第54話:十津川興業の解散

文字数 1,548文字

 その後、オランダ航空の乗り場に移動し搭乗手続きを取った。リスボン11時40分発の飛行機に乗り込み出発しオランダのスキポール空港15時35分に到着。17時50分発、成田空港行きの飛行機の登場口に行き、近くのカフェで一休みした。その後、成田行きの飛行機に搭乗し、寝たり映画を見たり食事をとった。やがて、5月6日12時に長旅の末、成田空港の到着。

 そして、スカイライナーで日暮里経由で池袋、和光市の実家へ帰った。その日は部屋に入り休息をとった。翌5月7日には、時差呆けが消えた。そして多く撮って来た写真を整理し、6月、梅雨となり暑い夏が来た。じっとエアコンの効いた部屋で過ごしお盆過ぎると涼しくなる。9月が過ぎ10月初旬となった。

そんな時、母が、夢子と芝山伸吾に、実は十津川興業は、2000年には民謡指導は採算が取れないので辞めてしまい津軽三味線だけにした。しかし、津軽三味線も3組で全国を興行に歩いていたが、2010年には興行が減った。そこで、2012年には2組で全国を回る様になり人数を減らした。そして、2013年には十津川興業はの社員も12人を6人へと半減した。

 2014年には、津軽三味線の1組も給料が低すぎると独立していき、現在1組で活動していると十津川興業の現状を話した。なにしろ売れない時代だと言い、現在じゃ、興行といっても安いビジネスホテルに泊まって電車や高速バスを乗り継いで動く有様。そして、興行も人数が揃わず中止というケースも出てきたと話した。あと何年持つか心配だと告げた。

 津軽でも民謡指導の家元はいなくなり津軽三味線も流しで青森、弘前でやっている人以外、全国公演しているのは、全国に名の知れた人以外は、十津川興業だけになった。組合も2010年に解散したと教えてくれた。そのため、父の葬式も参列者が少なくて寂しかった涙を浮かべて話した。その現状を聞かされて夢子がもっと早く言ってくれたら良かったのにと言った。

 しかし、他の人に迷惑をかけたくないという気持ちでじっと黙っていたようだ。夢子の兄弟も公演しているのは長男の津軽三味線の1組だけで、他はアルバイトをかけ持ちしたり、地元の中小企業の事務、セールス、配達をして食いつないでると始めて語った。芝山伸吾が、そんなにひどいのかと言い、そういえば民謡のテレビ番組もなくなった。

  演歌の番組も少ないなとうなづいた。11月になって今年も熱海と湯河原温泉に泊まりに行き、おいしい料理を食べて母も元気を取り戻してくれた。12月なると朝晩冷え込みが厳しくなり、うがい、手洗いに気ををつけて数をひかないように気をつけていた。今年も家でクリスマスパーティーをして、春のポルトガル旅行の写真を見ながら話が盛り上がった。

 また、機会があったらいきたいと笑いながら母が言った。そして、2016年があけた。初詣でに行った母と芝山夫妻が家内安全、母と自分達の健康を祈願してきた。そんな1月3日に津軽の十津川興業・社長の十津川肇から母に電話が入り、かわって話し始めると、目に涙を浮かべて、長い間ご苦労さん、亡くなった父さんも、きっと仕方がないと許してくれるよと泣き伏した。

 夢子に電話をかわると津軽三味線の興行も今年4月15日の熊本公演を最後にして十津川興業も年内に解散することを従業員一同に伝えたと言う事がわかった。これには、何も言えず、ただ、ご苦労様でした。母の事は、こっちで引き受けるから心配しない欲しいとだけ話す夢子の目にも涙が浮かんでいた。

 これを見ていた芝山が、時代の流れだ。仕方あるまいと言うしかなかった。やがて厳しい冬の2月になり、家の中をファンヒーターで暖め、コタツに入り、風邪に気をつけて過ごして、必要以外の外出はせずにじっとしていた。
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