第37話 逆上村の桜林

文字数 3,512文字

 刻は昼九つ(正午)をしばらく過ぎたあたりで、参道沿いの料理店はどこも賑わっている。ちょうど出る客と入れ替えに入った所の床机(腰掛け)に腰を下ろせば、奥から女給がやってくる。
「私は20銭を1合、それから湯豆腐と芋煮を」
「……俺は7銭を2合」
 鷹一郎は頬杖をついて軽く鼻で笑う。
「遠慮しなくていいんですよ」
「飲む量と価値観が違うんだよ」
 鷹一郎は1日に1合だけ酒を飲む。それだけしか飲まねぇから上等な高いのを1合。俺は酒の味なんか気にせずぱんぱか呑むからいつもの安酒でいい。高い酒なんて頼んだら、かえって味を気にして落ち着かねぇ。
 奥から味噌が焦げるいい香りが漂ってくる。田楽も美味そうだな。そう思って振り返ると、ふくよかな女給がちろり(酒器)を鍋にかけるところだった。

「それでどうでした、千代さんは」
 先程はなんとか桜の領域から抜け出て村に戻るまでに雪の中をさまよい歩き、かじかみすぎちまってまともに口も動かなかった。だから簡単なところしか鷹一郎に話せてない。
「なんだかよくわかんねぇな。さっきも言ったとおり、体から木が生えていた。他にも人間みたいな木がたくさん生えていたな」
「何人分くらいです?」
 どうだったかな。
 改めて思い出せば、木の背丈はいずれも2メートル弱ほどでぽつりぽつりと立っていた。あれが1人1本だとすると、見えた範囲で7、8本くらいだろうか。
「真ん中にでかい木があった。その周りに均等にいるとするなら10から15本くらいじゃねえかな」
「なるほど。その大きな木は古そうです?」
「古いっていうか……ひたすらでかかったからな。古いんじゃねえかな。お前も辻切から見ただろ」
「化け物だとすると、もともと大きかったりもしますよ」
 元々大きい、か。そんなことを聞かれても、陰陽師だなんてヤクザな職業についていない俺にわかるはずがない。アレが何なのかも。
「そうだなぁ。古いかどうかはわかんねぇが、見える範囲以上、あのあたり一体に根を張っている感じはした。なんとなくだが一朝一夕ではなさそうな」

 燗が運ばれ猪口に注ぐと、ふわりと米の香りが広がる。薄口のやさしく甘い芋煮を口に運びながらあの桜を思い浮かべる。見上げてもその全容はわからないほどでかかった。ただ、印象は昏い。昏い桜だ。葉は……ついていただろうか。
 本体自体にはあえて意識を向けないようにしていた。注意を引いて気づかれてしまわないようにだ。けれども何というか、俺はあの木とは違う生き物だが、あの千代はあの木と共通の雰囲気をもっていた。もっといえば、あの源三郎とその妻と思われる人物も、だ。
 なんとなく似通っている。それは同じ郷里を持つ人間が似たような空気感をまとうのと同じようなもので、そうすると、あの木の領域はあの黒土の狭い範囲ではなくもっと先、逆上村にまで及んでいるのか。匂いがしみつくほどに。そうするととても。
「広くて古い」
「そうですねぇ。私も似たような感覚を懐きました。さぁてどうしましょうか。どこからどの範囲を祓えばよいのか。どこまでが本体で、どこまでがその実なのか。それが問題ですねぇ」
 鷹一郎はどこを見るともなく、あたかも空気を測るように虚空を眺めてぽつりと呟く。
 あの木を倒すとなると大仕事だな。
「それより千代さんはあそこを動くつもりはなさそうだぞぞ」
 鷹一郎は平然としたものだ。
「そんなことは最終的にはどうでもよいのです。私に依頼を出した時点で、あれは私の化け物です。その結果、どうなろうと知ったことじゃありません。東京の鍵屋も赤矢殿にそう説明しているはずです」
 鍵屋は俺と鷹一郎が東京に住んでいた頃にできた知り合いで、金にがめついなんでも屋だ。その『何でも』は失せ物探しから失せ物作りまで何でもござれ。基本的にはろくな奴じゃねぇ。けれどもその相場よりお高い仕事を請け負わせさえすれば、必ずそのとおりに仕上げてくる。そんな奴だ。
 鍵屋にとって鷹一郎は、その仕事を遂行するための外注先だ。だから鷹一郎がどんなやつかは正確に把握している。
 鷹一郎の一番は化け物退治。二番が依頼主の希望遂行、つまり仕事。だから一番と二番は同じことを指し示す時も、鍵屋は大きな傾斜をつけて依頼主に値段をふっかける。
 けれどもあの赤矢の、周囲の景色まで歪めそうな悲しそうな成りが頭に浮かぶ。

