第7話  あなたを死なせない。絶対に。

文字数 6,259文字


時は2012年春。気の早いスズメバチが飛んでいる。
場所はいつもの音大付属高校裏の広大な雑木林の中にある開けたお花畑。春の黄色いお花がいっぱい咲いている。

楠すばるは沢井ひなを追いかけていた。

「私を捕まえるられるものなら捕まえてみなさい!」
と、いつものように勝ち誇って言われて、カッとなってつい追いかけ出してしまった。

ひなはひらりとすばるの手をかわすと、満開のイヌザクラの大きな枝の下を通って消えた。
尾根まで上ると、花びらの舞い散る桃源郷のような緩斜面を見下ろし、そこは見事に満開のヤマザクラがいっぱい咲いていた。ヤマザクラにはピンクの花びらともに緑の幼い葉が萌えだしていた。

すばるは舞い落ちた花びらが髪に付いたのも気づかずにひなの姿を追い求めた。
「もういなくなってしまった…」

その時、すばるは足元に違和感があって、運動靴を上げて、見た。
すばるはヤマザクラの巨木の根の上に立っていたのだが、靴の下には完全につぶれたスズメバチがいた。
すばるはつぶれたハチをしゃがんでよく見た。
「オオスズメバチだ」
季節柄女王バチの可能性が高い、などどすこし考えたりしていたが、すぐに生意気なひなの顔が浮かんで、走り出した。

2 
それから30分後。場所は管制官室、コントロールルーム。
アニメのカワイスギクライシスを見た方は、その宇宙船の管制官室を思い浮かべてください。
それと似た艦橋です。館長ではない、管制管長が言った。
「まずい。ひなさまの心音が途絶えた…」

「また電池切れでは?」
「また見つかって捨てられたんでは?」
部下がつぎつぎに突っ込みを入れるが、
管長は孤独な決断を下した。
「いや、悪い予感がする。第一級アラート。発令!」
部下は顔を見合わせた。これまで訓練でしかやったことがないのだ。
「管長、ほんとすか?」
唇に貫通ピアスを右に2本、左に3本入れた長身の男が言った。
「のんびりするな! いそげ。今すぐだ」
ピアス男は「へい」、と言ってコンソールのでっかい赤いボタンを右の掌でボン、と押した。
それだけで第一級アラートが発令される。

AIが人工とは思えないソフトな女性の声で言う。
「第一級アラートが発令されました。緊急医療システム発動、正常起動を確認。緊急医療移動体ETMS発射カウントダウン開始。ETMS発射マイナス300セカンズ。
緊急医療チーム集合まで5分。デリバリーシステムをサーチ中。オスプレイが15分後に離陸可能です。」
「だめだ。もっと早いやつにしろ」
「一人ならAH64の前席から懸垂下降で5分後に離陸可能です。ETMSマイナス260S」
「よし。じゃ、両方やってくれ」
「かしこまりました。ETMS発射マイナス240。AH64:ETAマイナス10ミニッツ。オスプレイ:ETAマイナス20ミニッツ」
と、同時に管制官室の床が透明になって、ドローンが映し出した映像が足元に映し出された。床面モニターだ。
満開の見事な桜の木が20~30本ほど真下にあり、その周りは3方向が雑木林で南側が開けた場所だった。
ドローンから赤い線が出て、その先は矢印になっていて一本の桜の木に突き刺さっていた。
床面モニターに文字がタイプされた。
「ひなさまの心音の消えた場所。消えた時間:14:03 消えてから+120セカンズ。」と読めた。

3 加藤可奈のガラケーが鳴った。
「はい」
「いまひな様と一緒か?」
「いいえ」
背後に悲鳴が聞こえた。
「いつから・・・いや、そんなことはいい。ひな様のところに行けるか」
「うーん。わかんないや」
また悲鳴が聞こえた。
「じゃ、これから言う場所に今すぐ行ってくれ」
「もしかして、ひなが危ないの?」
「わからないが、緊急事態の可能性が・・・」
途中で声が変わり、緊迫した大声の喚き声になった。
「緊急事態だ。心臓が止まった。走れ!」
加奈は走ろうとして、立ち止まった。
「どっち?」
「上を見ろ」
そこにはドローンが浮かんでいて、赤紫のレーザー光線が射出されていた。
加奈はすぐに携帯を手に握りしめると、その方向に全速力で走った。


