第3章・二つの世界

文字数 34,618文字

 不思議な儀式だった。
 月のない夜、集落から少し離れた平坦な広場で、それは行われた。
 族長集会で使用されるのであろうその広場の中央には、何本もの石柱が一列に立っていた。部族の人々が、老人も幼子も集まっており、松明ではなく角灯の小さな灯りに照らされて、誰もが無言だった。
 婚姻の儀は、あの島でも集会に使われる広場で執り行われていた。だが、夜ではない。リィルは他の島の事は知らなかったが、海狼の言ったように、この部族はやはり、他とは大きく異なっているのだろう。
 石柱の片側には、晴れ着に身を包んだ今宵の花嫁が、リィルを含めて四人、反対側には花婿がいるはずだった。娘達が皆、緊張を隠せないでいるのが感じられた。反対側にいる相手が見えない事が、不安を更に掻き立てる。
 やがて刻限が来たのか、男達によって弓の弦が打ち鳴らされた。それに人々の朗誦が加わり、広場が聖別された空間へと変じたのがリィルにも分かった。
 介添人であるミルドによって、リィルは薄絹を被せられ、手を引かれて石柱の所へ進んだ。反対側に海狼がいるはずだったが、新月の暗闇に加えて、視界を遮る柱と顔を覆う薄絹越しには、殆ど見えないに等しかった。
 ひときわ大きな梓弓の音を合図に、リィルはひんやりとした石に手を添えて歩み始めた。言われた通りに、柱を半周ずつ交互に回りながら進んだ。中央で海狼に出会えるのだと分かってはいても、朧げにしか見えない、というのは、どこか恐ろしくもあった。本当に、この先に海狼はいるのだろうか。別の誰かではないのか、という思いも湧き上がって来た。或いは、逆に回ったりして擦れ違ったりはしないのだろうか、と。
 それこそが、

なのだろう。不安と恐れを克服し、相手を信頼している事を神々にしろ示すのが、この儀式の要なのだろうと思った。
 ならば、それを証明してみせなくてはならない。神々に、人々に、そして、海狼と自分自身に。
 ゆっくりと、だが確実に歩を進めた。幾つかの柱を通り過ぎ、その次の柱に添えた手に、大きく温かな手が重ねられた。
 突然の事に愕いて思わず引っ込めようとした手を、逃がさぬかのように力強く握り締められた。
 ゆっくりと、薄絹が上げられた。
 穏やかに微笑む海狼の姿をそこに認めた時、ようやく安堵した。海狼はリィルの両手を取り、その眼を見つめた。
「我、()が運命の花嫁を捉えたり。神々も御照覧あれ。我等、朔月の望月へと巡り、望月の朔月へと巡る永遠(とわ)なる営みの如く、巡り会い、去りては再び巡り会わん事を、天地神明に誓うものなり」
 良く通る声で海狼がそう宣言すると、人々の間から歓声が上がった。
 海狼はリィルの手を引き、人々の方へと向かった。さっと人々が分かたれ、二人は広場を後にした。
「よろしいのですか、他の方々は…」
「これが、流儀だ」全く意に介する様子もなく海狼は言った。「皆、夜通し騒ぐ」
「でも――」
 あなたは族長ではありませんか。儀式の全てを見届ける義務があるのではないのですか。それなのに、最初に皆を離れてもよいものなのでしょうか。
 そう言おうとしたリィルを、海狼は遮った。
「婚礼にあたっては、族長も何も関係がない。楽しみの少ない土地だ。連中は騒ぎたいだけ騒がせてやろう。今宵ばかりは、我々も、良い酒の肴だ」
 では――
 と、海狼はリィルを両腕に抱え上げると、脚を早めた。
「我等の新居へ向かおうではないか」


 新居とは言っても、族長の館であった。
 ただ、普段と違って、誰もいなかった。両手が塞がっていたが、海狼は扉を器用に開け、族長一家の棟に進んで行った。
 廊下の突き当たりには、客人の棟とは異なり、重厚な扉があった。そこには族長旗が掲げられており、海狼はその部屋に入るとようやく、リィルを降ろした。
「私達の部屋だ」
 どうだ、と言いたそうな自慢げな言い方が、少し滑稽だった。
 そこは広く、また快適そうだった。
 床には毛皮が敷かれ、書き物机の前に据えられた大きな安楽椅子の傍らには、それよりも小ぶりの物も置かれていた。側の小さな卓の上には、遊戯盤が置かれている。壁には綴織の壁掛けと共に、いましも跳びかかろうとしている下半身が魚になった獣の族長旗と、海神の印をあしらった部族旗が掛けられていた。まだ夜は肌寒かったが、今は火の入っていない暖炉の上には酒入れや杯、上の壁面には長剣が三本、飾られていた。父親と祖父の物であったと、海狼は言った。いずれは、自分の血に連なる者に渡るのだ、と。
 前の奥方とも、ここで過ごされたのだろう。
 そう思うと、胸が締め付けられた。
 その思いを察しでもしたのか、海狼はリィルに言った。
「全て、新調させた――とは言え、この島では木材は貴重だから、元の物は分解して他で使い回すのだがな。壁の内張りも、壁掛けも、全てお前が気に入りそうな物を探した。唯論、好みでなければ、遠慮なく言うと良い。自分で選ぶのも、女主人の特権だからな。さすがに寝台ばかりは入れ替えに難儀したから、そういう訳にもいくまいが、覆い布は好きに出来る」
 わざわざ、自分の為に全てを新しくしてくれたと言うのか。リィルは愕いた。
「でも、前の――」
 黙って、と言うように、海狼はリィルの唇を押さえた。
「死者が最後まで使っていた物は、水火葬にするのが、我々の

だ。亡き者を、お前が気にする事はない。何より、私にその事を思い出させるな」
 苦々しげな声だった。前の奥方を、それ程までに想っていらしたのか、とリィルは思った。
 しかし、海狼は直ぐに口調を改めた。
「今日まで、食事以外は殆ど顔を見る機会がなかった。だが、これからは、海に出ている時以外は、どれほど忙しかろうと、共に過ごす時間が持てる。お前と出会い、こうして娶る事が出来たのだから、少々の事は我慢しなくてはな。毎夜、お前を(おとな)おうかどうか、迷いに迷った。お前は気付かなかっただろうが、部屋の前まで行った事もあった」やはり、あの足音は海狼だったのだ。「だが、お前とただ、過ごすだけでは我慢ならんだろうと、自分を律して来た」
 海狼は、リィルを背後から抱き締めた。
「最早、遠慮する事はないな。我々は同じ夢を見て、同じ年月(としつき)を重ねて行こう。共に笑い、哀しみ、諍ったとしても赦し合い、生きて行こう。互いが互いの生きる目的になろう。足りぬ所を補い合い、二人で一人の人間であるかのように生きよう。我々は、運命なのだから」
 耳許で囁かれる言葉は、まるで呪文のように感ぜられ、リィルを陶然とさせた。

    ※    ※    ※

 何かが顔と髪に触れる感覚に、リィルは眼を醒ました。
「起こしてしまったか」
 目の前に手を伸ばし、身支度をすっかり整えた海狼が座していた。慌てて起き上がろうとしたリィルを、海狼はそっと制した。
「ゆっくりすると良い」

の朝と同じ言葉を、海狼は口にした。「起こして、悪かった」
 これ程までに優しい顔をする人なのだと、リィルは改めて思った。
「慌てて起きる必要はない」と、にっと笑った。「私がお前をどれ程可愛がったか、皆に知らしめてやりたい」
 夕べ初めて知った悦びを思い出し、顔に血が上った。それを見て海狼は声を上げて笑うと、立ち上がった。
「そういった表情も良いし、楽しいものだ。起きるのは陽が高くなってからでも大丈夫だ。どうせ、昨日の夜更かしで朝餉もその位になるだろう。いや、お前は一日中、そうしていても構わない」
 と、もう一度、リィルの方へ屈み込んだ。
「お前はもう、族長の妻なのだから、自由に振る舞えば良い。皆が、お前の意向を尊重する。また、そのように遇する。私の――族長の惚れ込んだ美しい妻。海神の娘。島の女神。お前は、それに慣れなければならない」
 それは、一介の奴隷に過ぎなかったリィルには、困難な事に思われた。
「だから、今日くらいはゆっくりと休め。もう少し、眠ると良い。今夜からは祝宴だからな」
 そっと、海狼はリィルの額に唇付けた。髭が、くすぐったかった。
「お前は、海狼と呼ばれる私を飼い馴らした、唯一人の女だ」
 そう言って笑うと、面食らっているリィルを置いて、垂れ幕の間から出て行った。朝の光が、一瞬、差した。
 気持ちの良さそうな日になりそうだ、と思いながら、リィルは再びうとうととし始めた。


 次に目を醒ました時には、垂れ幕から射し込んでいた陽はすっかり高くなっており、リィルは今度は慌てて飛び起きた。前日にミルドから言われていたように隣の枕を見ると、細工の見事な銀の腕輪があった。新婚の妻への後朝(きぬぎぬ)の贈り物、という物だと言っていた。リィルはそれを胸に抱いて海狼を想った。それから、腕に滑り込ませた。
 寝台から降りて着替えようとすると、部屋の外からミルドの声がした。入って貰うと、ミルドの他にサリアを含めた三人の娘達がおり、リィルの朝の支度をした。
 サリアの用意してくれた衣に着替え、ミルドから帯の結び方――未婚、既婚、場の状況に合わせて何種類もの結び方があった――を教わり、身支度を済ませた。直ぐに、朝餉の準備が整ったとの報せが来た。
 いつものようにミルドがリィルを食堂へと導いた。
 だが、広間に足を踏み入れた瞬間、全てが変化している事に気付いた。
 食堂の(しつら)えだけではなく、一同の態度までが変化している事に気付いた。
 入り口で海狼がリィルの手を取り、皆は立ち上がってそれを迎えた。海狼の目がリィルの腕輪に止まり、微かに笑みを浮かべた。リィルの頬が熱くなった。
 導かれた席は海狼の隣だった。家族の食卓では常に海狼が一人で上座にいたものが、この朝はその左隣に席が作られていた。自分はこの館の、部族の女主人なのだと思うと、身体が震えた。
「兄上、義姉上、御結婚、御目出度う御座います」
 二人が席の所に立つと、蜜酒の杯を上げてエルドが言った。「御二人の行く末に幸多からん事を」
 海狼は鷹揚に頷き、杯を上げた。
「やっとのお出ましね。兄さま、

