第1話

文字数 6,258文字

 突然の雨音。
 さきほどから立ち込めていた暗雲は、遂に大量の涙を落とし始めたようだ。まるでこれからの苦難を予言するかのように。
 皆、雨のことなどまるで気にしないようすで、小夜子の挙動を見守っていた。
「今からそれを証明したいと思います」小夜子は意を決する。
 本当は何のプランもない。だが、こうなった以上、後には引けない。
 五十嵐の怒号が跳ぶ。「本当か? そう宣言した以上、中途半端な推理だったら納得しないからな!」
 小夜子は唇を噛みしめながら、不安な心境を悟られまいと敢えて笑顔を作った。
「伊佐木加奈子さんが殺された経緯は、皆さんご承知の事だと思いますので、ここでは割愛します。……問題は誰が岩清水くんを死に至らしめたかという事です。――ここまではお判りですよね」
「ああ、俺も今、代々木先生から聞いたばかりだが、確かに納得出来たぞ」
 剛禅寺は腕組みしながら、微かに頷いた。
 これが並みの女子高生であれば、逃げ出すところだろうが、小夜子にはとっておきの秘策があった。
「ここで私から一つご提案があります。皆さん目を閉じてください。私が今、華麗なる推理を打ち鳴らして、犯人を高らかに名指ししてもいいのですが、出来ればそんな真似はしたくありません。そんな事をすれば、犯人の尊厳を傷つけてしまうことになるからです。……ですから岩清水くんを殺した方は、今ここで名乗り出て欲しいのです。――約束します。今ならすべてを水に流し、何も見なかったことにしますから」
 完全な時間稼ぎだった。本当にこの中に犯人がいるという確信はないし、例えいたとしても、とても名乗り出るとは思えない。ましてやこれが殺人でない可能性すらあるのだ。
 とにかくこうやって少しでも時間を稼ぎ、事件を整理しながら糸口を探るしかない。
「えーっ? まさかの自己申告? おいおい、いくら何でも、自分がやりました、って名乗り出る奴がいると本気で思っているのか?」
 目を開けた五十嵐は、呆れ顔で醤油せんべいをかじる。他の人物もぽかんとして冷たい視線を小夜子に向けていた。……ただ一人の人物を除いては――。
「いいから、峰ヶ丘さんの言う通りにしてみましょうよ。もしかしたら、本当に名乗り出る人がいるかもしれないし」
 代々木は笑い声を漏らしながらまぶたを閉じた。他の人たちもそれに倣う。
「ご協力ありがとうございます。……それではいいですか? 岩清水くんを殺した人は手を挙げてください」
 無謀とも思えるチャレンジだった。小夜子もこれで犯人が正直に自白するとは思ってもいない。これはあくまでも時間稼ぎであって、犯人の良心に期待しているわけでは無かった……のだが――。
 小夜子は信じられない光景を目の当たりにした。もし、突然天地がひっくり返ったとしても、ここまで驚くことは無いだろう。
 なんと剛禅寺が震えながら右手を上に伸ばしているではないか。目を閉じてはいるが、その顔は悲痛な色がまざまざと浮かんでいる。
「剛禅寺先生。……どうして……」言葉の続かない小夜子。まさか彼が岩清水を殺した真犯人だったとは。
 その言葉に他の一同がまぶたを開けると、みな動揺しながら剛禅寺に視線が集中した。
 剛禅寺はしばらく沈黙を守っていたが、やがて観念したかのように、重い口を開いていく。
「……悪いのはこの俺だ。俺が岩清水を殺したんだ!」
 見ると、剛禅寺は俯きながら涙を流している。どよめきが走り、その場の全員がどうしていいか判らないようだった。
