第1章 集会
文字数 28,705文字
その娘は、染料となる草を摘む手を休めて海にふと、目をやった。
数日後には、北海の七部族長の集会が開かれる。
そこで何が話し合われ、何が決まろうとも、娘には関わりのない事だった。ただ、多少の運命の変化はあるのかもしれないが、それほど重要とも思えなかった。この身に何が起ころうとも、首に付けられた鎖は変わらない。
もう、自分がどこで産まれ育ったのかも忘れてしまった。両親の顔も声も、他に家族がいたのかも、もはや思い出せなくなってしまっていた。幼い頃から、この地でずっと同じ生活をしてきた。初めは重かった鎖も、今では身体の一部のようにしか感じられなかった。
午前中は文字の読み書きが出来たので写本師を手伝い、午後は機織りを中心に、糸の染めに使用する材料や薬草の採取を行う事もある。急ぎの仕事のある時には、他の娘達が草採りに出かけても機 を織る事もあった。それが、もうかれこれ十五年も続いている。
だが、来年は――
生死すらも、定かではない。
そういうものなのだ、所詮、奴隷というものは。
十年以上、生かされてきた、というだけでも幸運な方だろう。一年と経たずして生命を落とす者も少なからずいる。特に、南方から連れて来られたり、重労働に従事させられる者は、ここの冬を過ごせない者も多い。
ここでは、生き残る事が全て。過去がどうあろうと、今、この時があるのみなのだ。北海とは、そういう場所。奴隷とは、そういう存在だった。
彼方には船影が見えた。
いよいよ、族長達が集まり始めたのだ。
この丘からは、集落への入り船を最も遠くから見つける事が出来た。禁足地でさえなければ、族長集会が近付くと人々はここで船を見張っていた事だろう。
知らず、籠を持つ手に力が入った。
自分は、この日の為にのみ、生かされて来たのかもしれない。他の、何人もの機織り女 と共に――
集落に戻ると、迎え船が出て行ったところだった。
初船はどこの族長なのか、物見高い人々が浜に集まっている。中には、屋根に登っている者もいた。
何と言っても、七年振りのこの島での族長集会だ。他部族からの珍しい話も聞けよう。集会土産の物品もあろう。旧友とも会えよう。戦士階級の者や自由人にとっては待ちに待った瞬間だ。
集落の人々のはしゃぎように、娘はそっと溜息をついてその場を通り過ぎ、染色小屋へと向かった。
独特な臭いに満ちたその小屋では、娘と同じく首に鎖を付けられた男達が働いていた。
「茜草と、少しばかりですが、紫根です」
「紫根か」
染色小屋の親方が籠を検めた。
「これっぽちでは、どうにもならん。もっと探して来るんだな。族長が紫を多用した胴着を好まれる事は、分かっているだろう」
そう文句を言いながら、紫根を特別な甕に入れた。
紫根の価値は、その発色の美しさは無論の事、稀少性にあった。族長好みである理由も、そこにあるらしい。だが、根を採り尽くしてしまっては、元も子もない。例え、群生地を見つけたとしても、全てを採取してしまうと、次の年から何も生えて来なくなる。それは、染め用の植物だけではなく薬草にも言えることだったが、染色にしか従事して来なかった親方には埒外の事なのかもしれない。
「もうしわけ、ございません」
娘は謝った。新しい親方の小言にも、慣れた。親方になって間が無いこの男は、まだ自分の権限に自信が持てないのだろう、しょっちゅう怒鳴っていた。
先代の親方は、自由人でありながらも娘には優しかった。子の無い人だったからだろうか、魔女の目にも臆する事なく、幼かった娘に染料の材料や媒染について様々な事を教えてくれたし、こっそりと食べ物もくれた。その死を悲しんだものだった。
染色小屋を辞し、族長の館にある機織り小屋へ入った。いつもはいる仕切り女 の姿は見えない。仕切り女のいる間は、手を休める事も許されないくらいだが、今は恐らく、船を見に行っているか、館に呼ばれでもしているのであろう。
「族長集会の初船が来たらしいわ」
娘の右隣の織り女が言った。「慌てて飛び出して行ったわ、あの婆あ」
その言葉に、あちらこちらから、くすくす笑いが聞こえた。
「でも、遅かったわね、後で叱られるかもよ」
左の織り女が言った。
「そうね、でも、しかたのないことだわ」
娘は杼 を手にした。後、一日で織り上がる。模様は白鳥。地色は海の青。族長の年頃の娘の晴れ着になるものだ。
「わたしたち、どうなるのかしら」誰かが溜息混じりに言った。「みんな、お払い箱だ、って仕切り女は言っていたわ。あなたが一番、長くここにいるのでしょう、菫 、それは本当なの」
娘――菫は首を振った。
「わからないわ。わたしに織りを教えてくれたのは、随分と歳のいった女 だったから、特別な技を持っていれば、残れるかもしれないわ」
「なら、あたしは無理」見事な赤い髪の娘が言った。「無地しか織れないのだもの。あんただったら、残れるでしょうけど」
「そんなふうに言わないのよ、すぐり」
左隣の娘、杏 が嗜めた。
「不安なのは、みんな一緒なんだから。一番不安なのは、長くいる菫のほうだと思うわ」
そうだ、この機織り小屋で、自分が一番長く、ここにいる。
菫は改めてそう思った。
前の集会の時には、まだ若すぎた。その前となると、幼かった。二度とも、ここから妙齢の娘達の行く末を見て来た。それを、この六年で集められた機織り女達に話す気にはなれなかった。
奴隷とはいえ、機織り女は族長の館で表に出て使われる奴隷に次いで、待遇は良い。朝晩の食事も時間と量はともかくとして、きちんと与えられるし、手が綺麗でなくてはいけないので清潔にもさせて貰える。手が荒れないように、ほぼ香りが抜けているとはいえ香油まで塗らせてもらえるのだ。そして、自分以外は皆、美しい。
――美しいからと言って、幸せになるとは限らない。醜いからと言って、不幸とは言い切れない。それが、わたしたちのような女の運命なのだよ。
柊 と呼ばれた、年齢の割には随分と老け、顔に大きく引きつれた火傷の跡のある織り女はそう言った。そして、それは正しかった。
人々から嘲笑され、忌まれたその女 は、誰よりも美しい布を織った。今の族長が嫁取りの際に相手方に送った結納財の中にも、その布が入っていたと言われていた。交易島の市 へ持って行けば、相当な値が付くという噂もあった。
見た目はどうあろうとも、菫は柊が好きだった。その手から魔法のように綴られる模様は当然の事ながら、その人なりが好きだった。奴隷の身でありながら、どれほど嘲られようとも、常に凜とした姿勢を崩す事がなかったからだ。密やかに言われていた事だったが、元々、柊は身分のある美しい女であり、その地がこの部族に襲撃された時、自ら火を顔に押し当てたのだという。笑い者にしながらも、集落の男達がその目を向けられると言葉を失い、気まずそうに立ち去る姿を何度となく目にした。だから、それは本当の事だと今でも菫は信じていた。
そのような女性から、菫は手ほどきを受けた。幼い内から織り続ける事が肝要なのだと、言われた。唯論 、向き不向きはあるが、幼い頃から始めていれば、
そう――そこそこでは、駄目だ。
だからこそ、菫は一心に織った。だが、今の族長の娘の普段着から晴れ着へと、その生地が使われるようになった頃、突然、柊は生命を断った。
――ああ、これでようやく、わたしは自由になれる。お前が、わたしを自由にしてくれた。
それが、菫にかけられた最後の言葉だった。
柊は、族長の奥方の晴れ着になるはずだった豪奢な生地を織り上げ、それを見に来た奥方の目の前で、神々にこそ相応しいようなその布を、笑いながら火に投じた。狂乱した奥方は、すぐさま柊の首を刎ねさせた。
それ以来、一番の織り女はまだ若い菫となった。
何故 に、柊があのような行動に出たのか、菫には未だに分からなかった。だが、柊の首が断ち切られた瞬間、悲鳴と血飛沫の中で、菫は確かに、柊が微笑んでいるのを見た。薄れゆく意識の片隅で、がしゃりと首の鎖が落ちる音を聞いた。
それが、「自由」なのだ。
自分達のような奴隷にとっては、生命と引き換えででもなければ手に入らぬもの。病気や老齢で死したとしても、決して外される事のない鎖。
