下駄の歯が折れても気づかないほどめっちゃ嬉しい 上【桓温・謝安】

文字数 4,505文字

1話 そりゃあもうブワァーっと異民軍。桓温さんがいてくれりゃな。

 まるでここまで悍ましいざわめきが聞こえるようだ。
 今、天下は二分されている。北岸に匈奴や鮮卑の北の蛮族連合軍を率いる前秦(ぜんしん)軍、南岸に我が西晋(せいしん)王朝の流れを引き継ぐ由緒正しき東晋(とうしん)軍。これが淝水(びすい)を挟んで向かい合っている。まさに天下分け目の決戦というやつだ。
 北岸はさぞカラフルな旗が並んでるんだろうな。あちらさんは多民族蛮族連合だ。

 気が気じゃない。だが、ここで負ければ東晋は滅ぶ。王朝が蛮族どもに敗れるのだ。あのおぞましき声。何を言っているのかわからぬ叫び声。前に襄陽(じょうよう)寿春(じゅしゅん)で戦ったときも思ったがあの蛮人共の気持ち悪さよ。あんな奴らの天下になるとかまっぴら御免だ。

 ああ、俺も叔父上みたいにもう少し引きこもってダラダラ暮らしたかった。40までとは言わないからさ。叔父上は今も暇さえあれば色々ほっぽりだして清談に耽っている。昔の聖人の喜怒哀楽がどうのこうのとか、知らないよそんなん。そんなことばっかやってっからこんなことになってるんだよな。散々桓温(かんおん)さんの足引っ張った結果がこれなわけだから。改めて桓温さんは凄かったんだな。
 あああそれにしても一体全体なんで俺に軍才なんぞあったんだよ畜生。やっぱ無理だろ。いや、桓沖(かんちゅう)さんはああ言っていたが、無理じゃね? 無理だよな? 無理無理。だって、だってたぞ、考えても見ろ。八万対百万。ちょっとケタがおかしいよね。あの魏と蜀呉が戦った赤壁でもニ万二千対二十万だもの。規模感が、何かおかしいぞ?
 あああ無理だよな無理。いやでもさ、負けたらあの蛮族に支配されるわけだぞ。それはないわ。だから士気はみんなMAX。

 桓沖さんからはいつも通り、タイミングまではとりあえず小賢しく頑張って牽制して戦線を膠着させろと言われているが。うん、小賢しく頑張るのは俺得意なんだ。ヒット・アンド・アウェイしたり夜陰に乗じたり糧秣船焼き払ったりとかさ。だから大抵の戦で簡単に負けるつもりはないんだけど、これはなんていうか。

 もっかい言う。八万対百万。百万っていうのは八万が十二個半入るの。
 これはもう小賢しい小手先でナントカできるレベルじゃないの。俺がなんとかなるのは戦術であって戦略じゃないの。
 桓沖さんの指示。本当にこんなんでなんとかなるのかよ。ううう。どう考えてもこれ悪手だろ。桓沖さんが考えてることがわかんねえ。ただこのままでも千日手なのは間違いない。いやこっちは補給路を抑えているわけだからこのまま長期戦してたらいいんじゃないかな。駄目? 駄目なのかな。駄目だよな、だって数が違いすぎるもん。士気は恐らくこちらのほうが圧倒的に高い。けど、けれども、複数箇所で渡河してきたら無理だよね、やっぱり。

 叔父上は『策はある』ばっかで策を教えてくれたりしやしねえ。何回か押しかけていったけど何が『フォッフォッフォ』だよ。あるわけないよ、あの人は根っからの文官だからな。策をくれたのは桓沖さんだけだ。
 勝つ案なんぞまるで浮かばねえ。あああああああああこの案で行くしかないのか、本当にうまくいくのかな、失敗したら八万が干戈も混じえず無駄に死ぬ。いや、うまくいく、きっとあの桓沖さんだし。しゃあねぇ、こうなりゃやけだ。やけっぱっちだ。なるようになりやがれ。

