下駄の歯が折れても気づかないほどめっちゃ嬉しい 下【桓温・謝安】

文字数 8,682文字

3.今耐え抜けばなんとかなる。ああ桓温さんがいてくれれば。

朱序(しゅじょ)、東晋軍に降伏勧告に行ってもらえないかな。貴殿が行ったほうが東晋は受け入れやすいだろう」
「畏まりました」

 士気は笑えるほど低い。そりゃあそうだよ、そもそも戦に賛成していたのは王様の符堅の仲良しの慕容垂(ぼようすい)くらいで他のみんなは東晋戦に反対していた。そこを符堅が強行した。
 符堅は色々おかしい。参謀の王猛(おうもう)が遺言したとおり東晋戦は駄目だ。人というものは欲深いものだ。足りるということがない。だからちょっとでもイケルと思ったらすぐ謀反を起こすのだ。それほど今は不安定だ。そもそもが符堅自体もその祖父が(てい)族の酋長だったところを独立し、符堅も前王を弑して王位を継いた。そして符堅はあっという間に中原を統一した。

 符堅が今前秦を維持できているのは単に符堅が戦に強すぎるからだ。反乱を起こしてもすぐに鎮圧されるのが目に見えている。それほど符堅は強い。だから今は反乱しても無駄だ。だから全員が時期を見計らっている。
 符堅がクレイジーなところは国が纏まっているのが自分の徳のせいだと思いこんでいるところだ。徳治政治。万民の理解。報いれば報いで返すもの、それが符堅の理想だった。王猛はそれがうまくいかないのがわかっていた。だから王猛が生きていれば、俺が使者に立つことなどありえなかった。

 そもそも、そもそもだ。符堅の考えがおかしいのはなぜか。
 符堅の考えに則るともらえるパイが減るからだ。10報いられても背けば20の利益があるのならば人は背く。
 符堅は負けた国の将を幕僚に加える。そうするともともとの将への配分が更に減る。
 例えば国力10で将数10としよう。1人あたり1だ。そこで国力10の国を征服する。国力は合計20。そうすれば武将は自分は2もらえるようになると思うだろう。けれども自分がもらえるのは1のままだ。負けたはずの将が10加わり、パイを分け合う。後から後から将は増加し母数は増える。古参は実際は多少は増えるが想定したよりも随分少ない。そして後から加わった者が古参と同様の恩恵と同じ地位を得る。なんで後から来て俺と同じなんだよ。
 それが将にどんな感情をもたらすか、符堅にはわからない。それは符堅がトップでパイを奪い合う者がいないからだ。将がこれ以上人を増やしたくないと思っていることなどカケラも浮かばない。

 それにな、北と南じゃ気候が全然違う。この辺は暑いんだよ。糞暑くて北部の鎧なんぞ着ていられねえ。しかも台風が襲ってくる。水は簡単に溢れ水浸しになる。昨日の陸地が今日は水面下。そんな状況に北の蛮族が慣れるはずがない。暑くて水浸しさぁ。
 馬は湿地に足を取られるから使えねぇ、馬前提の北方の大刀やら斬馬刀なんかも使えねえんだよ。馬に乗れないからな。だから馬から落りて南方名産の鋳造剣だ。獲物が違えば気分も違う。

 もともとの中華というのは黄河流域を指す。今東晋政府の治める春秋戦国時代の()から始まる揚州建康(けんこう)も秦から始まる益州巴蜀(はしょく)も、もともとは蛮地であり中華じゃない。特に匈奴や鮮卑といった北の騎馬民族にとっては遥か離れた土地だ。本拠地から離れすぎていて治めるには遠すぎる。中華統一は漢人の悲願ではあるが、五胡にとってこんなところに攻め入っても遠すぎて面倒くさいだけだ。だから、五胡の奴らはこの糞暑くて勝っても得るものはなくパイを奪い合うだけのライバルが増える糞遠征に嫌気がさしていた。

