脳裏に響く。
 本当に、本当に化け物がいるっていうのか?
 まさか。あの土御門とかいうやつに揶揄(からか)われているだけなんじゃないか?
 けれども昨日確かに長屋は揺れた。その感覚は生々しかった。寝ぼけてはいなかったと思う。
 気味が悪くなり、取るものもとりあえず俺は大学に走った。
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登場人物紹介

土御門鷹一郎

京生まれ。もともとは公家の傍流。

明治14年8月に旧東京大学の理学部星学科を卒業するまでは学生、

それ以降は神津の辻切西街道にある土御門神社の宮司をしている。

山菱哲佐

生まれたときは久保田藩の貧乏藩士の長男。

明治13年に旧東京大学理学部工学科を中退するまでは学生、

そのあと日雇い仕事をしていて明治15年ごろに鷹一郎に呼ばれて神津に引っ越す。

ミケ

とても大きなジャコウネコ。もともと四風山に住んでいて、いまは土御門の森に住んでますます太っています。

にゃんと鳴く。哲佐君がよくアラで餌付けをしています。

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