「確かに赤矢にもそう言ってはいたがなぁ。俺はどうにもあの赤矢に同情的になっちまう」
「相変わらず中途半端に人情家ですねぇ。まぁ、私も依頼者の希望はなるべく叶えて差し上げたいとは思っているのですよ」
 鷹一郎が呆れたような声音でつぶやく。そのほそっちろい腕でゆっくり手酌で注ぐ酒は僅かに白い。
「赤矢の望みは千代さんをあの桜の化け物から助け出すことだろう?」
「そうなんでしょうねぇ、赤矢殿ご本人がどう認識されているのかはわかりかねるところですが。でも助かろうと思っていない人を助けても、意味はありません。そうは思われませんか?」
「まぁ、な」
 助けた直後に再び桜に戻るかもしれねぇし、助けたことで恨まれるかもしれねえ。そんな馬鹿馬鹿しいことはない。誰も幸せを手に入れられぬ。だからそもそも、赤矢の望みは根本的に千代の考えと矛盾するのだ。
「だから」
 そこで切って鷹一郎は俺をじっと見つめた。なんとなく、言わんとすることはしれた。
「だから?」
「千代さんを助け出すのならば千代さんが何故あそこに留まるのかを解明して、留まる理由がないことを証明し、千代さんに助かりたいと思わせなければなりません」
「助かりたいと思わせる、ね」

 思わず顎をさする。つまり俺が助けたいと思うなら、俺が自分でなんとかしろという話だ。
 普通は何もせずとも助かりたいものだ。
 木になりたいという特殊性癖を有する者なんてそんなにいないだろう。人であるなら人として生きたいはずだ。けれどもそれを捻じ曲げて千代はあそこに留まっている。
 俺は何を千代に示さなければならないのか。そしそもそもあの桜は千代にとってどういう存在なのか。
 くつくつと煮える鍋に浮かぶ湯豆腐は燗酒と相まって体を芯から温める。そういえばあの場所は春で暖かかった。あそこはどんな場所なのだろう。他の場所と断絶されて、一年中春なのだろうか。
 千代は苦しんではいなかった。そうであれば、あそこはそれなりに居心地のいい場所なんだろうか。だから千代はあそこを出ない? あそこにいることによって、何らかのメリットがある?
 いや、けれども周りに立つ木は苦しんでいたように見える。何かが妙にちぐはぐだ。

「私も鬼じゃありませんから極力なんとかしようとは思っていますよ。それでお金を頂くわけですからね」
「おう」
「けれども期限がありますから、それまでです」
「期限?」
 ちょうど、鷹一郎はその杯を飲み干す。この20銭の酒はちょうど期限を迎えたってことだ。
「そう、千代さんは木に成りかけているのでしょう? 木になってしまえばもう人としての千代さんを助けることはできないでしょう、おそらくね」
「まぁ、そうかもしれないな」
「それからこれは勘ですが、それは桜の花が咲くまでのように思われます」
 うん、それは俺もなんとなくそんな気がしていた。
 あの春で満ち溢れた空間に足りないものは桜の花、桜の結実。それがおそらく一つの区切り。
 咲けばもう、戻れない。そんなことはおそらく千夜にもわかっているはずだ。自らの身に起きている変化なんだから。
 自分が人ならざるものになってしまう。しかもそれはじわじわと。足の先から、体の内から、じわじわと桜の種は芽吹いて次第に体を締め付ける。だんだんと、動くものから動かぬものにゆっくりと変化してゆく。自由にどこかへ行くことも、好きなものものを食べることも、もうできない。
 そんな事実が真綿で首を絞めるように実感される緩やかな変化。それはなんと寒々しくて、恐ろしいことなんだろう。
 けれども千代は自らの意志であそこにいた。それを受け入れるほどの理由とは、何なのだろう。春を迎えた後、あの木とあの空間はどうなるんだ。それまでに千代を説得するにはどうしたらいいんだ?

「さて、では次の行動の目処はつきました。まずはあの化け物が何なのか、いつからいるのかを調べましょう」
「どうやって?」
「そんなものは昔の記録を紐解けばいいのです。それではそろそろ出ましょうか。それにしても……」
「なんだよ」
 鷹一郎は床机から立ち上がった俺の頭から爪先までを眺め回す。そしてプククと花が咲くような笑いをこぼす。
「妙な格好ですねぇ」
「うるせぇ」
 どてらに番傘、カンジキにスコップと斧。
 変なのはこちとら重々承知なんだよ畜生。
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登場人物紹介

土御門鷹一郎

京生まれ。もともとは公家の傍流。

明治14年8月に旧東京大学の理学部星学科を卒業するまでは学生、

それ以降は神津の辻切西街道にある土御門神社の宮司をしている。

山菱哲佐

生まれたときは久保田藩の貧乏藩士の長男。

明治13年に旧東京大学理学部工学科を中退するまでは学生、

そのあと日雇い仕事をしていて明治15年ごろに鷹一郎に呼ばれて神津に引っ越す。

ミケ

とても大きなジャコウネコ。もともと四風山に住んでいて、いまは土御門の森に住んでますます太っています。

にゃんと鳴く。哲佐君がよくアラで餌付けをしています。

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