第5話 ※

文字数 3,496文字

 その日は朝から親戚と会話があった。冬には両親がおらず、母方の親戚夫婦が保護者であった。冬は母親の顔しか知らない。その母親も数年前に姿を消して以来、会えていない。理由は分からない。彼もまだ子供、周りの大人が精神的配慮をしているのか、あるいは聞かせられない何かがあったのかもしれない。冬はなぜ自分の親がいなくなってしまったのかを話すほど親戚と仲良くなれなかった。きちんと色々な世話になっており、虐げられたことなどない。だけど、自分たちと彼らの間に上手く説明できない距離があった。自分たちが、親戚夫婦宅の横にある倉庫のような離れで暮らすことになっているのも、それを示していた。
 「あの子は北の方へ行っているにちがいない。冬から言って、やめさせてほしい」
 それは君の管理だろうというよそよそしい態度だった。こと彼女に関しては、親戚夫婦は直接関わることはない。何かあれば、専ら兄の冬が彼女の窓口となっていた。
 冬はいつも通り「すみません」と謝った。
 名前を「冬花(ふゆばな)」と言う。雪はそれを構成する結晶の形から、あるいは降り積もった様相からも花と例えられる。冬に咲く花、雪をイメージして名付けられたようだった。その名前の通り、彼女はとにかく雪が大好きだった。
 「お兄ちゃん、一緒に雪で遊ぼ!」
 それが彼女の常套句。彼と同じ黒髪、そしてぱっつん前髪にツヤツヤの白サテンリボンを髪留めにした二つ結び。寒かろうが、彼女はいつもノースリーブで薄着のワンピースを着ていた。
 本日は降雪。冬は寒いと体調を崩しがちだったため、しばしば彼女の遊び相手になれなかった。長いまつげに純粋な黒い瞳が憂いを受け入れ、「じゃあ一人で遊んでくる…」と後ろ姿を見せる。
 一つ思いついて彼女に少し待つよう声をかけた。彼は自室から自分が昔よく使っていた小さな紺色のマフラーを持ってきて、冬花の首元にかけてあげた。
「マフラーって首がモサモサするからあんまり好きくない…」
 冬と冬花では温度に対する感覚が全く違っていた。冬は寒さ対策に着込み、雪が降れば不要な外出はしない。対して、冬花は年中薄着で、雪が降れば必ず外へ出て雪遊びをしていた。彼女の雪への執着は冬民族の中でも異常な部類だった。彼女が極寒の吹雪の中で楽しそうにダンスをしているのを見たという者もいる。そんなわけで、彼女がマフラーなどの防寒具を着用することは滅多になかった。しかし、その寒そうな姿は見るだけでこちらが風邪をひきそうだと思い、なんとか言い訳して着てもらった。
「ありがとう、大切にするね!」
 そう言って冬花は手を振りながら元気に飛び出して行った。二つ結びの毛先、白サテンリボンの端、紺色のマフラーのふさ飾りが、互いに跳ねる後ろ姿。それがだいぶ小さくなった頃に、北側には行くんじゃないよ、と注意するのを忘れていたことを思い出した。些細なミスが、長年の後悔の種になるとは夢にも思わず。

 冬花が失踪してから二週間ほどして大規模捜索は打ち切られた。警察からは、捜索の範囲外である氷海側の四季の国管理外区域に立ち入ったのではないかと言われた。
 冬は呆気にとられた。母もいなくなって、冬花もいなくなり本当に一人になってしまったのか、と。けれどこのことに関して何も手掛かりがない不確実性が、彼の精神が壊れないようにするための考える余地を与えた。雪遊びが好きな妹。極端に寒さ耐性があった妹。彼女が何も言わず、どこかで亡くなってしまったはずがない。自嘲するなら妄想に寄りかかった、悲願。彼は捜査が打ち切られた後、無謀にも一人で管理外区域へ入った。唯一の肉親を探すために。
 その日も降雪。案の定、途中で寒さにやられ、任務中の花梨の班に回収されることとなる。