「自由」を手に入れるという考えは魅力的ではあったが、恐ろしく、また、危険なものだった。
だからこそ、菫はその事をなるべく考えないようにしていた。
自分が今、織っている豪奢な生地は、明日には仕上がる。そうしたら、すぐさま族長の娘の晴れ着に仕立てられるだろう。集会後の宴席で、娘はそれを着て、他の族長達や後継ぎ、側近らに紹介される。それは、人々の目にどう映るのだろうか。衣装が娘を引き立て、見染める者は現れるのだろうか。
族長や奥方がそれを期待しているのは明白だった。七部族の長が一堂に会する席に娘を披露できるのは七年に一度。これ以上の好機があるだろうか。当人同士抜きの話し合いよりは、ずっと効果的だ。
だが、もし、縁談が纏まらなかったら、その矛先は自分に向けられるであろう事も分かっていた。如何に理不尽であろうとも、それを受け入れなくてはならないのが、奴隷だ。
代償は、最悪で死。良くても交易島で売られる事になるのだろうか。
写本が出来るからと言っても、容赦はされまい。例え、この部族の収入源の少なからぬ割合をそれに負っていたとしても、代わりは幾らでも手に入るだろう。
幼い頃に美しい文字が書ける、という理由で手伝う事になった写本。機織りも好きだったが、写本の仕事はまた、違った意味で好きだった。写本師は気難しい人だったが、気まぐれながらも幼い菫に目を掛けてくれた。文字を読み書きできる者はいつでも歓迎だと言い、文字や装飾を写すだけではなく、写本には内容の理解も必要なのだと、更なる読み書きも教えてくれたので、書物を写しながらも遠い世界、自分とは縁のない美しい世界を知る事が出来た。また、装飾は織物の文様に生かす事も出来た。
この部族では、人々は書物に商品以上の価値を認めてはいなかった。また、興味もないようだった。それでも掠奪に欠かせないのは、市で高額で取引きされる事もある為だった。奪われた書を買い戻す為に法外な銀を支払う者や、実物と見分けがつかないほど精巧に制作された写本を実物と勘違いし、結構な値をつける者までいると写本師は話した。だが、族長の中には書を好む者もおり、そして、その目は厳しい、と。
掠奪――この地のように寒冷で限られた作物しか育たぬ島では、冬を越す為にも豊穣の地より収穫物を掠奪する事によって、ようやく冬をしのげる事も多い。実入りの少なかった年には、多くの奴隷が生命を落とす事になる。
北海の海賊七部族――そう、他所 では呼ばれているのだと知ったのは、自分の首の鎖の意味を理解したのと同じ頃であったように思う。
そう呼ばわった囚われの男は当然、部族の者の逆鱗に触れ、他の奴隷への見せしめの為、広場に打たれた杭に縛り付けられた。飢えと渇き、老若男女を問わずの石礫 、けしかけられる犬によって、残酷で緩やかな死を与えられた。
その頃にはこの生活に適応していた菫には、そこまでして反抗する意味が分からなかった。何にも逆らわず、ただ、命令されるがままに、主人達の機嫌を損なわずに生きて行くのが良い、と思った。また、誰かにそのような事を言われたような気もしていた。
何があっても、生き延びろ、と。
時には、自由に行動できる部族の人々を羨ましいと思う事もある。注文や期限を切られるのではなく、自分の好きなように機を織りたいと思う事もある。だが、ここで以外の生活を思い出す事も出来ない身の上に慣れてしまうと、最早、生き延びる、というその一事のみが大切になるものだ。
「あぁあ、どこかの族長さまの目に留まって、ここから出たいものだわあ」すぐりが言った。「そしたら、あたしだって楽ができるのに」
「何を寝ぼけた事を言っているの。わたしたちは、どこまでいっても奴隷よ。この鎖がある限りはね」
自分の鎖を引っ張って杏が言った。
その通りだ――と、黙々と機を織りながら菫は思った。その通りだ。この首の鎖がある限り、自分達は主人にとっては財産であり、
すぐりの言ったように、族長やその側近に気に入られてこの地を出た女奴隷もいる。だが、逆に、他所での集会で族長や戦士達が連れ帰った美しい女奴隷達の行く末がどうであったか――運が良ければ愛人として留め置かれるが、飽きれば捨て置かれ、子を産んでもその身分は変わらない。そして、その若い生命を落とす事も少なくはなかった。
「ま、十日間もあるのだから、せいぜい頑張りなさいな。あなたがどこかの馬鹿なお坊ちゃまでも引っかけることができれば、奇跡だと思うけど」
「そんなこと言って、後で吠え面かくんじゃないよ」
普段から仲の悪い二人だったが、今回はいつもの諍いの域を遙かに越えていた。仕切り女がいないという事もあるだろうが、自分達を待ち受けているものが何なのか、不安で押し潰されそうになっているのは明白だった。集会後に何が待ち受けているのか、知る者はいない。
「いいかげんにしなさいな」
今にも摑みかからんばかりの二人に、誰かが言った。「いつ、あの婆さんが帰ってくるかわからないわよ」
表情までは見えなかったが、菫には二人とも不服そうなのが分かった。ここでは、不安も不満も、全て心の奥底に沈めておかなくてはならないのだ。
機織り女は、身体に傷が付くような罰は与えられない。鞭打ちも焼き印もなし。機織り場の女奴隷は、集会の饗応の場に出されて給仕や酌をする役を担わなくてはならないからだ。
その為に、七年に一度のこの時期に年頃を迎えるここの女奴隷は、他の者達よりは、大切にされて来たのだ。
だが、その饗応は――
明日の事を誰が知ろう。ましてや、十日も先の事を。
菫はただひたすらに、機を織り続けた。
一心に織り続けた成果か、思ったよりも早くに生地は完成した。それを見に、奥方と十六になったばかりの娘本人がやって来た。
「本当に、お前の織る生地はいつ見てもいい出来だね」
菫は跪 いたまま、黙って頭 を垂れた。族長一族とは直接口をきいてはいけない、というのが、ここで最初に覚えなくてはならない
「お母さま、早くこれを仕立てさせましょう。急がせれば、気になるところを直させる時間もたっぷりあるわ」
娘のはしゃぎ声に、奥方も上機嫌だった。
「そうね、すぐにそうさせましょう。それからお前、今日は褒美に特別に機織りは免除しましょう。薬草なり染料なり、草摘みに行っておいで」
余程、機嫌が良かったのだろう、脇に控えた仕切り女が愕く程の特別な計らいだった。
「奥方さまの特別なご配慮なんだからね、いい気になるんじゃないよ」仕切り女は険しい顔で言った。「怠けたら、分かっているだろうね」
皆が、二日続けて外に出られる自分を羨ましがっているのが、痛いほど分かった。それも、日が暮れるまで。監視がいない分、ある意味での自由だ。
行って参ります、と言い残し、大きめの籠を手に菫は機織り小屋を出た。
朝から何度か迎え船が出ている浜は大層、賑わっていたが、菫はそれには目もくれずにいつもの海の見える丘へと向かった。
続けて草摘みに出かけるのは、ここでの長い生活でも初めてだった。風は心地よく、集落を一望できる丘の草は爽やかな音をたてて靡 いていた。
機織り女の誰もが、自分だけの草摘み場を持っていた。菫が受け持つこの丘は、あの柊から受け継いだものだった。草摘み場は、薬草や染料の材料となる植物が多数生えている場所だ。ここでは、余程の事がない限り、家畜の放牧は禁じられている。たまに逃げた羊や山羊が迷い込む事があったが、それは家畜番の罪となる。人の出入りも許されぬ、禁足地だった。
夏の終わりには、また、男達は掠奪の遠征へと向かうだろう。食糧の為だけではなく、奴隷も連れ戻って来る。その様子も、この丘からは見えた。
夏には鯨や鯱を追い、それが終われば陸地を襲う。長い冬はその手柄話で酒をあおる。それが、この島の戦士達の一年だ。他の部族もそうは変わるまい。時には、戦いの為に戦っているようにすら見える事もあった。
今年は何人の奴隷が死ぬ事になるのだろうか。自分の知っている者、いや、自分もその中に入る事になるのだろうか。集会までは機織り女としていられるだろうが、その後は分からない。
そう思うと、気持ちよかったはずの風が、急に冷たく感じられた。