」ソエルが乳清の杯を上げ、次に言った。あの一件以来、ソエルは仕事をリィルに教えはしてくれたものの、どことはなしによそよそしかった。「お幸せに」
「イルガス、新しい母君に御挨拶を」
 海狼は促したが、少年は俯いているばかりだった。
「まだ、幼くしていらっしゃいます。族長、ご容赦くださいませ」
 マイアが言った。海狼の眉が不快げに(ひそ)められた。
「急にそう申されましても、無理でございましょう。わたくしも、子供は初めてですので、お互いに時間をいただきとう存じます」
 リィルは慌ててそう言った。
 少年がちらりとリィルを見たので、それに微笑みで返した。今まで朝餉の席で顔を合わせても、全く口を開く事のなかったこの少年。青い目には海狼と同じように、実際の年齢よりも上の何かが感じられた。容貌は海狼に似ていたが、リィルはそこに、儚くなった奥方の面影をつい、探してしまう。
「息子にとっても、初めての母と呼ぶ人だからな」海狼は言った。「よかろう。今日の所は、お前に免じてそういう事で済ませよう。だが、イルガス、この方が今日からお前の母君だという事を忘れず、礼を尽くすように」
 少年は、怯えたように小さく頷いた。
 海狼はリィルに共に席に着くよう示し、その後で皆も座った。
 食事が始まると同時に、エルドと海狼は次の漁について話し始めた。
 北上してきた海豚を入り江に追い込む準備はほぼ整った事、鯱が回遊して来ている事、鯨影を見た事――
「鯨影だと、大きさは」
 海狼が興味を示した。
「結構、あったそうです。恐らくは――」
 鯨の種類をエルドは口にしたが、それはリィルには理解できなかった。初めて聞く名だった。
「はぐれか。鰊を追うにしては、早いな。出来れば狩りたいものだ」
「そう仰言ると思っていました」
 エルドがにやりと笑った。「監視を続けさせておりますので、先にそちらへ船を回しましょう。今回の一番銛は、戴きますよ」
「そういう訳にはいかんな。一番銛を(のが)したとあっては、海狼の名折れだ」
「義姉上への最初の贈り物が鯨の心臓ですか」エルドは破顔した。「それ以上の物は、確かにありませんな。しかし、私も負けてばかりはいられませんよ。いつまでも二番手、三番手ばかりでは、海狼の弟としては不甲斐ない。義姉上の前だからと言って、格好をつけないで戴きたい」
 戦士が捕鯨を楽しむ事は、リィルもあの島で知っていた。屈強な男達を虜にする鯨。この兄弟も楽しげだった。
「全く、男ってば、いつだって海豚の追い込み漁よりも鯨や鯱なのね。何日も掛けて追い込んでくるのは同じなのに」
「いや、そういう訳ではなくてだね」エルドが答えた。「鯨に捨てる所なし、だろう。しかも、龍涎香(りゅうぜんこう)が見付かれば(おん)の字。海豚の追い込み漁は女子供にも出来る事だが、収入にはならない。鯱や鯨は危険を冒してでも、見返りの大きさを考えると、較べ物にならないだろう」
「そういうことにしておきましょう」ソエルはエルドの言葉を一蹴した。「わたしは兄さまが一番銛だと思いますけどね」
「お前は兄上贔屓だからな」エルドは溜息混じりに言った。「とは言っても、勇魚(いさな)の一番銛はいつだって、兄上の物なんですからねえ。どれほど必死になっても、誰も兄上には勝てない。それが、族長の矜持、というものなのでしょうか」
 エルドは勇魚、という古い言葉を使った。
「私の船は脚が速い。それに、私に言わせれば、皆は功を焦りすぎて外しているな」
「余裕ですね」
 エルドは笑った。
「しかし、勇魚の解体が終わっても、入り江が清浄にならない事には海豚の追い込みは出来ないな」杯を手に、海狼は言った。「今年はイルガスにも参加させるつもりだが」
 瞬間、少年の顔が明るくなったようにリィルには感ぜられた。
「まだ、無理でございます」すぐさまマイアが言った。「漁はまだ、イルガスさまには早うございましょう。しかも、追い込み漁は荒いですし――」
「他の子供だって五歳で追い込み漁に参加するわ」不機嫌そうにソエルが言った。「族長の長子が参加しないのは、よくないわ。それに、子供は海豚を殺すわけでないし、あれを荒いと言うなら、鯨漁(いさなとり)はどうなるの」
「でも、あの光景は、イルガスさまには、いささか刺激が強すぎるのではないかと」
 マイアも負けてはいなかった。
「あなたは魚の水揚げすら、見せなかったのですものね。でも、この島で産まれ育ったからには、男の子でも女の子でも五歳から漁の手伝いをさせるのがならわしでしょう。そんなことでは、兄さまの後継ぎとして問題ありとみなされてしまうわ」
 マイアの手が、胸の前で握り締められ、わなわなと震えた。「イルガスさまはただ一人のお子でいらっしゃいます。それは、誰にも変えようない事実でございます」
「今では新しい奥方がいらっしゃるのですもの。その子に継がせる事も、可能だわ」
 刹那、海狼が音を立てて杯を置いた。
 二人は、はっとしたように口を閉ざし、エルドも食事の手を止めた。
「いい加減にしろ」
 そう言い捨てると、海狼は席を立って足音高く、食堂を出て行った。
「お待ちください」
 慌ててリィルは立ち上がり、その後を追おうとした。だが、ソエルに腕を摑まれた。
「兄さまがあんな風に振る舞われている時には、何を言っても無駄よ」
 あなたたちが、その原因を作ったというのに――
 その言葉を呑み込み、腕を振り払った。そして、海狼を追った。
「お待ちください、ベルクリフさま」
 大股で歩く海狼に追いついたのは、外へと出る内扉に手を掛けるところだった。ゆっくりと振り向いたその顔は、無表情だった。だが、直ぐに溜息を()いて肩の力を抜いた。
「一族としての最初の食事を、台無しにしてしまったな。済まない」
「そのようなこと、どうでもよろしいのです」リィルは言った。本心だった。「でも、どうかお鎮まりください。マイアもイルガスさまも、あなたを恐れていらっしゃいます」
「あの二人は、いつでも私を恐れている」硬い表情で海狼は言った。「今に始まった事ではない」
「今までは、それでもよかったかもしれません。でも、イルガスさまの将来のことを、もっと真剣にお考えになるべきです。いずれは、あなたの後を継がれる方ですのに」

はそのような器ではない。族長には向かん」
 自分の子だと言うのに、全く興味なさげな様子に、リィルは愕いた。
「そう断言なさるには、まだ早すぎると存じます」
 リィルの強い言葉に、海狼は愕いたように、目を(しばたた)かせた。
「まだ、あの方は五歳でいらっしゃいます。そうご判断なさるには、早すぎます。なぜ、あなたさまもソエルさまも、イルガスさまをそのようにご覧になるのでしょう」
「先程の話を聞いたであろう」海狼は冷たく言った。「あれはまだ、一度も魚の水揚げすらも見てはいない。海神の民たるもの、そこから糧を得ている以上、産まれた時より共にある自分の世界を目にして学ぶものだ。だが、マイアはあれがそういった場に赴くのを拒む」
「では、わたくしがお連れするのはお許しいただけますか」
 虚を突かれたような顔で、海狼はリィルを見た。
「何を馬鹿な――」
「わたくしは本気です。イルガスさまは、必ずや、あなたさまの立派な後継者になられます」
 少年の海狼に良く似た聡明そうな青い目、そして、その顔に現れた一瞬の表情を信じたかった。
「そう思うのは勝手だが」海狼はリィルから目を逸らせた。「勇魚(いさな)の解体作業というのは、初めて見る者にはかなり、

ぞ。無法者で鳴らした大の男でさえも、初めてだと途中で耐えられなくなる者もいるくらいだ」
 海狼は探るような眼でリィルを見た。だが、リィルはそれを受け止めた。
「でも、あなたは、それを指揮なさるのでしょう」
 リィルは食い下がった。
「族長だからな」
 海狼は肩を竦めた。
「島の女性はいらっしゃるのですか」
「肉の分配や保存食作りがあるからな」
「では、わたくしにも、あなたのお仕事を拝見させてください。そして、イルガスさまも、お父上のなさっていることを、ご覧になるべきかと存じます。それまでに、わたくしも、あなたの妻として恥ずかしくないよう、少しでも、慣れておくようにいたします」
「――イルゴール殿の島で獲れる鯨とは、訳が違うぞ」
 困ったような顔で言う海狼の言葉の意味が、リィルには良く分からなかった。鯨は鯨ではないのだろうか。
「あなたが一番銛を打たれた鯨を、イルガスさまに見ていただいてもよろしいでしょうか。最初はそこからでも、よろしいでしょうか」
 じっと、青い目がリィルを見つめた。

がマイアから離れるかな」
「養育係よりも、父親を選ぶ歳ですわ」
 リィルは悪戯盛りであったイルゴールの息子達を思い出し、微笑んだ。あの二人を止めらる者など、いなかった。
 海狼の目が、大きく見開かれた。そして、ゆっくりと笑みがその顔に広がった。
「お前は、思ったよりも強い女だな。だが、自分の本当の子でもないのに、何故(なにゆえ)、それ程までに一生懸命になれるのだ。お前が子を持てば、今の状況ではその子が私の後を継ぐ可能性が高い。我々の法では、それが女であったとしてもだ」
「それは――」リィルは俯いた。本当の事は、言えない。「それは、多分、わたくしには家族がいなかったからでしょう。両親のことも、今では何も憶えてはおりませんもの。母君のいらっしゃらないイルガスさまに、本当の母君なら、そうされたであろうことを、して差し上げたいと思うのは、おかしなことでしょうか」
 それもまた、真実であった。
「本当の母親なら、捨て置くだろう」
 吐き捨てるような言葉に、リィルはどきりとした。
「北海の者に殺られたのか、家族は」
 静かな声だった。
「そう思います」
 暫しの沈黙の(のち)、重苦しくなった空気を振り払うように海狼が口を開いた。
「良かろう。やってみるが良い。ソエルでさえ出来なかった事だが、あれは短期で口も悪い。お前の遣り方で、やってみるが良い」
「ありがとう存じます」
 つい、弾んだ声になったリィルの顎に、海狼は手を伸ばした。
「お前は、まるで海のようだな。実に、面白い。それに、何故(なぜ)だろうか、その目に見つめられると、心が穏やかになる。やはり、お前は海神の娘なのだろう」と、真顔になった。「家族ならば、ここにいる。まだ、始まったばかりの家族だがな」
 そう言い残して、海狼は出て行った。
「兄上の癇癪を鎮めて下さるとは」
 突然、エルドの声がした。愕いて振り向くと、腕を組んで笑みを浮かべたエルドがいた。
「いつから、いらしたのですか」
「つい、今し方ですよ」
 そう言うとエルドはリィルの傍らを擦り抜け、先程海狼の出て行った内扉に手を掛けた。「心配はご無用。少し、お声が聞えただけですから。新婚の御二人の邪魔をする程、野暮ではありませんよ。尤も、完全にお互いの事しか目に入っていらっしゃらないようでしたが」エルドは笑ったが、リィルは恥ずかしくなった。「しかし、あのようにお話しになる兄上は初めてです。余程、貴女に惚れ込んでいらっしゃると見える」
 と、悪戯っぽく笑った。「いっその事、そのまま尻に敷いて下さると助かるのですが。女性が強い方が家庭円満で、男は安心幸福でいられると申しますから」
 戸惑うリィルを置いて、エルドは笑いながら出て行った。


