第1話

文字数 5,170文字

 十一月十一日(火)。

 伊佐木加奈子殺害事件から一週間が経った。
一向に解決の兆しが見えず、焦り始めていた小夜子は、昨日、疑惑の証言をした岩清水を問い詰めて、今日こそ手掛かりを得ようと意気込んでいた。
 昼休みに会う約束を取り付けようと、メールを打ちながら教室の扉を開ける。すると、待ってましたとばかりに美紀が血相を変えて飛んできた。
「今日は岩清水くん、休みだそうよ」
出鼻をくじかれた小夜子は、携帯を閉じながら「え? どうして」と、聞かずにはいられない。
「どうやら風邪をひいたみたい。もしかして昨日の応援団の練習が祟ったんじゃないかしら。彼って冷え症だったんでしょう?」
 確かに昨日、教室で話した時に『自分、極度の寒がりなんす』って言っていた。「でも練習は前からやっているでしょう? 昨日が初めてって訳じゃないし」
 しかし、昨日の岩清水の震えぶりを思い返すと、あれで風邪をひかない方がどうかしていると思わざるを得ない。
 美紀も同じ考えらしく、「だとしたら、小夜子の尋問が原因かもよ」
「尋問って、簡単な質問しただけよ。それにあの時は岩清水くんも厚着していたし」
「なら、ただの偶然?」
 本当に偶然で片付けていいのだろうか。加奈子が殺されてまだ一週間しか経っていない。昨日の証言も真偽のほどは確かではないし、彼が殺人を犯したかどうかは別にして、少なくとも小夜子の知らない何かを握っている可能性は充分にあった。
「ボタン……!」小夜子はとっさに閃いた。「そうよボタンよ。ボタンを見せた時、彼は明らかに動揺したわ」と、鞄から例のボタンを取り出した。
「でも、それだけで風邪をひくものかしら」
「風邪は言い訳よ。本当は学校に来られない事情があるのかも」
「事情って?」
「判らないけど、このボタンと関係があるのかもしれない」
「じゃあ、どうするの? あとで彼の家に行ってみる?」
「そうしたいのは山々だけど、今日は止めておくわ。本当にただの風邪かもしれないし。明日も欠席するようなら、その時こそ直接家を訪問してみましょう!」
 そこで始業のベルが鳴り、二人はそれぞれの席に着く。

 その日の放課後。
 小夜子は高野内の病室を訪れて、これまでに得た情報を高野内に伝えた。
「なるほど、その岩清水ってのが怪しいのか」
「でしょう? ボタンを見せた時の反応といい、嘘のアリバイを主張した事といい、急に学校を休んだ事といい、絶対に何かを隠しているのよ」小夜子はそう断言して、高野内を睨みつける。
「もしかしたら、その伊佐木加奈子っ娘の援交の相手が岩清水って事は無いか?」
「まさか。……彼はまだ高一なのよ。援交ってのはどうかしら?」
「援交じゃなくて、普通に付き合っていただけかもしれないじゃないか」
「でも、彼女がラブホテルに入ったところを目撃した人いるって」
「それも岩清水と一緒だったのかもしれない。最近の高校生は、ませているからな。それにああいう所は、建前上、十八禁になっているが、いちいちチェックする訳じゃないし、ちょっと変装すれば問題なく利用できるだろう」
 それでも納得のいかない小夜子は高野内に食ってかかる。
「でも、もしそうなら、どうして岩清水くんは自分からそんなうわさ話をしたのかしら。本当に付き合っていたとしたら、普通は隠しておくでしょう」
「……そうだよな。やっぱりただのデマかもしれないぜ」
「だといいけど」小夜子はほっと溜息をついた。
 すると突然、高野内は何かを確信したのように両手をパンと叩き、「判ったぜ! 事件の真相が!!」と、自信ありげに親指を立てた。
「嘘!? どういうこと? 説明して」
「その伊佐木って生徒は自殺したんだ」
「自殺? あの状況で?」信じられないと言った顔で高野内を見つめる。
 誰がどう見ても他殺としか思えないこの事件だが、名探偵を自称する彼は、時にとんでもない推理力を発揮することを小夜子は知っていた。固唾を呑みながら非凡な才能を持つ“迷”探偵の言葉を待つ。
「いいか、俺の推理はこうだ。……あの日、伊佐木加奈子は美術室でお前を待ちながら描きかけの絵を仕上げていた。その絵というのは彼女の自画像だった。しかもヌードの」
「ヌード?」
 嫌な予感がしたが、それでも高野内の推理を最後まで黙って聞くと決める。