 代々木は信じられないといった表情で、「説明してください、剛禅寺先生」と、剛禅寺の腕を強くさすった。「あなたが殺したとはどういうことですか?」
 涙をぬぐい、スローモーションのようにゆっくり立ち上がると、剛禅寺は思い切り深呼吸して軽く首を回し、独白を始めた。
「……岩清水は応援団の中でも劣等生だった。見た目に反して声も小さく、体力も根性も無い。そこで俺は毎日のようにしごいていたんだ。気合を入れるためにだな。世間的に見ればいわゆるパワハラというやつだ。俺としては指導の一環のつもりだったが、もしかすると、それを体罰と感じて、どんどん引きこもるようになっていったんだと思う。アニメや絵画の方にね。その思いが高じて伊佐木をあんな目に合わせてしまった。伊佐木が亡くなった後に彼が風邪と称して学校を休み続けたのも、俺はそんな彼の辛い思いも知らずに勝手にズル休みだと決め込んで、岩清水の家に怒鳴り込んだ。それが彼をさらに追い詰め、とうとう自ら死を選ぶことになった……」ふと、天井を見つめ、「これで判っただろう? 伊佐木と岩清水、二人は俺が殺したようなものなんだ」
 小夜子は拍子抜けしていた。誰もそんな精神論の話をしているわけじゃない。剛禅寺の話も理解できなくはないが、それだとただの自殺になってしまう。それはそれでいいのかもしれないが、小夜子としては納得がいかなかった。誰かに殺されたと宣言してしまった以上、気まずい思いをしたくないという虚栄心もあったのかもしれない。
 うなだれながら、またも涙ぐむ剛禅寺に、代々木は優しく声を掛ける。
「剛禅寺先生。あなたの辛い気持ちはよく判りました。……ですが、この事件はあなたのせいではありません。それは私が保証します」
 剛禅寺は代々木に縋りつくと、人目もはばからずに――まるでミルクを欲しがる赤子のように声を上げて泣き出した。代々木は肩に手を置いて憐みの表情を向けている。小夜子はそこにただの教師同士ではない強い何かを感じていた。
 まるで他人事のような顔で、美紀は炭酸入りのオレンジジュースのペットボトルのキャップを捻り、コップに注ぎながら言った。
「とりあえず剛禅寺先生の事は放っておくとして……ねえサヨ。まさか、あなたもそう思っているの? 剛禅寺先生が岩清水くんを追い詰めて今回の事件を引き起こし、その後に自殺したって」
 返事に困る小夜子。そうではないと否定したかったが、とてもそんな雰囲気ではない。
 五十嵐は口元を歪め、「だとしたら天晴だよな。岩清水はこの中の誰かに殺されたって高らかにのたまった挙句、剛禅寺先生の情に任せるだなんて。さすが名探偵の助手、いや名助手かな」見下すような視線を送る。
 だが、ここから小夜子の反撃の火ぶたは切って落とされた。
「違います! 岩清水くんを殺した犯人は――」ここで一か八かの賭けに出る。「ズバリお前だ。五十嵐翔!」人差し指を突き付け、精一杯の声を張り上げる。
 ヤバい! 勢いとはいえとんでもない事を叫んでしまった。
 だが、今更後悔しても始まらない。こうなったら、なんとかして五十嵐犯人説を立証しなければ。
「ほほう、まさか僕が犯人とはね。では聞かせてもらおうか、その根拠とやらを」
 自信満々といった態度で小夜子を睨みつける五十嵐。小夜子は額から流れ出る油汗を拭うと、数回咳払いをし、彼を睨み返した。
「コホン。まずは動機から探ってみましょう。私の仮説はこうです……実は五十嵐くんは加奈子と交際していた。ところが岩清水くんが加奈子を殺害したのを知ったあなたは、彼を許すことが出来なかった。……そうです。切り裂かれた油絵は、五十嵐くん、あなたの肖像画だったのよ!!」
 ――決まった! 