 獲物の解体に慣れる、とは言ったものの、何をどうすれば良いのか、リィルにはっきりとした目当てがある訳ではなかった。そこで、まずは族長家の厨房へ向かった。今夜からの祝宴の準備をしているはずだった。
 食事の後片付けをしていた娘に、毎日の食事の支度を見せて貰いたい、と言った。娘は愕いた様子で、厨房を仕切っているらしい年嵩の女を連れて来た。
「裏は奥方さまのいらっしゃる場所ではございません」
 開口一番、体格の良い女は怒ったように言った。
「仕事の邪魔をする気はありません。手を止めさせてしまったのなら、謝ります」女が怯んだような顔になった。「ただ、獲物の処理や調理をしているところを見せていただきたいのです。そして、できれば教えていただけると、うれしいのですが」
「とんでもございません」
 女は腰に手を当てて、叱るように言った。「奥方さま手ずから料理をなさるなど、もっての他でございます。そのような事、族長に知れましたら、どのようなお叱りを受けることになりますか――」
「もうすぐ鯨漁(いさなとり)が始まるようなのです」鯨漁、の言葉に女の顔が輝いた。「海へ出る族長に、航海用の麵麭を焼いて差し上げることはできないでしょうか。獲物を料理して差し上げることはできないでしょうか」
「わたしも海へ出る良人や息子のために堅焼き麵麭を焼きはしますが――奥方さまがなさるなど、わたしは存じません」
「それでしたら気持ちは、わかっていただけるのでしょう」
「でも、前の奥方さまは一度もそのような事はなさいませんでしたし、わたしが以前おりましたところでも、奥方さまは厨房での食材の始末や献立について口を出されることはあっても、調理に関心を持たれたり、ましてや、ご自分で何かをお作りになることはございませんでした。それに、処理など」
「家族の無事を祈って航海用の麵麭を焼く思いは、あなたもわたくしも、変わらないと思います」リィルは食い下がり、女の顔に躊躇いが浮かんだ。「獲物の処理を見せていただくことについては、族長の許可をいただいてあります。でも、厨房はあなたの領分ですから、わたくしは、あなたに従います」
 決して、料理人の領域を侵すつもりはない事を伝えた。何しろ、それに関しては全くの門外漢であり、権限を使う術も知らなかった。知っていたとしても、それを振りかざすつもりもなかった。
「今度の鯨漁には、ぜひ、持って行っていただきたいのです」
 何日も掛ける漁に臨む者の無事を祈る気持ちに、差があろうはずがない。
 確かに、前の奥方は身体が弱かったというので、したくともその準備が出来なかったのかもしれない。エルドの出産によって、(さき)の族長の奥方――兄弟の母親は早くに亡くなっていたのだ。ソエルは、そのような中で育ったので、仕方のない事なのだろう。海狼が奥方を娶るまで、族長家に女主人はいなかったのだから。
「わたくしは、族長の母君がどのようになされていたのかは存じませんが、もし、今、私がお願いしたことで、なされていらっしゃったことがありましたら、わたくしに教えていただけますか」
「――そういうことでしたら、仕方がございません」女は溜息を吐いた。「わたしの方から、誰かその時分の事を知っている者に訊いておきましょう」
「では、お願いします」リィルはほっとした。「たとえ、前例はなくても、その気になりましたら、お願いします」
 リィルは衷心より、そう言った。


 結婚の祝宴は三日間、続いた。
 大広間で、リィルは海狼と並んで二人、高座に着き、その直ぐ下には同じ日に儀式を行った者達がいた。人々が集い、次から次へと二人に祝いの言葉を述べた。全島民が訪うのだと、海狼は言った。
「民の喜びは私の喜び、私の喜びは民の喜びでもある。族長とは、部族の父親のような存在だ」
 高い位置から人々を見渡す事に、リィルは違和感を覚えた。自分は場違いな所にいるのではないかとの思いが、拭えなかった。だが、海狼にはそれが自然な事なのだ。機嫌良く、祝辞を述べる一人一人に軽く杯を上げているばかりであった。産まれながらに、人の上に立つ事を約されていた人なのだから、当然なのだろう。
 人々には、自分も下の席の花嫁達と同じく、幸せに輝いているように見えるのだろうかと、微笑みながらリィルは思った。
 二人の前には皿が一つ置かれ、食べ物も一度に一つだけだ。杯も一つだけ。食物や酒を二人で分け合う事で、如何に厳しい状況にあろうとも、共に全てを分かち合い生きて行く事を意味するのだと、海狼は説明した。他の新婚夫婦の卓も、そのように皿が並べられていた。時々、海狼は麵麭などを少しちぎってはリィルの口に運んだ。互いにそうして食べさせ合うのも同じ意味を持つと言った。そうされれば、同じ事を相手にもしなくてはならない。恥ずかしくはあったが、リィルが差し出す麵麭を、海狼はしかつめらしい顔をしながらも、目だけは笑って受け取った。下の席では、友人達から互いに食べさせあうよう囃し立てる姿も見られた。ここでは、それは祝宴での楽しみの一つでもあるのだろう。
 療法師達もやって来た。その中に、見習いの印である生成りの衣に身を包んだローアンの姿があった。あの強い目の光は未だに取り戻してはいなかったが、それでも、他の療法師に馴染んでいる姿にリィルはほっとした。
 月がふた巡りする間に、自分の身が大きく変わった事にリィルは戸惑っていた。皆に嘲られる奴隷から、他島の族長に見染められてその奥方へ――神々は、何という悪戯な事を為されるのだろうかと、思わずにはいられなかった。
 夢ではないかと、何度も疑った。
 イルゴールの娘を差し置いて、なぜ、自分が海狼の気を引いたのかも分からなかった。族長同士の繋がりは、大事なのではないだろうか。婚姻とまでは行かなくとも、イルゴールの家には、他の族長家からの養い子がいた事もあった。だが、ここではそのような者がいた事も、里子に出た者すらもいないようだった。誰もが奴隷の血を引き、海狼ですらそうである事を、知られぬようにする為なのだろうかと、リィルは思った。
 隣に座すのは、未だに神のように輝かしい人だった。それは見た目だけではない。堂々としたその物腰であり、内側から滲み出るものでもあった。
 その人が、自分を解放してこの地に導く為に、族長同士とは言いながらも年長者と交渉をしてくれたのだ。その代償を考えると、恐ろしくて身体が震えた。
 龍涎香を一年分、とソエルが言った。
 リィルが到着して直ぐ、それが早船で届けられたという。
 どれ程、龍涎香が貴重な物であるのかを知らぬリィルではなかった。
 あの島の一年分など。この島で採れる量や、これから長く収入になるリィルの織物に較べれば大した事はない、というのがソエルの意見であったが、そう簡単に割り切れるものではなかった。今年の部族の収入には大きく響いてくるはずだ。損失分をどうするのだろうかと思ったが、それをソエルにも海狼にも訊ねるのは憚られた。予想が当たっている事が、また、恐ろしくもあったからだ。
 竪琴を持った者が進み出て、二人を称える詩を歌った。戦士のように武器を携えてはいたが、詩人(バルド)だった。その詩をリィルは面映ゆい思いで聞き、微笑み返すと、次に詩人は祝いの詩を朗誦し始めた。
「あれは二年ほど前、交易島でエルドが拾って来た詩人だ」海狼がリィルの耳許で言った。「舌鋒が鋭すぎて、あちらこちらで追われていたそうだ。だが、ここではそれを振るう機会もなく、大人しくやっている。冬の炉辺語りには欠かせない人気者だ。様々な土地を渡り歩いて来ただけに、歌も詩も多く知っている。楽器も他にも扱えるし、教えもしてくれるだろう。興味があるなら、いつでも呼んで構わない」
 杯には惜しげもなく蜜酒が注がれ、卓上から料理が消える事はなかった。鶏だけでなく、海鳥やその卵も並び、この祝宴の為だけに海豹が狩られ、羊が何頭も屠られていた。その光景を見る勇気は持てなかったが、集められた羊や作業する人々の声は聞えていた。それはあの島でも馴染みのものだったが、新鮮な羊肉は、この島では族長であってさえも、秋の選別以外では殆ど口にする事のない御馳走だという事を、リィルは既に帳簿から読み取っていた。塩漬けや干し肉以外の羊肉は、何らかの祝い事や祭事ででもなければ供されない物だ。全て小麦粉で出来た麵麭も、そのようだった。生地に蜂蜜が練り込まれて焼かれたその麵麭は仄かに甘く、リィルが初めて口にする物だった。新しい麵麭が運ばれて来ると、子供達は歓声を上げて大喜びだった。
「族長家の祝いは、祭りのようなものだ」詩などそっちのけで白い麵麭を手にする幼い者達に目を細め、海狼は言った。「部族全員で、祝う。我々は、皆にとり海の、大地の恵みをもたらす存在なのだ」
 その意味は、リィルには良く分からなかった。
「私は羊飼いにして漁師、という事だ」
 朗誦し終え、拝礼する詩人に大きく頷き、海狼は言った。「私が傷付き、病む時には海や大地も病む。それ故に、その時には次の者に族長の座を譲る事になる」
 他の部族でも同様のはずだ、と付け加えた。
 傷付き、病んだ海狼を想像する事など、出来なかった。いつかそういう日が来るのかもしれないと思うと、リィルは恐ろしかった。何物も、この人を損なう事など出来ないのだと、信じていたかった。
 リィルの恐れを察したのか、椅子の肘掛けに置いたその手を、海狼の大きな手が安心させるかのように包んだ。


 宴が滞りなく済んだ数日後、鯨漁の準備が整ったとの報せが夕餉の席で為された。
「出航は、明日に決まった」
「そんなに急に、ですか」
 リィルは愕いた。せめて二日前までには報されるものと思っていた。
「これ以上は待てないな。最初に鯨影が見えてから、日数が経っている」海狼はリィルを見た。「戻るのは数日後になるだろう。銛を打ちながら海獣の入り江へ追い込む」
「仕留めるのは、入り江に入った所で、後は曳航して洞窟の解体場へと運びます」
 エルドが説明した。「そこで皮を剥いで肉の分配を決めます。鯨油処理や脳油の汲み出しもしますから、大騒ぎですよ。島の者が総出で肉を受け取りに来ますから、正直、兄上は大変です。割り当てを受け取っても、中々、戻らない者もありますし、子供はまとわり付くしで」
「今回は鉄砧(かなしき)だからな、肉の量は大した事はないが、脂は極上だ。それに(はらわた)に龍涎香が見つかる事がある。それを見たい者が多いからな。胎児(はらご)がいれば縁起が良いので、それはそれで歓迎される」
「そんな話、あまりリィルお義姉さまになさるのは、お止めになったほうがよろしいかと思いますけど、兄さま」ソエルが言った。「しかも、食事中ですのに。全く、男の人は無神経なんだから」
「わたくしのことでしたら、ご心配なく」
 リィルは居心地悪げな海狼に向かって、微笑んだ。正直なところ、少々、胸の辺りが嫌な感じなのは事実だった。だが、慣れなくては、と思った。
「戻りには、女戦士達が皆に合図するだろう。見物する者も多い」
「仕留めるのを見にね」エルドは笑った。「こちとら生命賭けだというのに、物見遊山気分なんですから。(とど)

