第4話 鵺の実在

文字数 3,399文字

「久しぶりにお前の予測が外れたな」
「ええ。鵺に本当に実在するとはね。予め用意をしておいてよかったです」
 鷹一郎が珍しく俺を揶揄しない。
「用意ってこれでよかったのかよ」
「あの姿から推測すると、重畳でしょう」
 結局、目の前に鵺は現れた。けれども俺も、その実在の程は未だ不確かだった。

 わけがわからないものが目の先にいる。
 その体躯にまとわりつく黒い霧に隠れ、それから雲間に現れ浮き沈む月明かりに照らされて、目を凝らせば狒々、象、虎、蛇といった様々なパーツがチラリチラリと垣間見える。グルルと体を低く屋根上に伏せて唸っているようにも見えるが、それはビョウと吹く強い風の音かもしれないし、ただ闇の見せる幻なのかもしれず、全てはどこか朧げだ。
 そのような、実体が確かに目の前にいるという物理感と同時に感じる存在の不確かさ。そういえば鳥の要素がないな。
 けれども鷹一郎は酷く嬉しそうに肩を揺らした。
「何が何だかわからねぇ」
「頼政は何を見たのでしょうね。これは頼政が見たものとは異なるのでしょうが。けれども何かは知れました。切ろうと思っていましたが、やはり作戦変更です。アレが欲しくなってきました」
「やはりアレは切れるものなのか」
「実在しようがしまいが、私はそもそもアレを切るつもりでしたよ」
 鷹一郎の声は実に嬉しそうだが、俺にとってはその実在のほどが高ければ高いほど、具体的な危険性というものが弥増(いやま)すのだ。その不気味さに俺はただ身震いするだけだが、一方の鷹一郎の眉は趣味の成就に期待をはせて、嬉しそうに弧を描く。
「変更も何も、もともと作戦なんて聴いちゃいねぇぞ。それでアレは何なんだ」
「『わけのわからぬもの』ですよ。今は『わけのわからぬ恐ろしい姿』をしています。それがアレなのでしょう」
「結局何が何だか『わからねぇ』」
「まずはその実なる姿を明らかに致しましょう。なに、哲佐君のお仕事は変わりません。ここでアレを呼んでください。私は傍に控えていますから」

 土御門はそう述べて俺の半纏の前を開き、その懐に大量の紙片を押し込んだ。その上から生ゴミの詰まった袋を俺の腹にくくりつける。俺の家にあった魚の骨なんかもあるが、大部分は鷹一郎に言われて長屋の共同のゴミ溜めから集めたものだ。あの『鵺』を俺の元まで呼び寄せるための餌だ。
「これで良し」
「生臭ぇ」
「あちら側に風を吹かせますから少し我慢下さいな。では、宜しくお願い致します」
 そう言って鷹一郎は風と共にひゅうと脇に下がり、闇に紛れた。
 すると背中側からふわりと風が吹き始め、それは次第に冷たく強く吹き荒れ始め、俺の背をしたたかに押し始める。やがてその暴風は踏ん張らねば倒れかねないほどに成長する。バサバサと顔の両側から吹き飛ばされる髪の毛が視界にちらつき鬱陶しく、ゴォゴォという風の音が耳を塞ぐ。
 先程までのゴミの臭いも吹き飛ばされるから多少はましに思えるものの、それにしてもこの冬の風というやつは身をじわりと凍りつかせようとするのだ。

 ふいに、世界が少し明るくなった。
 強風に押され、上空を漂う雲が完全に晴れたのだ。
 風の隙間をわずかに見上げる。煌煌と光を放つ満月はその周囲に更に大きな(かさ)を伴い、銅板葺きの県庁舎の屋根を明るく照らす。そしてその赤茶けた銅の金属板は月光を反射し鵺の姿を下から明るく照り返す。重なる光で鵺の纏う闇は次第に払われ、その姿が明らかとなっていく。
『さぁて、明るくなりました』
 鷹一郎の声が透き通るような風にのって、僅かに聞こえた。
 確かに月の光はソレを照らし、顕にした。

 なんだ、あれは。その姿に慄いた。
 そこにくっきりと現れた姿は先程見た『鵺』の印象とは少し異なっていた。
 大きな狸? それにしては妙な格好。
 確かにその足には虎のような模様があり、尾は蛇のように長くまだら。体は象のようにずんぐりでかいが、その滑らかさは皮ではなくて毛皮のようだ。頭は光を嫌うように深く俯き、よくはわからない。
 奇妙な姿をしている。そして明るく闇から浮かび上がったその姿からは、先程まで感じていた怪しさは全く失われた。そいつは明確な存在感を持ち、獣の気配を漂わせ、そしてぬるりと屋根から飛び降り県庁舎の暗がりに紛れる。
 突然背筋が凍る。ゴクリと喉がなる。
 アレが何だかはよくわからないが、獣だ。動物だ。
 これまでは『鵺』というわけのわからぬものであり、高く鳴いて病を振りまく(あやかし)の類と思い込んでいた。だが月の明かりに照らされて見たそれは、名はわからぬものの明確に『恐ろし』い獣。
 再びキュイィと高い音が響く。
 あの獣が発する音だ。先程の屋根上の姿はそれなりに、大きかった。体長も5メートルほどはあったように思われる。大型犬に比べても随分と大きいだろう。俺を襲って食うには十分であるほどには。
 背中に油汗がじわりとにじむ。あの虎のような太い足の爪は鋭いのだろうか。
 未だ見えぬその牙は、その顎は鋭いのだろうか。
 現実に現れた姿は現実的な恐怖を俺に刻み込む。
 そうと思えばタッタッと小さくこちらに近づく足音が聞こえ、フハという獣の生臭い息遣いが聞こえてくるようだ。

