第28章「風の向こうへ」

文字数 6,067文字

 灰色の空と土。ここが根の国。
 そして、おそらくこの地で産声を上げたのだ。
 体の中の半分の血がざわめいている。
 エンマは走った。血の流れるまま、血の呼んでいる方へと、そこに仇が待っているはずだから。
 半分の血を与えた者を殺すのだ。もう半分の血がそうしろと言っている。そのために生まれてきたような気もした。
 自分という生を与えた者を殺すのだ。それは親でも何でもなく、敵でしかない。生まれたときから敵なのだ。命を与えた者を殺すのが運命と定められていたのだ。
 それは自分にしか出来ないことだ、人と魔物の間に生まれた自分にしか。…無意識の中で、エンマはそのような考えや思いを抱えながら走っていた。
 エンマにとって、草吉が親であり、全てだったから、雷鬼を殺すことに何の躊躇(ためら)いもなかった。雷鬼は、エンマにとって、ゴミに等しい生き物であった。
 雷鬼のグロテスクな城に辿り着くと、エンマとフータは、誰もいないかのように静まり返った城の中へ歩いて入って行った。
「エンマ!」
 城に入ると、一斉に魔物たちが襲い掛かってきたが、エンマは、紫炎刀に霊気を纏い、霊剣を振りかざして、数分のうちに全ての魔物を滅ぼした。
「へへ…。ここにきて、なんだか霊力の威力が上がったようだぜ。なんでかなあ…。」
 エンマの内部に眠っていた何かが、目覚めたかのようだった。それは激しい怒りでも憎しみでもなく、むしろ、心地よいほどの穏やかさと安らぎを持っていた。
「おいらは、いざとなったら、風で兄貴を守るよ!」
 フータも勇ましく言って、小太郎の背を撫でた。
「しかしフータ。雷鬼が出てきたらおめーは隠れてろよ。俺は奴を一人でやっつけたいんだ。おめーまで巻き添えにしちまったら大変だからな。」
「うん。兄貴の邪魔はしないよ。」
 以前来たことのある、玉座の間に着いたが、そこには誰もいなかった。
 しかし、確かにあの忘れられない妖気が立ち込めていた。
「出て来い!雷鬼!」
 エンマは叫んだ。
「また来てやったぜ。てめーをぶちのめすためにな。」
「ほほう。それは楽しみだ。」
 天井から、すうっと雷鬼が降りて来て、空中からエンマを見下ろしていた。
「俺はな、てめーを倒せる力を手に入れたんだぜ。」
「やってみろ。」
 雷鬼は平然として、腕を組んだまま、空中で静止していた。
「さあ!見せてみろ!!」
 突然、雷鬼の全身から、凄まじいエネルギーが噴き出した。それは妖気であったが、とてつもなく邪悪で恐ろしいほどの殺気に満ち溢れていた。その強大な力が、部屋中を満たして、黒い妖気が霧のように辺りに広がった。
「うっ…。」
 エンマは神力を発動しようと試みていたが、あまりに力強い妖気に圧倒されて、身動きがとれなくなっていた。
 ヤトの中で神力を発動した感覚は、まだ残っていた。それをどうにか引き出そうと努めていたが、雷鬼の妖気に邪魔されて、思うように体も動かず、心まで支配されてしまいそうだった。
「所詮はただの餓鬼。俺に敵うはずがなかろう。」
「くっ…。」
 どんどん、心が折れて、くじけそうになっていく。それほどに、目の前の仇は大きな存在だった。エンマは自分のちっぽけさを思い知らされ、絶望の淵にいた。
「兄貴!そんな奴に負けるな!」
 フータの声が響いた。その声で、はっと我に返って、エンマは冷静さを取り戻した。
「てめー…。」
 エンマは素早く紫炎刀を抜いて、雷鬼に向かって一振りした。
 すると今まで、とてつもないエネルギーを放っていた雷鬼の姿は、ふっと掻き消えた。
「なんだ…?」
 雷鬼の姿が消えたあとには、長い黒衣を纏った白い顔と白い腕をした少年のような者が宙に浮かんでいた。白目のない、黒い瞳がエンマを見下ろしている。