 さらに地形の話をしよう。
 魏呉蜀の三国が争っていたころの話だ。曹魏が治めたのがいわゆる中原、黄河流域。もともとのいわゆる『中華』で今の前秦の領土でありメインは騎馬。劉備の蜀漢、つまり益州は中華の西にあり、厳しい山々に囲まれた山地にある。孫呉は北府軍が治める南東の揚州と揚州と南西益州の間に挟まっている桓温さんの西府軍が治める南南の荊州、これが今の東晋の領土で長江を流域を中心とした湿地の多い水軍都市だ。

 北から南を攻めるにはいくつかルートがある。
 1つは徐州(じょしゅう)や豫州にまたがって東シナ海に流れ込む淮河の運河網を使って東寄りに南下するルート。それから今回の符堅軍が使った荊州を通らず潁水(えいすい)を揚州に向けて水軍で下って寿春から淝水、合肥(がっぴ)を通って長江に入り建康に至るルート。
 だがこれまで荊州を抜かずに合肥寿春ライン、つまり直接淝水から建康を落とした者はいない。曹操も石勒も抜けなかった。ここは硬直する。

 そして最後が長江を使うルート。長江というのはとても川幅が長い。海ともいえる規模である。建康を落とすための鉄板ルートはかつて司馬炎(しばえん)が行った益州と荊州を抑えて長江中上流域からこの両州を貫通して大量の水軍を投入するルートだ。これしかない。建康は長江沿いだから一発だ。

 その証拠に符堅は桓温さんが亡くなったどさくさに紛れて益州を獲り、淝水で戦を仕掛ける5年ほど前に荊州を取ろうと俺がいた襄陽に攻めてきた。今は桓沖さんが荊州を必死に守っている。荊州は譙部桓氏が地盤として育ててきた地というのもあるが、戦略上重要地点だ。

 ようするに東晋にとって荊州は死守しなければならない土地だ。北府軍が嫌がらせに桓温さんを何度も荊州から撤退させようとしたけれども桓温さんは動かなかった。桓温さんは東晋を滅ぼしたくなかった。荊州を放棄するとあっという間に建康が落ちるからだ。
 荊州は基本的に堅い。長江上流の益州と荊州の間も潁水の漢中から荊州に至るラインも山で高低差が大きく、水軍で攻めてきても撤退が困難。劉備が敗走したライン。だから桓沖さんが荊州を守っている。北府軍はなんでわかんないのかな。

 俺、俺か。
 俺は始めから二重スパイだ。俺は昔から譙部桓氏閥だ。最初襄陽を守っていたが、北府軍が酷すぎたから俺が紛れ込むことになった。
 桓温さんは今前秦を叩かなければ大変なことになると何度も北府軍に北征の上奏を出したが無視された。北府軍にとっては実際に攻めてきている前秦軍より、前秦軍から国を守っている桓温さんの反乱を警戒していた。これ以上活躍すると困るとでも考えたのだろう。それで北府軍は独自に北進したけど戦争が弱いから何度北を攻めても負け戦ばかり。東晋は桓温さん以外は戦が弱い。国がなくなったら利権もなにもないだろうに。

 だから桓温さんは最終的に東晋が窮地に陥ることを見越して俺を前秦に紛れ込ませた。桓温さんはいずれ東晋が窮地に陥った時に内通者が必須だと思っていた。それにその頃には符堅がチョロいことは知れ渡っていたからな。
 とはいえさすがに投降してここまで普通に禄が食めるとは思わなかった。古参の気持ちがよくわかる。俺は1年以上襄陽で粘った敵だからな。それを高待遇で迎えるとか、符堅は本当に酷い。