「おい、誰かいるか」
「はい、謝玄(しゃげん)様、こちらに」
「これを寿春城まで届けてこい。前秦軍の本拠地」

2.無理無理無理だってマジで。なんで桓温さんの邪魔しちゃったんだよ。

 ああ、どうしてこうなってしまったのだろう。
 謝玄に案があるって言っちゃったけどなにもない。さっきから手紙をしたためようと筆を握っては置いているのにちっとも進まない。
 なんでみんなで桓温さんの邪魔しちゃったんだろうね。きっとわしも北部貴族も誰も戦略眼というものがカケラもなかったからだろう。こうなって改めてわかる桓温さんの凄さ。

 現在中華は北と南で分断されている。わしらの東晋は南にあって、桓温さん以外が北に攻め入っても全然勝てなかった。戦果をもって帰ってきたのは桓温さんだけだった。中華の再統一が東晋の悲願だったはずなのにね。

 一時期は桓温さんがたった4万の手持ちであっという間に北に攻め入って前秦のもともとの首都だった長安(ちょうあん)を包囲したのに、兵糧がなかったのとみんなで邪魔して助けなかったから失敗した。
 一時期は桓温さんは洛陽(らくよう)を落としたけど、やっぱり桓温さんが動かせる兵は4万くらいだったから撤退せざるを得なかった。
 それで桓温さんが国力を増やすのに土断しよう土断しようって言ったのにみんなで反対した。当時は人毎にその本拠地で課税するシステムだった。東晋というのは北から逃げて来た避難民が作った国で、北部貴族はここ江南は本拠地じゃないっていう言い訳をして脱税していた。それから無戸籍民は所有物扱いできて税を払わなくてよかった。そこを桓温さんは戸籍を整備して、つまり土を断って正しく全員に課税しようって言ったのを北部貴族の大反対でポシャった。
 それで桓温さんはお金も兵もないまま下邳(かひ)から北に攻め入ろうとした。桓温さんはいつも兵がないところをぶっこむから電撃戦なんだ。みんな協力しないから。流石に何度も同じ戦法だからバレて失敗した。

 桓温さんが亡くなる直前に強引に土断してくれたおかげてお金が増えて、今ようやく淝水でかろうじて戦えるくらいまかなえている。

 この東晋というのはもともとバランスのおかしな国だった。
 ()から禅譲を受けて孫呉(そんご)を滅ぼし中華を統一した(しん)司馬炎(しばえん)だったけど、その亡後は皇族内で相争って八王(はちおう)の乱が起きて、それぞれの皇族が匈奴(きょうど)ら五種族、つまり五胡のちからを利用しようとしたから異民族の侵入を許すことになった。そこからはしっちゃかめっちゃか。異民族は勝手に独立して王を名乗り、統一からたった数十年で劉曜(りゅうよう)によって長安(ちょうあん)が落とされ晋は瓦解した。中華はまた麻のように乱れ分裂を始めた。

 その時丁度江南(こうなん)に赴任していた皇族の司馬睿(しばえい)が晋を復興させるために帝を名乗ったのが東晋の始まりである。それから中華の騒乱を逃れて華北の貴族がどんどん江南に流れ込んできた。
 東晋当初は華北の名門とされていた琅邪王(ろうやおう)氏や颍川庾(えいせんゆ)氏が権勢を奮っていた。わしの陳部謝(ちんぶしゃ)氏と桓温さんの譙部桓(しょうぶかん)氏が興隆し始めたのは5代穆帝(ぼくてい)のころで、桓温さんのお父さんの桓彝(かんい)蘇峻(そしゅん)の乱に加わらなかったこと、わしの叔父さんの謝鯤(しゃこん)王敦(おうとん)の乱に加わらなかったことから両氏族が清談貴族の仲間入りをするようになったわけ。そう。東晋になっても内ゲバばっかりなんだよ晋は。
 それで息子の桓温さんが都督・荊州(けいしゅう)刺史になって叔父の子供でいとこの謝尚(しゃしょう)が都督・豫州(よしゅう)刺史になったわけ。

 こういった経緯でわしは学習した。結局の所、どこが力を持つかはわからない。そんな乱世に逆戻りなのだ。力は得たい、けれども政治は不安定。暫定政権、暫定権力。権力者の中で内ゲバは横行して内乱が頻発する。そんな中で身を守るための清談なのだ。
 疑われないように清談にふける。政治的な話ではなく学問や芸術といった風流な話をする。私は叛意なんて持っていませんよ、ただ楽しいお話が好きなんです。無害で味方です。うふふ。結局清談仲間から役職が選ばれるんだよな。
 それでわしは本当にその楽しいお話が好きだった。魑魅魍魎たる政治の世界には関わりたくなかったんだよね。このまま死ぬまでだらだら暮らしたかったのに。

