覆水盆に返らず【朱買臣】

文字数 6,754文字

「つまるところどういうことだ」
朱買臣(しゅばいしん)、離婚されたってよ」
「あぁ、やっぱりか。あいつ酷かったもんな。奥さんもよく我慢したもんだよ」

 時は前漢末期、武帝の時代。
 畔辻で出会った2人の農民は、情報交換、という名の井戸端談義をしていた。
 ここは会稽(かいけい)()だ。整備はされていなくとも肥沃な土地が広がる地域で農作物を植えるとさほど管理しなくてもそれなりに育つ。それに海に面していて、魚もよく取れる。
 なのに朱買臣はろくに働かずに貧民に近しい暮らしに甘んじていた。

 日がな一日どこからともなく手に入れた本を読んで暮らし、金がなくなれば木を切って売る。その『金がなくなれば』のラインは極めて低く、その日の飯に事欠くレベル。であるから、朱買臣もその妻の崔氏も何年も着たきりで、替えの服なども持ってはいない。
 崔氏は情が深すぎた。一度連れ添った手前、というものがあったのだろう。何もしない朱買臣をこれまで何くれと支えてきた。けれどもとうとう堪忍袋の尾が切れたのだ。

「あんなに耐えたのにねぇ」
「それでさぁ。奥方は大分発奮させようとはしたんだってさ。ちゃんと働け、お前ももう40過ぎたんだからとよ」
「んだなぁ。家も廃屋みたいなもんだしなぁ」
「それでいうことにかいて『俺は50になったら偉くなるんだ』だとよ」
「あぁ。またあの話かあ」
「いい加減夢から覚めないものなのかね」

 朱買臣は小さい頃に辻占いに、50で立身出世するといわれたらしい。
 それをその夢物語を信じて働きもせず本を読んで暮らしているのだ。

「50っつったらもう隠居じゃねぇか」
「んだべな。だからまあ、奥さんもぶちきれたのさ。あの家には子もいねぇからな。このまま老いさらばえるまで働き続けて倒れて飢え死ぬ未来しかみえんのだろ」
「あの奥さんはまだ若くてまぁまあ美人だからなぁ。それにしてもよく我慢したよ」

 その我慢の内容というのもひどい。
 朱買臣は変なやつなのである。木を切って薪を売るのだが、わけのわからない歌を歌う。呼び込みの歌でもなんでもなく、ばかみたいな歌だ。

 俺は朱買臣~♪
 出世して偉くなるぞう~♪
 ふんふふん~♪

 あまりの恥ずかしさに崔氏が諫めると、ムキになるのかますます大声を上げて歌い出す始末だ。もう本当にどうしようもなかった。
 離婚されたあとも朱買臣はその日暮らしを続けていた。
 何故か収入が落ちた。人は減ったのにおかしいなぁと思っても朱買臣は薪を披露頻度を上げたりしなかった。考えるまでもなく、自分より食べる良の少ない崔氏が自分以上に働いていたのだ。崔氏が細々と行っていた内職の上がりもないのだから、相対的に食費割合は上がるし収入は減る。けれどもなにより、働きたくないのでござる。

 そんなある日、山に入るのも面倒で近所の墓場で木を切っていたら、いよいよもって腹が減り、その場に倒れてしまった。可哀想なのはたまたま墓参りに来ていた人間である。墓場で倒れた人間をそのままにしておくというのは墓を増やすようでどうにも気分が悪い。

「あの、大丈夫ですか」
「腹が、減って」
「まぁ、買臣じゃありませんか。だから言ったでしょう」

 なんとその人間というのは崔氏だった。
 崔氏は大工と再婚していたのだ。朱買臣にとっては渡りに船だった。
 崔氏の新しい夫も無碍にはしずらかったのだろう。その後も朱買臣はわざとらしく崔氏の家の前で凍えていたり行き倒れたりして飯や暖をたかっていた。
 けれども崔氏にとってこれは極めて外聞が悪い。
 なにせ元夫に何くれとなく世話をしているわけだから。
 大工の夫はあまりの朱買臣の駄目さを目の当たりにして崔氏の不貞なぞは全く疑ってはいなかったのだが、口さがない親類が色々とやかましいのだ。

「買臣、もう無理です。あなたに何もしてあげることはありません。何でもいいからとっとと働いてください。元妻の家にたかるとは何事ですか。あなたには恥も外聞もないのですか」