は一番銛を打った者に権利があります。つまりは大物は兄上の仕事ですか。義姉上も、是非、御覧になると宜しいです。我等が自慢の族長の勇姿を、とくと御覧あれ」
 その言葉に、思わずリィルは笑った。
「ふざけるな」呆れたように海狼が言った。「

はそれ程、愉快な見世物でもないだろう」
「見られる方にとっては、ですがね。そう仰言る兄上が、子供の頃、父上の止め

を見に連れて行って下さったのではないですか」
「リィルお義姉さまには無理じゃないかしら。とてもお優しくていらっしゃるのですもの。あんな壮絶な光景をご覧になったら、気を失っておしまいになるかもしれませんわ」
 ソエルが冷たく言った。
「お気遣い、恐れ入ります、ソエルさま」自分は嫌われているのだろうかと思いながら、リィルは言った。最初は巧くやっていけていたはずだった。だが、この娘を悪く思う気持ちは不思議と生まれてなかった。「でも、ぜひとも見とうございます」
「気絶でもなされたら、かえって兄さまの恥になることをお忘れなく」
 リィルは何も言い返せなかった。何を言おうとも、冷たく返されるのは目に見えていた。それを、海狼は察したようだった。
「ソエル、失礼にも程がある」ぴしゃりと海狼が言った。「リィルはお前と然程(さほど)、年齢が変わらぬとは言っても、年長である事には変わりがない。立場も違う。族長の妻に敬意を払えぬ者が身内にいる事の方が恥だと、私には思えるが」
 それは余りにも言い過ぎではないかと、リィルは海狼の腕に触れた。青い目が向けられたので、それ以上は口にしない方が良い、と首を振った。
「我々はどうやら、お前を甘やかし過ぎたようだ」海狼はリィルを無視して続けた。「それ程、私の妻が気に食わぬのなら、いっその事、お前も家庭を持って独立するが良かろう」
「わたしを、そんなにもここから追い出したいのですか」その声は震えていた。「ただの主婦になれ、とおっしゃるのですね」
「それ以外に何が残されている。女主人としてならば、お前は優秀だ。いつ嫁に出しても恥ずかしくはない。だが、私の妻に敬意を払えぬのなら、ここにいても仕方あるまい。いっその事、島を離れるのも良かろう」
「兄さま」
「ベルクリフさま」
 二人は同時に声を上げた。だが、それには構わず海狼は続けた。
「他の族長の姻戚で結婚相手を探している所は、幾らでもある。お前が行儀良く振る舞えないようならば、他の土地で生活するのも良かろう」
 ソエルはリィルを睨み付けた。
「大人しげな顔をして、もう兄さまを手玉にとることに成功したってわけね」
「ソエルっ」
 海狼は杯を卓に叩き付けるように置き、大きな声を上げた。リィルはびくりとして海狼の腕から手を離した。
「兄さまは、完全にあなたに支配されておしまいのようね。次は誰。エルドなの。エルガドルなの。それとも、他の誰かをその手管で虜にしようっていうのかしら。わたしを追い出そうったっても、そうはいくものですか。あなたのような(ひと)の思い通りにはいきませんからね」
「良い加減にしないかっ」海狼は怒鳴った。「部屋に戻れ」
 乱暴に立ち上がり、ソエルはリィルに冷たい一瞥をくれると、ふいと食堂を出て行った。諍いがあったとはいえ、あのように剥き出しの憎悪をぶつけられる理由が分からなかった。自分の何がそうさせたのかと、リィルは耐えられなくなって席を立とうとした。だが、海狼に腕を摑まれた。そして、無理矢理、座らされた。
「放っておけ、まだ食事の最中だ」
「そうですよ、義姉上」エルドがのんびりと言って、リィルの杯に蜜酒を注いだ。「ソエルの癇癪やら八つ当たりやらに一々付き合っていては、こちらの身が持ちませんよ。まあ、兄上が族長風を吹かせられるのは、滅多にない事ではありますが」
「でも――」
 明日には、この兄弟は暫く戻らぬ漁へと出て行ってしまうというのに、雰囲気の悪いままに今日を終わらせたくはなかった。
「大丈夫、あんなのは日常ですから」
 エルドは笑った。「しかし、兄上も思い切ったことを仰言いましたね。他の部族へ嫁にやるなど、そんな気はさらさらないでしょうに」
「あれは夫殺しをやりかねんからな。気性を良く知る男でなくては、駄目だ。あれで少しは大人しくなると良いのだが」
「――確かに」エルドは顎をのけ反らせて笑った。「あいつを手懐(てなず)けられる男は他所にはおりますまい。何しろ、兄上のような方を当たり前に側で見て来たのですから」と、リィルの方を向いた。「ああ、お気になさらず。ただ、兄上は、そんじょそこらの男とは別格だ、という事です」
「族長方は、皆様そうです」
 集会での事を思い出してリィルは言った。

、私は族長の器ではない」大きな笑みがエルドの顔に広がった。「その地位に相応しいから族長になるのか、地位が人をそれに相応しいように育てるのかは、浅学の徒である私には分かり兼ねますが、私はこの気楽な身分が気に入っていますからね――まあ、なれと言われても御免ですが」
「しかし、お前もソエルも、もう身を固めても良い頃だ」
「ソエルは心配ないでしょう。後は待つだけですし。私はお堅い男ではありませんので、その内に気に入った娘を兄上に御紹介申し上げる、という事で御勘弁戴けると有り難いのですが」
 エルドは微笑みながら言った。普段は明るいその笑みは、優しかった。心当たりがあるのだろうと、リィルは思った。
「それも、良かろう」
 海狼も微笑み、杯を口に運んだ。「全く、気楽なものだな」
「唯論」とエルドは身を乗り出した。「唯論、義姉上のような方であれば、直ぐにでも御手(みて)を頂戴したいとは思いますが」
「面白くもない冗談だな」
 そう言いながらも、海狼は笑っていた。「ソエルの言葉を気にする必要はない。常に注意はしているのだが、

はいつも考えなしで衝動で

を言う。深い意味はない」そして、軽く息を吐いた。「弟は気楽で、従妹は衝動的。もう少し、大人になって欲しいものだがな」
「兄上が出来すぎなんです」エルドが負けじと言った。「私の目には大人のようでしたよ、いつでも。父上とどちらが年上なんだか、分からない位にね。だから、義姉上のような方が運命なのかもしれませんが」
「どういう意味だ」
 さっぱりと分からない、と言いたげに眉を寄せ、海狼は問うた。
「自分を甘やかしてくれる人、ですよ」
 顎髭を撫でながらエルドは少し意地悪げに言った。
 リィルと海狼は互いに顔を見合わせた。
「お互いにね。そして、互いに全てを無条件で受け入れて護りたい人でもある」エルドは言った。「本当に、お羨ましい限りです。父上と母上も、そんな風だったのでしょうか」
 そうだ、この人は母親を知らないのだと、リィルは思い出した。
「さあな、私も子供だったから、良くは理解出来なかったな。ただ、母上はいつでも、運命は一目で分かるものなのだと仰言っておられた」
「父上も、そうでしたね。では、兄上は如何でしたか」
「出会った者でなくては分からんだろうな」海狼は肩を竦めた。「分かる、と言うよりは、感じる、と言った方がしっくりとくるだろう。だが、それは、人によって異なるものなのかもしれない」
 海狼はリィルの事を運命だと言う。だが、その意味は未だ、理解できずにいた。もし、リィルが海狼に運命を感じたのだとすれば、それは、あの丘での瞬間であっただろう。青い目に捉えられてしまった、あの時。いかに快活であろうとエルドでは、そうならなかっただろう。穏やかであろうとエルガドルでもない。他の誰でもない、海狼でしか有り得なかった。名も身分も関係なく、海狼だったからこそ、忘れられなかったのだ。
 リィルは海狼に対し、未だに畏れにも似た感情を(いだ)いていた。神々の一人のように思った、あの時のままだった。
 この人が自分の良人なのだと、リィルは信じる事が出来ずにいた。


 朝まだきだというのに、洞窟内の入り江は人々でごった返していた。
 食料や酒の樽の他に、漁に使用される様々な道具類が船に積み込まれてた。それは、リィルが目にした事もない、長く大きな銛や

だった。一体、どれ程の大きさの鯨を獲ろうとしているのだろうかと、リィルは不思議に思った。得物に括り付けられた綱の意味も、それがどのくらいの長さがあるのかも、見当が付かなかった。
「奥方さま、族長はあちらです」
 リィルの姿を認めた者が、声を掛けてくれた。まだ、そう呼ばれる事に慣れなかったが、軽く頭を下げると急いで示された方へと向かった。
 出漁の前で忙しいのは分かっていた。
 高くそそり立つ狼を象った舳先を見つけると、その下に海狼はいた。エルガドルに何やら指示を出していた。その周りでは、女達が家族に堅焼き麵麭の包みを渡す姿があった。
 会話が一段落するのを待つ間、リィルは海狼を眺めた。リィルの贈った、仕立て上がったばかりの深い緑色の胴着を身に着けている。贅沢品であったので、晴れ着に、と思っていたものを、海狼はこの漁に着たのだ。その辺りは頓着をしない人であった。おかしな引き攣れもなく、肩幅や丈も丁度良いようだった。思ったよりも似合っていたので、ほっとした。
「ベルクリフさま」
 エルガドルが海狼の側を離れると、リィルは声を掛けた。
「どうした、見送りに来たのか」
 海狼は愕いたような顔をした。エルガドルが振り向き、笑みを浮かべてリィルに軽く礼をした。
「わたくしに黙って出て行かれるとは、思いませんでした」
 リィルは言った。この大事な日に、海狼はリィルを起こしもせずに寝床を出たのだ。何があろうと、それは、余りな事に思えた。
「ああ――」
 海狼は言い淀んだ。ばつが悪そうなその顔に、リィルは頬を染めた。
「これを、どうぞお持ちください」
 気まずさを振り払うように、リィルは包みを差し出した。「初めて作ったものですから、おいしくはないと思いますが、よろしければどうぞ。ひどければ、魚の餌にでもしてください」
 更に愕いたような顔に海狼はなった。その顔を見る為にならば、苦労も何程の物でもなかった。
 エルガドルが顎に手をやり、周りの男達もにやにやと二人を見ている事に気付き、リィルは急に恥ずかしくなって俯いた。
「堅麵麭を焼いてくれたのか、私に」
 ゆっくりと、海狼は包みを受け取った。「まだ、温かいな」
「ああ、兄上、お羨ましい」隣の船から、エルドの声が降って来た。見上げると、舳先から身を乗り出して二人を覗き込んでいた。「義姉上、私の分は御座いませんか。兄上は男っぷりの上がる胴着だけでなく、堅焼き麵麭まで戴けるとは、妬ましい限りです」
「申し訳ありません。これだけしか間に合わなくて――」
 本来ならば、エルドの分も用意するべきなのは分かっていた。だが、実は、まともに作れたのはこれだけだとは言えず、リィルは赤くなって俯いた。
「お前は黙って準備を進めろ、エルド。悔しければ、早く相手を見つける事だな」
 海狼は珍しく軽口で弟に応え、リィルに向き直った。
「母も、このようにして父に堅焼き麵麭を渡していた」海狼は微笑んだ。「ならば、私も父に倣うとしよう」
 いきなり、海狼はリィルの腰に手を回し、ぐいと引き寄せた。何の言葉も発する間もなく、海狼はリィルに唇付けた。蜜酒の味がした。
「お前に捧げる為にも、必ず一番銛は取って来よう」
「決して、無理はなさらないでください。それよりも、あなたの無事なご帰還の方が、わたくしには大事なのです」
「母と同じ事を言うのだな」海狼は高らかに笑った。「女とは、そういうものなのか」
「女房って奴は、そんなもんですよ。割り当てが良くなかったら帰っても、寝床にも入れてもらえやしない」
 誰かが笑った。
「あの細君なら、やりかねない」
 皆がそう言って笑った。出漁前で、一同が興奮状態にあるのが分かった。男達だけでなく、女も子供も、その熱気の中にいた。誰もが、危険だとは思ってもいないようだった。
「では、後の事は頼んだ。数日の事だが、お前にとっては初めての事だからな。大丈夫だ、必ず、一番銛を取って戻って来る」
 最後の言葉を、殊に強く海狼は言った。
「イルガスさまと、お迎えいたします」
 その言葉に、海狼は微笑んだ。