 ———気がつくと白い天井が眼前にあり、寝心地の良くないベットに寝かされていた。傍にいたのは、ここではあまり見慣れない雰囲気の女性だった。幼い顔つきが少女のようにも見える。彼女は冬が意識を取り戻したのに気づくと、早速ゆるく咎めた。
 「君い、無謀にもほどがあるよ。ここは教科書にも出てこない無法地帯で、私たちぐらいしか出入りできないの。なんで入ってきたの」
 彼女の額にかかる前髪や、伸びやかな眉毛、ポニーテール、コートにマフラー、全てがここに似つかわしくない暖色であった。それに少し甘いようないい香りがした。先の咎めは耳から耳を抜け、寝起きのぼんやりとした頭ではそんなことしか感じられなかった。冬は「あなたは誰ですか」と問い返した。
 「…無視かい。まあいいけどね、誰でも黙秘権はあるし。でも私でよかったね。厳しい人は拷問も辞さないからさ」
 そう言うと彼女は「四色の花梨です」とニコッと笑った。
 花梨はおもむろに立ち上がり、コンロでお湯を沸かし始めた。彼女はやかんを横目に、冬が雪の上で倒れていたこと、ここが四色の北端支部の処置室であること、そして彼に回復術を施したことを話してくれた。意識を失っている間にずいぶん世話になっていたようだった。冬が謝ると、花梨は高らかに笑い、それを優しく否定した。「ここで起こることに対応するのが私たちの仕事だから気にしなくていいよ」と。
 花梨は今回は運良く助かったが、本来ここは危険な場所で、四色のような特別な資格を持った者だけが立ち入ることができると話した。
 「何が危険なんですか」
 「詳しくは言えないけど、まあ、敵がわんさかいるってこと」
 「敵?」
 「そ。そいつらのせいで事故が起きたり、死んだ人もいるんだから」
 「その敵って、誘拐とかもしたりするんですか」
 「誘拐もするだろうね。彼らにとって利益ならば」
 「彼らはどこにいるんですか」
 花梨の撫子色の目がこちらを見据える。彼女は少し声のトーンを低くし、冬に警告した。
 「守秘義務で教えられない。脅しじゃないけど、次ここで会ったら私も寛容になれないよ。他の四色も同様にね」
 それを聞くと、冬の頭は鉛のように重くなった。目の前の景色に対し興味が失せ、色があろうがなかろうがどうでもいい、と脳が判断したのか、色褪せ、灰色になった気がした。何もないこの体に、唯一熱いものがせり上がってくるのを感じて、彼はうつむく。
 「もしまた君みたいな冬民族の人が困っていたら、助けてあげる」
 入れたお茶が冬に差し出された。熱いお茶をやけどしない様に少しずつ飲むと、冬は固まってしまった体が少し緩んだ気がした。花梨は人当たり良く微笑み、「落ち着いた?」と言った。
 冬は春民族と交流するのはこれが初めてだった。それこそ雑誌などの媒体で見かけたことはあったが、リアルで喋ったことはない。人の髪や目がピンク色になるとこんなにも愛らしくなるのかと、つい花梨の姿を目で追ってしまうのだった。今思えばこれが初恋だったかもしれない。しかし花梨が冬に個人情報の記入を依頼したメモに目を通すと、彼の淡い恋慕は早々に散ることとなる。
 「十二歳か。うちの娘と同い年。思春期真っ盛りだ」


 廊下の灰色に負けない輝きを放った撫子色の瞳が、成長した冬を見つめる。
 「君はあの時、妹を探してここまで来たんだね」
 「あれから、中央区の四季学園に入学しました。あそこを卒業すれば四色になれますし、図書館で氷海関連の事件簿も閲覧することができますから。在学中、たくさん調べました。だけど、妹の手がかりは全然なくて」
 「そっか。いまだに解決してあげられなくてごめんね」
 そんなつもりはなかったのに、花梨を責めたような構図になった冬は、彼女にかける言葉が見つからなかった。気まずくなった中で絞り出した「いえ…」というつぶやきが、ガラス越しの雪を降り注ぐ曇天に浮かぶ。
 「花姫とはどう?上手くやってる?」
 花梨が気を使って話題をそらしたが、冬にとってはこっちの方が話すのが難しいことだった。正直に「あなたの娘さんとは分かり合えそうもありません」と言ってしまったら、どんな顔をするんだろう。冬が返答に窮していると花梨が勝手に話し始めた。
 「なんてね、実は花姫からの手紙で少しだけ知ってるよ。あの子、ちょっと怖いでしょ?母としては、もう少し落ち着きがほしいところなんだけど。迷惑かけるかもしれないけど、仲良くしてくれると嬉しいな」
 「はあ」と冬が気乗りしない返事をしたところで、話題の彼女がやってきた。
 「ママと何話してるの?」
 「もう終わった」
 「なら、明日の打ち合わせに加わって。あんたのせいで話が止まってるんだから」
 そのやり取りを見た花梨は大きな声で笑った。そして笑いながら「よろしく頼むよ」と言ってその場を後にした。
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