 襄陽は荊州の入り口だが、戦略上は襄陽を取られただけならさほど失点ではない。長江の中域を押さえられなければ問題はない。長江が使える江陵や武昌が落ちるのではなければ戦略上はさほど影響がないのだ。だが江陵や武昌が落ちれば建康まで一直線だ。だから桓沖さんは必死で荊州を守って符堅を跳ね返している。
 荊州があまりに硬かったからこそ、前秦軍は長江中上流域の水軍ルートを諦めて淝水ルートを選んだんだ。歴史的な死地を。とはいえ100万対8万。符堅がイケルと思うのもわからなくはない。だが符堅がこの士気のなさを認識さえできれば、やはりこの道を選んだりはしなかっただろう。符堅の目は理想に曇っている。

 淝水の戦いの初戦は5月。桓温さんの弟の桓沖さんは襄陽、桓温さんの腹心の楊亮(ようりょう)さんは蜀を攻めた。流石だ。よくわかっている。荊州と益州を確保し直せれば東晋は万全だからな。北府政府にはこの理屈がさっぱりわからないんだろうがね。

「謝玄殿、お久しゅうございます」
「朱序、か」

 俺は和睦の書をもって淝水を渡り、東晋軍を訪れた。
 東晋軍の士気は前秦軍とは比べるまでもなく高かった。なにせここでまければ東晋は滅ぶのだ。清談貴族共が生臭く囲い込み続けてきた利権が雲散霧消するからな。
 そこで俺は奇妙なもてなしを受けた。俺を敵方に下った者として厳しい視線で見るもの、譙部桓氏閥で東晋の置かれた状況を冷静に見て俺に同情の視線を向けるもの。そして一番奇妙なのは謝玄だった。俺をみてかすかに頷き、足下に寄るよう求めた。おそらく桓沖さんから何かを聞いている。小さな声が聞こえる距離。

「前秦の使者として参りました。強弱の勢いは明らかであり、速やかに降伏するように、とのことです。その場合、主だった将には士官を許すとのことです。以上です」
……謝玄殿、今が好機です。いずれ100万の兵が集まりますが今は集まりきっておりません。それに士気は壊滅的です。集まる前に前鋒を破れば総崩れになり、勝ち目も出る可能性があると思われます。
……なるほど朱序殿。私も桓沖殿から小賢しくかき回すよう言われている。その後にこのような計略を行えと聞いているが、為せるだろうか。

 俺が東晋軍に赴いてから暫くは東晋軍の激しい反攻があり、東晋軍と前秦軍は淝水を挟んで膠着状態に陥った。そのころ謝玄の使者が前秦軍を訪れた。

『貴殿らは我が東晋軍の懐深くに入り込み、我が軍の得意たる水辺に陣を置いておる。このままでは膠着だ。東晋軍は背後からいくらでも糧秣が用意できるはそちらはどうかな。まあ持久の戦よ。だがこの状況はうっとおしいのでね。貴殿ら前秦軍が少しだけ軍を引いて東晋軍が渡河が可能となるのであれば、東晋軍はそちらに渡ることができるから、それで一気に決着をつけようではないか』

 軍議の場で俺は深く頷いた。予定通りだ。

「これはどういう意味なんだ。馬鹿なんじゃないか」
「前秦軍が東晋軍の渡河を終えるのをわざわざ待っているわけがないだろう」
「謝玄も謝石も愚かという評判は聞かぬが何か策でもあるのだろうか」
「先月から続く東晋軍の攻撃はなかなかに苛烈。しびれを切らしているんじゃぁないのかね」
「だが渡りきっても背水の陣だぞ。わざわざそんな窮地に置く必要はないだろう?」
「窮地だから窮地に追い込むのではないか?」
「どのみち半分ほど渡ったところで鉄器で突っ込めば東晋軍はどうしようもないだろう」
「つくづく何を考えているのかわからぬ」
「やけなのではないかな」

 普通はこのような提案をしない。ありえない。折しも最近雨水も増え、その深さは人の身の丈を超えており、川幅も広がり流れもなかなかに速い。渡河の途中は無防備である。だからこそ、膠着している。渡河中に攻撃を受けたら一巻の終わりだ。

