10

文字数 3,741文字

 電話の音で目が覚めた。すでに辺りは明るかった。時計を見ると3時だった。
(やべ!寝過した!)と思って受話器を取ると幕下の声だった。
「おはよう赤木君。ホテルでゆっくり眠れたかな? 11時までに第二球場に来てくれ。それから、言っとくけど今は朝の9時だよ。午後3じゃないからね」
「あの、第二球場って、どうやって行くんですか」
「タクシーをひろって、『すばるの第二球場』って言えばいい。ピッチングコーチが待っているからね。別江府(ベープ)コーチって言うんだ。彼の隣にいると、蚊に剌されなくて助かるよ」
「蚊? ところで、僕が時計を見間違えたと、どうして分かったのですか?」
「ピッチャーの考えることは何だって分かる。元々僕は『すばる』のキャッチャーだった。今日は僕も君の球を捕ってみたいし。それじゃ11時ね」

 赤木は早速顔を洗い朝食を済ますと、幕下に言われたとおりホテルの前で左ハンドルのタクシーに乗り込んだ。
 行き先を運転手に告げるとタクシーは走り出した。近距離だったので、タクシーはヨタフロートを作動させることなく、都内のがらんとした道路を自動車らしい音をたてて走っていた。
 省エネのため10キロ以内の近距離では地上を走ることが義務付けられていたのだ。
 車窓から見上げると、たくさんの車が飛んでいた。街はヨーロッパの街並のようにすっきりしていた。
 電線の地中化のせいだった。実は、1960年代にヨタフロートが実用化された当初、車が電線に衝突する事故が頻発したのだ。このため行政は電線の地中化を急いだ。工事は急ピッチで進められ、東京オリンピックの頃には完了していた。

 5分も走るとタクシーは第二グラウンドの入口に着いた。タクシーを降りた赤木は早速幕下らの待つグラウンドへ行き、皆にあいさつをした。
 ところが、幕下に紹介された別江府ピッチングコーチの顔を見て、赤木は愕然とした。
 ジャガーズの歯江島コーチとそっくりだったのだ!

 歯江島コーチ…
 赤木が我々のR地球のジャガーズで投げていた頃、赤木に陰湿な言葉を浴びせ続けていた、赤木にとっては最悪の人物である歯江島に、その場にいたその別江府コーチは、瓜二つだったのだ。
 一体全体こんな遠くの星までやって来て、よりによって、また歯江鳥クソ野郎にいじめられるのかと思うと、赤木は一瞬うんざりとした気分になった。
 だけど赤木は、それから気を取り直し、トレーニングウエアに着替えスパイクを履いた。そしてウォームアップの後ブルペンに入ると、幕下を相手にキャッチボールを始めた。
 L地球のブルペンではプレートからキャッチャーまでの距離がやけに近く感じられたが、これは実際に近かったからだ。
 ボールの大きさは、ほぼ少年野球のC球のサイズだった。無論、硬球だった。
 最初はやや投げにくかったがすぐに慣れた。
 実際、赤木はこういうところが妙に器用だった。軟球でもソフトボールでも、何球か投げるとすぐにそのボールに慣れるのだ。いわゆる「器用貧乏」というやつか。そういえば石を投げるのも、はたまた平べったい石をアンダースローで投げて水切りをやるのも上手かったらしいが、そういうことはどうでもいい。

 さて、肩が出来ると今度は幕下を座らせ、赤木は本格的な投球に入った。
 赤木が本格的に腕を振ると、18.44メートル、いやいや、我々のR地球の尺度ではたったの16メートル余りしか離れていない、つまり「ソフトボールに毛の生えた」程度の、この星のピッチャーとキャッチャー間では、彼の投げた球はまさに「剛速球」だった。
 ボールは乾いた良い音を残し、幕下のミットに納まっていた。
 見物に集まった他の選手たちの間からも、「おーっ」というため息が漏れた。
 赤木は速球派投手だった新人の当時を思いだし、とても良い気分になった。

 そんな赤木がしばらく投げていると、例の別江府コーチは補球の構えをしている幕下の方へ、つかつかと歩いて来て、歯江鳥そっくりの顔で打席に立った。
 もちろんそのとたん、赤木はとても嫌な気分になった。実はジャガーズ時代、赤木がブルペンで投げていると、歯江鳥コーチもよく打席に立ち、赤木になにやかやと「言いがかり」を付けていたのだ。つまりそのことが赤木の脳裏に浮かんでいたのだった。
 それでも赤木は我慢して気を取り直し、たまたま内角やや高めに構えた幕下のミットめがけ、まっすぐを投げ込んだ。
 ところがこのとき赤木は、とても力んでしまった。
 実は、赤木は「あの夜のゲーム」以来、歯江鳥を見ると力むのだ。良い球を投げようと思えば思うほど、力んでしまうのだ。これは一種の強迫観念だ。
 いやいや、ここにいたのは歯江鳥じゃなくて、別江府だ。だけど赤木にとっては、似たようなものだった。
 それで案の定、思いきり力んで投げたボールは、「力のない124キロのシュート回転のまっすぐ」となった。
 球自体はあの、「地球最後の登板」で清山に豪快に満塁ホームランを打たれた、あの一球とそっくりだったのだ。今回はインコース高めだったけれど…
 いやいや、必ずしもそうではなかった。だけどこの星ではそうではなくて、実はこれは「140キロのかみそりシュート」だったのだ。しかもボールは別江府コーチのあごの辺りへ向けて、うなりをあげて飛んでいった。
(あぶない! 避けてくれ!)