「今のは私の作り出した幻だ。エンマ、お前の力を試させてもらった。どうやら、まだまだ雷鬼を殺せるレベルには達していないようだ。残念ながら。だがそんなことはもうどうでもいい。」
「誰だ?てめー…。」
 エンマは、空中に立っている怪しい少年を睨み付けた。
「私は邪蛇。お前に殺され、また蘇ったから、姿がこの通り、若返ったのだ。」
「ジャジャ…って、地獄里で会った…、蓮花の親を殺した奴だな!しぶとく蘇ったってのか!」
 邪蛇の姿は老人から少年に変わってはいたが、その目つきにほとんど変わりはなかった。
「フフ…。私はそう簡単にはやられぬぞ。雷鬼よりもな…。お前は雷鬼を殺すつもりでここへ来たのだろうが、今、奴はここにはいない。」
「なにっ!?」
 驚いて、エンマは叫んだ。
「雷鬼は痺れを切らして、天霊山を越えて人間の国へ行った。今頃、人里や村を襲っているだろう。人間が滅亡するのも、時間の問題。まあ、全て私の目論見どおりなのだが。」
 邪蛇は、くく、と低く笑いながら言った。
「くそっ!そんな簡単にやられてたまるか!花霞の里の奴らだっているんだ!」
「確かに霊力を持つ者どものいる里には、アヤメの結界術が施してあって、雷鬼と言えども、手出しは出来ないだろう。だが、結界があるのは三つの里だけ。それ以外のゴミどもを殺せば、人間の国は滅んだも同然だろう。」
「ちくしょう!せっかくここまで来たってのに!俺が来ると思って、逃げたな!」
「そもそも、雷鬼がここでお前を待つ意味もないだろう。私の方は、お前に会いたかったが。奴はお前に興味を失って、今は人間の国を滅ぼすことに夢中になっているらしい。」
「…てめーは、雷鬼の家来じゃねーのか?」
 先ほどから、エンマは、邪蛇の雷鬼に対する口ぶりに疑問を覚えていた。
「私が仕えているのは、今も昔も、天魔様だけ。雷鬼…、奴は天魔様を殺して王座を奪い、私の忠誠心すら弄ぼうとした。しかし、芝居はもう終わりだ。私は、お前を天魔様の新たな体にするために、待っていたのだ。…そう、お前が生まれたときからな。」
「なに…?」
 エンマには、邪蛇の言っていることが、よく理解出来ないようだった。
「お前の命は天魔様が蘇るためにあるのだ。」
 邪蛇は、乾いた白い唇を歪めて笑い、エンマに手を伸ばしてきた。
「兄貴に触るな!」
 フータが、エンマの前に飛び出してきて、ぱんと手を合わせて風を呼んだ。
 風がフータとエンマの周りに生じ、壁のようになって邪蛇の手を弾いた。
「く…。この力は…。」
 一瞬、邪蛇は怯んだが、すぐに不敵な笑みを浮かべて、フータを真っ黒な目で見た。
「そうか、お前は風の精霊だな。私と同じような…。昔はスズメだったか。だが、スズメがヘビに敵うはずがなかろう。そんな小さすぎる力では。」
「うぐっ…!」
 フータは懸命に風を起こして、邪蛇の攻撃からエンマを守ろうとしていたが、邪蛇の額の目が開き、そこから飛び出した怪しい光がフータの体に突き刺さった。
「フータ!」
 か弱く倒れたフータの身を抱き起こして、エンマは叫んだ。
「おいらだって…!おいらだって兄貴を守りたいんだ!」
 息を切らしながら、フータはかすれた声で叫んでいた。
「もういい!フータ。おめーは頑張った。これ以上はいい。こいつは俺がやる。」
「兄貴!こいつは…一度倒したって、何度でも生き返るよ。こいつはヘビなんだ。三つの目を全部なくさないとあいつは死なないんだ!」
 邪蛇の三つの目が一斉に見開かれ、そこから光線が集まって、眩しい白い光の玉になり、その光球がフータめがけて飛んできた。それをエンマは紫炎刀で受け止めて弾いた。
「ありがとよ、フータ。おかげでこいつの倒し方が分かったぜ。」
 そう言ってエンマは、邪蛇の二つの目玉を狙って刀を振り下ろした。