ぶるっと身を震わせると同時に、菫はその不吉な考えを振り払った。そして、草を摘み始めた。
前の日には染料を摘んだので、この日は薬草にした。特に必要とされるのは、傷や痛みに効くもの。あるいは、長い冬の間の、子供の為の解熱効果のあるものだ。そういう薬草を中心に摘み帰れば、まず、間違いはない。時には貴重な薬草も見つかったが、それは季節の最後まで残しておくつもりだった。どのみち、奴隷には縁のないものだった。
丘の中ほどまで進んで行くと、少し上あたりに、何か異質な物がある事に気付いた。この丘には、自分より他に足を踏み入れてはならないはずだった。
だが、確かに、誰かがここに来たのだ。
その者が、証拠となる品を落として行った。
それが誰であれ、何であれ、手を触れる事は出来ない。盗んだと言われて、何人もが無実の罪で仕置きを受けている姿を見て来た。だから、無視しようとした。
しようとした――が、出来なかった。
そこにあったのが、書物であったからだ。
革で装丁された、小さいながらも分厚いその古い書物には見覚えがあった。
写本師が特に手をかけて書き写していたものだ。だが、まだそれには古色加工を施してはいなかったはずだ。
古び具合からも、明らかに写しではなく、原本。
誰が――なぜ。
様々な疑問が浮かんでは消えた。
これには決して手を触れてはいけない。
余りに貴重なものだ。
くすんではいたが題名や小口には金があしらわれており、菫のような者が手に取っている所を見られでもすれば、即刻、死を賜るであろう、禁忌。
だが、見てみたい。
ずっと、そう思っていた。
中にはどのような装飾が施されているのか。どのような絵が描かれているのか。革表紙に浮き出ている複雑な植物文様を、もっとはっきりと確かめてみたかった。
書物の名前だけでも、知りたい。
菫はそっと近付いた。
手にしては、いけない。
書物は裏を向いていた。
触れてはいけない――そう分かっていながらも、菫は手を伸ばしていた。
恐れ、それとも昂ぶりからか、震える手でそっと革表紙に触れた。
一旦、触れてしまうと、もう抑えがきかなかった。
手に取り、金で捺した書名を見たが、そこには理解の出来ない難解な言葉が並んでいた。
角度を変えると、浮き出した複雑な文様が全体にあるのが分かった。革の深い色と黄色を組み合わせると、この表紙のような効果が出るかもしれない。
得心ゆくまで表紙を眺め、開いてみる。中の羊皮紙には、表紙よりも細やかで、美しく彩色された縁飾りが描かれており、それは次の頁も、その次の頁も同様であった。恐らく、全ての頁が、この美しい文様で彩られているのだろう。絵のない、文字ばかりの書ではあったが、美しさでは本文の飾り文字も素晴らしく、美麗な絵を多く入れた物と較べても、全く遜色ないものだった。
内容ははやり、菫には難しすぎて理解出来なかった。知らない言葉も多く、これは一体、誰が何の為に書いたのだろうかと思わずにはいられなかった。
菫は夢中で書を繰った。
よく見ると、頁を彩る文様も少しずつ異なっている。何という手間のかかった物なのだろうか。写本師が、誰にも触れさせなかったのも道理だった。
「そこで何をしている」
突然、男の低い声がした。菫の心臓は大きく跳ね上がった。
慌てて書物を置くと平伏した。身体が大きく震えた。禁を犯した。この場で切り捨てられても仕方のないような、恐ろしい禁を。なぜ、この禁足地に男がいるのかなど、思いも及ばなかった。
影が、自分の上に差したのが分かった。
「これは、お前が見つけたのか」
「もうしわけございません」
殺されるかもしれない、と思うと、身体だけでなく声も震えた。
「何を謝る」
存外の穏やかな声に愕きながらも、身構え続けた。
「わたくしのような者が、そのような貴重なお品に手を触れるなど、あってはならぬことでございます。でも、決して盗もうなどとは…」
「何を言っている。むしろ、感謝するのは私の方だ」
思いもかけぬ言葉に、菫は顔を上げた。
そこに立っていたのは、集落の男ではなかった。
いや、そもそも、集落だけでなく、この島の者がここに立ち入る事はないのだ。
緩やかに波打つ肩より長い金色の髪に青い目、潮焼けした肌の者なら、山ほどいる。だが、この男にはそれ以上の何か――島の族長にすらない鍔のない片刃の小太刀 も長めだった。二本も片方に佩刀する人を、初めて目にした。若かったが、若すぎるというのでもない。鋭い目付きをしていたが、そこに宿る光は穏やかだった。口元と顎の髭も髪と同じく滑らかな金色をしており、微かな笑みを浮かべていた。
何と、美しく立派な人なのだろうか。
菫は目が離せなかった。集落の者に、そのような形容を思い浮かべた事などなかった。物語に登場する美しい男、というのは、このような人を差すのだろうかと思った。
ゆっくりとした動作で、男は書物を拾い上げた。
「文字が読める――のか」
「多少は」
慌てて菫は目を伏せた。凶眼で見つめてしまった。これは重大な過失だ。声の震えをどうする事も出来なかった。畏れは恐れに変わっていた。
「珍しいな。書物に興味のある娘子 は初めてだ」
揶揄うような物言いだったが、悪い気持ちはしなかった。そこには嘲笑ではなく感嘆が感ぜられたからだ。そして、穏やかな低い声は、いつまでも聞いていたくなるような気持ちにすら、させた。
「こちらの写本師から無理矢理手に入れた物だ」訊ねもしないのに、男は言った。「この辺りを散策している間に懐から落としたらしく、途方に暮れていたところだった」
言葉も荒くない。本当に、この人は北海の戦士なのだろうか、と思った。
それにしても何故、この人は奴隷である自分に対して、こうも丁寧な話し方をするのか。
「取り敢えず、礼を言おう。今は少し、急がねばならん。機会があれば、是非とも何か礼をしたいのだが」
名は、何と言う――
男の問いかけに、菫は再び平伏した。
「お礼など、とんでもございません。わたくしのような者に、そのようなお気遣いは無用にございます。でも、どうか、大切なお品にふれましたることは、ご内密にお願い申し上げます」
「相分かった。ただ、私とても、稀少な書を失いかけたとは言えんよ」男は笑った。「さて、そろそろ陽も傾こう。娘子が一人で戻るには、足元が危うかろう。送って行こう」
愕いた事に、男は菫に手を差し出した。まるで、身分のある女性ででもあるかのように。
菫は混乱し、慌てて籠を手にした。幸いにも充分な量は採取できていた。
「わたくしめは慣れております。お許しをいただけますなら、これにて失礼しとう存じます」
「――紫の目とは。何とも珍しく、美しい」男は言った。「許すも何も、私はこの地では何の権限も持たぬ客人 の身。私は一向に構わぬ。好きにされよ。だが、乙女よ、気を付けて戻られるが良い」
その言葉に、菫は弾かれたように立ち上がり、丘を駆け下りた。
一度だけ途中で振り向いてみると、男は先程のまま、じっと菫を見つめていた。心臓が、締め付けられるようだった。
次の日、普段のように写本師の許を訪れると、あの稀覯本はもとより、写し終えた物の内、出来の良い物ばかりがなくなっていた。その中に自分の写本が含まれている事に気付いて、菫は少しばかり嬉しくなった。どこの誰かは分からなかったが、価値を認められたように思った。
「族長集会が終わるまで、織物に専念させろ、との事だ」
写本師はそう告げた。「族長二人で寄ってたかって、この有様だからな。人手が欲しいのは山々だが、集会の為の急ぎの仕事があるそうだ」
集会の間、各部族長やその部下達は、集落の物品を購入したり交換したりして行く。交易島に較べて種類は少ないが、注文に直ぐに対応できるのが直接取引の魅力だと言う。
機織り小屋では、装飾品を数多く織るようにと仕切り女が言った。男女問わず、細帯、飾り紐、女性用の小物袋…数時間で織り上がり、直ぐに仕立てられる物。
各色ごとに分けられ、山のように積み上げられた糸から、必要な物を各自、取っては織る。今回は、大物用の高機 ではなく、小物専用の織り機や板を使う。
菫には、特別に意匠の指示があった。各部族長の呼称に合わせた飾り帯を言い付かったのだ。