 来る。
 これまで鷹一郎に言いくるめられて対峙した化け物どもは数あれど、それらはこの世のものとは思えぬ姿を有する存在ばかりだった。まさに妖だ。そして鷹一郎は妖であれば祓うことはできるだろう、それが鷹一郎の仕事なのだから。
 しかし獣では?
 化け物ではなくただ獣であっても鷹一郎は祓えるのだろうか。
 鷹一郎はさほどガタイがいいわけではない。今日の鷹一郎は刀を帯びていたがそれにしたって相手は大きい。刃渡りは1メートルもないはずだ。
 本当に、大丈夫なのだろうか。
 背から吹く風は冷たく、俺の体をかじかませる。けれども手先が震えているのはこの風のせいだけか。
『夜は明るくすれば良いというものではないのです』
 先程の鷹一郎の声がふいに思い浮かぶ。
 確かに暗いままでは、あの獣の『恐ろしさ』を知ることはなかった。
 今、県庁舎からこの正門に至る広い道は満月に照らされ、あたかも昼日中のように明るい。そしてその明るい道を塞ぐように、ノソリと黒く太い前足が現れた。
 足がすくみ膝が笑う。無意識に体が逃がれようと揺らぐ。

 これは今まで請け負った仕事と明確に異なる。
 獣。
 鋭い爪と牙。
 明確に想像される物理的な恐怖。絶体絶命。
 そして獣は一歩、光の中に更に足を踏み出しその姿がさらに露わとなる。
 嫌だ。恐ろしい。
 その恐怖に踏ん張る足にさらに力が籠もる。
 けれども俺の足腰は背後から吹きすさぶ強風に耐えるので精一杯で、前方向、つまりその獣がいる方向以外には動けない。
 けれどもそれだけは、それだけは御免被る。
 さらに一歩、黒い足が前に出る。
 何故、こちらに来る。何故。
 その理由は明確だ。俺が獣の姿がわかるように、満月は獣と同じく俺の姿をも等しく闇から(くく)りだし、あの獣に見せつけているのだ。そしてこの強風が俺の、つまり生ゴミと餌の匂いをたっぷりと獣に届けているのだろう。畜生め。
 ことここに至っては最早どうしようもない。俺の姿は獣にとって明白で、俺はここから動けない。
 気持ちは既にやけっぱちだ。
 南無三。
 どうとでもしやがれ。

 一瞬だった。
 獣はグゥと低く唸って一瞬体を縮め、最初の1歩は小さく、けれども次の2歩目は大きく、歩を進めるたびにどんどんと速度を増していく。彼我の100メートルの距離を詰めるのに10歩もかからずその勢いのままどぅと俺を押し倒す。強い衝撃が背中を打つ。カハと肺腑から呼吸を吐き出す前にその酷い重さで両肩を冷たい路面に押さえつけられ、カヒュゥと妙な空気が漏れた。
 恐ろし、い。
 目の前の巨大な獣の頭部は逆光で真っ黒な影に沈み、はっきりとは見えないままに、その口腔から粘つく獣臭い唾液がどろりと胸に落ち、くくりつけられた生ゴミの袋がシャクシャクと食い荒らされて俺の胸上に散らばっていく。そして次の瞬間、顔にゴフという生臭い息がふきかけられ、ベロリとざらついた太い舌が顎から頬を撫であげた。
 ああ、もう駄目だ。
 ぴくりとも動けぬ。
 肩はミシリと軋み、体はきっちり縫い留められる。獣の毛皮の生暖かさと生臭さが俺が感じる世界の全て。
 そしてその大顎が大きく開けられた。
 もう、駄目だ。一巻の終わりだ。
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登場人物紹介

土御門鷹一郎

京生まれ。もともとは公家の傍流。

明治14年8月に旧東京大学の理学部星学科を卒業するまでは学生、

それ以降は神津の辻切西街道にある土御門神社の宮司をしている。

山菱哲佐

生まれたときは久保田藩の貧乏藩士の長男。

明治13年に旧東京大学理学部工学科を中退するまでは学生、

そのあと日雇い仕事をしていて明治15年ごろに鷹一郎に呼ばれて神津に引っ越す。

ミケ

とても大きなジャコウネコ。もともと四風山に住んでいて、いまは土御門の森に住んでますます太っています。

にゃんと鳴く。哲佐君がよくアラで餌付けをしています。

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