 鯨漁(いさなとり)に男達が出て行って四日後、峡谷にあの女戦士達の独特な声が響き渡った時、リィルはサリアと共に中庭で糸を紡いでいた。
「奥方さま」ミルドが珍しく、勢い込んでやって来た。「入り江に勇魚が追い込まれます」
 リィルの手から(つむ)が落ちた。
「すぐにイルガスさまをお連れしなくては」
 混乱した頭で、リィルは言った。
「でも、マイアがおりますが」
「マイアが一緒でもかまわないでしょう。父君をお迎えするのに、否も応もありませんもの。お連れしなくては」
「奥方さまのお手をわずらわせるなど、とんでもございません」ミルドが声を上げた。「わたくしが、お連れいたします。奥方さまはすぐに、迎え口までご案内させますわ」
 ミルドは、丁度通りかかった娘に、リィルを託した。
「わたしがご案内できるのは、洞窟の入り口までです」娘は言った。「そこからは、女戦士の指示に従ってください。貴婦人の断崖と呼ばれる、奥方さまと一族の方の迎え口がございます。皆は岬から迎えますが、そこは特別な通路になっております」
 外に出ると、集落の人々が走り出ていた。皆、同じ方へ向かっている。そこが、鯨を追い詰める海獣の入り江なのだろう。放牧の羊達がのんびりと草を食んでいたが、いつものように羊飼いの姿はない。愕いた事に、この島では羊は部族全体の所有物であり、放し飼いにされていた。禁足地もなく、草を食みに崖下の浜まで羊が降りている事もあった。羊飼いの仕事は、新たに生まれた子羊の耳を切って印をつける事、毛刈り、そして冬の前の選別の他は主に、羊の異変を犬が報せに来た時に動く程度であり、その為に集落から離れた所に点在して住むのだと教わった。
 その、小型の牧羊犬はと言えば、今は羊の事はそっちのけで、人々の後を追っていた。
 輝く兜の両側に

の翼を飾った女戦士が、地面に開いた穴のところに立っていた。髪は、女性としては短かったが、編んで背の中程まであった。
「こちらでございます」
 低く抑えてはいたが、その声は紛れもなく女性のものだった。そして、兜の目覆いの為に顔も良く見えなかったが若いのは分かった。だが、槍を手に長剣と小太刀を佩いた姿は、この女性が戦士である事を示していた。
 リィルはサリアが自分と共にいる事に安堵した。初めて間近に見る女戦士への畏怖の気持ちと、漁への不安が強かった。誰か、知った者に側にいて欲しいと思った。
 急な階段と通路は狭かった。その内部を、先導の女戦士は角灯を手に、少し足早に進んで行く。
「足許に、お気を付けください」
 一度だけ、女戦士は振り返ってそう言った。滑り易くはあったが、船着場への道ほど、歩き難くはなかった。
 今までに一体、何人の族長の妻達がこの道を通ったのだろうか。
 良人の、息子の無事を願い、また、これから行われるであろう最後の格闘に思いを馳せながら、ここを通って行ったのだろうか。
 海狼の母親も。
 (さき)の奥方も。
 この地下道を、女戦士に案内されながら、不安を胸に通って行ったのだろうか。それとも、絶対の自信を持って。
 海狼の先妻を思う時、リィルの胸は苦しくなった。
 美しく、繊細であったという人。「お嬢さま」と呼ばれた人。そして――
 海狼の子を産んだ人。
 そのような人よりも先に、自分が海狼と出会っていたら、どうなっていたのだろうか。健在であったとしたら、どうなっていたのだろうか。詮無い問いだと分かってはいたが、そんな疑問を(いだ)かずにはいられなかった。
 それでも、海狼は自分を運命と呼び、選んでくれたであろうか――
 前方に明かりが見えた。
「こちらが貴婦人の断崖でございます」
 女戦士は歩を緩めた。そして、立ち止まって先を示した。
「お気を付けください、危のうございます」
 リィルはゆっくりと、女戦士の示す方へ歩を進めた。
 そこは、暗がりに慣れた目には(まばゆ)い光に満ちていた。ようやく、外の世界を目に出来るのだ。
 しかし、同時にその場所は、名の通りの絶壁でもあった。数歩踏み出せば、そのまま足を踏み外しかねないような、危険な場所だった。もし、そうなれば、人間など下の岩場に当たって粉々に砕けてしまうだろう。
 眩暈がして、リィルはその場に(うずくま)ってしまった。
 その時、頭上から、一斉に歓声が上がった。先程の人々は、そこにいるのだ。向かいの崖上にも、人々の姿があった。
 眼下に、鯨が血を流しながら船に追われて来るのが、見えた。
 何という大きさだろうか。
 追い詰めてきた船が小さく見える。最長の海狼の乗船と同じくらいの体長だが、幅が違いすぎた。あれが、海狼達の言う勇魚(いさな)鉄砧(かなしき)鯨なのか。
 良く見ると、鯨の体には何本もの銛が刺さり、銛に括り付けられた綱は、空の小船や丸太に繋がれている。
「ご覧ください」女戦士が言った。「空舟などを浮きにして、勇魚が深く潜れないようにしているのです。潜るのに体力を消耗しますので、入り江に追い詰められる頃にはだいぶ、弱っております」
「それでも、まだ、危険なのでしょうか」
 リィルは息を詰めて言った。目を離すことが出来なかった。
「はい、尾鰭の一振りをまともに喰らう危険は、まだあります」そう言いながらも、女戦士の口調には緊張が感じられなかった。何度も、このような光景を見ているからかもしれない。「しかし、わたしどもには族長がいらっしゃいます。あの方の海狼の呼称の謂れを、とくとご覧ください」
 そこには、自分達の頂点に立つ者への畏敬の念と矜持が込められているように、感じられた。
 更に数本の銛が打ち込まれた。綱はなかった。鯨は暴れたが、力尽きかけているのは、リィルの目にも明らかだった。あの巨大な生き物が、殺される。血染めの海で、殺されるのだ。追い詰められて。
 それまで鯨の後ろにいた船が、横に付き始めた。
「いよいよ、止め

です」
 女戦士が興奮を隠しきれない様子で言ったが、リィルの目は、鯨に横付けされた船に釘付けだった。
 最も大きな軍船(いくさぶね)。そして、その帆柱にはためくのは、族長旗。
 一番銛を打った者に止め

の権利があると、エルドは言っていた。
 身長の倍は越えようかという、一きわ長い得物を持った男が舷側に立った。誰かが綱の付いた銛を打った。その綱を手がかりにするように、男は鯨に飛び移った。
 金色の髪、そして、深い緑色の胴着。緑の染料は褪せ易く、濃く染めるのが難しい。それ故に権力と財力の象徴であると、先代の染色小屋の親方から聞いた。その色を着る事が出来る者は限られている。しかも、それを惜しげもなく漁に着る事が出来るのは、この島では唯一人だ。
 海狼だ。
 巨大な鯨体の上を、海狼は他の銛の綱や柄を手掛かりに伝って歩いた。船から、綱が放たれた。やがて、目的の場所に着いたのか、船に何事かを指示するように腕を振った。
 鯨の周囲から、船が離れた。
 海狼と鯨との、一騎打ちだった。
「サリア、サリア」
 リィルは恐ろしくなり、友の名を呼んだ。
「ここにいるわ」
 リィルは震える手で、サリアの衣を握り締めた。「あの方だわ」
「ええ、族長ね」
 サリアの声は冷静だった。それは、リィルには頼もしく感ぜられた。
「いよいよです」
 女戦士が言った。
 鯨の上に仁王立ちになった海狼の手には、