 赤木は思った。たとえ嫌な奴とはいえ、ボールを顔面にぶつけて良い筈がない。
 それに別江府コーチ自身は、まだ「嫌な奴」と決まった訳ではない。ただ歯江鳥に顔が似ているだけだ。
 ところが、当の別江府コーチはひらりと身をかわし、何とかこれを避けると、にこりと笑ってこう言った。
「ナイスひげそりシュートやな!」
 別江府コーチはとても優しそうな目で笑っていた。顔は歯江島そっくりなのに、その目を見た赤木は直観的に、「この人は良い人だ」と感じ取った。顔形だけは歯江鳥とそっくりなのに、その人柄はまったく別人のように、赤木には思えたのだ。
 赤木はその後、別江府コーチのリクエストで、一通りの球種を投げてみせた。そして「別江府コーチは良い人だ」と気付いた途端、赤木は彼の前で冷静に投げられるようになった。例の「強迫観念」は行方をくらませたのだ。
 そんな赤木が気持ち良く投げているボールを、別江府コーチは一球一球確認するように見入っては、満足したようにうなずいていた。

 ブルペンでのピッチングが終わると、赤木はライトとレフトのポールの間での全力疾走(インターバル)を20本こなし、それからグラウンドを20周程ランニングし、それを終えるとシャワー室へと向かった。
 それから少し休憩して軽い昼食を摂ると、午後からはウエイトトレー二ングをやるつもりだった。他の選手たちは、まるで「宇宙人」でも見るかのような顔をして赤木の様子を見ていた。
 まあ、それはそれで正しいのだが、ある若い投手が心配そうな顔をして赤木に尋ねた。
「そんなに走って大丈夫なんですかぁ?」
「ピッチャーは走り込まないとだめだよ。ところで、ウエイトトレーニングをしたいんだけど、どこで出来るのかなあ」
「ウエイト…、トレーニング、ですかぁ。何かの待ち合わせの練習ですか?」
「ウエイトトレーニング! 筋トレだよ」
「金取れ?  金○を取るのですか? うわ~~、そそ、それは大変だ!」
 まったく要領を得なかった。それで仕方なく赤木はその日、腕立て伏せ、腹筋、背筋を各々500回ずつやって軽めに切り上げた。
 ほかの選手たちは赤木を遠巻きにし、唖然とした顔で「宇宙人」の練習の様子を眺めていた。

 練習後、赤木は幕下の車で第二球場から5キロ離れた選手宿舎へ向かった。
 宿舎の人たちにあいさつしたのち、部屋に案内されいろいろ説明を受けた後、ロビーのソファーに幕下とテーブルを挟んで座ると、例の緑色のコーヒーを飲みながら、この星の選手たちの練習法についていろいろと話を聞いた。
「すばる」というかL地球の投手は、走り込みとか筋トレなどのトレーニングをほとんどやらないらしい。ひたすらブルペンで投げることと、それ以外は流体力学の本を読むことくらいだというのである。
「流体力学ぅ???」
 赤木は緑色のコーヒーを吐き出して叫んだ。ハンカチで顔を拭いながら幕下は答えた。
「だから変化球を投げるためだよ。レイノルズ数とかマグナス力がどうたらこうたらとかさぁ」
「れれれれ、ままままま…、なな何ですかそれは?」
「回転しながら流体中を動くボールに加わる力だよ。で、ボールが変化する。私もキャッチャーだったから変化球を捕るために、ずいぶん読んだものだよ…」

 走り込んで下半身を鍛えることにより下半身が安定し、フォームが安定しコントロールが良くなると同時に、スタミナもつく。一方、筋トレで全身の筋肉、握力などを鍛えると球速が速くなる上、故障も少なくなる…
 そういうごく当たり前のことを、それを聞いた赤木は、幕下に延々とまくしたてた。
 一体全体、反重力装置やらタイムマシンやらといった途方もないものを持っている連中が、どうしてこんな当たり前の小学生でもわかるようなことも知らないのか…
 とにかく赤木には、それが不思議で仕方がなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み