龍心エリアンドには龍の図柄の中に心臓をあしらう。
黒鷲ディオンは愛鷲と聞く黒い海鷲を。
乱雲ドルファは飛び行く雲を意味する尾を引く渦巻き。
熊殺しアルリードには、絵でのみ知る熊に素手で立ち向かう人物。
信天翁ボイドルは、その名の通りに大きな翼の信天翁を。
海狼 ベルクリフは下半身が魚の狼。
そして、この島の族長、狂戦士イルゴールには、獣の皮を被って剣を振りかざす戦士というお気に入りの模様を、派手目にという事で贅沢に金糸を織り込む事にした。初めての座の取りまとめ役として、威厳を示したいのだろう。だが、この金の糸は女奴隷の髪だった。菫の髪は金糸にするのは色が薄すすぎたが、誰か、豪華な金髪の女奴隷がこの為に髪を切られたのだ。そして、再び、その為だけに伸ばされるのだ。
菫はイルゴール以外の誰もその姿を目にした事はなかった。全ては想像で織るしかなかった。気に入ってもらえるよう、似合っているようにと祈るしかなかった。もし、そうでなかった場合には、すぐさまこの小屋を追われるか殺されるかするかもしれない。
せめて、もう一度、あの男 の姿を見るまではそのような事が起こりませんようにと、願った。
主人 の身分にある人なのに、穏やかで優しい言葉をかけてくれた。首に鎖を付けられた自分を、揶揄いではあっても「娘子」や「乙女」と言ってくれた。凶眼と言われる紫の目を、美しいと言ってくれた。あの夏の北海と同じ青の目に、いつまでも見とれていたかった。
どこの誰とも分からぬ人。
世の中には、あのような人もいるのだ。
だが、あの男 もまた、掠奪する者なのだ――村や船を襲い、人を殺め、拐かしたした人々を奴隷とする北海の戦士なのだ。
そうしなければ、この北海の七部族は生きて行く事は出来ない。灰色の冬の海と白く覆われる大地は、厳しすぎる。
分かってはいたが、哀しかった。
あの穏やかさの陰に、残酷で冷たい戦士の顔があるのだ。希望や期待を持ってはいけない。勝手な幻想を抱いては、いけない。
「大丈夫なの」機に経糸 を張りながら、こっそりと杏が話しかけてきた。「根をつめすぎじゃない」
「族長たちへの贈り物を言いつかったのですもの、しかたないわ」
「――それは分かるけど、多少、手を抜いても、あなたのなら分かりはしないわよ。この五日で他にも言われているのでしょう。無茶よ。もっと早くから織らせてくれなくては。お嬢さまがなかなか模様を決められなかったせいもあるし。あの族長にそっくりなご面相にそばかすだらけじゃあ、何を着たっても、そう変わりはしないのにね」
「心配してくれて、ありがとう。でも、手を抜いたものを出す訳にはいかないわ。それに、お嬢さまにとっては一生に一度の晴れ舞台ですもの」
「本当に、真面目ね、あなたって」呆れたように杏は言った。「まあ、だから、あなたなのでしょうけど、損な性分よね」
菫は自分でも弱いと思いながらも微笑みを返した。
そう、七本の男物と、それぞれの奥方への飾り帯。全てを異なった文様と色で、しかも、二人並んだ際に違和感のないように織らなくてはならない。市に出す用の生地とは違って早く織り上がるが、知恵を絞らなくてはならなかった。だが、それはそれで苦しくはあったが、達成感のある仕事だった。
違う世界に住む人々が自分の織った布を纏い、あるいは飾ってくれる――それは不思議な感覚だった。北海の片隅で奴隷の鎖に縛られている自分の織物が、世界のどこかに存在する。それが、自分の代わりに海を渡り、世界を見ているのだ。
本当に、自分が魔女の目を持っているのならば――と菫は思う事があった――織物に忍ばせた文字を通じて世界を見る事が出来るのに。
だが、自分にはそのような力などありはしない。人々が勝手に恐れているだけだ。もしかしたら、この紫の目のお陰で生き延びる事が出来るかもしれない。しかし、逆に、この目のせいで、厄災を背負って牲贄 にされるかも、しれない。若い女奴隷が、疾病や天災の際に神々への捧げ物として殺されるのを、何度も目にしてきた。次は自分の番なのかもしれないのだ。
だが、今はそのような事を考えている場合ではなかった。
菫は再び機織りに集中し始めた。
族長集会の初日、二十人余りの年頃の機織り女達は、朝から仕事を免除された。族長の館で働く下女 ――奴隷には違いなかったが、一段上に見られていた――に身を清めるように言われ、新しい麻の衣と毛織物の長着を手渡された。冷たくも清い水で身体や髪を洗い終えると、衣を身につける前に良い香りのする香油を髪と身体に擦り込むよう指示された。そんな事は、初めてだった。給仕、というのは、身支度も大事なのだろう。髪の編み方まで見られた。
誰かの着古しではない衣、というのは初めてのような気がした。
黙々と、下女達は準備を進めて行く。普段の族長の館での宴席では、この女達が給仕をする。だが、集会に関しては、女奴隷の中でも年頃の者を集めた機織り女が行う事になっていた。それに関しては、二度の集会を知っている菫とて、はっきりとした理由を知っている訳ではなかった。
何故なら、給仕に出た女が機織り小屋に戻る事はなかったからだ。
小耳に挟んだところでは、捨てても惜しくはないから、いう理由だった。
酒が入って何か揉め事が起こり、万が一、長剣に掛けられた和平の紐を切って剣を抜く者があっても、機織り女ならば、殺しても弁償をすれば良い。酌をするのに若い女が必要だが、その為に、集会に合わせて年頃を迎える美しい娘を用意しているというのだ。館の下女では、普段の仕事に加えて館に泊まり込む族長達の世話に差し障りが出るかもしれないからだ。また、若く美しい者の数も足りない。
性質 の悪い戯れ事に差し出されるという話も耳にした。それも、最後に生命を落とす事も少なくない、と。
酔ったまま娘を立たせて矢を射てみたり、乱暴をするといった残酷な仕儀の事も聞いた。族長達はさすがにわきまえているが、若い後継者達や側近達は――
恐ろしくて仕方がなかったが、鎖の身では、それを拒否する事は許されない。
拒否して速やかな死を選ぶか、生き残れるかもしれない道を選ぶか――それは不安以上に恐ろしかった。
給仕についての説明は殆どなかった。
皿が空になる前に新しい料理を置き、杯をあおった者には、すかさず酒を注ぐ。
そのくらいのものだった。
代わりの者は幾らでもいる。だから、多少の粗相での暴力や無礼打ちは仕方がないという事なのだろう。賠償金も入るのだから、族長に損はない。
皆、緊張しているのが分かった。あのすぐりでさえも蒼ざめた顔をしている。
そうであっても、すぐりも杏も…他の皆も何と綺麗なのだろうか。そして、さして美しくも無い自分が、魔女の目を有している自分がなぜ、ここにいるのだろうか。
菫は思った。
若く、美しい盛りの者達が、饗宴の犠牲になるかもしれないなど、余りにも残酷だ。
自分は、地べたにへばりつき、茎を伸ばして花を咲かせても気付かれずに踏み躙られる野草から、名付けられた。そういった人生であっても、特に人目を引く事なく、ひっそりと生き延びる事が出来れば幸いと言うべきなのかもしれない。
過去の美しい女奴隷達に落ちた残酷な運命の雷 を思わずにはいられなかった。鎖を付けられた時点で、死は気まぐれに落ちかかるのだ。
身に覚えのない罪を着せられて殺されるか、役に立たなくなったと判断されて餓死させられるか、海が荒れて船が出せぬ時の神への供物にされるか、あるいは死者に殉じる者として殺されるか――いずれにしても、その生命でさえ自分の自由に出来ない。
大広間の一段、高くなった所には族長達が半円形に座す。中央には今回の議長のイルゴール。椅子の背には、象徴である獣の毛皮が掛けられていた。その左には昨年の議長の海狼ベルクリフで、右は来年の議長を務める黒鷲ディオンだと告げられた。
下座は後継者を始めとする族長の息子達と、同行者の中でも戦士長や舵取り等の重要な地位にいる者達だった。
その他の戦士兼船乗りは野外で食事と酒を振る舞われる事になっているが、こちらは構わなくとも良い、との事だった。そこには男達によって酒樽が幾つも運び込まれていた。直接、樽に杯を突っ込んで飲め、という事だ。食事の給仕をするのは部族の戦士の家使いの女奴隷だった。
