黽池の会【藺相如・昭襄王】FullVer

文字数 5,033文字

「はぁ……なんだかなぁ……」

 その日も恵文(けいぶん)王は長い長い溜息をついていた。

「王、そんなようけため息つかれたら、幸せが逃げますよって」
「そんなこと言ってもさぁ」
「そうですぞ! どうしようもないでしょうからな! がっはっは」

 王は窓から邯鄲(かんたん)の街並みを眺めていた。
 この(ちょう)の国が都を邯鄲にうつしてからもう100年たち、その間に邯鄲は中華のなかでも1,2を争う大都市となっていた。目を閉じると賑やかな喧騒が聞こえてきそうだ。この街から出かけたくないなぁ。王の表情はそのように語っていた。

 王の前に侍るのはその配下の廉頗(れんぱ)藺相如(りんそうじょ)
 廉頗は巨漢、考える筋肉さん。豪放磊落だけどちょっとだけ抜けてる。
 藺相如は涼やかな美丈夫。物凄く頭が切れるけど、何を考えているのかよくわからなくてちょっと怖い。
 それが王の2人への評価。けれども王は2人をとても信頼していた。

「やっぱいかないと駄目?」
「あきまへんよ」
「行ってくりゃぁいいじゃないっすか」
「殺されそうじゃん」

 その時分、趙は(しん)に攻め込まれていた。
 去年、和氏の璧(かしのへき)という宝玉について秦と揉めたのだ。秦に『15の都市をくれてやるから璧をよこせ』とイチャモンつけられた。どうせくれるはずもない無茶な提案。
 その時の交渉の使者が藺相如で、秦に璧を取られること無く帰還した。その功績を讃えて中級貴族に任ぜられた。
 でも王はその時の様子を藺相如に詳しく聞けてない。なんか聞いちゃいけないような気がして。

 でもそっから嫌がらせのように秦は攻めてきて、石城(せきじょう)を取られて今年もたくさん人が死んだ。秦の国力は強大で、趙は小さい。先代の武霊王の時は趙も強かったのだけど、先代が原因で内輪もめしてるうちに秦に攻められるようになった。
 でも王は思っている。そもそも現在の秦の昭襄(しょうじょう)王は武霊王の計らいで王になったはずだから、もっと友好的でもいいんじゃないか。なんか父さんが絡むと全部こじれてるような、そんな気がしている。

「はぁ~」
「もう諦めようぜ、王」

 王は絶賛現実逃避をしていて、一息吐くごとにため息が漏れた。
 現在の懸案事項は秦から和睦の話が出ていることだ。秦は強大。だから和解は望む所。けれども秦は信用できない。先年の和氏の璧の時にも身に染みた。秦はそもそも信義に疎く、信用できないのだ。
 簡単に言うと秦の言い分はこう。

『親睦会開くから秦の領土の澠池(めんち)まで来い』

「王よ、和氏の璧のときとおんなじや。これはあくまで和議の席。行かんと弱気や言われて秦だけやなく周りにも侮られますよって」
「そうだぞ、俺は弱いっていわれんのは真っ平だ」
「でもさ、親睦会で襲われても国から遠くてさ、兵を出してもらっても全然間に合わないだろ? 澠池は国境からも遠いのに」

 和睦の席に大量の兵を連れて行くことはできない。
 結局の所、問題は澠池が秦領内にあること。攻められている側がその和議に『やってこい』など、偉そうなことは言えない。そうするとどちらにせよ王は秦に出向かねばならない。
 でも秦の昭襄王には前科がある。今から17年ほど前、()(かい)王が同じように会を開くといわれて赴いたら捕らえられて幽閉され、逃亡したけど失敗して結局秦で亡くなった。王はそのことを思っているのだろう。

 けれども王にも結局行かないといけないことはわかっていた。戦争を止めるには和議が必要。戦争を止めないと国が滅ぶ可能性。悩んでも悩んでも結論は変わらない。趙の力が弱くなったのも昭襄王を秦の王座につけちゃったのも父さんが悪い。

「そんじゃ行ってくるから」
「私も一緒に行きますよって、なんとかなりまっせ」
「王よ、まあ澠池まで行って帰るのは30日くらいだ。帰ってこなかったら太子を王にするから安心して行ってこい」
「全然安心できないじゃん」

 国境を超える王の背中にはぴゅうぴゅうと木枯らしがふいていた。すすけてるぜ。

◇◇◇

 澠池は賑わっていた。豪華な食事と旨い酒が満ち溢れていた。準備万端。
 そして秦の昭襄王は趙の恵文王を今か今かと待ち構えていた。秦は趙の予想通り、助けが来ないこの地まで恵文王呼び出して、無理矢理土地を割譲させることを企んでいたのだ。
 そして馬車から降りる恵文王一行を見て、秦側一同は凍りついた。

