第5話 美への執念1 音楽学校入学

文字数 1,818文字

 男の子の名前は楠すばるである。才能のかたまりみたいな女の子は沢井ひな。
 さて、すばるは
「なんでこんなことになったんだろう」
 と途方に暮れていた。
 彼は普通の区立の小学校に行っていたのだが、あっという間にひなの所属する私立小学校に入れられてしまった。
 彼はその1000ヘクタールもの敷地(東京ドーム213個分)を歩いているのだが、歩いてきた途中では壮麗な建築物があちこちにちりばめられていた。彼はとぼとぼとと綺麗に舗装された歩道を歩いていた。欅の大木が両側に林立した上り坂を歩く。1キロメールくらい先まで直線的に続く欅並木のはるか先にやや霞んで100段くらいの階段とそれに続く壮麗なチャペルがせりあがって見える。並木道の左側は緑あふれる一面の芝生地であり、そこから女生徒の「うふふ。お姉さまったら、G(ゲー)線って関内のあそこのことではありませんことよ。Gdur(ゲードゥア)のG線、D線…のことですわ」などど謎の話声がそよ風に乗って聞こえてくる。
 並木道の右側は雑木林になっていて、桜、ならなどの広葉樹やひのき、杉などの針葉樹が林縁にまばらに生えており、その隙間から中低木のアベリアが花盛りなのが見えた。
 彼は汗をかきながらやっと階段のところまで歩いてきて、一息ついた。右斜め後ろにショップがあり、そこでアイスクリームを買った。おばちゃんが「あら、珍しい」と言って笑った。
 彼はぎくっとした。なんとなくわかってはいたのだが、ここに来る途中、男の子は皆無だったからだ。
「君は特例で入学」
 とひなのお父様がにこにこして言われていて、なんだがいい気分になっていた自分がうらめしい。
 きっと特例とは、もしかしたら唯一の男の子、という意味だったに違いない。しかもここはお嬢様の通う音楽学校だ。男の子で、音楽など縦笛しかやったことがない。しかも、なんだったら、発表会でも吹いてない。エア、というやつだ。音楽の成績は「3」で、楽器はおろか、「楽典」
「楽譜」のことなど何にも知らない。

 彼はアイスクリームを食べ終わると、ショップの隣の土産屋をちらっと見た。恐ろしかったからだ。やはり、そこは「ひな」グッズであふれかえっていた。ペンダント、ネックレス、アンクレット、指輪…そこに小さなひならしき肖像がついている。ひなのうつくしくかわいらしい写真にQRコードがついているのがいっぱいある。
 かれはすぐに踵を返して建物から出た。
 階段の上に見えるチャペルはゴシック様式のとがった尖塔を持つうす茶の建物で、そこに入ると実は門のようなものだった。中は広大な庭になっており、正面に大きな建物、右と左に中くらいの建物がある。前方奥にある樹木がさらにこの敷地の広がりを感じさせる。

 彼は芝生にニチニチソウ、インパチエンスなどの草花の咲く細い道を通って行き、チャペルに続く小さな丘に登り、チャペルの入口を見た。そこにはなぜか直線では行けなくて、左右どちらかの道を半円を描くように行く道なので、どうでもいいが彼は右側から行った。チャペルの入口扉は特に呼び鈴やノッカーのようなものはなかったので、扉は引いたらスムーズに力がいらずにスーと開いた。
 彼は神父さんのような人物が彼を振り返るのを見た。立襟の祭服のカトリックの司祭だった。中年の日本人だ。
「ああ。すばる君だね。ようこそ」
 そういって両手を広げて招いたのでしかたなく、おずおずと神父さんの所まで行った。
「あの、「こくかい」って言うんですか。あれ、やりたいです」
「おやおや。知り合っていきなりかい? まあいいや。どうそ始めたまえ。ここには僕と君しかいないから、ここでいいよね?」
 神父さんはその場をバレエの優雅な仕草で示した。
 彼は「こくこく」とうなずくと
「ぼ、ぼくはここに来る資格なんてないんです。男だし、音楽なんて全然わからないし…」
 彼はそれからじっくり10分間、自分の不安な心の内を神父さんに聞いてもらった。
 そのあいだ、神父さんはにこにこして彼の話を聞いていた。
「それで、君はどうしたいんだい?」
「えっ? だって、僕はあれほどふさわしくないと言いましたが…」
「そういうことではないんだ。君はもう選ばれている。正式にだ。手続きももう終っているんだよ」
 神父さんは優しい目で彼を見た。
「私はこの学校の校長の北上尾俊夫と申します」
 (学校の校長・・・)
 すばるは何か間違っている、むしろ間違いであってくれと願った。






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