 一人悦に入る小夜子。
 だが問題はこれからだった。美紀は興奮しながら五十嵐に物申す。
「そうだったの? それなのに加奈子が殺された途端にサヨや私にモーション掛けるなんてちょっと酷すぎない? 最低よ!」
 たいそうご立腹の美紀は、ふて腐れてそっぽを向く。一方の五十嵐は、それを物ともせずに平然と眼鏡をはずし、ハンカチでレンズを拭いた。
「仮に僕たちが付き合っていたとしたら、確かに動機は充分だ。だが、どうやって岩清水を殺したというんだ? トイレは密室だったんだろ?」
 そこまで考えていなかった小夜子は頭をフル回転させ、適当に思い浮かんた推理を並び立てる。
「私の推理はこうよ……あなたはあの日、携帯で岩清水くんを美術室へと呼び出した。恐らく加奈子の件で話があるとでも言ったのでしょう。ついでに加奈子のペッティングナイフを持ってくるように指示してね。……それから睡眠薬入りのペットボトルを無理矢理飲ませると、ペインティングナイフを取り、眠り込んだ彼を一階のトイレの個室へと運び入れた。……そしてあなたは熟睡した彼をナイフで突き刺し、自殺に見せかけるためにナイフを握らせ、指紋をつけると、飲みかけのペットボトルを置いた。その後、携帯電話を壊し、ドアを内側からロックする。トイレの個室には上の部分に二十五センチほどの隙間があり、あなたは貯水タンクを踏み台にして、天井との隙間から脱出したんです」
 よし! とっさの思い付きの割には結構イケてる。
 小夜子は案外それが真実では無いかと思い始めていた。
「それなら僕じゃなくても出来るだろう? 例えば与謝野さんとか……あ!」
 五十嵐はその指摘が間違いであることに気が付いた。
何故なら……。
「そうです。彼女には無理です。……美紀、言い難いかもしれないけれど、今の体重を教えてくれるかしら」
 美紀は顔中を真っ赤に染めながら小声で答えた。「……八十キロ」
「嘘つけ! 百キロは越えているだろう」五十嵐はすぐさま突っ込んだ。
「そんなにないわ!……本当は八十八キロよ」美紀は下を向きながらしょぼくれている。
「ありがとう美紀。これで証明されたわ。見ての通り彼女に天井の隙間は通れない。よって犯行は不可能だった。つまり岩清水くんを殺したのは五十嵐翔、やはりあなたしかいないわ!」
 美術室はお通夜のように静まり返った。気が付くと辺りはすっかり薄暗くなっていて、激しくなった雨が窓を懸命に叩いている。
 小夜子は扉の近くにあるスイッチを入れると、室内がパっと明るくなった。しかし、みんなの表情はそれに反して沈んだままであった。
 突然、剛禅寺は我に返ったかのように立ち上がると、五十嵐の襟首を掴み上げた。
「お前か? お前が岩清水をEQ \* jc2 \* "Font:MS 明朝" \* hps10 \o\ad(\s\up 9(や),殺)ったのか。……なのに罪から逃れるために自殺に見せかける細工をしたとはな! 俺が岩清水に代わって成敗してやる。大人しくお縄につけ!」まるで時代劇のような台詞だ。
 剛禅寺の締め付けに、五十嵐は苦悶の表情を浮かべる。代々木は落ち着いてと剛禅寺をなだめる。
 ようやく開放された五十嵐は、よろよろと椅子に腰を下ろして何度も咳を繰り返した。
「……なるほど、面白い推理だ。だが、その仮説には矛盾がある」
「なに? まさか加奈子と付き合っていなかったとでもいうつもり?」
「ああ、僕と伊佐木には交際の事実はない。彼女の遺品を調べればすぐに判る事だ。……それに僕が言いたいのはそれだけじゃない」
「今さら何を言い訳するのかしら」言い訳も何も、元々何の根拠もない曖昧な推理だ。反論があってしかるべきと言える。
「もし君の推理通りだとすると、僕が岩清水を殺害目的で呼び出し、睡眠薬を飲ませてトイレの中へと担ぎ入れた。そして彼に持ってこさせたペインティングナイフを突き刺して、履歴がバレないように携帯を壊し、飲みかけのペットボトルを置きドアの内側から鍵をかけた――。ここまではいいとしよう」