「ぐああっ!」
 霊気をまとった紫炎刀が、邪蛇の両眼を斬り裂き、邪蛇は両眼を押さえてその場にうずくまった。
「あと額の目をやりゃーいいんだな!」
 エンマはうずくまっている邪蛇を足で蹴り飛ばして仰向けにさせ、顔を覆っている両手ごと額の目を貫こうと、逆手に持った紫炎刀を勢いよく上から下へと振り下ろした。
 しかし、邪蛇の口元は笑っていた。
 突然、邪蛇の体が蛇のように長くなって、頭以外、白い蛇の姿に変わって、エンマの体にぐるぐると巻きついて強く締め付けた。
「うぐあああっ!!」
 斬りつけたはずの両眼も、元に戻っていて、真っ黒な目が苦しむエンマを見ていた。
「天魔様にお前を差し上げるのだ。あまり傷をつけたくない。このまま、気絶させようか…。」
 エンマは、体中の骨を砕かれ、筋肉を引き裂かれるような痛みを味わわされ、苦痛のあまりに、気が遠くなってきていた。
「やめろっ!!」
 フータが邪蛇に向かってきた。
「スズメの分際で…。」
 邪蛇の額の黒い眼がかっと赤く輝き、光線が飛び出して、フータの心臓を直撃した。
「あ…兄貴…!」
 フータはばったりと倒れた。
 倒れたフータのもとに、小太郎が駆け寄って悲しげに吼えた。
 フータは死んでいた。
 死んだフータの体は、やがて薄れて透明になって消えていった。
 そして、フータの姿がそこから消えてすぐに、エンマの意識が戻って、エンマを締め付けていた邪蛇の蛇体が、エンマが発した炎に焼かれて弾き飛んだ。
 エンマは無表情だった。
 一瞬の間、エンマの意識は別の所にあって、今、そこから帰って来た所だったのだ。
 ――フータが死んだ。
 気が遠くなっていくエンマの意識の中に、フータが現れたのだ。
「兄貴。おいら、頑張ったけど、もうだめみたいだ。兄貴を守るって言ったのに、おいらはもうここまでだよ。」
 何もない空間に、フータとエンマだけがいた。
「フータ…?」
 エンマは、両腕を大きく広げて微笑んでいるフータを見つめていた。
「でもこの姿が終わりなだけだよ。おいらはヤトと話して、おいらが昔スズメだったってことを思い出したんだ。そしておいらは、兄貴に助けられて、その恩返しがしたくて、風の精霊に生まれ変わったんだって。だからね、おいらはこの姿が終わっても、風の中でずっと生きられるんだよ。だから、ずっと兄貴を見守っていられるんだ。」
「フータ…。やっぱり、おめーは…。」
「そうだよ。覚えててくれたんだね。嬉しいや。フータって名前も兄貴に付けてもらったんだ。おいらは兄貴と一緒にいられて、すっごく楽しかったよ!兄貴としゃべれて、とっても楽しかったよ!人間って、楽しいね。おいら、少しでも人間になれて、楽しかった。おいらは、人間が楽しく暮らせるようにしたい。だから、いつまでも風の中でみんなを見守るよ。」
 フータは、にこっと笑って、風の中に消えていった。
「フータ!行くな!」
 フータの姿を追いかけて、エンマは走った。
「兄貴。おいらはいつでもここにいるよ。」
 透明な世界に、フータの声が響き渡った。
 エンマは泣くことも忘れて、フータの姿を探した…。
 そして、気が付いたら、邪蛇の体を焼き払っていた。
 しかし、焼き払われたかに見えた邪蛇の体は、いつの間にか人の姿に戻っていた。
「悲しいだろう。」
 邪蛇が歪んだ笑みを浮かべて言った。
「風の精霊の小僧。私とは対極の位置にあった。私は魔物を栄えさせたいがために蛇の精霊になった。世界を満たすのは、誤魔化しだらけの楽しみでも喜びでもない。苦しみ、悲しみ、憎しみ。それを作り出すのが本当の楽しみで、喜びだろう。悲鳴を上げさせ、苦痛に歪む顔を見て、そして最後に、破壊する。それこそが最高の楽しみ、喜びだろう。誰もがみな、本当はそうしたいのだ。他者を傷付け、殺して、己だけがうまく生き延びたいとな。人間の本当の欲望は悪だ。そして、その悪によって、人間は滅びるのだ。そして、真の悪が生き延び、栄え続けるのだ。」
