プロローグ ロードトゥ列聖
文字数 2,397文字
戸惑いながら答えた男性の名は高山右近、設定もとい大雑把な人物像はおおむね今紹介された通り。
通称 高山右近の名で知られる高山彦五郎重友は戦国時代のキリシタン大名である。数え年11歳の時に家族で洗礼を受けた彼は敬虔なキリスト教徒として知られ、有名な黒田官兵衛や蒲生氏郷も彼の影響で洗礼を受けたと言われる。
その言葉に少し照れくさくなり、思わず右近はぽりぽりと頭を掻いた。
西暦2016年、高山右近は殉教者としてローマ教皇に福者の認定を受け、翌2017年には大阪で列福式が執り行われた。
福者とは、その人物の生涯に聖性が認められたキリシタンにつけられる敬称のことであり、福者の認定を受けることは大変名誉なことなのだ。
いきなり現代の日本に生き返った右近。突然の展開に理解が追い付いていない。
聖人、それはイエス様の教えをその生涯において実行した信徒の模範とされる人物に送られる最上級の尊称だ。
一般的には列福を経てから相応の調査期間を置いて列聖されることが多い。情報化社会の近年では調査期間は短縮される傾向にあるような、そんな気もしないでもないがそれはひとまず置いておこう。
右近に話をしているのは右近の見知らぬ異人の女性……右近が現代に復活してからずっと彼に説明をしてくれているのだが、一体誰なのか。まだ右近は彼女のことを知らない。
こうして、ウルスラさんによる高山右近を聖人にするための授業が始まったのだった。
◇
そういえば聞いたことがある……右近は生前の記憶を呼び起こした。
さて、今回右近が福者として認定されたのは奇蹟を起こしたからではなく、殉教したと認められてのことだ。
天正十三年(西暦1585年)に右近は羽柴秀吉の配下にあり六万石の大名となったが、程なくして秀吉により宣教師への追放令が発布された。この追放令に付随し、大名はキリスト教を信仰することを禁じられ、キリシタン大名は改宗を迫られた。
しかし、右近は棄教せず大名の地位を捨て、慶長二十年(西暦1615年)、右近は家康の発布したキリシタン国外追放令により日ノ本を追放された。
そして、イスパニア領マニラに到着後、程なくして病死。最後は異国の地で六十二年の生涯を終えたのだ。
右近の生涯をたどれば、その生きざまはまさにキリスト教に殉じたとして異論はないだろう。
ウルスラさんのその言葉に、
右近は戸惑ってしまう。
奇蹟にもいろいろと様々な種類があり、これまで聖人認定された方々もそれぞれ個別の事例があるはずなのだが、戦国時代の人物である右近は西洋の聖人の細かいエピソードには疎かった。
右近は大名の地位を捨てた後、親交のある大名の元を渡り歩き、最終的には加賀の前田利家に客将、実質的な政治顧問として招かれた。その利家の四女豪姫は秀吉の養女となり宇喜多秀家に嫁いだが出産後たびたび身心が衰弱し狐憑きにあったという。マリアは後年受けた豪姫の洗礼名である。
また、右近の同僚である大谷刑部少輔吉継、関ヶ原の合戦で病を推して西軍で活躍した彼はハンセン病に罹患していたと言われる。ハンセン病の治療はイエスの起こした奇蹟のひとつでもあり、右近にその奇蹟の力があれば、あるいは日本の歴史は変わっていたかもしれない。
右近は昔を思い出してため息を漏らした。
ウルスラさんはにこりと笑って言った。