第7話:兼松さんの子育て支援とおつきあい

文字数 1,714文字

 すると、こんな、ご馳走をありがとうねと喜んでくれた。暖かくなり1977年4月、春になると母の勝子が双子を大きな双子用の乳母車にに乗せて近所の公園に散歩に出る時、兼松幸子おばあちゃんの所によって一緒に出かけた。ちょっと良いことがあったのでと言い鳥の丸焼きをいつも世話になっている兼松幸子おばあちゃんの所へ持って行った。

 すると盆と正月が一度に来たみたいに豪勢だねと言いながら、ありがとうよと喜んでくれた。そのうち夏になり、近所で使わなくなった大きい金たらいをもらい、水を張って、外に置いておき、暖かくなると、家の風呂場に持ち込んで子供達を入れると喜んで遊んで、お風呂も一緒に済ますことができ、大助かりだった。

 やがて涼しくなったと思うと年末になり兼松幸子おばあちゃんを呼んでクリスマスパーティーを開き、1977年が終わり1978年を迎えた。その後、この頃、子供達の動きが速くて追いかけるのが大変になり、勝子さんも世之介も兼松幸子おばあちゃんも子供を追いかけては、息を切らした。炊飯器も大きい物に替えて御飯も10kg袋で買う様になり買い物に忙しくなった。

 2月になり長男の善一が咳き込んできたと思うと、長女の陽子が熱を出して、世之介が仕事に行くときには、兼松幸子おばあちゃんがこのもの面倒を見るために手伝いに来てくれた。それでも大事にいたらず、熱が下がると良かったねと子供の頭をさすって、ニコニコして兼松幸子おばあちゃんが安心して家に帰った。

 春には、家の近くの公園に出かけるようになり、朝早くから、日が暮れるまで、お弁当と水筒持参でピクニック気分で出かけて、子供達は遊び回り、帰る頃には乳母車で可愛い顔で寝てしまい、その顔が余りに可愛いので写真をとった。今年から近所の公民館を借りて近くの商店街にお願いし塾のポスターを貼って、地元の中学生と高校生の進学塾の宣伝をした。

 それにより中学生18人と高校生26が集まった。月謝を週に1回、土曜日の午後で中学生が2千円で高校生が4千円で開始した。これにより月に14万円の収入になり、生活が随分楽になった。夏になり、家からバスに乗って15分の所にしらゆり公園プールがあり、毎週のように善一と陽子を連れて出かけた。

 そして浮き輪を腕にはめて溺れないようにして、プールに離すと、一生懸命、手で水をかいて進むのに夢中になっている光景が、また可愛いい。そして随分と身体が大きくなった。目を離すと危ない時期になり気を使うので、プールから帰ると、面倒を見ていた親が、疲れ切って爆睡する日々が続いた。少しずつ涼しくなり冬が駆け足でやってきた。

 今年のクリスマスパーティー、兼松幸子おばあちゃんが風邪をこじらせて、欠席した。それでも1979年の年が明けると兼松幸子おばあちゃんが元気を取り戻して子供達に会いに来てくれた。1979年2月3日が久しぶりにN証券の池田が夢想の家を訪ねてきて、日本電気が上昇し始めて、PC9800と言うマイクロコンピューターを発売してから注目されて株価が上がりだした。

 俺も人気が火がつけば大きな相場となると思うのだけれど、挑戦してみるかと言い急上昇するか時間がかかるか話わからないけど、今後、こう言う新しい時代の流れに乗るのが面白いと思うと話した。それについて、どう思うと聞くと確かにコンピュータが個人が使える時代は必ず来ると、池田の意見に賛成した。そして投資してみようかと池田が言うと夢想も挑戦しようと言い握手した。
 1979年2月5日、N証券の池田からの電話で、日本電気株を2300円で、3千株690万円購入し、残金が910万円となった。1979年も3月過ぎると、暖かくなり、保土ケ谷の近所の公園に双子用の乳母車で出かけ、公園で2人を話すと楽しくて動き回り、その後を両親が追っかけて回った。

1時間もすると子供達も疲れて乳母車に戻ってくると家に帰って昼食をとり昼寝をする。こういう感じで土日は過ごして平日は兼松幸子おばあちゃんが手伝いに来てくれて助けてくれるのが日課だった。やがて夏になると市民プールに出かけて冷たい水が気持ちよさそうに双子が浮き袋を使い浮かんで喜んでいた。
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