「東晋軍が何を考えているのかはわからぬが、少しだけ退却して東晋軍が半ばまで渡ったところで撃破しよう。それで勝てぬ訳がない」

 そのような命が飛んだ。
 この判断がこの時代の命運を分けたのだ。

4話 な、何がおこったのかわからねぇ。

 俺らは東晋軍が川を渡るのをぼーっとみていた。100人隊の隊長の俺は上の命令には逆らえない。上の命令は『後退し待機』だ。

 俺らの軍は最初川の最前線に出張っていたが、今朝方後退の命令が来た。それぞれの荷物は各兵が担げるほどの大したことがないものだが、陣を片付けるとなると一苦労だ。長期戦の構えで糧秣や予備の武器、陣取るための炊事道具やら洗濯用品やら何やらかにやら色々なものが支給されていた。そういった荷物を荷車に押し上げる。急な全軍の後退だからそもそも荷車や荷馬も足りない。交代で使ってあとは人力だ。そんな作業の合間で時々休憩を挟む。そして川を見る。その度に嫌な予感は募る。
 川を見るたびに着々と東晋軍の渡河が進んでいる。前秦軍のようにモタモタはしていない。

「なあ隊長、大丈夫なのかよ」
「大丈夫だ」
「だってよう、船だよ?」

 俺はそう言うしかない。東晋軍は船に乗り込み対岸のこちらに渡ってくる。それが結構遠くにぽつんと見える。そう、ぽつんと小さな人影が葉っぱみたいな小舟に乗り込んでやってくる。しかも異様に粛々と、整った隊列で整然と。その雰囲気はまさに異常だった。

 南の川は恐ろしい。それはもう数ヶ月もここにいる俺らには身にしみている。雨が降ったかと思えば突然竜が下るみたいに上流から大量の水が流れ落ちてきてあたりを水浸しにする。人も馬も流される。ときには周りの田んぼや畑が人の家ごと水浸しになった。

 淝水はまだ川と言えるが長江はもう川じゃない。俺は偵察で一度長江まで行ったことがあるが、あれはもはや川じゃねえ、海だ。川てぇのはあれだ、俺っちの生まれた田舎の近くにある、橋がかかってたり泳げば反対まで渡れるやつだ。江南に来る前の北の、前秦の奴らはだいたいがそんな認識だった。

 けれども南の東晋の奴らは違う。川というのはハナから水軍戦だ。認識がまるで違うし地形が違うから戦い方がまるで違う。それから東晋軍は川の戦いに慣れている。前秦は混成軍だがその大半は騎馬戦を得意とする五胡だ。だから水の上での戦いなんて知らない。総大将の符堅様も南の川というものは見たことがなかったのだと思う。
 梁成(りょうせい)将軍が洛澗(らくかん)で淝水を前に立派な陣を張ったけれども東晋軍に瞬殺された。前秦軍は水軍戦の経験が圧倒的に少ない。俺は梁成軍にいたがあいつらは悪魔の軍だ。恐ろしい士気の高さと練度で突然川から現れ、なんとか持ち直して追おうとすると既に水の上で遠い。

 それで今は待機中だ。俺らの後ろにいた軍が先に後退しないと俺らは後ろに下がれない。隙間を開けなければ異動はできない。まるでパズルのようだ。
 待機しているとよくわからない考えが頭に浮かぶ。俺らはあいつらが川を渡る場所を作るために後退している。何故だ? なぜ後退するんだ。意味がわからない。
 第一上陸されて拠点でも築かれたらどうするんだ? 陸からも川からも攻撃されるだけじゃないのか? こんな悪魔みたいな軍に橋頭堡でも築かれたら、いつどこから襲ってくるかわかりゃしねぇ。
 撤退するんじゃないのか? 撤退したい。こんな悪魔みたいな沼地から。一刻も早く故郷に帰りたい。

「なぁ隊長、これってさ、背水の陣ってやつでねえの?」
「背水の陣ってなんだ?」
「漢の高祖様の時代に絶対負けらんねぇ戦があってさぁ。川が後ろにあるとすぐに逃げられないじゃん? わざとそういうところに陣を敷いて兵を逃げられなくして、負けたら死んじゃうから必死で戦わせて、最後勝っちゃうの」
「旅回りの芸人がやまにやってる奴?」
「そうそう」
「おらも見た」