 そう言われても、朱買臣には恥も外聞もないのだ。
 そんなことは崔氏もわかっているから、家の前で行き倒れていても無視することにした。
 朱買臣としては一旦そんな甘い汁を知った以上、また薪を拾って肉体労働するというのを酷く煩わしく感じるようになっていた。働きたくないでござる。
 それに50はもうすぐだし。

 そんなこんなでお偉いさんが都にいくというのでお伴に志願した。たまたま急病が出て予備の人員が足りなかったのである。
 見慣れぬ土地柄で雑用も多い。それにあまり給料はよくない。だから志願者などほとんどいないところ、志願してきたのが40を過ぎた朱買臣だったものだから採用側もびっくりである。
 けれども他に人はいない。やむなく雇って都に旅立ち到着した。
 そうして都から帰る段になって朱買臣はとんでもないことをいうのだ。

「帝に出したお返事がこないので残ります」

 朱買臣の中では自分は50で大臣になるのは確定だから当然の行為なものの、お偉いさんにとっては驚天動地。なんということをしやがるのだこいつは。
 お偉いさんはゆっくり物見遊山でもしようかと思っていたのに一目散に帰らざるを得なくなった。ただでさえ武帝は癇気が強いともっぱらの噂。何がその機嫌を損ねるのかわからぬのだ。もともと朱買臣は予備である。1人欠けたところでどうということもない。お偉いさんはあっという間に都を去った。

 それで残った朱買臣はぼんやりといつも通りである。とりあえず知り合いになった者に飯をたかって暮らしていた。

 ところで都には荘助(そうじょ)という男がいた。
 荘助は朱買臣の幼なじみではあるが、その能力を会稽郡の賢良(官吏の地方推薦枠)として推挙され、武帝による口頭試問を経て中大夫に抜擢された、まさに選り抜きである。
 その荘助は最近馬鹿な噂を耳にしていた。

「荘助様、それにしてもこんな馬鹿は見たことはない」
「変なのもたまにいるものだよ」
「それにしたってこんな短文で書いて帝に届くと思ってんのかねぇ、この朱買臣という奴は」

 その名前を聞いた時、荘助はとても嫌な予感がした。ない名前ではないが、ありふれた名前ではない。そしてそんな馬鹿をやりそうな奴といえばやはり朱買臣が思い浮かぶ。
 武帝への上奏は膨大である。だからきちんとした諸侯であっても武帝まで届くものは稀だ。きちんと伝手を頼らねば官吏に弾かれる。しかもそういう文は挨拶から始まり美辞麗句で飾り立てているが、その文は直文で『雇ってください』と書いているだけなのである。
 荘助は頭が痛くなった。割れるように。

 そうして朱買臣のことを考えながら市井を歩いていると見つけてしまったのだ。あれだ。会いたくないと思っていれば会ってしまうという法則というやつだろう。荘助は慌てて目をそらしたが遅かった。

「おお、荘助じゃねぇか、久しぶりだなぁ」
「大夫、お知り合いで?」
「知らん」

 御者が驚いて荘助に声をかける。
 何故なら荘助は宮殿に上がるきらびやかな姿をして車に乗っていた。その車の窓から外を眺めていただけなのだ。一方の酔漢はボロボロの服で、蓬髪もみだれて小汚い。それが道端に寝転がっているのだ。
 常識的に考えて知り合いのはずはない。

「荘助、無視すんなよう。呉で一緒だった朱買臣だよう」
「早く行け」

 荘助は御者に短く命じた。
 とはいえ朱買臣はいつまでもどこまでも荘助の名前を呼びながら追いかけてくる。ようやく自邸にまでたどり着き、その門番に止められたようで、ほっと胸をなでおろした。

 そうして翌朝、荘助はとても嫌な予感がした。
 それで下働きに門前を見に行かせたら男が1人倒れているという。士大夫の家の前で行き倒れというの自体もなんだか外聞が悪いのに、その男は荘助、荘助とブツブツつぶやいているというのだ。

「ご主人さま、お知り合いでしょうか」
「そんなわけがあるか。しかし放置するのも外聞が悪い。そうだな、裏口から馬小屋にでも入れて飯を食わせろ」

 荘助の頭は痛かった。荘助は朱買臣の幼なじみだ。朱買臣のだめさ加減をよく知っている。恥も外聞もないあいつはおそらく諦めはしないだろう。
 そして諦めなければ……おそらく宮殿まで追いかけてくる。面子が潰れる。
 荘助ははぁあと大きくため息をつき、誰にも見られないようにこそこそと馬小屋へ向かった。何故自分の家でこんな真似をしなければいけないのか、そんな言葉をこぼしながら。