4
加奈は全速力で何分かまっすぐに走って、直ちにひなをみつけた。
加奈は大きく呼吸をしながら足元の光景を見下ろす。
桜の木の根本にひなが横たわっている。
加奈は一瞬で状態を把握する。

呼吸なし。白目。全身がぐったり。虫が腕についている・・・スズメバチだ。黒い服を着たひなの腕にあごでくらいつき、腹部を曲げて針を何度も刺している。ハチは1匹ではない。

ガラケーから大声で何か言っているのが聞こえたが、無視する。

まずスズメバチを排除する。
加奈は斜め掛けしたマニーちゃんのポーチからヨース製薬の携帯ハチスプレーを出し、ためらいなくハチに噴射した。
ハチは腕に2匹、足に1匹いた。
3匹とも噴射後すぐに苦しみだし、ポロっと落ち、なおも噴射すると脚を縮め、ぴくぴくと痙攣し出した。

加奈はスプレーをしまうと、ひなに駆け寄った。ひなのテーパードパンツには失禁したしみがある。最初にひなの鼻をつまみ、ひなの口から呼吸音が聞こえるか、加奈の耳をひなの口の1㎝まで近づけて聞いた。
無音だ。無呼吸だ。
ひなのパールボタンカーディガンをはぎとるように脱がすと、胸の真ん中に耳を充てる。鼓動は聞こえない。あのガラケーの男が言っていたように心臓は止まっている。
顔色は紫色。チアノーゼだ。ハチ毒によるアナフィラキシーショックだ。
加奈はマニーちゃんのポーチからエピペンを出し、ためらいなくひなの胸骨の上、心臓の真上に注射した。
加奈はひなを見下ろして何か言った。


5 
加奈はハチの仲間がすぐにやってくる可能性があるので、ひなの体を移動させた。
はちの匂いのついたテーパードパンツとパールボタンカーディガンをはぎとるとその場に捨て置いた。ハチは怒っていた。ハチは死んだ仲間が怒っていたかどうかが匂いでわかるらしい。

まだ春先だから、ハチはほとんどいないはずだが、それでも何が起こるかわからないのが野外である。中途半端な知識ほど身を亡ぼす。

加奈はひなを引きずって10mほど離れた場所まで運んだ。そこでひなを上向きにし、直ちに胸骨の上をリズムを唱えながら押しだした。
「1、2、3、4、1、2、3、4・・・」
ピアノやバイオリンで体にしみついたリズムを生かす。
メトロノーム70のテンポで4小節分やると13.7秒だ。
加奈はひなの顔色を見て鬱滞(うったい)した血液が心臓内部を通過して残存酸素のある血液が脳に到達したかを推し量った。
まったく変化なし。
加奈はさらに8小節分、27.4秒胸骨圧迫を行った後に人工呼吸を加えた。

右手でひなの顎をあげ、左手でひなの鼻孔をつまみ、加奈の口から新鮮な空気を吹き入れる。
変化なし。

心室細動状態なら直ちにAEDを充てなければならない。

そのとき、ガラケーから大声が聞こえた。

「緊急医療移動体ETMSが到着する。ETMS到着まで10、9、・・・」

加奈は最後まで聞かずに走り出した。ETMSが何なのかは知っている。ひなのために開発された緊急医療機械が詰め込まれたミサイルのようなものだ。あれにはAEDが搭載されている。
ミサイルのようなものが開けた場所の地面に突き刺さるのだ。

「どこ?ETMSはどこか教えて!」
「あ。やっと応答が
「どこなの?
「あー。南のお花畑。

声と同時にドーンという低温の振動音が聞こえた。ETMSは一刻を争う事態であるためパラシュート降下せずに、ミサイル状の物体が直接地面に突き刺さる。
その時に衝撃を和らげるために前面から衝撃破を出す。その音がドーンという振動音となって聞こえる。