一見、最も危険なのが野外にいる者達のように思える。だが、本当に性質が悪いのは下座にいる者達だと聞いていた。野外の者は腹がふくれ、浴びるほどに蜜酒を呑んでしまえば、最後は酔い潰れてしまう事が多い。喧嘩もするが、それはさすがに館の家令や規律に厳しい年長者の仲裁が入る。そして、族長以外の者は長剣の鞘に付けられた和平の紐を鍔に掛ける事を義務付けられている。長剣は戦士の誇りである為に持ち込みが許されているが、それ以外の武器――小太刀や短剣は島には持ち込めない。それらは船に置かれる事になっていた。集会での部族間の遺恨は誰しもが避けたいものだからだ。また、寝床に誰を引き込もうが黙認されているが、もし、家使いの奴隷を傷つけたり殺そうものなら、賠償額は跳ね上がる。
下座には若く、血気盛んな族長の息子達がいた。すぐに腕自慢をしたがり、また、その側の族長の副官や戦士長もそれを止める事はない。むしろ、煽り立てるものだった。殴り合いくらいは大目に見られる。自分達の族長の後継者を自慢したいのであろう。
多少の誇張はあるにせよ、過去二回の集会で菫が聞いた耳を覆いたくなるような酷い所業は、この者達によるものだった。
そのような中に、放り出されるのだ。
その事を考えたくない為、菫は宴席の設 えに意識を向けた。
中央の壁にはイルゴールの旗印が飾られていた。そして、それぞれの族長の席の後ろにも、色とりどりの旗が飾られている。横長の物もあれば、縦長の物もある。変わった物では長い三角形の物も、あった。全く飾りのない物から縁取りの施してある物や周囲を房で飾った物まで、それぞれ個性的だった。この旗印ばかりは、奴隷女が手掛ける事はない。族長一族の女達の手によってのみ、織られ、刺繍され、仕立てられるのだ。航海の安全と武運を祈って、心を込めて。
菫は自分の織った意匠が、族長旗と大きく異なっていない事に安堵した。
族長達の椅子の背には、菫の織った飾り帯が垂らされていた。寡夫のエリアンドとベルクリフは男物のみである。
卓には杯が並べられていた。高座は縁を金で覆った銀の豪華な杯だった。下座は錫だ。
また、下座は高座のように高い背凭れと肘掛けの付いたゆったりと座れる椅子とは異なり、背凭れのない長椅子か床几だった。例え後継者であっても、明らかに差があった。族長、というのは、それほど特別な地位なのだ。
全ての支度が整うと、後は男達が入って来るのを待つばかりだった。
「高座の最初の一杯は奥方さまとお嬢さまがお注 ぎになるからね」下女頭が言った。「お前たちは下座の方々に行くんだよ」
そして下女頭は皆を見渡して、特に見目の良い十人を選んだ。その中には杏とすぐりも含まれていた。
「五人ずつ、左右に分かれて注ぐんだよ。終わったらさっさと戻るんだ。乾杯が終わったら、酒入れを渡された者は手分けして注いでまわるんだ。そうでない者は食事を運びな」
その言葉が終わるや、男達が宴席に入って来た。下座の方では席順で少し揉めていたが、それも直ぐに収まった。
「さ、お行き」
十人は背中を押されるようにして、宴席へと行かされた。
高座では、イルゴールの奥方と年頃の娘とが、族長達に酒を振る舞っているようだった。機嫌の良い奥方の笑い声が、聞こえた。
暫くして十人が戻り、その手から引ったくられるようにして酒入れが取り上げられ、新しい物が直ぐに渡された。菫も、錫の酒入れを持たされた。つんとした匂いの奥に、微かに甘い香りがしていた。これが、蜜酒なのだろうと菫は思った。
宴席ではがたがたという、皆が立ち上がる音がした。イルゴールの声がしていたが、菫の耳にその言葉は入って来なかった。食事を運ぶ給仕よりも、酌婦の方が何らかの騒動に巻き込まれやすそうだった。
大音声が部屋を揺るがし、菫は危うく酒入れを取り落とすところだった。だめだ、最初に選ばれた十人はきちんと役目を果たしたではないか。それに――
あの男 に見 える事が出来るかもしれない、というのに。
野外にいる人ではない、絶対にここにいる人だ、と菫は確信していた。向こうは憶えていないかもしれない。だが、それでも良かった。自分は、あの顔と声を、決して忘れる事はないだろう。
「さ、お行き。ゆっくりと、走ったりするんじゃないよ」
その声に現実に引き戻された。
逃げ出したい気持ちを抑え、先を行く娘に続いてゆっくりと歩を進めた。宴席で杯を満たしながらも、菫は顔を上げる事も出来ず、また、男達の声を聞き分ける事も出来なかった。奥方の甲高い笑い声が、がんがんと頭に響いた。
あちらこちらから酒を要求する声が響き、酒入れは直ぐに空になった。奥に戻るや、直ぐさま新しい物が渡され、再び宴席に出る。この男達にとり、酒も水も同じようだった。注ぐはしからあおってしまい、卓上の山と盛られた食事も、見る見るうちに減っていった。
何度、行き来しただろうか。
「高座にお行き」
と下女頭が苛々したように菫に言った。「誰もいないじゃないか。お前は高座におつき。酒はとびきり上等の蜜酒だからね、下座には注ぐんじゃないよ」
「承知いたしました」
菫は族長達用の酒入れを渡された。銀で作られた上等な物だった。
誰からも声を掛けられぬように、壁に沿って移動した。そして、族長達の後ろについた。
そこは下座の喧噪が嘘のようだった。当然ながら食事を摂り、杯を手にはしていたが、大声とも、我先にという賑わいとも無縁だった。ここだけが、違う時間が流れているように感じられた。
「おお、一杯、貰おうかい」
龍心エリアンドが声を掛けてきた。白い髪と髭を長く伸ばした老人だったが、精悍さは失われてはいない。そして、威圧感も。
これが、族長なのだ、と菫は思った。下座にいる者達には、この荘厳さは備わってはいない。圧倒的な存在感もない。老族長の背後から正面に回り、微かに震える手で蜜酒を注いだ。
次にイルゴールがぐいと杯を突き出した。その顔は左に向けられたままだった。
「――私の娘などはどうかね。貴殿も、そろそろ後添えを考えるべきだろう。五年も独り身で、如何に男子とは言え、子が一人ではこの先、不安ではないのか」
島の族長でありながら、これほど近付くのは初めてだった。柄が大きく、幼い二人の息子――殊に年下の少年も、体格が良かった。先代も大男だったので、家系なのだろう。
「あのように若い娘子ならば、幾らでも縁談はありましょうに」
低く穏やかな返答に菫はどきりとした。「後妻はともかく、いきなり五歳の子の母親というのは、十七の花の盛りの乙女には残酷すぎましょう」
ゆっくりと、菫はイルゴールの話し相手に目を向けた。
金色に輝く髪と髭に青い目。正装の肩には白い獣の毛皮を掛けている。
あの人だ。
身なりの良さも、立ち居振る舞いの上品さも、全ては族長であった故だったのだ。そう、それに、丘でも長剣には和平の紐を掛けてはいなかったではないか。それが許されるのは、族長のみだ。小太刀の佩刀を許されるのも。
海狼ベルクリフ。
七部族長の中で最も若い族長。最北の島に住まう、謎に包まれた異教の部族の長 。
「それ程までに亡くなった奥方に操 を立てる男も珍しかろう。ま、女冥利には尽きましょうが」
椅子の背に巨大な黒鷲を止まらせた族長、黒鷲ディオンがそう言い、杯を上げた。
「奥方一筋の貴方に言われるとは思いませんでしたな」皆に低い笑いが起こった。「だが、私とて女っ気がない訳ではありませんぞ、黒鷲殿」
ディオンが杯を口に運び、再びそれを上げた。
震える脚を懸命に動かして、菫はディオンの杯を満たそうとした――と、衣の端がぴんと張られた。
一瞬、族長達の動きが止まった。
なにか粗相でもしでかしたのかと、恐る恐る菫は引っ張られた衣の裾に目をやった。
靴が――海狼ベルクリフの長靴 が、菫の衣の裾を踏み付けていた。そして、その顔には笑みが浮かんでいた。
「今宵の獲物は、一際、珍しい」
六部族長は、こぞって手足を打ち鳴らし、大笑した。
その後に起こった事を、菫は全く理解できなかった。