「おい朱買臣」
「おお、荘助、やっとあえたな」
「何のようだ」
「俺さ、帝に手紙を書いたんだよ。返事が来るまでおいてくれねえ?」

 ぐぅ、とうめき声が荘助の口から漏れた。
 嫌な方の予感は的中するものだな。荘助はそう思った。

「駄目だ」
「幼なじみじゃん」
「……一切外に出ることなく、喋らず黙ってうちで下働きをするということなら考えてやる」
「やだ。働きたくないでござる」

 駄目だ。こいつは駄目だ。どうしようもない。
 けれども荘助は綺羅星のような頭の煌めきをもって武帝に使えている。考えろ、考えろ荘助、そう唱えながらも灰色の脳細胞をフル活用する。

「お前、帝に何のようだ」
「雇って欲しいんだ」
「では1度だけお前を推挙する。それで駄目なら諦めて呉に帰れ」
「え、ほんと? わかった。ありがとう、友よ」

 その差し出される手を踏みにじりたいと思いつつやむなく握ると手が汚れた。朱買臣はろくでなしだが嘘つきではない。それは荘助も知っていた。
 そして推挙のための用意に5日かけ、その間朱買臣は倉庫に閉じ込められていた。普通なら文句も出るものの、朱買臣は恥も外聞も何もないわけだから、狭い倉庫でゴロゴロしているとそれなりに幸せなのだ。
 このままこいつをここで飼い殺しにするほうが無難なのだろうか、そう荘助の頭に浮かんだころには推挙の段取りはすでに進んでしまっていた。

 それで出かけた宮廷。
 朱買臣は堂々としたものである。そもそも朱買臣の頭の中はどのような状況でも堂々としているのだが、荘助がその身を整え、士大夫の服を着せたからなおさらだ。馬子にも衣装という以上には似合っていた。

 朱買臣は皆が恐れる武帝の前でも何も恐れることはなく、春秋(しゅんじゅう)を説き、楚詞(そじ)を語った。
 その堂々とした態度は確かに士大夫の様で、むしろその率直な物言いが武帝に気に入られた。そういえば武帝は歯に衣着せぬ正直者が好きなのだ。
 そうして朱買臣は中大夫になった。
 ……荘助のファーストポジションと同じだ。荘助は自らの郷里での勉学は何だったのだろうかととても嫌な気分になったが、なったものは仕方がない。

 ともあれ荘助は朱買臣は自分にさして恩義を感じていないのだろうなとも思っていた。なにせ荘助と会ってからも俺は50で偉くなるんだと言って憚らない、というかそれしか言っていなかったからだ。

 そんなこんなで時が過ぎ、朱買臣はその奇行を武帝に面白がられながらも口だけは達者な部分がある、というか自らを全く省みないというその図太さが発揮されているのか、宮中ではそれなりに暮らしていた。時折武帝の癇気を買って都にある会稽郡の有する屋敷に逃げ帰っていたが、しばらくすればいつのまにか宮中にいた。恥も外聞もないのである。

 そんなある日、朱買臣は閩越王(びんえつおう)が反乱を起こしていたので討伐するよう進言したら、会稽太守を拝命した。一体何がなんだかわからない。けれども近くにいなくなれば胃が痛まることもなくなる。荘助はそう思ったが問屋が卸さない。
 朱買臣はまずは都の会稽邸にやってきた。ちょうど酒盛りをしていたらしい。朱買臣はちょくちょく会稽邸に逃げてきていたものだから誰も気にもしていない。

「よう朱買臣。また怒られたのかい」
「よく続けていられんな」
「それが都を離れるんだよ」
「おう、とうとう首か」
「会稽の太守になるんだよ」
「はっは、また法螺話か」

 いつも出世するだの何だの言っていたから誰も信じちゃいなかった。宴もたけなわで酔っ払った時、寝転んだ朱買臣の胸から印綬が転がり出て皆真っ青になる。太守しか持ち得ない印が無造作に。
 会稽太守といえば自分たちのボスだ。粗雑に扱って、ましてや下座に転がしておけるものではないから慌てて庭に整列する。
 そんな話を聞いて荘助は耳を痛くし、口を酸っぱくしてまともなかっこうをしろと怒鳴る。朱買臣はTPOをわきまえぬのだ。

 それで荘助は朱買臣にきちんと服を着せて、従者にも重々厳命した。
 それで鍛えられた従者は予め朱買臣、というか予め会稽郡に入る前に新しい太守の着任を知らせた。そして会稽郡の官吏は新しい太守が来ると聞いて通る道を掃除させた。そうして呉県に入った時、朱買臣懐かしい人物を目にして朱買臣は車をヒョイと飛び降りた。