がしっかりと握られていた。腕の長さいっぱいにまでそれを両手で振りかざすと、一気に鯨に突き立てた。そして、その柄をぐいぐいと押し込んで行った。
 

の柄が殆ど見えなくなると、鯨は身を(よじ)って咆哮した――ようにリィルには思われた。だが、実際には何の音もその口からは発せられず、鯨は身を反らせた。大きく開けた口の、歯や舌が見えた。
 その動きにも、海狼は手近な銛の柄を摑む事で乗り切った。
 次の瞬間、鯨の頭部の先端にある潮吹き穴から、血が吹き出た。海狼はそれをまともに浴びて、全身を朱に染めた。
「やった、肺臓を突いた」
 勢い込んで女戦士が言ったが、リィルは身体の震えが止まらなかった。 
 暫くして、もう一度、血潮が上がった。数回、それが繰り返され、海面は真っ赤に染まった。
 やがて、血潮が上がらなくなり、動きを止めた鯨体がゆっくりと横転し始めた。
 危ない、という声さえもが、リィルの喉から出て来なかった。目を閉じる事さえ出来ず、ただ、がくがくと震えながらサリアにしがみ付いていた。心臓が、破裂しそうだった。
 横倒しになった鯨に、船が寄せられた。赤い海面から、海狼が引き上げられるのが見えた。
「ああ…」ようやく、リィルは安堵の溜息を付いた。そして、全身から力が抜けて行くのを感じた。「ご無事だった」
「族長は大丈夫でいらっしゃいます、奥方さま」女戦士が言った。「あの方は、本当に、お強い」
 そこには、若い娘らしい憧憬があった。海狼への、絶対的な信頼があった。
 もし、リィルも海狼を自分の族長として見たならば、何の憂いも恐怖も感じなかったのだろうか。
 だが、海狼は唯の族長ではなかった。再び(まみ)える事が出来るならば、生命を投げ出しても良いとすら思い定めた人だった。
 リィルはサリアに眼をやった。
 だが、サリアはじっと、血に染まった海に眼を向けていた。
「奥方さま、族長をお迎えにいらっしゃいますか」
「ええ」
 リィルはようやくそれだけを言って、立ち上がった。脚が、震えていた。
「ご立派でございました、奥方さまも」
 女戦士はリィルに手を貸して言った。「初めての者は、崖にいる事さえも恐怖に感じて、まともに見てはいられないものですから」
「恐ろしかったのは事実です」取り繕ったところで仕方がないので、リィルは正直に言った。「でも、族長は、わたくしに一番銛を捧げるとおっしゃってくださったのですから、最後まで見届けなくては、あの方に申しわけありませんもの」
「やはり、族長の運命のお方でございます」女戦士は微笑んだ。そう言えば、この、娘の笑みを見るのは初めてだとリィルは思った。「お見かけよりも、気丈でいらっしゃいます。お優しい方だとお聞きしておりましたので、実は少々、心配しておりましたが」
「誰が――」
「皆、そのように申しております」と慌てて「あの、悪い意味ではなく」と付け加えた。
「族長に堅焼き麵麭をお渡しになった事は、もう皆が知っておりますし、今回の漁のお召し物も、奥方さま自らが織られて仕立てられたものと聞き及んでおります」
 確かにそうであったが、ここにはまるで秘密がないように感じられた。堅焼き麵麭は大勢の前で渡したので、皆が知っていてもおかしくはない。だが、胴着の事は、それ程多くの人が知っている事ではなかった。織り始めたのは、婚礼衣装を織り終わった後だった。衣装の仕立ては館の娘に頼んだ為、時間があったからだ。共同の機織り小屋で織り、仕立てを教わった物だ。人数はたかが知れている。
「今、尾鰭に綱を括り付けております。お急ぎにならなくとも、充分に間に合います」
 気がつけば、峡谷に人々の声が谺していた。
 反対側の崖の上で、人々が手を振り、歓声を上げていた。
 海狼への賞賛だ。
 女戦士に支えられて海を見ると、海狼が人々に呼応するように銛を上げていた。一瞬、海狼がリィルの方を見て、銛を更に高く掲げたように思えた。だが、リィルは素直にそれを喜べない自分がいる事に気付き、愕然とした。
 海狼が無事だったのは、嬉しい。
 しかし、胸には何かわだかまるものがあった。
 狩る者と狩られる者。
 その生命のやり取りを眼前にして、やり切れない思いが湧き起こって来た。
 まだ、海は朱に染まっていた。サリアは、じっとそれを見つめている。初めての事に、目が離せないようだった。
「行きましょう、サリア、皆さまをお迎えしなくては」
 族長、とは言えなかった。そしてその名も、言えなかった。


 解体場、呼ばれるその場所は、やはり大きな洞窟だった。既に多くの男達が、水揚げの準備に取り掛かっていた。出漁した者の家族らしき人々は、その邪魔にならぬように隅におり、その他の者達は岩棚から船の帰還を待っていた。
 リィルは族長の妻という事からなのか、女戦士によって家族の最前に案内された。一挙一動を、人々に見られているようで居心地は良くなかったが、これも務めの内なのだろうと諦めた。それに、サリアが側にいてくれた。ソエルの姿を探したが、遠くに横顔が見えただけだった。ソエルは見送りには来なかったのだが、出迎えはするようだった。海狼とエルドのいない食卓の、異様とも言える雰囲気には、正直言うと、もう耐えられそうになかっただけに、兄弟の帰還は喜ばしかった。
「奥方さま」ミルドの声がした。「イルガスさまをお連れいたしました」
 使用人頭の女性に手を引かれ、少年は俯いていた。
「学問所がこの騒ぎで閉じる前にお連れいたしました」ここでは、全ての子供が五歳の夏にそこに通うのだと聞いていた。「後でマイアが血相を変えて来るかも知れませんが、わたくしがおりますので、ご心配には及びません」
 ミルドの言葉は心強かった。礼を述べ、リィルはイルガスの手を取った。
「お父上が、仕留められましたわ。ぜひ、ご覧になってください。とても大きな鯨でした」
「見たのですか」
 少年は愕いたようにリィルを見上げた。初めて聞く、弾んだ声だった。
「はい、お父上が止め

を打たれるところを」出来るだけ平静を装ってリィルは言った。「とても、ご立派でした。次は、ご一緒できるとよろしいですわね」
「はい」
 勢い込んで少年は言ったが、直ぐにその表情は暗くなった。「でも、マイアは許してくれないと思います。父上のようになってはいけない、と言うのです」
 五歳にしては大人に気を遣う少年だと、リィルは思わずにはいられなかった。同じような歳のイルゴールの息子達は、機織り小屋に蟹や鼠などを投げ込んだりしては叱られていたというのに。
「あなたは幼くていらっしゃいますから、マイアは心配しているのでしょう。でも、次の族長になられるのですもの、お父上のなさる事を知っておかなくてはなりませんわ」海狼のようになってはいけない、とはどういう意味なのだろうかと思いながらもリィルは言った。「あなたもいずれは大人になられるのですから、いつまでもマイアが付いているわけにもいきませんもの」
 そう、いずれはこの少年も大人になり、他の族長達と対等に付き合わねばならない時が来るのだ。族長集会に参加し、あの荒々しい人々と交流を持たなくてはならない。その時に必要となるのは、やはり、心身の強さだろう。力の優劣で人を判断する北海の者達の中で、長身瘦軀が特徴的なこの一族の人間が一目置かれる為にも、それは必要な事に思われた。
「あ、父上の船です」
 少年の手を握る力にはっとして、リィルは洞窟の入り口に目を戻した。舳先に狼の彫刻を施した船が、入って来るところだった。そして、海狼の姿が、そこにあった。
 今度はリィルが少年の手を握り返した。
「ご覧ください。あなたのお父上は立派な方です。何を恥じることがございましょう」
「はい、ぼくもそう思います」
 この少年とは、なさぬ仲ではあっても巧くやって行けるのではないかと、思った。目を輝かせて父親の船を見つめている姿は、あの女戦士のように憧憬と矜持に満ちていた。それなのに、何故、マイアはこの子を父親から遠ざけようとするのだろうか。
 やがて船は引き上げられ、リィルはイルガスと共に海狼を迎えに近付いた。
 舷側から飛び降りるや、海狼はリィルに笑いかけた。長めの金髪を編んでいた。やはり、北海の戦士なのだ。
「約束通りの一番銛だ。お前に獲物の心臓を捧げよう」
「無事なお帰り、お待ちしておりました」
 リィルはそう言って膝を沈め、イルガスを自分の前に立たせた。
 海狼の形の良い眉が跳ね上がったが、直ぐに破顔し、無言で息子の髪をくしゃくしゃに掻き回した。
 この人は、本当はやはり、自分の子を愛しているのだと、リィルは思った。
「父上、鯨を見に行ってもよろしいですか」
「ああ、構わん。皆の邪魔にならぬようにな」
「はい」
 少年は顔を輝かせて走り去った。
「まさか、本当に連れて来るとはな」
「お手柄はミルドです。わたくしは頼んだにすぎません」
「だが、良くやった」そう言って海狼はリィルに微笑んだ。「