 中華の統一なんてさ、そりゃあみんな望んでるよ。そのほうが権力が大きくなるもんね。でも貴族にとってはそんないつ達成するかも達成できるかもわからないような話より眼の前の権力が大事だった。
 でも桓温さんは違ったんだ。それで桓温さんはものすごく才能があった。しかもいい人だった。桓温さんにとっては生臭い清談なんかより本気で中華の統一、いわゆる東晋の悲願を果たそうと思っていたんだと思う。それに戦争が得意だったんだ。だから、みんなに足を引っ張られた。桓温さんが力を持つと反乱を起こすのじゃないかと思ってみんなで邪魔をした。
 それが正しき晋の歴史だ。

 わしはそんな世界に心底生きたくなかったんだよ。
 でもさ、わしの時代には陳部謝氏はわりと名門になっていてだね。豫州刺史になった謝尚には子どもがいなかったんだ。それで従兄弟の中で一番年上の謝奕(しゃえき)が豫州刺史を継いだんだよ。謝奕は桓温さんの奥さんにクレイジー謝奕って言われるくらい飲んだくれの駄目な奴でさ。飲みすぎて死んだ。こんなクレイジーなのでも縁故でつけるっていうのが東晋の恐ろしさだ。これが縁故政治だ。次はわしが任命されそうになったんだけど断ったら弟の謝万(しゃまん)が豫州刺史になったんだけど、謝万が出兵した時にアホみたいに負けて豫州刺史を罷免されたんだよ。

 そのころには豫州刺史はすっかり陳部謝氏の利権になっていて陳部謝氏の経済基盤になっていた。東晋ができるまでは中央から派遣される都督が軍部を握っていて統治は地元の豪族が行っていたんだけど、権力大好きな北部貴族はそのころには統治も南部豪族から取り上げていた。し放題だ。その金でわしはかわいい女の子とふらふら諸国漫遊して楽しく遊んで暮らしていたのは否めない。でも豫州刺史の金がなくても多少は荘園があったからなんとかくらせなくもない。

 けれども情勢が微妙だった。その頃にはすっかり東晋の王と北部貴族が構成する揚州の北府軍と桓温さんが軍権と統治権をもつ荊州の西府軍がすっかり対立していてさ。陳部謝氏は謝尚と謝万が北府軍に親しくて、桓温さんとは謝奕が仲よかった。つまり陳部謝氏ってのは桓温さんみたいな飛び抜けた才能がないから清談貴族よろしくコウモリをしてるんだよ。謝万がポンコツすぎて桓温さんに罷免されたけど豫州っていうのは戦略的にも大事な場所だからポンコツ置いておくわけにはいかないから仕方はない。でもそんなことより西府軍とは伝手どころか関係性は大きなマイナスだ。どちらか一方に味方してはいけないというのがこの世の習いであることは十分身にしみている。ああ。世知辛い。だからわしが桓温さんのところに士官した。40年ニートを続けてたからこのまま死ぬまで働かずに遊んで暮らしたかったのに。
 桓温さんは喜んでくれた。桓温さんは中華を統一したいだけで北部貴族みたいに権力争いしたいわけじゃないからな。北府軍と徹底対立して統一を難しくするより間に北府軍に伝手のある陳部謝氏を挟んで調整できるほうがいい。

 でも最終的に考えると、やっぱり桓温さんの邪魔をしたのが東晋が窮地に陥った一番の理由だろう。戦争は桓温さんが一番だ。せめて中華を統一してから内ゲバすればよかったのかも。今更悔いても仕方がない。
 桓温さん生き返らないかな。
 ああああ嫌だ。働きたくないでござる。
 もう放棄して碁を打って楽しく暮らしたい。前秦の符堅(ふけん)は敵方にチョロいらしいから負けても楽しく暮らせないかな。
 東晋滅びたら、どうなるんだろう。無理かな、無理だよね、流石に八万対百万とか。
 ああ、桓温さん生き返って!
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