イルゴールの命で、下女に奥に引っ張って行かれた。ずっと奥まった場所から外へ連れ出され、小屋に入れられた。そこで大きく浅い木桶――湯桶になみなみと湯が張られ、衣が引き剥がされるとその中に入らされた。有無を言わせぬどころか、誰もが無言で――むしろ不機嫌そうに、肌が擦り剥けるのかと思うほど強く、身体や髪を洗われた。そして、今朝に与えられた物とは比べ物にならないくらい上等な香油を塗られ、手足の爪まで検分された。髪は編まれなかった。
そして、新しく渡された衣も真新しいだけではなく、ひりひりとした肌に優しい滑らかで、上等な物だった。麻でも羊毛でも、なかった。
ついといで、と険しい顔の下女頭が菫に顎で示した。
館に戻ると、灯火が点されてもなお暗い廊下を、黙ってついて行くしかなかった。幾つもの扉の前を通り過ぎ、やがて下女頭は歩みを止めた。
「この中で待っておいで」
そう言って菫の手に、心許ないくらい短い灯心しかない灯火皿を押しつけた。「火でも出したら、生かしちゃおかないからね」
それだけを言い捨てると、下女頭は立ち去った。
灯火皿を手に、菫は扉を見た。
今しも獲物に跳び掛からんとしている下半身が魚の獣――海狼ベルクリフの横長の三角旗が、そこには下がっていた。
ゆっくりと、扉を開けた。中は真っ暗で、しんと静まりかえっている。
そっと、中へ入って扉を閉めた。
小さな灯りに、ぼんやりと部屋の中が照らし出された。安楽椅子の背には脱ぎ捨てられたままの衣服が、座面には普段使いの長剣と書物が置かれていた。燭台のある卓子にも書物が数冊と巻物が数巻。例の稀覯本は、その一番上にあった。更に、寝台の上にまで、何冊もの書物。開かれている物も幾つかあった。
写本室から書を持って行ったのは、やはり、この人だったのだ。
読むのだろうか。
売るのだろうか。
それとも、飾っておくのだろうか。
あの丘での海狼の言動から察するに、恐らくは読むのであろう。それにしても、何という量なのか。だが、ここにある分だけでは写本室からなくなった分の半分にしかならないだろう。写本師は「族長二人」と言ったが、族長とは、戦士と何と異なっている事か。
ゆらめき、微かになりつつある灯火に、菫は我に返った。
燭台の傍らには書物がある。
菫は燭台を手にすると火を移した。そして、暖炉の上に、ほぼ消えかけている灯火皿と共に置いた。鯨油蝋燭の灯りに、部屋が明るく照らし出された。
あの容姿からは想像も出来ない事であったが、几帳面、という訳ではなさそうだった。船から運び込まれたのであろう海狼の紋章が彫られた長櫃 には、普段使いらしい革の剣帯や細帯が乱雑に置かれていた。
やはり、身分のある人だった。集落の戦士とは、違いすぎたのも頷けた。
菫は床にへたり込んだ。
境遇の差を、身をもって知った。
会いたい、などとは思ってはいけない人だったのだ。言葉を交わす事すら、本来ならば有り得ぬ人だった。遠くから見つめるだけでも、畏れ多い人だった。
だが、もう遅い。
恐らく、自分は海狼の長剣の錆にもならぬまま、消えて行くのだろう。せめて、その時には柊のように堂々と生命を差しだそう。知らぬ事とはいえ、族長をこの紫の目で見つめてしまったのだ。一度ならず二度までも。この真新しい衣も、上等な香油も、族長への供物なる所以 なのだろう。
そうして…生命を差し出した後、海狼は全てを忘れて再び元の生活へと戻って行くのだろう。自分の死は、その心に何も残さぬままに。
それでも、自分は幸せだったではなかっただろうか。
菫は思った。
神々と見紛うばかりの人を間近に目にする事が出来た。言葉を交わせた。数日でも、再び見 える事を夢見る事が出来た。心の高鳴りを、知った。
それは、幸福な時間ではなかっただろうか。
全ては自分の無作法のせいだった。ここで最初に言われた事を守らなかったからだ。自らの凶眼を、忘れてしまったからだ。
それが恐らく、海狼の逆鱗に触れたのだ。あの穏やかな表情と声の陰に、激しさを秘めている人なのだろう。
ああ、それでも――と菫は思った――それでも、あの方の手に掛かるのなら、かまわない。最後に会えるのであれば。
そう思った途端、目からはらはらと涙がこぼれた。留 めようにも、どうにもならなかった。
不思議と、声は出なかった。ただ、涙だけが、流れてゆく。
どのくらいの時間が経ったのか、扉が軋んで開く音がした。
海狼ベルクリフだった。
後ろ手に扉を閉めると、眉を顰めて海狼は近付いて来た。
「どうした、泣いているのか。誰か、お前に何かしたのか」
その声は愕いているようでもあった。「何が、あった」
菫は止まらぬ涙を拭う事も忘れて跪き、頭 を垂れた。
「ご無礼の儀、お許し下さいませ。どうぞ、ひと太刀にてお願い申し上げます」
一瞬よりも少しばかり長い間があった。そして、海狼の抑えた笑い声が聞こえた。
「何を言うかと思えば」ぐいと顎を持ち上げられた。思ったより近く、海狼の顔があった。息は上等の蜜酒と同じ匂いがした。族長は床に片膝をついており、その顔から目を逸らす事が出来なかった。「お前を殺 めるつもりなど、毛頭ない」
節が高く、長い指が菫の涙を拭った。
「勘違いも甚だしい。お前は何の無礼も働いてはいないし、例え、ここではそうであったとしても、私自身が何とも思わなければ、それは無礼の内には入らん」
ゆっくりと、海狼は菫の手を取って立ち上がられた。
「恐ろしい思いをさせたようだ。済まぬ事をした」その顔は苦笑いに変わっていた。「少し気取った言い方をしてみたくなったに過ぎない。それに、年上の連中は、何かと煩いからな」
そのように自分に話しかける人は初めてだった。どう接すれば良いのか菫には皆目、見当もつかず、目を伏せた。
「その美しい目を何故、伏せる」
海狼という猛々しい呼称とは思えぬ程、その声は静かだった。菫はその言葉に愕いて顔を上げた。穏やかな微笑みが、そこにはあった。
「他部族では紫の目は忌まれているようだが、我が部族では女神の石として、その色の石が良く採れる。遠 つ国の者にも非常に貴ばれる。海神の娘の目。我が部族にとっては、お前はまさに、女神の目を持つ乙女だ。それは族長の護り石でもある」
海神の娘。
菫は、どこかでその言葉を聞いた気がした。だが、直ぐに海狼の青い目に囚われてしまった。
それ故にこそ――と海狼は続けた。
「今宵の伽を、申しつけた」
※ ※ ※
次の朝、菫はぼんやりとして寝台に腰を掛けたまま、海狼の事を思い返していた。
伽、という言葉を理解できないでいると、やにわに抱き上げられ、寝台に押し付けられた。置いてあった書物が落ちそうになり、思わず伸ばした手を海狼は押し止めた。
床に、書物の落ちる鈍い音がした。
――この際には、無粋な物でしかないな。
…。
その後に起こった事を思い出すと、顔が火照った。繰り返し繰り返し耳許で囁かれた言葉も、現実とは思えなかった。
朝まだきに隣で誰かが起きる気配に、寝過ごしたのかと慌てて起き上がり、寝台から落ちてしまった。普段は床に寝ていた為だ。自分は機織り女の小屋にいるのだと勘違いしてしまった。
それにも、海狼は笑いながら手を延べてくれた。どれ程、恥ずかしかった事か。自分の迂闊さも、一夜を共にした人の顔を見るのも。
更に菫を戸惑わせたのは、それから直ぐに身支度を整えた海狼の言動だった。
まだ早いのでゆっくりと休め、と言われた。そして――
――私がここに滞在している間は、お前はずっとこの部屋で過ごし、湯浴みは唯論、私の身の回りの世話だけをするよう伝えておこう。この手に、本当はさせたくはないのだが、洗濯もして貰わなくてはなるまい。書は、自由に読むと良い。
一夜限りの気紛れと思っていた。
あの丘での礼だとするならば、それで充分だろう。例え、一夜でも族長の寵を得るのは名誉な事だ。
だが、海狼は違っていたようだった。あまつさえ、跪いて菫の両手を取り、そっとその指に唇付けたのだ。
族長が。
奴隷女に。
有り得ない。全ては夢なのだろうか、とさえ、思った。だが、先程、一度は部屋を出た海狼が新しい衣と食事を持って来た時に、これは現実なのだとようやく、信じる事が出来た。
衣は館の下女と同じ物だった。真実、海狼は自分の身辺の世話を任せるつもりなのだ。