「認めるのね。自分の犯行だと」
 五十嵐は声を荒げて立ち上がった。
「そうじゃない! いいか、あのナイフで岩清水を刺したのであれば、返り血を浴びない訳がない。もし、その状態で天井を乗り越えたとしたらどうなるか想像してみろ!」
「……あっ!」
 小夜子は自分の推理に矛盾がある事に気づいた。いくらとっさの思い付きとはいえ、明らかに初歩的ミスだ。
「私にも判ったわ。もしサヨの言う通り、殺害後に天井の隙間から出たとしたら、個室の上に血の跡が残っている筈ね」
 勝ち誇ったように見下げた顔で、五十嵐は声を上げた。
「そうだ。警察も馬鹿じゃない。現場となったトイレは徹底的に調べただろうし、例え拭き取ったとしても、その跡が残る。そんな形跡があれば、さすがに他殺だと断定されるはずだ。そしておよその身長などが判り、とっくに僕か誰かが逮捕されていただろうな。逮捕まではいかなくても重要参考人として厳しく尋問されるのがオチだ。――だが僕は今こうして呑気にお菓子を食べている。どういうことかきっちりと説明してもらおうじゃないか。それとも今更冗談とでもいうつもりか?」
「それは……」言葉が続かない小夜子。本当は使いたくなかったが、こうなった以上高野内直伝の伝家の宝刀を抜くしかない。
「……そう思わせるのが犯人の狙いだったのよ」
 その言葉に五十嵐を始め、その場にいた全員が呆気にとられた。
「ん? ちょっと峰ヶ丘さん、言っている意味が理解できないんだけど……」
 他の者も同意するように頭を傾げながら小夜子を見つめている。
「私には最初から判っていました。五十嵐くんの犯行ではないということを。……真犯人は自分の容疑を五十嵐くんに押し付けるために、ワザとそう誘導したのです」
「どういう事? 誰がどう誘導したって?」美紀は明らかに混乱している。「じゃあサヨは五十嵐くんが犯人じゃないと判っていながら、ニセの推理を語ったっていうの?」
 代々木の目は、鋭く小夜子に向けられた。「そうよ。もし、与謝野さんの言う通りなら、少し悪ふざけが過ぎますよ。峰ヶ丘さん」
「ふ~ん。その割には結構、自信満々で僕を名指ししたじゃないか。とても演技には見えなかったんだけど」なかなか鋭い事言う五十嵐。
小夜子は悔しいながらも毅然とした声を上げる。
「ごめんなさい五十嵐くん。でも大事なことなの。あなたを容疑者とすることで真犯人を油断させて、ほころびを探っていたのよ」
 剛禅寺はさっき五十嵐に詰め寄ったことなど、まるで無かったかのように、「やっぱりそうか。俺は最初から信じていたぞ、お前が殺人を犯すようなことは絶対にないって」肩を抱いて笑顔を振りまいていた。
 五十嵐はというと、拍子抜けした顔で軽く舌を出した。
 自分の容疑が晴れてホッとしたのか、「それでその“ほころび”は見えたのかな。ワトソン君」少しからかい気味に老紳士の声色を発した。
 小夜子は平然と言ってのける。「……ええ……バッチリよ」
 本音は全然バッチリじゃない。五十嵐の犯行を立証しようと必死にもがいた挙げ句、結局玉砕したのだ。そんな余裕ある訳がない。
 頭を整理させようと、飲みたくも無いウーロン茶のペットボトルに手をかけて栓を捻り、紙コップに流し入れる。
 追い詰められた小夜子は椅子に深く腰掛け、ウーロン茶の入ったコップを何となく弄ぶ。頭の中でドラマ『ガリレオ』の福山雅治演じる湯川教授の如く、床に微分方程式を掻き殴る光景を思い浮かべてみた。
 するとそこに一つのある答えが浮上してきた。もちろん方程式とは何の関係も無い。だが小夜子は確信していた。それこそが真実であると。
 小夜子は意を決すると椅子から立ち上がり、思い切り目を見開いて彼女の名を呼んだ。

「代々木先生。五十嵐くんを殺したのは、あなただったんですね」
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