  あいつがいる……藺相如が……。

 その瞬間、昭襄王のこめかみに青筋が立つのを多くの者が目撃した。
 そして一同は先年の和氏の璧の件を思い出して、またろくなことにならないんじゃないかな、と青くなった。和氏の壁の際、藺相如が去った後の昭襄王の荒れようはひどかった。

 とはいえ到着してしまったからには迎えざるをえない。
 昭襄王の向かいに恵文王が座し、その背後に藺相如が侍った。
 その間、昭襄王の視線は藺相如に釘付けで、藺相如の方はどこ吹く風とその視線を受け流していた。
 さて、宴もたけなわ。

「恵文王は音楽をお好みと伺っております。特に(しつ)がお上手と耳にしておりますな。どうぞ一曲お弾きいただけないでしょうかな」
「はぁ、それであれば」
「誰か瑟を持て」

 恵文王はあまり気が乗らなかったが、昭襄王はやはり怖い。大国の王の気風が滲み出ている。
 瑟とは琴のような楽器である。木で出来た胴に弦を張って弾いてひく。用意された瑟は装飾も見事でその音も素晴らしかった。
 だが『瑟を弾け』というのは相手をあたかも配下の楽師であるかのように扱うのと同じだ。それは対等な立場ではない。

 秦の臣下は恵文王が瑟を爪弾く時間が経過するのに合わせて、その背後からじわじわと闇が広がっていくような怖気を感じ、膝を震わせた。嫌が応にも先年の緊張が蘇る。

 黽池は山間の窪地だ。四方の山から冷たい風が吹きおり、この地で冷たく溜まっている。その溜まりの底からさらに暗く冷たい何かが地獄の底から這い出て来るような恐怖。その底では悪鬼羅刹が地中で待機しているような。

「書士よ」

 王の求めに応じて控えていた書記官が膝を進める。秦の歴史を記録する者だ。

「ほ……本日、秦王は趙王と会食くくくしッ、趙王に瑟を演奏させた。ヒッ」

 書記官は真っ青な顔で果敢にも記録を述べたあと即座に逃げ戻った。
 その瞬間、ガチりとなにかがずれた音がした。秦の臣下は誰もがその場でそう感じた。そのずれた世界の裂け目から更に滔々と闇があふれて凝縮し、それが実体となったかのような影が恵文王の後ろにぬるりと立ち上がった。

 王より高く頭を上げるなど不敬の極み。だが誰も彼もがその這い上がる闇より滴り落ちる呪詛に飲まれて動くことなどできなかった。
 その幽鬼のごとき影はその長い指を伸ばして恵文王の背を突つき、その耳元で何かをつぶやくと、恵文王は耳を手で塞いで目を閉じ兎のように小さく蹲った。
 秦の臣下は一体何事が起こっているのか理解ができず、見守るしかなかった。

「秦王、趙王は秦王が歌に秀でられとると聞いとりましてなぁ」

 その闇は底冷えのする声でそう語りながら、ゆっくりと趙王の前に立ち、そこに置かれた宴の盆から皿を1つ1つ脇に寄せ、その盆と徳利を細い指で摘んだ。触れるはしから腐り落ちそうな予兆とともに。
 逆立つ髪、血走ってどこか赤い焦点の合わぬ目。何だかこの世のすべてを憎悪するかのように薄く笑う唇。たゆたゆと陰の気を撒き散らすその姿はまさに冥府の王。

「どうかこちらの盆と瓶で楽しく歌いなさんせ」
「こっ断る!」
「なんでですかぁ? 楽しいですよって。友好の宴なんやから楽しうやりましょぅ?」

 冥府の王がカチリと音を立てて盆と徳利を打ち鳴らす。徳利からとぷりと酒がこぼれ出て、妙に甘い匂いを周囲に巻き散らかした。
 毒ウツギや紅天狗茸などの死毒は甘い味がするという。そんなことが皆の頭の中に思い浮かんだ。そのはしから、ここが毒の沼であるように甘い香りが広がる。
 すでにこの場は異界である。丸く転がった恵文王以外、冥府の王から目を離せる者はすでにいなかった。