の方から私に話しかけて来たのは初めてだ」と、口調を変えた。「貴婦人の断崖で見ていただろう。合図をしたが、分かったか」
「はい。それに、あなたが止め

を打たれるところを、見届けました」急にあの時に感じた不安と恐怖がリィルを襲った。「あのように危険なことをなさるなんて、わたくしは――」
 知らず、涙が湧いてきた。
「それが、私の為すべき事だからな」その笑みは、凪の海のように穏やかだった。「だが、折角お前が作ってくれたばかりの胴着がずぶ濡れになってしまった」
「そのようなことは、お気になさらないでください。それよりも、あなたのご無事なお帰りの方が大事です」
 海狼の指が、リィルの涙を拭った。
「兄上、可愛い奥方を泣かせてはなりませんよ」いつの間に近くに来ていたのか、エルドの声がした。海狼と同じように、後ろで髪を編んでいた。「義姉上、只今、戻りました。やはり、兄上には敵いませんでしたが、何とか二番銛は死守しました」
「それで、皆さま、無事にお帰りになられましたか」
「ええ、慣れた者ばかりでしたから。あれ程の――」とエルドは獲物に目をやった。「あれ程の大きさともなりますとね。元より、鯨漁(いさなとり)は一人前の男と認められた者しか参加できませんし、今回は熟練者のみでしたから。それに、割に動きの鈍い奴で運も良かった」
 無闇に勇気を振りかざすのではない事に、リィルは安堵した。
「他の者の心配までされるとは、有り難い事です。皆、喜びましょう。しかし、やはり義姉上の一番の心配は、兄上であらせられる」
 茶化したような言い方ではあったが、エルドの物言いは明るく、嫌な感じはしなかった。
「当たり前だ」まるで弟に見せ付けるかのように、海狼はリィルの腰を引き寄せた。「出港時にも言ったが、口惜しければ、お前も早くそんな娘を見付ける事だな」
 エルドが憮然とした顔になった。だが、それも一瞬の事だった。
「おじ上」
 イルガスの声がした。エルドは瞬間、訳が分からない、という顔をしたが、リィルを見て笑った。
「やりますな、義姉上も」
 エルドもまた、少年の髪をくしゃくしゃにした。「おい、イルガス、お前もやっぱり海神の民だなあ。凄いだろう、お前の父上は」
「はい」
「だが、これから解体に入る。危険な作業もあるから、お前くらいの歳の子は、ここまでだ」
 エルドの言葉に、少年の顔にはありありと失望が浮かんだ。
「さあ、お仕事の邪魔にならないように、参りましょう。わたくしもご一緒いたしますから」
 リィルはイルガスを宥めるように言った。
「はい」
 渋々といった様子で少年は答えた。リィルには母として礼を尽くすように、という海狼の言葉が効いたのかもしれない。
「では、後でな」
 海狼はそう言い、リィルの顔を引き寄せて唇を合わせて来た。潮の香りと味がした。
「おお、目の毒、目の毒」
 エルドがそう言う声が聞えた。
 ようやく海狼がリィルを解放すると、エルドはイルガスに目隠しをして、にやにやと笑っていた。
 顔が赤くなるのを感じながら、リィルはイルガスの手を取った。
「上でお待ちしておりますわ」
「今日は宴で御馳走ですからね。料理人の腕に期待していて下さい」
 エルドのそう言う声を背後に聞きながら、リィルは少年を連れて通路へと向かった。
「邪魔にならないところからなら、解体を見ても大丈夫ですよね」
 イルガスがぼそりと言い、リィルは愕いて足を止めた。
「でも、初めてご覧になるのでしょう」
 少年は赤くなった。「誰にも言わないでもらえますか。特に、マイアには」
「マイアに秘密を持っているのですか」
 リィルは更に愕いた。あの養育係の言いなりに見えた少年が、秘密を持っていたとは。
「はい、本当は、ぼく、何度かここで獲物の解体を見たことがあるんです。ほかの子たちと一緒にいるのを、マイアはあまり許してはくれないから、こっそりと後をつけて、自分の場所を見つけたのです」
「もう、何度もご覧になっているのですか」
「はい、でも、こんなに大きいのは初めてなので、見たくて」
 何度も目にしているのならば、問題ないだろうとリィルは思った。
「ご一緒してよろしければ」
「案内します」
 徐々に、少年が自分に対して心を開きつつあるのが、リィルのは分かった。養育係ではない、同年代の仲間が必要な時期にこの子は来ているのだろう。閉ざされた家族の中に、これまでの事情を全く知らずに新しく入って来たリィルだからこそ、こうして接してくれるのだろうかと思った。
 イルガスに手を引かれるままに、リィルは暗い通路を進んだ。秘密を共有する、という罪悪感もあったが、子供との事なので害はないだろうと思った。むしろ、養育係の目を盗んで獲物の解体場へとこっそりと通っていた、という事実に、リィルは海狼兄弟の血を見る事が出来た。いずれは、海狼もこの子の良い所へ目を向けるようになるだろう。
 女戦士と入った時とは明らかに異なった通路で、鯨油の灯火もなく、幅も狭かった。また、迷路のように入り組んでいた。そのような場所を、イルガスは何の躊躇いもなく進んで行く。その様子からして、相当回数、秘密の場所へは足を運んでいるのではないかとリィルは思った。
 纏わり付く衣の裾に足を取られそうになりながらも、その場所に辿り着いた。
 そこは、小さな岩棚だった。
 眼下には巨大な鯨の全容が見えたが、それ程高い訳でもなく、恐怖心は起こらなかった。それでも、見付からぬようにと、二人して身体を伏せた。
 巻き揚げ機で(おか)に寄せられた鯨に、巨大な刃が入れられて行く。まだ鯨は水中なので不安定ではないかと思った。巨大な鯨の上では男達は小さく見えた。
「皮をはぐんです」
 イルガスが言った。「あの皮のぶあついところを釜に熱して、鯨油を採ります。あと、鉄砧(かなしき)なので頭からは脳油が採れます」
 鉤付きの棒で、男が皮を剥いだ。その下からは赤い身が見えた。
 慣れた手つきで、男達は同様の作業を進めて行く。やがて、半身は赤剥けになり、どのようにしているのかは良く分からなかったが、水中で鯨の向きが変えられ、再び同様の作業が始まった。
 鯨が頭と鰭を残した赤い塊になると、その前で海狼と数人の男達が話を始めた。
「割り当てを決めているんです。父上は一番銛でしたし、おじ上は二番銛でしたから、うちの割り当ては一番よい部分になります。それと、一番銛には心臓が特別についてきます」
 何も知らないリィルに、自慢するようにイルガスは説明した。この島の子は、例えマイアのような者が側にいようとも、自然とそのような知識を得るのだろうかと、リィルは不思議に思った。そして、少年の口調は興奮してはいたが、リィルは生々しい光景に、気分が悪くなって来ていた。魚と捌くのとは、大違いだ。余りにも、巨大すぎる。
 海にはまだ、血が流れ続けている。
 鯨が陸に引き揚げられた。
「あ、腹をさきますよ」
 イルガスがリィルの袖を引いた。
 大きな刃が鯨のたるんだ胴体に突き立てられ、横に引かれて行った。
 どお、と湯気と共に(はらわた)がなだれ出た。その臭気が岩棚まで(のぼ)り、リィルは吐き気を催した。
 下で、騒ぎが起こっていた。イルガスが身を隠していた事も忘れたように声を上げた。
胎児(はらご)だ」
 凄まじい光景だった。とぐろを巻く腸の上に、半透明の大きな袋が乗っていた。一人がそれを裂くと、羊水と共に臍の尾の付いた鯨が現れた。胎児とはいえ、大きかった。そしてそれはまだ、生きていた。海狼は進み出て検分すると、傍らの者から長い片刃の刃物を受け取った。
 無表情に、海狼は胎児の身をひと突きにした。
 リィルは口に手を当て、叫び声を上げないでいるので精一杯だった。
「父上は急所を心得ていらっしゃるから、獲物は苦しまずにすむって、前におじ上が言ってました」
 誇らしげな少年の声も、遠くから聞えて来るようだった。
 もう、これ以上は耐えられそうになかった。
 何度も血潮を吹き上げた母鯨。
 その腸の上で止めを差された胎児。
 血(まみ)れの手。生臭い臭い。湯気を上げる腸。
 狩る者、狩られる者。
 赤く染まった海。
 がたがたと身体が震えた。
 興奮状態にあった少年も、ようやくリィルの異変に気付いたのか、その顔を覗き込んで来た。
「大丈夫、ですか」
 リィルは思わず、少年に縋り付いた。
「療法師のところへ行きましょう」
 五歳とは思えぬしっかりとした声で、イルガスは言った。
 リィルは、少年に導かれるままに岩棚を後にした。


 どのようにして辿り着いたのか全く憶えてはいなかったが、気付けば見知らぬ小部屋で長椅子に寄りかかっていた
 眼前には、イルガスとローアンがいた。
「ここがどこだか、わかる」
 ローアンが言った。リィルは首を振った。「療法師の館よ」
 ローアンは失った右眼を羊革の眼帯で覆い隠しており、療法師見習いの生成りの衣を身に着けていた。
「とりあえず、気付けのお香をたいたわ。気持ちを静めるお茶も淹れるから、もう少し待っていて」
「大丈夫ですか」
 少年が心配そうに訊ねた。
「ええ、もう、大丈夫です」
 リィルは何とか微笑んで見せた。「でも、この事はお父上には内緒にしておいていただけますか」
「でも――」
「そうよ、あんた、真っ蒼で来て、吐いたんだから」
 納得がいかなさそうな少年に加勢するかのように、ローアンが口を挟んだ。
「いいの。この忙しい時に、余計なことで煩わせたくはないの。それに、大したことではないのですもの」
「何かあっては遅いから、言っているの。もし、初子(ういご)がいたら、どうするの。流れてしまうかもしれないのよ」
 初子。それは、あの鯨の胎児(はらご)と重なった。
「今回だけは、見逃して。こんな事で取り乱した、なんて、恥ずかしいわ」
 ソエルの嘲笑と軽蔑した顔が見えるようだった。気絶でもすれば海狼の恥だと、ソエルは言った。それだけは、避けたかった。それに、あの場所にいた理由を探られたら――
「もしかして、ぼくをかばってくれているのですか」イルガスが言った。「ぼくなら、いくらでも父上のお叱りを受けます。だって、ぼくのせいだから」
「お気になさらないで」少年の柔らかな頬に触れてリィルは言った。「わたくしの問題なのですから。わたくしが、そうしたいと思ったからなのです」
 瞬間、少年との間に心の繋がりが出来たような気がした。
 だが、それも直ぐに破られた。乱暴に扉が開き、マイアが飛び込んで来たのだ。
「イルガスさま」マイアは少年を抱き寄せた。「このマイアを置いて、どこにおいでだったのですか。心配いたしました。学問所が終わりましたら、真っ直ぐにお帰りになるよう、言っておりますのに」
「大丈夫、マイア、何も危ないことはしていないから」
 マイアはリィルに目を向けた。
「イルガスさまに関わらないでくださいまし。このお方は、わたくしが責任をもってお世話いたしますので」
「でも、いつかは父君と行動を共になさるのです。その時には、強くあらねばならないとは思いませんか」
 リィルはマイアと話さねばならないのだと思った。そのいつか、がもう直ぐそこまで来ている事に、この養育係は気付いてはいないようだった。いつまでも、自分の庇護する幼子でいて欲しいのだろう。
「とんでもございません」
 少年は、マイアに気付かれないように弱々しい笑みをリィルに向けた。
 仕方がない、と言いたげだった。
「おかわいそうな奥方さま。あなたは族長の恐ろしさをご存じありませんのね」
 初めて会った時のように、憐れみの目で――それとも見下すようにリィルを見てマイアは言った。
「どういうことでしょう」
「あのお方は、わたくしのお嬢さまがお亡くなりになった時でも、顔色ひとつ、変えられなかったのです。あなたさまも、あのお方にとっては、そういう存在でしかありませんわ」
 意味が良く、分からなかった。
「でも、五年の間、独り身でいらっしゃったではありませんか。(さき)の奥方さまを想ってのことではないのでしょうか」
 正直に言えば、そのような事を口にするのは胸が締め付けられた。海狼が愛した女性の事を、考えたくはなかった。
「お嬢さまのお産みになられたのが、男児だったからですわ。跡取りがいれば、あの方にはそれで充分だったのです。それはそれは、お美しい方でしたのに、それでも、あのお方の心が動くことはなかったのですから」
 マイアの口調は苦々しげだった。
「じゃあ、なぜ、リィルを迎えたの」
 ローアンが言った。
「族長として、必要だからですわ。ソエルさまよりも従順な方が」
「だからといって、その子をあんたが囲っていたら、リィルの子が次の族長になるのではなくて」
 さっとマイアの顔色が変わった。
「ソエルさまと同じことをおっしゃいますのね。でも、ご長子はイルガスさまでございます。ええ、次の族長はこの方をおいてありません。あなたは」とリィルに向き直った。「あなたは、族長の留守居役に相応しい紫の眼をお持ちだから、選ばれたのですわ」
「それは侮辱でしょう」
 腰に手をやり、ローアンが言った。「族長が、どれほどリィルを大事にしていらっしゃるか、あたしにだって、わかるわ」
「そういう素振りをなさるのが、殿方の常ですわ」軽蔑したように、マイアはローアンを見た。「お嬢さまにも、最初はそうでしたわ。それに、あのお方も男ですから、共寝の相手も必要でしょうし」
「やめて」リィルはようやくの事で言った。「子供の前で、父君の悪口(あっこう)を言うものではありません」
 はっとしたように、マイアはイルガスに目をやった。少年は俯いていた。
「とにかく、イルガスさまのことは、放っておいてくださいまし」
 そう言うと、マイアは少年の手を引いて部屋から出て行った。少年は、どこか哀しげな顔でリィルを見ていた。
「何よ、あの婆さん、偉そうに」
 口の悪い、すぐりと呼ばれていた頃のローアンが戻って来たようだった。「気にしなくても大丈夫よ。族長があんたに惚れ込んでいるのは、誰が見てもわかるわ。それにしても、あんな過保護な婆さんがついていたんじゃあ、あの子に族長は無理ね。皆、あんたの子が次の族長になるんじゃないかと噂しているわ」
 リィルは目を伏せた。
「噂、でしょう」
「あんたは族長の奥方だから、そりゃあ、注目されるわよ」ローアンは気にした風もなく言った。「後妻、という事もあるでしょうけど、あの婆さんを見たら誰でも不安になるわ。次の族長が養育係から離れられない子じゃあね。だから、あんたの子に期待しているのよ」
「あの子は弱くはないわ」リィルは言った。小さくともしっかりと自分を導いてくれた手を、思い出した。「解体場の岩棚から、わたしをここまで連れてきてくださったのですもの」
「解体場から」
 ローアンは愕いたように声を上げた。「五歳にしちゃあ、上出来ね。あたしは母親も奴隷だったから、子供の奴隷もたくさん、見てきたわ。慌てもせずにそれだけ出来るなら、有望だわね」
 ローアンの母親が奴隷であった、というのは初めて耳にする事だった。
「独り立ちなされば、立派な族長になられるでしょうね」
 静かに、リィルは言った。
「そうね、でも、あのままだと、どうしようもないでしょう」
「いつまでも養育係の言うことをきいているお子ではないと思うわ。ベルクリフさまの血を引いているのですもの」そう、既にマイアに秘密を持ってる。それに好奇心も強く、利発だ。「人がどのように思おうとも、あの子は、まだ五歳だわ」
「あんたは、自分の子は欲しくないの」ローアンが言った。「さっきから、あの子のことばかりじゃない」
 自分だけの秘密を、人と共有するのは憚られた。だが、ローアンは療法師の見習いだ。いずれは見抜かれてしまうだろう。
「――わたしには、無理かもしれないから」
「どうしてそんなことが言えるの。あんたはまだ若いし、族長だって、そうだわ。それに、好いた男の子なら、欲しいでしょうに」
「わたしは――」
 言い淀むリィルに、ローアンははっとしたように言った。
 「血の道が、まだなのね」
 リィルは頷いた。その事は柊から教わっていた。そして、ないものならばその方が良い、とも言われた。望ま子を持たぬ為にも。
「あそこにいた時から、何だかおかしいな、とは思っていたのだけれど。まあ、あんたは子供の頃からあそこにいたのですものね、仕方ないかも」ローアンは溜息を()いた。「ほんと、ひどかったもの。あんたは身長も低めで痩せすぎだし、肝心な時に栄養が足りなかったんだわ。ここに来て、直ぐにでも相談すれば良かったのに――長も女性なのだから」
「子を持てない女性はいくらでもいるわ」
 望まぬ訳ではなかったが、海狼には既にイルガスという跡継ぎがいる。
 ローアンはリィルの言葉を無視した。
「いいわ、長に相談してみるわ。栄養のあるものを食べて、薬湯を飲めば良くなるでしょうし、子供だって、持てるわ」
「いろいろと、知っているのね」
 リィルは愕いた。
「あたし母親は、治療師の奴隷だったわ。そして、そいつがあたしの父親。手伝っている内に、色々と教わったわ。だから、知識だけはあるのよ。多少なりとも、役に立てるの。頑固な年寄りだったけど、教えてくれたことには感謝しているわ。父親が死んで、新しい療法士が来た時、その男の妻があたしを売ったの。仕方がないわね、奴隷の子に、特に女には相続権はないのですもの」
 ローアンの過去を始めて知った。そして、酷い経験をしながらも、ローアンが生きるべき道を確実に歩んでいる事に、リィルは安堵した。
「でも、どうしてあんたは、わたしをここに連れてこようと思ったの。あたしはあんたに優しかったわけじゃないのに」
「それでも、何年も一緒に暮らしていたわ。あのまま捨て置かれるなんて、耐えられなかったのよ」それは、本心だった。「わたしは、もう、人が死ぬのを見たくはないの」
「優しすぎるわね」ローアンはリィルの言葉を一蹴した。「弱い者は死んで行く。それが北海の(なら)いだわ。そんな風だと、人のいいように利用されたり、騙されたりするわよ。それで傷付くのは、あんたなんだから」
「傷付けるよりは、いいわ」
「全くもう」
 ローアンは呆れたように言った。「あんたの弱味はそこね。あんたを傷付ける奴は、あんたが生きようが死のうが、気にも留めやしないわ。いいこと、これだけは憶えておきなさいよ。親切面して近寄る奴には、気をつけるのよ」
 全く物怖じせず、以前と変わらぬ物言いのローアンを、リィルは嫌いでなかった。それにまだ、ソエルと同じ十九歳なのだ。どういう形であれ、その幸福を願わずにはいられなかった。
「ありがとう、ローアン。ベルクリフさまがおっしゃっていたわ、あなたのように強い女性(ひと)は、ここでは幸せになれるだろうって」
 さっと、ローアンの顔に朱が差した。
「それは、どうもだわ。でも、あんたはもっと、自分の旦那に図々しくなってもいいと思うわ。相手が族長であろうとね。ここでは、わたしたちはもう、奴隷じゃないの。北海の女は強くなければ務まらないわ」
「心しておくわ」
 リィルは微笑んだ。


