第4話  恋

文字数 5,965文字



 男の子はパパが運転する車でママと3人で、森の中にある彼女の音楽大学付属小学校の文化祭らしい催しに行く途中だった。父は去年中古のメルセデスを月賦というやつで買ったのだ。男の子は言った。
「でも、大丈夫なんだろうか。こんな女の子だけの学校に行ってしまって」
 父はひきつった顔でプログラムを指さして言った。
「招待されたから・・・」
 母は言った。
「大丈夫よ、たかが小学校なのよ。ちょっと音楽学校というところがお高いイメージがあるけど。山奥の学校だから」
 自動車は曲がりくねった細い道を通り抜けると、巨大で豪華な音楽ホールが現れた。ちょっと驚いた。思ってたのと違う。パパはあっけにとられながら車を駐車場に止めた。

 男の子たちはすごい人だかりの音楽ホール入口に向かったが、席番号の書かれたプログラムを係の人に見せると待たずにすぐ通された。そこはすごく豪華なホール廊下だった。なぜかずらりと並んだ大人たちはひきつった顔をしていて、緊張していた。ホール廊下に席番号が書かれた解説盤があり、それによると、ここは2階建てであり、1階だけで2500席あるとのことだった。ホール内装は綺麗な木材パネルでできていて、豪華な椅子がずらっと並んでいた。椅子席から見下ろす形の舞台はとても近く感じられる。

 男の子達は、前から2番目のほぼ真ん前の席だった。
 席に座るとそわそわして辺りを見回したパパがこっそり言った。
「秋篠宮殿下ご一家が2階にいらっしゃる」

 ママは震えながらB5の一枚紙に書かれたプログラムを見て言った。
「このプログラムは彼女が作ったそうよ」
 彼女のかわいらしい自画像がパステルで描かれている。サインはHinaとあった。彼女の名前だ。素晴らしい絵だった。

 その裏表紙には参列者の名前があって、秋篠宮殿下ご一家から始まって、以下のようにずらずらと書かれている。
 ブルネイ・ダルサラーム国 ハサナル・ボルキア国王及び王子
 ブータン王国 ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王及び王妃
 トンガ王国 トゥポウ6世国王及びナナシパウウ王妃
 マレーシア アブドゥラ第16代国王及び王妃
 ベルギー王国 フィリップ国王及び王妃
 デンマーク王国 フレデリック皇太子及び皇太子妃
 オランダ王国 ウィレム・アレキサンダー国王及び王妃
 スペイン王国 フェリペ6世国王及び王妃
 スウェーデン王国 カール16世グスタフ国王及び皇太子

 その他、はQRコードだった。

 パパは震える手でスマホでQRコードを読み取った。アメリカ合衆国総領事がQRコードの中の人になっていて、パパとママは顔を見合わせて苦笑いした。

 男の子は後ろの席を振り返ると、バラの花飾りを胸に付けた大人たちがぎっしりと座っていて、全員ひきつった顔をしていた。きっと、彼女の公演なのと、ゲストが豪華なのと、両方の理由なのだろう。しかし、すぐにそうではないことが分った。彼らのひきつり顔は、彼女のパパが入場すると泣き笑いのような顔になったからだ。なぜ彼らがこんなおもろい顔をしているかわからないが、その理由が彼女のパパにあるのはわかった。

 彼女のパパは、お連れの方たちと彼らのすぐ前の特別席の前に歩いて行ってくるっとこちらを向いた。そして、右手を回して左脚の膝を曲げ、右脚を後ろに伸ばして、ピンとした体ごと頭を下げた。あ、知ってる。彼女がすましてあいさつをするときのポーズだ。彼女のパパはまず、秋篠宮夫妻に深く首を下げると、次々に2階の高貴な方、1階席の方たちに無言でお辞儀のご挨拶をし、最後に、ななんと、うちらを見た。そして彼女パパは着席した。その隣席のフロックコートの男が何か耳打ちした。100おく、とか聞こえた。何の話だが大凡《おおよそ》わかってしまった。きっと寄付金の額なのだろう。彼女パパは鷹揚にうなずいた。

 そしてショーの始まりまで5分を切った。もしかして、彼女の独演があるかも、と思った。その時はまさか全部がそうだとは思わなかった。

 どうせ、へたくそなんだろ。みんな、裸の王様を見に来ているんだ。

 ママは隣の人とちょっと話すと、パパに言った。
「彼女、この間、ブルーノート東京でやったんですって」
「え、何? 子供の分際でブルーノート見に行ったってか?」
「違います、彼女が演奏したのよ。それが10万円ですって」
「三ツ星シェフのディナーでも供されたのか?」
「いいえ、ミュージックチャージの額のことよ。食事代はいくらだか想像もできないわ」
「え。何言ってるか分らない。人気芸能人でもディナー付きで5万円くらいだぞ」
 またママは隣席の人と何か話した。
「それでね、10秒ですって。売り切れたのよ、発売と同時に。しかも彼女、一人でソプラノ、アルト、テナーサックスとピアノとドラムとギターやったんですって。しかもドラム叩きながら歌ったんですって」
「なんだ、彼女は5、6人くらいいるのか」
「いいえ、1人よ」