「ねぇ秦王、趙王は楽しう瑟を弾きましたんよぅ。そうでしょう? 次は秦王の順番ちゃうんかなぁ?」

 そんなことはできるはずもない。
 徳利と盆を打ち鳴らす。確かにそんな楽しみ方もある。しかしそれは庶民が行うものだ。貴族の、ましてや王が行うものでは断じてない。
 なのに、その冥府の王はするすると蛇が地を這うがごとく秦王の膝もとまで至ってその長い指を伸ばし、徳利を秦王の顔に近づける。顔につくほどに近く。徳利から酒がこぼれ、冥府の王の袖にかかり、また甘い香りが周囲を漂う。異質な雰囲気に、その口から漏れあふれる粘りつくような呪詛に絡め取られて誰も動くことはできなかった。

「あぁあどうしてもだめなんかなぁ? そんなら困るねぇ? ふふふまた私は無礼なんやろうかぁ? それやったら今度こそ私の首を切り落としてしもたらどうやろなぁ? あぁでもそうなると王に血ぃがようけかかってしまうねぇ? ほぅらこんな近うなってしもうたさかいに」

 冥府の王はぬるりと秦王のそばに絡まるように立ち、冷気とともに秦王を見下ろす。

「ぶっ無礼な!!」

 そう言って気力を振り絞って刀を抜こうとした武官は冥府の王の視線に貫かれて即座に刀を取り落す。
 その目は明確にこう言っていた。

 近づいたら秦王を殺す

 冥府の王の長い指がつまむ徳利は秦王の頬につくほど近く、それはいかにも容易に思えた。
 秦王は口をパクパクしながら何かを求めて軽く左右に目を配ったが、その触れるような距離に間に合う者はいなかった。秦王はやむなく冥府の王から徳利を受け取り、おそるおそる冥府の王の持つ盆にひとあて、そのコツリという小さな音は静まり返った場にひどく大きく響いた。

「書士の方、ちゃんと記録してぇなぁ」

 可哀想な書記官は蚊の泣くような小さな声で述べた。

「ほほほ本日、秦王はッ趙王のたメに徳利をををを打つッ」

 書記官は他国の臣下に指図されるいわれはないけれども、その場にいた者は誰もが書記官に同情の眼差しを送った。それを見て秦王はギョロリと一同を睨んだ。

 冥府の王は秦王に背を向け地獄に底に帰還する途中で、視線がないせいかこちらに対する圧は少し弱まっていた。
 そこで文官の1人は勇気を振り絞り叫んだ。

「ちちちち趙の15城市をを献上して秦王ののの幸福を祝してはどどどうでしょうかッ!?」

 それはもともとこの宴で秦が趙から奪おうとしていたもの。和氏の璧の意趣返し。秦が渡すと申し向けた15の城市と同じ数。
 冥府の王はゆっくり振り向き、何やら妙に優しげな視線でその文官を眺める。その瞬間、文官は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

「それはえぇ話やねぇ。ほんなら秦王も咸陽(かんよう)を献上して趙王の幸福を寿いではどうやろうなぁ?」

 そのまま冥府の王はするすると席に戻り、その帰り際に趙王の肩をとんとんとその長い指でつついた。
 顔を上げた超王はキョロキョロと周りを見渡し、よくわからない、というように首を少しかしげた。

 咸陽は秦の国都である。献上するなどありえない。
 そんなことがわからぬ者はここにはいない。
 その後も秦の文官が口を開こうとすると何か音を発する前に超王の後ろから発せられる視線に貫かれ、何も言うことができなくなった。
 楽しげな宴はまるで通夜のような雰囲気となり、ただ趙王ばかりがキョロキョロとするのみであった。
 秦の臣下はみんな思った。
 なんで趙王はあんなのを配下にして平気なんだろう……。

◇◇◇

「ふぅ、一時はどうなることかと思ったけど、何もなくて和議を結べてよかったよ」
「ほんまにそうですなぁ」

 恵文王と藺相如は帰りの馬車の中で背後に遠ざかる秦の青い山々を見ながら語る。

「目を瞑ってるように言ったのはなんだったたの?」
「ああ、あれはまあちょっと、お耳にいれんほうがええかと思て」
「ふうん? まあいいや。でも秦はやっぱり信用できないから、また攻めてきたら嫌だよね」
「大丈夫ですよ。廉頗がちゃんと兵整えとるから」
「え、そうなの?」
「そうそう、まあ大丈夫でしょうよ、王が生きとる間は」
「またなんか不吉なこと言う~」

 カラカラと回る車輪の先には国境で大きく手を振る廉頗の姿が見えた。


-付言
原典:史記 廉頗・藺相如列伝 第二十一
恵文王の時代は基本的に廉頗と趙奢と平原君ががんばるから趙はわりかし平和でした。
まあ戦争はしてたんだけど。
恵文王が亡くなった後は長平の戦いで秦の白起にボロ負けします。
何十万人生き埋めにされたっていうアレです。
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