第10話

文字数 3,238文字

 雪一族の集落は、たびたび移動を余儀なくされているにもかかわらず彼らの住居はある程度しっかりとした家の形をしていた。雪の家———雪を操ることのできる彼らの特権である。しかし、その中でも入口にはドアがなく、ただの穴があるだけの小さな家、家と言うより小屋があった。かまくら、これが彼女の住む場所だった。彼女には敬愛する神に祈りを捧げる以外には特段やることがなかったから、その家には必要最低限のものしかなかった。
 深雪は雪の椅子にもたれながら聖書の文を見つめ、そこに書かれた教えをゆっくりと反芻する。そして、自らの口から預言者を通じて得た神の言葉を発すれば、それが悪しきものを絡めとるフィルターのごとく体の痛みも、不安や怒りなどの辛い感情も一掃し、どんな時でも救われるのだった。
 「『人は皆生まれながらにして平等である。その理にのっとれば、必ず安寧(イャシュミア)がもたらされる』」
 「安寧(イャシュミア)」、それがもたらされる世界では髪の色が何色であっても淘汰されない。全てが存在を許されるのであろう。それが発現できたなら、誰も彼もが幸せになれる。傍にいてほしかった両親の喪失、得られたはずの愛情への渇望、それらを深層心理に沈め、平らに何もなかったことにする———その必要もない。
 「『貰い受けたものは全てを平等に分配せねばならぬ。元々はすべてが神の持ち物であるから、それを占有することは不平等(ィネコル)———神の意に反する』」
 深雪は入口に近づく人影に気が付き、聖書から顔をあげる。
 そこにいたのは雪崩であった。彼は深雪に寝るよう促すが、彼女はゆっくりと首を横に振る。強情な深雪にため息をつくと、雪崩はお見舞いに持ってきた干し肉を渡した。
 「あの紫斑はなんすか」
 雪崩は一番聞きたいことを率直に聞く。
 「神から授かった印。足元へ近づいた者の証」
 深雪の悪いところは、度々このようにして平等教の教えや言葉を引用して物事を語るところであった。それが教えを知らない他者にも分かるようなレベルであればまだしも、聖書や牧師に言われたことをそのまま自分の言葉とするので、それに耳を貸すのは同じ信者の仲間ぐらいしかいなかった。雪崩と冬花は、少ない平等教の信者でない深雪のお友達である。
 「『神のご加護』をうけたということすか。どうやって受けたんすか?」
 「ダメ、これは秘密の儀式。雪崩もしたいなら、まず洗礼を受けること」
 秘密の儀式、ね———雪崩は、深雪が口を滑らせた言葉を心の中でじっくり見つめた。
 雪一族の者の失踪が絶えない。それは今に始まったことではなかった。なぜなら、四季の国の憎き四色たちが、特別区域と言う名の強制収容所にぶち込むために、自分たちの元へ来るから。でもレイン牧師が来てから、平等教が布教されてから、その失踪者の中に失踪前の足取りが分からない者が混じってきた。どこへ行くと告げることもなく、誰にも向かう先を見せず、そうして消えた彼らはそろえたように平等教信者だった。教会内部で何かが起こっているんじゃないか———雪崩が、掴んでいるのはそこまでだった。
 さきほどから深雪は、再び聖書に顔を埋め、神の有難いお言葉を朗読している。もう彼女からは何も聞き出せそうにない。「秘密の儀式」とやらについて、別の信者か、はたまた全ての禍根であろうレイン牧師自身に聞くか。しかし、奴らも簡単に口を割るはずがないだろう。雪崩は手詰まりを感じていた。
 こんな時、あの人ならどうするだろうかと、自分が慕い、尊敬する少女のことを思う。
 「俺が神としてあがめるなら、絶対冬花さんすね」
 深雪は朗読を止めた。
 「神は唯一無二の存在。それに冬花は、人だから神にはなれない。だけど、深雪が実際に見たものの中で、一番神に近いと思う」
 雪崩は珍しく深雪に同感されたなと思った。
