第10話

文字数 2,131文字

 佐藤さん…佐藤さん…回復するよね…。また笑って話せるよね…。花乃ちゃんだって待ってるのだから…。この言葉を胸の中で何度繰り返しただろう…。他には健太郎の頭に浮かぶ余地が無い。 
 佐藤が運ばれて行った後の空のベッドが虚しく見える。今迄あの細い身体から強い存在感が出ているのだと思うと、この病室がガランとして居て侘しさしか湧いて来ない。そんな中でひたすら佐藤の回復の情報を待った。

 1時間以上経った。花乃ちゃんが
「失礼します」
と言って病室に入って来た。佐藤のベッドのシーツを剥がし始めた。と言う事は…悪い予感しかしない。花乃は目を真っ赤にして涙をこぼさない様に堪えて作業して居る。
 健太郎は『佐藤さんは?』と聞きたい気持ちを封じ込んだ。花乃の顔を見たら言ってはいけないのが伝わって来る。只この場に居た堪れない。
「トイレ行ってきます」
と言って健太郎は尿意もないままトイレへ行った。
 花乃ちゃんの涙の意味は?シーツを変えて居る意味は?暫く手厚い治療が必要なのか?それとも…それ以上考えを進めたくない…。
 健太郎は佐藤の事を考えては消し、考えては消しを繰り返した。良い事を思い浮かべる要素が無いからだ。しかしトイレにいつまでも居ることも出来ない。健太郎は病室に向かって歩き出した。自分の病室だが、入って行くのは花乃ちゃんの事を考えると躊躇する。コッソリ室内を除いてみた。
 花乃は佐藤が使って居た枕を抱き締めて残り香を嗅ぎながら嗚咽を殺して居る。
『あっ…佐藤さんはもう』つい頭に浮かんでしまった。それを慌てて掻き消すかの様に、『いや、佐藤の体調を心配しての涙かもしれないじゃ無いか!』とまた、答えを出さずに居た。
 暫く様子を伺って居た健太郎は花乃が作業を再び始めたのを確認して病室に足を踏み入れた。
 佐藤のベッドは真新しく、ピンとベッドメイキングされた。
 花乃は古いシーツ類を抱えて病室を出た。廊下に渡が居るのか声が聞こえて来た。
「大丈夫?…な訳無いわよね」
「御免なさい」
花乃の涙声が聞こえる。
「私…もっと何か出来ましたよね…。悠河に申し訳なくて…」
「ううん、尽くしたじゃ無いの!短い時間だったけど、素敵な2人だったわ」
「渡さん…」
「うん…」
「さっき、初めてキスしてあげれました。生きてる間にしたかった。でも感染症起こしたらと思って…まだ温かかった…」
「うん…そうね」
「うっ…」
花乃の嗚咽が健太郎に佐藤の死を知らせた。
「佐藤さん…酷いよ…。焼き肉食べたい気持ち吹っ飛んじゃったよ…。さっきまで話ししてたじゃないですか…」
花乃を始め看護師と、健太郎は重たい気持ちをズシンと抱えた。
「佐藤さんのお陰で楽しい入院生活だったよ。でもさ…」
健太郎は心の中で、そう唱えた。そしてもう一度ベッドに目をやった。床頭台とベッドの間にマジックハンドが落ちているのに気付いた。
 そっと近付きマジックハンドを拾った。長い棒の所に『悠河♡花乃』と油性ペンで書かれている。
「佐藤さん…幸せな時間を作れて良かったね」
と健太郎は天国に居るであろう佐藤に囁いた。
 その時、渡が健太郎の様子を見に来た。
「篠崎さん」
「渡さん、これ佐藤さんの」
「あぁ…。佐藤さんのアイテム…。篠崎さんも色々心配しているでしょう…」
「…はい。いつも笑ってたから寂しいですよ。この空ベッド」
無言の空気が流れた。
「佐藤さんってね、進行の早い胃癌でね。最初は治療して居たけど…もうどの薬も効かなくなって。なら笑って暮らそうって心に決めてたみたい。そうしてたら本当に病気の事を気にせずに過ごせたみたいで…笑った者勝ちって言ってた。そして一年前に入院した時から好意を抱いてた花乃ちゃんへの恋も実らせて…。出来る楽しみをやり尽くして…逝っちゃった」
渡も寂し気だ。
「俺の入院生活…佐藤さんのお陰で苦痛ほとんど無くて…。同僚みたいな人でした。病院って…」
「病院って…? 」
「命を扱うから…色んな思いが行き交ってますね」
「本当ね」
渡は仕事に戻りナースステーションに向かった。そして健太郎はまた1人になった。寂しい…。ただひよりの見舞いをすがる様に待った。夕方にやって来たひよりも佐藤の訃報に驚きを隠せなかった。
 命の大切さを健太郎とひよりは感じずには居られなかった。

 更に2日が経ち、健太郎は退院した。ひよりと一緒に焼き肉屋に行き、掘り炬燵の席に着いた。取り敢えずカルビ3人前とご飯3人前、ビール3杯を注文した。佐藤の分もどうしても注文したかったのだ。
 健太郎は誰もいない席に、ビールとご飯を置いた。カルビが油を滴らせながらジューッと音を立てて焼けて来ている。少しキムチをご飯に乗せて、その上にカルビを被せた。佐藤と乾杯したかった。せめてもの献杯を静かにひよりとした。
 隣の席の男の子がマジックハンドを持ってはしゃいで居る。健太郎はつい笑顔で見つめてしまう。カルビで巻いたご飯を、その男の子に一口入れてやった。
「うんまーい! 」
と言って自分の席に戻って行った。この子は佐藤では無いのは百も承知だ。
 でも…面白い佐藤を思い出して健太郎とひよりは笑いながら焼き肉を頬張った。佐藤との思い出を、悲しみから宝に変えて。




                  完
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