「崔氏じゃないか」

 綺羅びやかな格好をした太守が道端の掃除をしている女に声をかけたのだ。群衆はどよめき、その女は注目の的になった。女は左右を見て混乱し、目の前の太守の顔を見て目を見開いた。

「なんで」
「ほら、ちゃんと50で太守になったでしょ。信じてくれないから」
「太守様」

 崔氏が平伏しようとするのを留めて朱買臣はペラペラと話し始める。

「いや、追い出されたときはどうしようかと思ったよ」
「あの」
「門の前で倒れても助けてくれなかったじゃん。それでどうしようもなくて都に行くことにしたんだから」

 朱買臣はそんなことを往来で大声でいうものだから、集まる群衆の視線は崔氏に釘付けだ。ヒソヒソ、ヒソヒソというざわめきが広がっていくのに朱買臣は崔氏を開放しようとしない挙げ句、夫とともに一緒に車に乗せて太守公舎に同行し、あの時は世話になったと宴会を催した。そしてそれは連日続く。
 崔氏夫婦が何度辞そうと朱買臣はもてなし続けた。その好意がどのような意味を持つかは全く考えが及ばなかった。その時に出るアラレもない話。特に噂好きの官吏なんかが好き勝手尾ひれをつけて独り歩きする。そうして市中ではあることないこと噂はどんどん膨れ上がる。
 崔氏はある日、欄干に出た時に塀の向こうからの声を聞いた。

「へぇ。その崔氏っていうのはすげぇ女だねえ」
「そうさ。なにせ太守様が困窮されている時に追い出した挙げ句、今は1月も居座って飲み食いし放題だからなぁ」
「へぇ。そりゃあ昔話に聞く妲己みたいな女だなぁ」

 それを聞いた崔氏はその場で欄干から首をくくって死んでしまった。
 ところが朱買臣には何故崔氏が死んだのか皆目検討もつかない。おかしいな。昔を懐かしんでお礼をしていただけなのに。そうして朱買臣は崔氏の夫に葬儀費用を渡し、皮肉なことにその名を上げた。
 夫の心中たるや如何なものだろうか。

 さてその朱買臣だが、その後も朱買臣らしく暮らしていた。つまり出世したり罷免されたりの繰り返しだ。
 そしてその頃、荘助が処刑された。
 淮南(わいなん)劉安(りゅうあん)が謀反を企てた。その前に劉安が都を訪れたとき、荘助は劉安と親しく言葉を酌み交わし、贈り物を受け取った罪だ。
 そもそも荘助が劉安と親しくなったのは武帝が劉安を慰撫するために派遣したことが始まりだった。そのような経緯があるから罪を軽くしようとしたが、そこに現れたのが酷吏と有名な張湯(ちょうとう)である。

「帝の腹心ながら諸侯と私的に交際したことを咎めねば、今後統治が行えません」

 そのようにいうのだ。そうしてそれは一理ある。
 腹心が賄賂のようなものを受け取り、その政治を(ほしいまま)にする。それは確かによろしくはない。
 結局のところ武帝は張湯の意に従い、荘助を処刑した。
 張湯も武帝のお気に入りであり、武帝はもともと腹心であってもためらいなく首を刎ねる人間でもあった。

 そこで憤ったのは朱買臣である。そして朱買臣は周りを顧みない。
 朱買臣は他の張湯に政治的な恨みや利権のために張湯を追い落としたい人間の尻馬に乗って張湯は賄賂を受け取っていると武帝に誣告した。張湯は自身を陥れたのは朱買臣らであると書き残して自殺した。
 それで張湯の死後に自宅を調べられたが、家にあった財産は帝から下賜された金500斤しかなかった。つまり完全な言いがかりだったのである。
 結局、朱買臣は誣告罪で処刑された。

 辻占いの50歳で立身出世する予言はあたったけれど、結局その後までは予言されていなかったのである。



-付言
原典:漢書 朱買臣伝、上厳助伝
これがなんで覆水盆に返らずなのかよくわからないが、覆水盆に返らずの故事で知られている。もともとの覆水盆に返らずは太公望とよりを戻そうとした元妻の話だと思うけれど、崔氏がよりを戻そうとしているとは思えない。どう考えても朱買臣のほうがヤバい奴である。
そしてなぜか朱買臣の話は平安時代には広く知れ渡っていて何故か美談としてよくひかれているのがとても謎い。枕草子とかにもひかれている。
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