加奈は走って桜林からお花畑に出るとETMSがすぐ近くの地面に斜めに突き刺さり、中間部が展開し出しているのを認めた。
さらに全速力で走る。

加奈が到着するまでにETMSはシューッという音と共に真ん中から四つに裂け、四方に机上のものを展開させた。
ETMSはまず筒状の中からAEDを出し、一つの机の上にスライドさせた。

このAEDはひな特製で、すでにチャージ完了の点灯をしている。

加奈はETMSに近づき、AEDの取っ手を右手で慎重につかみ、本体を両手で抱えると、素早く走ってひなのところに戻った。ひなのブラをとり、上半身を裸にする。

加奈はAEDの電源がすでに入っていることを再確認し、電極パッドをひなの心臓の反対側、本人の右に張る。
もう一つの電極パッドを左腹に貼り、ひなから離れる。

するとAIの女性の声で、
「ただちに電気ショックを開始します。ひな様から離れてください。」
という声が聞こえたが、
「ただち」の「ち」くらいのときにはもう電気ショックは行われていた。

ひながびくん、と動くのと同時に「ちゅいーん」とリチャージする音が聞こえた。

「心室細動、消えました。ただちに胸骨圧迫をしてください」

加奈はほっとしてうなずくと、両手で力強く胸骨圧迫を再開した。

「1、2、3、4、1、2、3、4・・・」
先ほどと同じようにメトロノーム70のテンポで4小節分13.7秒後に人工呼吸を行う。

8小節目で心臓がどどっと不整脈ながら鼓動を再開したのが掌に伝わってきた。
加奈は人工呼吸を装ってひなにくちづけをした。

「おかえりなさい。ひな・・・」


6 それから1分後。
ひなは横たわったままうつろな目で加奈を見ていた。
「また私、救われたのね、あなたに」
「ええ。そうよ。
私はあなたを絶対に死なせない!」

ひなはため息をついて何かつぶやいた。
キス、したでしょう?と聞こえなくもないが、加奈は無視した。

そしてひなは自分の下着姿を見て恥ずかしがらずに言った。
「やだ。私のかわいいエレガントコーデはどこ?」

弛緩した空気が流れた。
微風が甘やかなハナズオウの花のにおいを運んできた。


ばさっと、下藪からすばるが出てきて、下着姿のひなをみて目を丸くした。

「ひ、ひなめっけ。」

加奈はひなの前に立った
「ばか。あっち向け!」

加奈はガラケーに向けて話し出した。

7 それから3分後。同じ場所。ひなは突然苦しみだした。尋常ではない苦悶の表情を浮かべて腹のあたりを抑える。すぐに冷汗が額に浮かびだし、切迫呼吸になる。

「何? どうしたの。ひな。どこが痛いの」

「く。く、痛い。」ほとんど聞こえないくらい低く小さな声だった。

加奈は直ちにガラケーに向かって言った。

「ひなが腹を抑えてひどく苦しがっている」

「な、なに。ETMSへ走れ。OCTシステムがすでに展開されている。重いからスバルと2人ですぐに持ってこい。」

ガラケーからは大声の男の声で「直ちに京の50%を確保しろ! 1分以内に確保しろ。OCT画像動画解析をオンラインリアルタイムで行う。」
と流れていた。

**************
OCTシステムとはOptical Coherence Tomography(光干渉断層撮影)の略で、現在病院内に設置されている巨大なCT、MRIよりはるかに進んだ非接触・非侵襲型技術の持ち運び可能な画期的なシステムである。近赤外線を照射し、光の干渉性を利用して人体内部構造を高分解能・高速で人体器官の任意の断層面の画像を切り出して示すことができる。2012年当時ですでに存在したが一般化されておらず未来的な技術だった。