「そうだ。美術室には姿見があっただろう? あれで自分の自画像を描いていたんだよ。カーテンを閉めて服を全部脱で裸体になった後、いざ筆を走らせたが、納得がいかずに自らの手でその絵画を切り裂いた。興奮状態だった彼女は勢いあまって、たまたま転がっていたブロンズ像の頭を踏みつけ、背中から転んで頭を打った。……やがて我に返った彼女は慌てて服を着ようとしたが、つい焦ってしまい再び転倒。今度は前からブロンズ像に突っ込んで即死した。――だから正確には自殺じゃなくて事故だな。……どうだ! 俺の推理は完璧だろう?」
 呆れてものが言えないとはまさにこのことだ。まさか冗談を言っているのか? それとも本気? もし後者だとすれば、この三流探偵の退院は、ものすごく先の事になるだろう。もちろん精神病院で、だが。
 小夜子は呼吸を整え、今の推理を頭の中で反すうしてみた。明らかに矛盾だらけ――いや矛盾しかない。
「あの、質問してもいいかしら」
「どうした? 何でも訊き給え」
「もし、あなたの推理通りだったとすると、ちょっとだけ気になる部分があるだけど……」
「どの部分だい? 穴は無いはずだけど」
 小夜子はまぶたを閉じて軽く深呼吸をすると、目を大きく見開き、一息で一気にまくし立てる。
「描きかけの絵が気に入らなくて、自ら切り裂いたところは納得できます。それから百歩どころか千歩譲って、転んで頭を打ったとしましょう。でも、あの肖像画はバストトップだから全裸になる必要は全くないわ。せいぜい肩を出すだけで良かったのに、どうしてフルヌードだったのかしら? それに下着やキャンバスを切り裂いたペインティングナイフはどこに消えたの? あのボタンは一体何? 転んで二回も頭を打つなんて偶然、誰が信じると思う? それに二回目に転んだ時に頭の前を打って即死したのなら、どうして仰向けだったの? 私へ相談を持ち掛けた理由はなに? それに彼女の携帯の履歴が消されていたのは何故? 援交の相手は?」
 小夜子は興奮しながら、息をもつかせぬ勢いで攻め立てると、やがて我に返りニコリと微笑んだ。「どう? ちゃんと説明してください。もちろん論理的に」
 だが、意外にも高野内は、顔色一つ変えず、飄々と言い放つ。「あのな、そんなことも判らないのか? ……仕方がない。ちゃんと説明してやるよ」
 嘘でしょう? こんな矛盾だらけの推理、どう解説してくれるというのかしら。
「お願いします」キチンと頭を下げる小夜子。説明できるものならやってみなさい。
「まずは全裸になった件だが、例えバストトップと言えども、アーティスト気質だった彼女はこだわりが強くて、中途半端に肩だけを出すなんてことが出来なかった。次に下着の件だが、彼女は元々下着を着ていなかった。どうせ全裸になるのだから、敢えて制服の下は何もつけてこなかった。もしかしたら、普段から家では下着をつけない習慣で、たまたま着忘れただけかもしれない。お次はナイフだが、彼女自身が興奮して窓から捨てた。そして下を通った誰かが、たまたまペインティングナイフを欲しがっていて持って帰った。もしくは犬がくわえていったかもしれない。――充分あり得るだろう? ボタンはずっと以前からあそこに落ちていて、誰もその事に気づかなかった。学園祭の時の掃除でもね。あるいはそれ以降に誰かが落としたか。たまたま二回も転んで二回とも頭を打ったのは偶然としか言えないけど、死体が仰向けだったのは、最初うつ伏せだった体が、死後硬直で自然に仰向けになった。相談というのは全裸でいるところを誰かに盗撮されたとか、もしくは家では裸族である事への悩みだったのかもしれない。それに携帯については、あくまでも緊急用に持っていたもので、初めから何の履歴も無かった。だって友達とかいなかったんだろう? 誰にもアドレスや携帯番号を教えていなくても不思議じゃない。小夜子だって教えてもらっていなかったんじゃないか? 噂になっていた援交の話は、元々でたらめで、全くのデマだった……」
 話を聞いているうちに頭がクラクラしてきた。一瞬だけ彼の説明で納得しかけたが、冷静に判断すると、やはり納得がいかない。これが真実だとしたら、この作者はもう筆を折るしかないだろう。
 危ないところだった。
 何が?