 話に加わっていた奴らの喉がゴクリと鳴る。俺も小さいころにそんな劇を見たことを思い出す。嫌な汗がさーっと背中を流れる。そしてそろーっと川に目を向けると、川の半分くらいまで東晋郡の船がたくさん浮かんでいた。あれがここの岸、すぐ前の岸に上陸する。そして陣を張る。それから万全の体制で……攻撃してくる? これはヤバいのでは。千人長に聞くことにした。

「あの、千人長、このままでは危険なのでは」
「渡河が終わるまでは攻撃せぬよう命令を受けておる」
「でもうちの隊の者が背水の陣だと言い始めまして」
「何だそれは」

 そうこうしているうちに東晋軍の一部が着岸し、陣に緊張が走る。船で同時に運び込まれた資材で陣場が着々と組まれていく。それをぼーっと指を加えてみている。兵士ももう半分ほどが上陸した。やばいんじゃないか。ざわつく隊を叱りつけても静かにならない。

 そのうち少し離れた陣からわぁという声が上がった。あれは鮮卑(せんぴ)の軍だ。ここは(かん)人の部隊で鮮卑は言葉が違うから何を言っているのかわからないが、がやがやと叫び声が聞こえる。とすると、また別の方で騒ぎが起こった。100万もの陣容がざわつく音はやがて怒号になり地が揺れる。その中でよく通る言葉が響き渡った。

「何をしておる、早く退却しろ!」

 退却? どういうことだ。

「た、隊長、今退却って」
「後退じゃないの?」
「あの旗は朱序隊の旗じゃないのか? 朱序ってあれだろ? もともと東晋の将軍だったら詳しいんじゃないかな」
「隊長、やばいんじゃないの?」
「ちょっと千人長に聞いてくる」

 千人長のところにいくと他の百人長も集まってああだこうだ言いあっていた。

「千人長の聞いた話ってのは『退却』じゃないんですかい?」
「いや、たしかに『撤退』と聞いたのだ」
「でもこの隊の将軍は(きょう)族だろう? 千人長は言葉はわかるのかよ」
「ちゃんと通訳がいたんだよ」
「通訳っつってもちゃんと訳せてんのか」
「いやでもこの距離を退却しろっていわれたんだぞ」
「やっぱり退却なのか!?

 千人長が詰まる。退却と撤退と停止。そうしているうちに鮮卑軍が少しずつ後退し始めた。そこにまた朱序軍の旗を掲げた伝令が早く撤退しろと叫びながら走り抜ける。そして朱序軍以外の旗を掲げたいくつかの伝令も同じことを叫びながら駆け抜けていった。

「隊長!?
「いや、だが」
「うちだけ残ってうちだけ壊滅するのは勘弁ですぜ!?
「それに退却命令なんだったら、うちはもう随分出遅れてるはずだ」
「ちゃんと退却しないほうが軍令違反なんじゃないんですかい?」
『負けだ、負けだ、大負けだ! 逃げろ!!』

 後方から聞こえたその大声は決定的だった。
 そして振り返ると悪魔のような東晋軍の渡河はほぼ全て終わり、終わった順からこちらを向いて隊列を組み始めていた。ぞっとする。嫌な汗が背中を垂れる。アイツラが、攻めてくる。