 男の子は思った。
「彼女はどれだけ努力したんだ」
 彼女から、これまでどれだけ努力してきたか聞かされていた。しかし、そんなの、ただの自慢話としか思わなかった。男の子が昆虫に夢中になっている間に彼女は血のにじむようなレッスンに応えてきたのは本当の話だった。

「それでね、全額寄付したんですって」
「何? 10万で100席、2公演やったとして2千万円か。安心した。俺の退職金と桁が同じだ」
 ママは隣の人とちょっと話した。
「いいえ、10おくえんですって。」
「何言ってるんだ、計算が合わないではないか」
「9おく8000万円は彼女のポケットマネーから出したそうよ。寄付先は音大出の個人達だったそうよ」
 ママはその音大出、つまり音楽関係の大学を卒業したものである。教育費は大変な金額だったと祖母から聞かされている。都心に家を2つは買えたと。

 男の子はうちのめされた。才能だけでなく、金もある。うちみたいな貧乏家庭と比べ物にならない。うちはせいぜい中古のメルセデスを買えるくらいだ。


 そしてショーが始った。

 舞台が上がった。

 ピアノが1台置かれていた。

 ママが言った。
「スタインウェイ」
 ピアノの種類だ。男の子が聞いた。
「何それ、お高いの?」
「でかいから、お高いのよ。2せんまんえんまでの既製品ではないわ。特注品だから。お値段はお問い合わせください、よ」
 にせんまんえんいじょう。

 彼女が入ってきた。
 パパはつっこみを入れた。
「アリス=紗良・オットか!」

 彼女は水着のような衣装を着ていて、背中がぱっくり割れて腰のあたりまですっかり見えていた。スパンコールがきらきら輝いている。それよりも輝いているのが彼女の笑顔だった。会場は割れんばかりの拍手に満ちた。全ての人が彼女を祝福しているかのようだった。

 彼女は例の、右手を回して右足をうしろに引き、うなじを見せる動作をして、顔を上げた。そしてなんとダイレクトに彼の顔を見てにっこり笑った。彼は打ちのめされた。
「ちょっと。こっち、見たわよね」
 ママが言った。パパは緊張してがちがちに固まっていた。

 会場では明るい女性の声で演目について何か放送された。英語らしい。なので、何を言っているか分らなかった。

 そして、とうとう彼女のピアノが始まった。

 知ってる。これはリストのラ・カンパネラだ。超絶技巧曲、というやつだ。音楽の時間に習った。泣けるとってもいい曲だ。しかし、彼女が弾くと何か違う曲のように思えた。彼女の指は鍵盤の一番右にいったかと思うと一番左に飛び、左手の下に右手を入れたり、左手のうえに右手を伸ばして鍵盤を叩いたりする。小さな優雅な手だが、力強く、洗練されていた。長い指が鍵盤を這うように移動していく。やがて曲調は哀切を帯びてクライマックスを迎えた。音楽の時間で聞いたのと明らかに違う。何か、ラテン的な何かを感じる。悲しみと切なさと喜びに爆発する感情。彼ら一家はあまりの素晴らしさに呆然と感動していた。知らずに涙が流れていた。
 ばん、と叩いてピアノが終った。彼女は立ち上がり例のあいさつを行った。
 彼女も泣いていた。小さくてとても綺麗な顔の左目に涙がつーと流れた。しかし、すがすがしい顔をしている。

 人間って、あんな顔で泣けて笑えるんだ。彼女は客席を余裕にみちた笑顔で見回すとやはり最後に男の子の顔を見て輝くばかりの笑顔を見せた。男の子は再び打ちのめされた。

 舞台が回り出した。
「歌舞伎的な演出か。3つくらい舞台があるのか」
 パパが言った。
 実は舞台は3階建てで、9個あるのだが、彼らには知る由もない。

 解説があった。今度は日本語だ。要約するとこういうことだ。
 彼女はクスコ、というところに行った。なんべいの、ペルーという国にあるらしい。かつてのインカ帝国の首都であり、世界遺産になっている。インカ帝国はアンデス文明の系統における最後の先住民国家である。最後というのは、しんりゃくしてきたスペイン人によってほろぼされたから。彼ら達が意図的に、あるいは偶然に広めた天然痘により、わずか数年間でインカ帝国のほぼ全ての人達が死んでしまったらしい。彼女はそんなクスコに行った。そしてどこからか、カンパネラが聞こえてきた。彼女の中でリストのカンパネラは、滅ぼされたインカ帝国の哀切で、しかし高度な文明を持った人特有の誇り、南米のアンデス山脈の清冽な空気感と南米特有の楽し気な雰囲気をまとった。それは彼女によるへんきょく、というものらしい。

 小学生だぞ。そんなところに行くのもどうかしているが、そんな曲が浮かんで、へんきょく、できるなんて、なんて女の子なんだ。

 INSPIRED BY UNO

 やがて舞台は周り、次も彼女の独演だった。フラメンコだった。

 詳しいことは省略するが、解説によるとフラメンコはスペイン語の歌詞の内容とかなり関係があるらしい。スペイン語は分らないが、彼女の踊りを見ていたら、何を表現しているか彼でも分った。表現者として超一流なのだろう。