 その日の夕食は、鯨漁(いさなとり)に参加した者達との祝宴だった。皆、狩りの緊張から解き放たれて陽気に騒いでいた。族長家からの振る舞いとして、割り当てられた上等の肉が供された。
 皆が大いに飲み食いしている様を眺めながらも、リィルに食欲はなかった。
 あの光景が、どうしても目の前にちらついてしまうのだ。
 それでも、何とか、少しではあったが、肉を口に運んだ。鯨の肉は今までにも口にした事があったはずなのに、全く違った物のように思われた。
「ああ、義姉上、例の一番銛の特権である心臓ですよ」
 エルドが、新しく運ばれて来た大皿を見て言った。皆の席からも、歓声が上がっていた。これも、振る舞いに出されたのだ。
「それに胎児(はらご)。これは是非とも食して戴かなくてはね、兄上」
 おどけたように言うエルドに、一瞬、ソエルが鋭い視線を送った。
「リィルは小食だ。無理強いは良くない」
 やんわりと海狼が弟を嗜めた。
「縁起物ですから、一口だけでもどうぞ」
「ええ、いただきます」
 リィルのその言葉に、海狼は、ほんの申し訳程度に心臓と胎児の肉を切り分け、その皿に置いた。そして、自分にも。しかし、エルドとソエルは心臓にしか手を出さなかった。
 手の震えを悟られませんようにと思いながら、リィルはそれを口にした。
 心臓は、何とも形容し難い食感だった。そして、胎児は柔らかだった。それは、とろとろになるまで煮込まれた母鯨の肉とも異なっていた。だが、どれを口にしても味がしなかった。むしろ、口の中に死臭が満ちていくようだった。
 一応の食事を終えると、リィルは一人で早目に大広間を辞した。エルドが笑みを浮かべて海狼とリィルを交互に見ていた。だが、海狼は煩そうに杯を傾けていた。そして、ソエルはリィルの方を見ようともしなかった。
 大広間の扉を閉めるや、吐き気が襲って来た。
 慌てて、それでも誰からも悟られぬように足音を忍ばせて外の泉水へと向かい、その端で嘔吐した。胃の中が空になっても嘔吐感は消えず、流水を手ですくって飲んだ。
 涙が、出て来た。
 海狼が生命賭けで仕留めた獲物。それなのに、口にするのもおぞましく感じるのは何故なのだろう。
 大の男ですら卒倒する事もあるという解体を、成り行きとはいえ、見てしまったからだろうか。
 リィルはようやくの事で立ち上がると、部屋へと向かった。
 今日は早々に休みたかった。海狼は皆と存分に語り、酌み交わす事だろう。湯浴みは解体が終わった時に済ませていたので、今宵は起きて待つ必要もない。
 解体から戻った海狼からは、丁寧に洗い流してはいたものの、死の臭いがしていた。その事を思い出しリィルは身震いした。
 一人で湯殿を使い、夜着に着替えた。一人で着替える方が、楽だった。朝の支度はそういう訳にも行かなかったが、夜は一人で済ませるようになっていた。
 寝床に入ろうとしたその時、扉の開く音がした。リィルは愕いて振り向いた。
 海狼がいた。
「皆さまとお呑みになるのではないのですか」
「今更、あいつ等と何を話す」海狼は苦笑を浮かべた。「ずっと、船を並べていたのだからな。皆も、早く女の寝床に潜り込みたいだろう」
 それよりも――と海狼はリィルを背後から抱き締め、耳許で囁くように言った。蜜酒の匂いが、した。
「堅焼き麵麭は有り難かった。これからも、航海に出る時には持たせてもらえるのだろうか」
「上手に焼けたら、です」
 自分の下手さ加減にうんざりしながら、リィルは言った。船上で、どれ程皆に呆れられ、笑われただろか。「あまり、よくはなかったと思いますが」
「誰が焼いたのかも分からぬ物より、ずっと美味かったに決まっているだろう」
「それなら、よかったのですが」
 リィルは目を閉じて、海狼の胸に寄りかかった。こうしていると安心できるのに、顔をまともに見るのが恐ろしかった。あの青い目は、全てを見抜いてしまいそうだった。
 そのまま静かにしている事を海狼は許さず、リィルの首筋に唇を押し当て、胸に触れてきた。そのような気持ちにはなれなかったし、眠りで全てを忘れてしまいたかった。
「お放しください」リィルは身を捩った。「どうか、お放しください」
「駄目だ」にべもなく、海狼は言った。「この血の滾りを治めたい。お前の身を、悦びで打ち震えさせたい」
 そこにリィルの意思はなかった。リィルはマイアの言葉を思い出した。
 ――あの方も男ですから、共寝の相手も必要ですし。
 急に恐怖心が湧き上がった。
 海狼が獲物に止めを刺した時の光景が、甦った。
 真っ赤な海。母鯨の(はらわた)の上に乗った胎児(はらご)
 この人は狩る者だ。
 恐ろしさから、リィルは海狼の腕を振りほどいた。夜着を掻き(いだ)き、震えながら海狼を見た。
「どうしたと言うのだ」
 不思議そうに海狼は言った。だが、それはまるで、見知らぬ人のようにリィルには思えた。
 ここにいるのは、狩人。殺す者。
 あの優しく、慈しみに満ちた人ではない。
 助けを呼びたかった。だが、声も出ない。嫌悪と恐怖心とで、満たされた。
「どうした、そのような顔をして」
 不審そうに差し伸べられた手を、だが、リィルは思わず振り払った。
 それが、海狼の逆鱗に触れたのか、いきなり腕を摑まれた。痛みに、リィルは思わず小さな叫び声を上げた。
「前の奥方さまにも、このようなことをなさったのですか」
 震える声で言った。他意はなかった。恐怖を紛らわせる為の一言だった。
「その話はするな、と言った筈だ」
 低く、冷たい声で海狼は言った。そして、足を払われた。
 倒れる、と思う間もなく、抱き上げられた。
「逆らうな」
 静かな声だった。だが、その下には怒りがあるのが分かった。
 この人が本当に憤った時には、熱くなって大声を出すのではなく、却って冷たくなるのだと知った。
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