「も、もうだめだぁ!」

 木霊する百人長の1人の声。

「だ、だめ? だめなの?」
「えっなんで? 後退じゃないの?」

 そんな疑問はざわざわざわと大きくなり、1人2人が叫びながら後方に駆け出すのを切っ掛けにして雪崩るように陣は崩れた。敵軍逃亡は死罪である。だがここに残ってもどうせ死ぬ。農民上がりの兵なんて身代金にするより耳刈り取って戦功にしたほうがよほどまし。
 まだ始まっていない戦場のそこかしこから悲鳴が聞こえるころにはもはや手遅れで、俺は既に走り出していたことに気がついた。後方から東晋軍の雄叫びが聞こえる。雄叫びすらも一つにまとまっている。一方前秦軍には指揮なんてありやしない。ただただ悲鳴と怒号と揺れる足下。知った顔が周りにいない大混戦で前にいる奴らを蹴倒し踏み越え逃げに逃げに逃げた。風の音や鳥の鳴き声を聞く度に東晋軍に追いつかれたのではないかと思って足を必死で動かした。
 もう動けて倒れて、気がついたらどこかよくわからないところにいて、俺の知ってる顔は誰もいなくなっていた。

5話 わぁいやったぁ! 何がなんだかよくわからないけど!

 わしは碁を打っていた。
 もう嫌だ。考えたくないもんね。激怒はしないけどわしに戦はわからん。さっきから客が戦況はどうかと尋ねるけど、全然わからないもんね! 本当に! つか八万対百万で勝てるわけがないでしょ⁉ 桓温さんもういないんだから。何、それとも嫌がらせで聞いてるの⁉ だからわしはこっそり、家財を隠している……。
 多分、多分ね、符堅はチョロいからすぐ恭順すれば助けてくれると思うんだ。うん、だからなんていうか、いつもどおりえっと、無難に、そう無難な感じで。だからえっと、積極的に戦略案考えたりしないし、えっと、思いつかないわけじゃなくて、えっと、わざとだから、わざと。
 うん、それでね、万一、万一だよ、万一東晋軍が勝った場合には逃亡しちゃったら立場上もったいないし、でもやっぱり前秦軍が勝った時にわしが前秦軍倒せとか激を飛ばしちゃったりしてたらまずいでしょ? だからえっと、とりあえず清談! 清談に励めば許されるのだ、この国は。

 パチリ。
 黒い石に挟まれた白い石が取り除かれる。
 そうしていると家人が闖入してきた。

「謝安様! 前線から伝令が参りました!」

 えっ、お客いるのに、めっちゃタイミング悪い、つか、はかれ、慮って。
 客人は緊張した目でわしを見つめる。しかたなくその少し分厚い報告の最初に目を通す。

 ?
 ……?
 ……??

「謝安殿、どうでしたか⁉」

 客が卓を掴んで詰め寄る。近い、近いから、やめて、離れて。息が臭い。
 ええっと、何度か目を上下させるけど戦勝と書いてある。嘘、嘘だろ? 嘘だよね。
 だって『桓沖さんの策を採用して渡河します』って連絡あってからまだ3日しかたってないんだけど。
 ……でも戦勝って書いてある。完勝……?
 いやいやでもさ、局地戦でちょっと勝ったくらいだろ?
 局地戦なら何回か勝ってるし。 うんうん。
 ここで下手なことは言えないし、ええと。
 アレは間違いだったとか言えない、無理。

「うちの小僧どもが賊を破ったようです?」
「なんと! 朗報だ! こうしてはおられぬ、本日は失礼させていただきますぞ!」

 客はまさに風のように去った。
 客は近すぎる距離でわしの手元の報告書を一緒に眺めていたから内容を誤解はしていないよね。
 もう一度ぺろりと報告書を眺める。えっと。
 まず完勝。それから被害、ほとんどなし。
 戦果、符堅の輿、雲母車、儀服、大量の軍資、牛馬驢馬十万余り。
 符堅の服……? 符堅の?
 えっと、勝ったの? 本当に? まじで?
 ?
 ……?
 ……??
 え、まじで! まじか!
 ふえ! ひゃっはー! まじで⁉ まじで⁉
 まじか、やった! 東晋残っててよかった! 逃亡しなくてよかった!
 桓沖さんありがとう!! さすが桓温さんの弟!
 世界バラ色!

「あの、謝安様? 踊りすぎて下駄の歯が欠けましたよ」

Fin.

ー付言
すまん、1万超えてる。
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