その海狼は再び――今度は集会の為に出て行った。
食事は朝食の席からくすねて来たのだろうか、麵麭 と乾酪、それと摘みたてのような木苺が布に包まれていた。水差しと杯は暖炉の上、食事用の小刀が必要ならば長櫃の中から探してくれと言われた。
奴隷に自分の小刀を持たせる。
普段から刃物を扱っている一部の特別な奴隷ならいざ知らず、ただの奴隷女に小刀を持たせるなど、有り得ない。いや、長櫃から自分で探せ、という言葉も信じられなかった。
それ程に、自分を信用してくれているのだろうか。
それとも、これは何かの試しなのだろうか。
一日の内、いつ与えられるか分からない食事や、痛みかけの食べ物ですら有り難い生活をつい昨日まで送っていたというのに――それでもまだ、他の奴隷に較べればましだったのだが――まだ温かく、柔らかいであろう良い香りのする麵麭と分厚い乾酪を前にして戸惑うばかりだった。
海狼ベルクリフという人が、何を規範としているのか、菫には理解できなかった。族長の全てがそのような人物ではない事は、イルゴールを見れば分かる。
のろのろと、菫は衣を着替えた。海狼の持ってきた物は衣だけで、帯は自分の物を渡された。二重に巻かなくては下げの部分が長すぎる程だった。
――ある意味、この女には手を出すな、という事だ。
海狼は腰帯を渡す時、そう言って笑った。
部屋の隅に設えられた台に洗面用の容器を置き、水を注いで顔と手を洗った。使った水は下の桶に流す。そして、櫛を手にした。
昨日、木の櫛で梳 られるまで、ずっと手櫛だった。今、手にしているのは、見事な装飾が施された何かの骨か角で出来た櫛だ。本当に、これを使っても良いのだ。海狼も身仕舞いを整える際に使っていた、その同じ櫛だ。鏡も、そうだった。壁に立てかけて髭を整えていた海狼の後ろ姿が、ありありと浮かぶ。
今、その鏡に映じるのは、初めて見る人間ではないような気がした。もしかしたら、忘れてしまった父か母が、このような感じだったのだろうかと思った。だが、やはり、思い出す事は出来なかった。
震える手で髪を梳き、三つ編みにした。
月光のような髪、と海狼は評した。
海狼の事を考えると、きりがなかった。全ての仕種、全ての言葉が、心に残っていた。海狼自身はそこまで考えてはいないだろう。だが、菫は優しくされる事にも大事に扱われる事にも慣れてはいなかった。何ひとつ、忘れたくはなかった。
普通は生で食べる事のない木苺を口にすると、酸っぱい懐かしい味が口の中に広がった。このような物を口にする機会は今までなかった。ここに連れて来られる前に食べた事があるのだろうか、と思った。そうでなくして、何故、懐かしいと思うのだろうか。また、海狼の島では、このようにして食べるものなのだろうか。
食事を終えると、結局は夜着となってしまった上等な衣、海狼が身に着けていた衣服、洗面用の手拭い、そして、そこに残された痕跡に赤面しながらも、寝台の敷布を取りまとめた。
洗濯場に行くにも勝手が分からなかった。取り敢えず部屋を出て左右を見ていると、同じように洗い物を抱えた下女が来た。
「洗い場は、こっちだよ」
無愛想に下女は言い、自分について来るように菫を促した。
外に出て館をぐるりと回ると、何人もの女が、既に物干しに取り掛かっていた。
誰もが、菫を見ては眉を顰めた。中には、憐れむような目を向ける者もいる。
誰一人として、話しかけも教えもしてくれなかったので、菫は見よう見真似で洗濯を始めた。機織りには慣れていたが、洗濯は初めてだった。その内、洗い物を持って来る者と洗う者に分かれており、洗濯女は館の者から一段低く見られているらしい事に気付いた。
「あんただろ、昨夜、族長さまの寵を受けたっていうのは」
昔は美しかったであろうと思わせる女が言った。皆がその女と自分に注目しているのが分かった。もう、知れ渡っているのだ。
「ま、今のうちにせいぜい可愛がられておくんだね。どうせ、集会が終われば他の男に下げ渡されるんだからね」
密やかな笑いが広がった。
ああ、それこそが、やはり、今までに起きた事だったのだ。例え、誰かの目に留まったとしても、それは集会の間だけ。運が良ければ、その地へ連れて行かれるかもしれないが、結局、起こる事は同じなのだ。イルゴールやその戦士達が連れ帰った者に降りかかったのと同じ運命が、自分にも待ち受けているに過ぎない。
だが、自分は一夜限りの慰み者であったのかもしれなかったのだ。それを、十日の間、共に過ごせる――その事だけで、充分ではないか。
その後は、どうなろうと構わない、と菫は思った。先を考えても詮ない事。最早、自分は海狼に捕えられてしまったのだ。
洗濯を終えて部屋に戻ると、今度は散らかった部屋を整えた。だが、書物――その中には菫の書き写した物もあった――を丁寧に積み重ね、剣帯や、船上で身に付けていたのであろう厚手の緋色の外衣を畳んで長櫃の上に置いてしまうと、他に何もする事がなくなってしまった。
そんな事は初めてだった。
洗濯女からは、乾くのは早くても昼過ぎになるだろうと言われていた。
せめて、小さな物でも織る事が出来れば、と菫は思った。随分とくたびれた帯も新調する事が出来るのに。
だが、機織り小屋に行く事は出来ない。それに、海狼からはこの部屋に留まって身辺の世話をするようにと言われていたではないか。
張りもなく、ほつれた帯を手に思いを巡らせていて、はっとした。
あのような人が、これ程くたびれきった帯をしている、というのは、亡くなった奥方からの贈り物なのかもしれない。
どのような方だったのだろうか、それ程にまで愛された女性というのは。
美しく素晴らしい方であったに相違ない。この島の男達は、妻を亡くすと直ぐに再婚する者が多い。女達も、そうだ。しかも男は、妻が健在であってさえ、財力と権力を備えていれば側女を置く者も珍しくない。女っ気がない訳ではない、と海狼はあの席で言っていたが、それでも族長でありながら五年も新しい奥方を娶らずにいるのは、やはり、それだけ愛していた、という事なのだろう。
胸が、痛んだ。
海狼の為にでもなく、亡くなった奥方の為にでも、なかった。
自分の境遇の惨めさに対してだった、海狼の好意という、望んではいけないものを望む自分の、愚かさに対してだった。
海狼の事を想うだけで、胸が苦しくなる。だが、同時に海狼以外の事は何も考えられなくなり、何も気にならなくなってしまう。
この気持ちは、一体、どういう事なのだろう。
自分を身分ある女性のように扱ってくれるからなのか、奴隷という身分を忘れさせてくれるからなのか。
それだけではない。
初めて出会ったあの時、青い目に囚われた瞬間、何かが自分の中で確実に変わった。二度とは元には戻れぬ程に、変わってしまった。
それまではただ、生き延びる事だけを考えていた。それで精一杯だった。
だが、この数日は再びその姿を目にする望みを胸に抱 いていた。
誰もが不安の中にいたというのに、自分はその事よりもあの人――海狼の事を考えていた。夢見る事が出来た。
菫はどきりとした。
そう、杏やすぐり達はどうしたのだろうか。
自分は早々に連れ出されたが、あの後、何があったのか、考えもしなかった。
皆は大丈夫だったのだろうか。野外の喧噪は、自分が海狼の腕の中で微睡 む頃にもまだ、続いていた。
幸福な夢を見ていた間にも、誰かが酷い目に遭っていなかったとも限らない。
それなのに、自分は安全な場所で自らの幸せに酔っていて、そこまで思い至らなかった。
何と薄情な人間なのだろうかと、思わずにはいられなかった。
六年もの間、寝食を共にして来た者達よりも、出会って数日の人に既に心が向いてしまっている。
その理由は、もう一度、皆に会えば分かるのだろうか。
そう思いながらも、菫は恐れていた。
会って、どうなるというのだろうか。
今更、皆は自分を受け入れてはくれまい。
数日後には、全てを失ってしまうのだろう。
それまではせめて、夢の中に身を委ねたかった。
その日の夕刻、菫は暗くなりつつある部屋に灯りを点した。暖炉の燭台の側に火打ち石があったので、それを使った。野外で行われる集会も終わる刻限だった。