「なんてな、冗談だよ。まさか俺が本気で言っているとでも思ったのか? でも百パーセントあり得ないとも言い切れないだろ。あくまでも一つの可能性だ」
 高野内は悪びれもせず、満足げな笑顔を見せると、サイドテーブルに乗った冷めきったお茶に手を伸ばした。
「千パーセントあり得ません! 本気で期待して損したわ」
 興奮冷めやらぬ小夜子は突然しゃがみ込み、高野内が隠し持っていた煙草をクローゼットから取り上げると、彼が動けぬことをいいことに、コップに水を入れて中に沈めた。
 人生が終わったような顔の高野内は、その様子を虚ろな目で眺める。小夜子は「こんなものを吸っているから頭がおかしくなるのよ」と罵った。
「酷いじゃないか! 入院中の唯一の楽しみを……」
「退院してからゆっくり吸いなさい。その日が来ればだけど」
 高野内は細かな葉っぱとふやけたフィルターの浮かんだ茶色い液体を、名残惜しそうに眺めている。
「……ところでそのボタン、今持っているのか」
 仕方なくといった表情で、高野内はベッドに指をこねくり回しながら小夜子に訊いてきた。
 ポケットからハンカチに包んだボタンを差し出す。
二本の指で掴み上げると、高野内はしげしげと注意深くそれを観察し始めた。
「うーん。取り立てて変わったところは無いな。……もっとも実物じゃないし特徴のあるボタンの方が珍しいか」
「そうよね。……どこにでもありそうなボタンだけど、裁縫が得意な岩清水くんが反応したという事は、何らかの特別なボタンかもしれない」
「その彼は学校を欠席していて話が聞けない、か」
「困ったわ。今のところ犯人に繋がる手がかりはこれだけだから、何としてでも岩清水くんと会わなければいけないし」
「メールしたらどうだ? 体調を心配しているふりして」
「何度もメールしたわよ。……でも返事はゼロ。携帯に直接かけてみたけど、やっぱり出てくれないし――。私、事件とは関係なく本当に心配しているのよ。彼が倒れたら来月の絵画コンクールが駄目になるしね」
「そうか? もし彼が出品できなくなったらコスプレしなくても済むんだし、内心喜んでいるんじゃないか?」
「そんなことありません! 部の存続のためなら、それくらいは平気よ」
「ところでそのアニメ雑誌、今持っているか?」
 鞄を開き、岩清水から貰った雑誌を取り出して高野内に渡す。
「へえ、『月刊アニメファンクラブゴールド』か。どれどれ、その大鎧門エルダってのはどんな……あった!」
 ページをめくる手が止まると、高野内はそれを食い入るように見つめた。
「確かに小夜子のイメージだな。不ぞろいな顔のパーツといい、貧乳なところなんか……」
「貧乳がどうしたって!?」
 小夜子は天井から吊ってある包帯の巻かれた高野内の右足を思い切りグーで叩く。思わず悲鳴を上げる高野内。
「イテテテ……。こら! 怪我人になんてことするんだ!」
「どうせ私は可愛くありませんよ。それに今は貧乳じゃなくてシンデレラバストって言うのよ。もういいでしょう? これは事件に関係ないんだから」
 強引に雑誌を奪おうとする小夜子。かたや必死に防戦する高野内。次第に表紙が破けていく。
「いや、小夜子は充分可愛いと思うぞ。セクシーじゃないだけで」
「セクシーじゃなくて悪かったわね! もういい加減に返してよ!」
 それでも離さない高野内。小夜子は奪還を諦めると、黙ってページをめくる音を聞く羽目に――。
「あれ?」思わず手が止まる高野内。
「どうしたの?」
「これを見てみろよ」高野内は開いたページを見せ、そこを指差した。さっきとは違うページだ。
「これって……」
「な? そっくりだろ」
 すると小夜子は破れかけた雑誌をひったくると、鞄へと乱暴に放り込み、飛び出すように病室を出ていった。「私、犯人判っちゃった。やっぱり加奈子は事故じゃなかったのよ」という言葉を残して……。
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