 特別区域での生活は、管理の名の下、決められた場所に居なければならず、決められた時間に号令が行われ、逃亡したものがいないかを見張られる。そして貴方たちに与えられた時間は、余すことなく清く正しく労働に費やしなさい。これは、良からぬことを考える暇をなくすと同時に、四季の国にとって価値が生み出される一石二鳥の方法なのです———異民族に運命を握られていた日々は灰色であった、と雪崩は振り返る。自分の意思を蔑視したこの景色は、他者の人生をとうとうと見せられているようで、自然と目を閉じる時間が長くなった。
 製氷工場にて、過剰労働でふらつき始めた雪崩の目に飛び込んだのは、同じ顔の白い少女に、少女と、少女…ついに頭がおかしくなったのか、とぼんやりと見ていると周りの大人たちが彼女たちに連れられて外へ出ていく。呆然とたたずむ自分のもとへも彼女が来て、白い手を差し出すと、微笑んでこう言った。
 「迎えに来たよ。さあ、逃げよう」
 外は人でいっぱいだったが、既にほとんどがなにやら大きく長い乗り物に乗っていた。それもまた色はなく白かったが、非常に精巧なうろこを持っていた。「蛇の上に乗って、皆と逃げるんだ」、雪崩は少女に促される。
 「君も行かないの」
 「私はちょっとやることが残っているから」
 そう言って彼女が行った先には、同じ顔で色がついた少女が手を振っている。本物は、紺色のマフラーを身に着けていた。ここで雪崩はようやく彼女が術者で、自分がついていった白い少女は雪でできた分身だと分かった。
 囚われていた一族の者全員を乗せた雪の蛇がズルズルと動き出した。雪崩が分身たちと残った少女の小さくなっていく背中を見つめていると、誰かが「あっ」と天を指差した。
 …槍が降ろうが、という言葉はあるにしても、自然界において天から降り注ぐものは間違っても具体的な意味をもった形を成さないだろう。雪にせよ雨にせよ、雲の中で凝集して耐え切れなくなった粒が、物理法則に従って落ちていくだけなのだから。だから、あれを見て、雪崩はたまげた。
 神の手。天から降ろされた白い巨大な両手は、蛇が特別区域の外へ出たのを見計らって周りの雪をかき集めると、区域内に落とす。そしてまたかき集め、落とす。雪遊びで雪山を作るように、そこにあった灰色の痕跡を真っ白に塗りつぶすように、区域内の空間を雪で埋め尽くしたのだった。
 そうした神の所業によって、一度囚われた自分たちは今ここにいる。
 ———冬花さんは、救いの女神だ。
 「その女神の話を聞かせてくれないか」
 雪崩は自分の口から自然に出た言葉を取り上げられて、はっとした。
 このかまくらの入口に、白い面とポンチョの人物が覗き込んでいる。ここでお面にポンチョを着ていることは、雪一族でない者、異民族である証だ。雪一族の中で異民族から酷い扱いを受けた人もおり、その人たちへの精神的配慮のためである。
 「あんた誰すか」
 見慣れなれない人物に雪崩は警戒した。
 するとすぐに白いローブの人物が顔を出し、こう言った。
 「私が女神って?」
 まさか本人に聞かれているとは思わず、雪崩は顔を赤くした。
 「別に、なんでもないす…」
 冬花は、「ふーん…」と含みを持った返事をする。
 「私がいるところで私のことは話しづらいね。丁度深雪と二人きりの用事があるし…雪崩、君が彼に付き添ってくれないかな」
 冬花は深雪をかまくらから引っ張り出すと、そのまま腕の中に抱えた。深雪は聖書だけは離すまいとひっしと掴み、それを守るべくアルマジロのように身に埋める。
 「彼は私のお兄さん。今特別に集落を案内しているの。色々話をしてあげて」
 それだけ言うと雪崩の返事を聞かないまま、冬花は深雪とともに行ってしまった。相変わらず無茶ぶりをする冬花に、雪崩はため息をつくと、ふてぶてしくも既に深雪の座っていた椅子に腰掛け腕を組む彼に目をやった。
 「…別に俺の前だったら面は外していいすよ」
 姿を隠す窮屈な恰好が解かれると、黒髪に薄幸そうな顔つきの青年が冷淡にこちらを睨みつけていた。雪崩は、絶対こいつとは仲良くなれないなと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み