なお、京(日本が開発したスーパーコンピューター)が出てくるが、当時の半導体の能力では動画解析能力が低く、スーパーコンピューターの力が必要だったのである。
**************

加奈はすばると走ってETMSに行った。すると、OCTシステムが光っていて、AIが言った。
「この光っているのがOCTシステムです。すぐに持って行って。早く。でも落とさないでね。」

加奈とスバルは目くばせすると、同時にOCTシステムを持ち上げた。
20KGくらいありそうだった。
加奈だけでは運べなかったろう。2人で確実に素早くひなのところに戻る。

ガラケーが何か喚いていたが、AIの言うことを聞いた。

「OCTをひな様の胸の横においてください。そう。では赤外線照射装置で胸部サーチします。」
そういうなり、OCTから赤い帯状の光が出てひなの首から腹までゆっくりと往復した。

「画像を解析中。京の30%を使用。35、40、45、49…。画像、出ます。解析完了。

「結論。CMD、冠微小循環障害と冠微小血管攣縮と診断。直ちにニトログリセリンを舌下に噴霧投与してください。」

そういうと、OCTシステムの上部がぱかっと空き、「みゃーコールスプレー」という名前の付いたスプレー容器が現れた。

「これを舌の下にしゅっとすればいいのね」
「そうです」
ひなは苦しそうな表情で口をあけ、舌を上に上げる。加奈はそこにスプレーをした。

効果は絶大だった。死にそうなくらい苦しんでいたひなは1分もすると呼吸が普通になり、ガチガチだった体中の力が抜けていくのがわかった。

「こ、これは何なの

「冠攣縮性狭心症(かんれんしゅくせいきょうしんしょう)です。心臓に血液を届ける冠状動脈(かんじょうどうみゃく)の痙攣(けいれん)によっておこる狭心症です。冠状動脈の血管内腔(ないくう)に脂肪分が沈着する狭心症と異なり、血管内部が詰まっているわけではありません。論文によって異なりますが、日本の狭心症の半分はこの冠攣縮型と言われています。ニトログリセリンを投与することにより血管が拡張し、発作は収まります。ひな様は心停止するほどのアナフィラキシーショックに襲われ、その大きなストレスから発症したものと推定されます。」

ひなはがっくりとよこたわった。フルマラソンを走破したくらいに疲れている。

加奈は身を投げ出してひなを抱きしめた。何も言わずに涙を流した。
すばるは最初はきまり悪そうにしていたが、やがて感動して涙を流しながら立ち尽くした。


そこへAH64ヘリコプターから降下してきた、真っ白い服を着たドクターが医療バッグを持って到着した。

ドクターは言った。
「さあ、もう大丈夫だ」

3人は顔を見合わせて笑った。

遠くにオスプレイのプロップローターとそれを駆動する2台のターボシャフトエンジン音が聞こえてきた。

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狭心症は、冠動脈造影を用いた診断が今でも主流である。冠動脈造影はヨード溶液を動脈内に流すため、心停止、重篤化する副作用があるにもかかわらず、血管内腔しか評価できず、冠攣縮性狭心症には無効な診断技術である。

【しかし、2024年ではIVUS,OCTといった生体内イメージングの進歩により,冠動脈壁そのものの観察が生体内で可能となり,形態学的特徴から冠攣縮性狭心症の病態や成因を究明することが可能となった.冠動脈造影では有意狭窄を認めない冠攣縮性狭心症患者の攣縮部をOCTで観察すると,半数以上の症例で器質的な病変を認めることが明らかとなった 36).その病変形態は多種にわたり,層状プラーク(layeredplaque)333– 335),内膜裂孔(intimal tear)36),血栓37, 336),冠動脈解離337, 338),マクロファージの集積339),血管壁内血管(vasa vasorum, intraplaque neovessels)340)等が報告されている(表13 36, 37, 325– 345)・・・「日本循環器学会 / 日本心血管インターベンション治療学会 / 日本心臓病学会合同ガイドライン 2023 年 冠攣縮性狭心症と冠微小循環障害の診断と治療」P33より引用。】



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