「うるせえ!てめーの話なんか聞きたくねーんだよ!」
 エンマは、霊気を纏った紫炎刀を鋭く払って、邪蛇の首を斬り落とした。
「無駄だ。お前に、私を滅ぼすことは出来ない…。」
 頭だけになって、床に転がっても、邪蛇は笑い続けていた。
「エンマ。頭を斬り落としたのは正解だったね…。」
 どこからともなく声が聞こえた気がして、エンマはきょろきょろと辺りを見回し、また前を向いたとき、そこに死鬼が立っていて、邪蛇の頭を拾い上げた。
 死鬼。黄泉の国で会った、夜鬼の双子の弟である。
 彼は気だるく、暗い微笑みを浮かべて、邪蛇の頭を片手に抱えて、もう片方の手で邪蛇の目を全て閉じさせるようにして押さえつけると、エンマを見つめた。
「てめーは、死鬼だな。」
「ああ…。覚えててくれたんだね。」
「あたしもいるわよ!」
 死鬼の横から、ちょこんと小さな娘が顔を出した。
「おめーは、瑠璃だろ。」
「そう。邪蛇は普通にやっても倒せないわ。とりあえず、体の方をやっちゃって。厄介なのは頭なのよ。でも、頭と胴体が離れてれば、胴体は再生できないハズよ。頭はどうだか知らないけど。」
 突然二人が現れた理由は、エンマにとって、今はどうでもいいことだった。すぐに、霊剣で邪蛇の胴体を斬り裂いて灰に変えた。邪蛇は苦しげに呻いたが、目を押さえつけられていては、さすがに何も出来ないようだった。
「君は今、悲しい気持ちを封印しているんだね。今ここで泣いたら、何もかも崩れてしまうから。君の覚悟さえも消えてしまうから。どうして、そんなに強くいられるんだい…。」
 死鬼はエンマを観察しながら、小さく呟いていた。
「邪蛇よりも、雷鬼の方がヤバイわ。あいつは人間を滅ぼそうとして、自ら天霊山を越えて、人間の国に行ってしまったの。夜鬼も人間の国に行ったわ。人間を雷鬼に滅ぼさせないためにね。でも、夜鬼が雷鬼を止めようとしたって、おそらく無理よ。このままじゃあ、夜鬼も人間も雷鬼にやられてしまう。邪蛇はあんたを狙っていたし、夜鬼に言われてあたしたちはこっちに来たけど、あたしたちにはもうどうしたらいいのか…。」
 瑠璃は、困ったように頭を抱えた。
「…俺は、雷鬼を倒しに来たんだ。ヤトって生き物の体を通ってここまで来た。それを、また戻るのは時間がかかりすぎる。その天霊山ってのは、どこにあるんだ。」
「ここから行くのは大変よ。雷鬼だから一瞬で人間の国へ行けたけど、普通なら一年以上もかかるような場所なのよ。」
「何だって!?」
 根の国からも天霊山を登ることは出来るが、人間の国へ行くには、それくらい長い時間がかかるのだ。それを簡単に一瞬で飛び越えてしまう雷鬼は、やはり普通ではない。
「くそっ…!」
 ヤトを通るしかない。だが、蓮花たちはどうなっただろう。あの二体の魔物を倒せたのか。
 ――兄貴。おいらが運んであげるよ。
 エンマには、フータの声が聞こえた気がした。
 どこからか、風が吹いてきて、ふわっとエンマの体が浮いた。
 風が流れて、根の国の暗い空の上に運ばれ、そのまま風の波に流されていく。
 小太郎も風に浮いて、運ばれている。
 この先にあるのは、天霊山。その向こうの向こうに、人間の国があった。
 フータは風の一粒になって大気に溶け込んで、この世界の風と一体になっていた。
 風に乗りながら、いつかエンマの目から涙が溢れて、涙は風に流れて河のように、きらきらと光って空に消えていった。
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