 最初の踊りは、亭主が飲んべいで、いらいらしている奥さんだ、と思った。でも亭主が死んでしまって、悲しんでお酒を飲んでいる、と思った。
 次の踊りは、もてすぎて、つん、としている女の人の話だ。男どもからもてもてで、でもいつしか独身のままで結婚しなかったことを後悔している。それでも誇りを持って生きている女の人だ。彼女と似ているところがある。
 次の踊りは男の人のものだ。いや、踊りは彼女が踊っている。でも、歌詞と踊りの表現はあきらかに男の人のものになっている。その踊りは、闘牛士を表している。やっと努力して闘牛士になった。しかし、ウシに刺されて大けがをしてしまい、闘牛士をやめ、故郷に帰ってきた男の哀切に満ちた踊りだ。

 彼はまた感動に打ちのめされた。パパとママも感動のあまり両目から涙を流していた。

 INSPIRED BY Esperanza(高円寺)

 次はなんと、和漢朗詠集の詠唱と平家物語の琵琶の弾き語りだった。平家物語は冒頭の有名な「祇園精舎の鐘の声」、という所から始まるが、詳しい話も併せて歌物語風に聞かせてくれて、この8文字には特別な意味があるのが分った。インドの仏陀に関係あるらしい。ぎおんしょうじゃというのは広いお寺のことで、その中にどつこえんという場所がある。そこは高貴な僧侶が死んで行くときに横たわる場所で、音を出すものが何もない部屋なのに、「ちりーん」という鐘の音が聞こえてきて、お迎えが現れたということを知らせるのだ。僧侶はあの世から来たえらい人に連れられて、あの世の、より次元の高いところにいくということらしい。それが「祇園精舎の鐘の声」だった。
「へー。知らなかった。なんて教養深いんだ」
 としきりにパパがうなずいていた。これでもパパは国語の教師だ。当然古典も習得している。それが知らなかったとは。小学生に教えられるとは・・・。

 そして、オペラの主演。

 最後はフルオーケストラの中での主席バイオリニスト。

 満場の拍手。彼女の満面の笑顔。

 解説によると、彼女は能、歌舞伎、日本舞踊、なんでも超一流らしい。噺家としても有名で演目は100個くらいあるとのことだった。

 全てのプログラムが終了すると、前の席のフロックコートの男が立ちあがり、こちらを振り向いて言った。
「どうぞご一緒にこちらへ」
 一家全員うろたえた。
「いいんですか、こんな庶民が」
 フロックコートの男はにこっと笑って言った。
「どうぞ。お嬢様がお待ちです」

 男の子はどきどきしながらとても広くて豪華な楽屋の両開き扉を引き開けた。彼女は既に着替えていて、バイオリンを持って、立っていた。彼でも分るとっても高いブランドの衣装を着ていた。そして笑った。

 男の子は彼女の前に立ち、笑おうとした。しかし、できなかった。彼はママに抱きついて泣いた。そして言った。

「ママ、僕は彼女が好きになっちゃったよう」
 一瞬、楽屋が静まり返り、中の空気が真空になったかと思った。
 やばい、そんなこと言うんじゃあなかった。男の子は首をぎりぎりと回して見た。

 すると大人たちが爆笑した。楽屋は楽し気な雰囲気になった。男の子はほっとした。
「男どもはみんな娘に夢中です」
 彼女パパは満足げで、しかし警戒した目で言った。

 彼女が優しく言った。
「来なさい」
 男の子は振り向くと、彼女に飛びついた・・・飛びつこうとして、頬を思いっきり張られてぶっ飛んだ。
「ほほほ」と彼女は笑った。
「あら、ごめんなさい。私、男に飛びつかれ慣れていて、すぐビンタするくせがあるのよ」
「さすがだ」、とパパがうなった。

 ママは男の子の目を見て言った。
「女の子には優しく。ネ」
 男の子はゆっくりと、おずおずと彼女のところに行って、言った。
「あなたが好きです」
 彼女は優雅に微笑んだ。
「ありがとう。あなたは私に告白した999人以上の人の中でかなりのお気に入りだわ。それに同い年の男の子の中ではかなりのイケメンよ!」

 フロックコートの男が解説した。
「去年の夏で告白した者が999人目になり、もう数えるのを止めたのです。ほとんどが大人の男性です」
 彼は男性、を強調して言った。

 彼女は両手を広げた。僕はゆっくりと彼女のところに向かい、両手で彼女とハグした。とっても甘いアイスクリームのようないいにおいがした。頭がくらくらした。酔った。彼女は柔らかくて、体感が鍛えられた人特有の引き締まった筋肉でしっかりと立ち、凛としていた。そしてとってもとくべつだ!

 男の子はしぶしぶと彼女から離れるとママのところに行った。
「あら。この香りは、ジルスチュアート ヴァニラ ラスト オード パルファン」

 男の子達はボー然として帰途に着いた。

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