ややあって、外から大勢の人の声が聞こえていた。集会から、人々が戻ったのだ。
菫は部屋を一渡り見回した。
多分、これで片付いているはずだ。
長櫃の中に手を触れるのはどうしても出来なかった為、海狼の衣服と帯は整えて上に置いてある。書物も大きさに合わせて書き物机に積んであった。
無造作に椅子の上に置かれていた三尺はある長剣も、剣帯に着けて椅子の背に掛けた。柄や鞘に見事な装飾を施した長剣は、ここの戦士達よりも半尺は長い。それは、鍔のない片刃の小太刀にしても同じだった。短軀の者の長剣くらいの長さはある。だが、海狼の得物は、部族の戦士の物とは異なり、恐ろしくはなかった。自分に対して振るわれる事がないと信じられるからだろうか。
自らの所有物を持たぬ生活であった為に、何をどのようにすれば良いかも分からなかった。これで不興を買う事になっても致し方なかった。
廊下に長靴の足音がして、菫は身構えた。まだ、部屋に戻って来る時間ではないはずだ。
「もし」
男の声が扉の前でした。「申し、宜しいですか」
海狼よりも低い声だった。菫は思わず部屋の隅に隠れた。
しかし、扉は開かず、暫しの沈黙の後、再び同じ事が問われた。
それでも返事が出来ないでいると、今度は「海狼殿の使いで参りました」と男は言った。「お開けしても、宜しいですか」
その丁寧な物言いに、菫は震える声で「どうぞ」と応えた。
扉が開いて入って来たのは、がっしりとした黒髪の男だった。左頬には大きな傷跡があり、髭はそれを隠すどころか、余計に強調しているように見えた。
北海の戦士だ。
菫は身体の震えをどうする事も出来なかった。
しかし、その男の口から出た言葉は、穏やかで丁寧なものだった。
「夕食をお持ちしました」
盆を書き物机の隙間に置いて、男は言った。そして、部屋を見て感嘆の声を上げた。
「集会で、あの方の部屋がこのように整ってるのを見るのは初めてですな。相変わらずの書物の多さには愕かされますが」
そして、菫に目を向けた。恭 しく胸に手を当てて一礼すると、男は微笑んだ。だが、その笑みは傷跡のせいで菫には余計に恐ろしく見えた。
「海狼ベルクリフ殿の副官を務めさせて頂いております、エルガドルと申します。何か御入用の物や、不自由な事が御座いましたら、何なりと御申し付け下さい」
そう言うと、エルガドルと名乗った男は持って来た杯に何かを少し、注いだ。そして、菫の方に近付くと「失礼します」と言って暖炉の上の水差しを手にした。
「御婦人方の好まれる御酒 には疎くて申し訳御座いません。我々の島でのように蜜酒を水で割ってはおきますが、御気に召さなければ仰言って下さい」
気に入るも何も、酒など口にした事もなかった。蜜も、そうだ。
「御済みになりましたら、部屋の外に置いて頂ければ片付けますので」
エルガドルは杯に水を注いだ。「ごゆっくり、どうぞ」
一言も言えずに佇んでいる菫に、エルガドルは微かに眉を顰め、顎髭に手をやった。
「しかし、その格好は頂けませんな。もう少し良い物を明日にはお持ち致しましょう。着替えも必要でしょうし。そういった事には門外漢ではありますが、館の下働きの者と同じ衣服とは、私 めでも承服できません。本当に無頓着で、あの方にも困ったものです。どうぞ、御容赦を」
一礼をして、エルガドルは部屋を辞した。
菫は大きく息を吐いた。
怯えたりして、悪い事をしたと思った。奴隷である自分に丁寧に接してくれたというのに。
身に染みついた北海の戦士への恐れは、どうする事も出来ないのであろうか。
エルガドルの持って来た食事は、菫には多く思われた。普段は、その半分も食べさせては貰えない。調理したてなのか、まだ充分に熱く、良い匂いがしていた。
初めて口にする蜜酒も、舌を刺すような刺激と共に、香りと同じく微かな甘い味がした。
今までの事を思うと、食事を残すのは気が引けた。だが、無理をして食べる事も出来ない。胸が痛んだが、部屋の外に置いた。
大広間と野外では、宴会が続いているようだった。
昨夜は気付かなかったが、エルガドルは副官という事ならば、下座にいたのだろう。それは、どことはなしに場違いな印象を受けた。あの喧騒の中にいたとは信じられぬ程に、エルガドルは穏やかな話し方をする人だった。
それは、自分が海狼とこの集会の間は共に過ごすと聞いたからだろうか。
この日々が終われば、どのような運命が自分に待ち受けているかは分からない。それまではせめて、という憐れみもあったのだろうか。
どのくらいの時間が経ったのか、廊下に再び靴音がして、菫ははっとした。寝台に座って書を読んでいる内に、いつの間にか、うとうととしていたようだった。
何事かを話しながら、その音は近付いて来た。そして、部屋の前で止まると暫くして海狼が姿を見せた。朝に出て行ったのと同じ赤錆色の正装に身を包み、儀式用の長剣と小太刀を佩いていた。その視線が菫に止まると、破顔した。
「退屈ではなかったか」
菫は頭 を振った。
長剣もそのままに、海狼は菫の横に腰を下ろした。
「エルガドルに言われた。気の利かない事で済まなかったな」
「いいえ」
ようやく、それだけを言った。隣にいる海狼の存在が大きすぎた。
「食事は毎回、エルガドルが運んで来る。散々、小言を食らった。朝食の席からくすねて来たような物を食べさせてはいけない。生け垣から取って来た木苺など、とんでもない。衣服も考えろ、とな。私は、どうも、その辺りの事には気が回らない」
族長なのだから仕方のない事だと、菫は思った。集会では様々に心を砕かねばならないだろうから、一時 の相手に気を配る必要など、ない。
「それなりに遇しなければ誤解されるだろう、と」
何をどう誤解するのか、菫には分からなかった。それなりに、の意味すら、汲み取れなかった。
「だが、まあ」海狼は菫を見て苦笑した。「忠告には従わせて貰う。愛想を尽かされては、困るからな」
菫は、返す言葉を知らなかった。
事件を知ったのは、四日目の朝だった。
集落の女性と同じような衣服に身を包み、いつものように洗濯場に出た菫は、遠目に見覚えのある数人に付き添われた赤い髪の娘に気付いた。
すぐりではないだろうかと思ったが、その様子はどこか、おかしかった。
洗い物を途中で放り出すと、菫はそちらへ駆け寄った。
赤い髪の娘は、やはりすぐりだった。
そして、はっとして足を止めた。
美しかったすぐりの顔は赤黒く腫れ上がり、右眼には血の滲んだ布が巻かれていた。そして、両側から支えられていないと歩く事も出来ない様子だった。
「いったい、なにがあったの…」
思わず出た言葉に、娘達は一斉に菫を見た。一瞬、その目が見開かれた。
「あなたには関係ないことでしょう」
一人が冷たく言い放った。「あなたは海狼とよろしくやっているんだから」
今まで自分に向けられた事のなかった冷ややかな視線に、菫はどきりとした。
「やめなさいよ」弱々しくすぐりが言った。「菫のせいじゃ、ないわ。何もできやしないのは、誰だって同じよ」
「そうね、だから、関係ないって言うのよ。何も知らないくせに」
強い口調に菫は茫然とした。やはり、皆は自分を受け入れてはくれないのだ。
そっと腕に触れる者があり、菫はびくりとした。杏だった。
「ちょっと――」
杏は菫を皆から少し離れた所に引っ張って行った。
「昨日、すぐりはあの赤い髪が気に入らない、と言って殴られたの。何度もね。しかも、族長達が退席した後、何人もの男達に乱暴を――」
ああ、と菫は両手で顔を覆った。人を人とも思わぬ所業。海で、戦で鍛えた戦士が女を殴ればどうなるのか、分かりそうなものなのに。酔っていたにせよ、酷すぎる。奴隷だから、そうされるのか。
「すぐりの右眼は、見えなくなったわ。もう、織り女としてはやってはいけない。下働きとしても、無理かもしれないわ」
「そんな――」
菫は絶句した。決して良い織り女とは言えなかったが、下働きすらも無理だと判断されれば、死を宣告されたも同然だ。
「今は皆、気が立っているの。そっとしておいてほしいのよ」
――誰もが、あなたのように幸運を摑むのではないのだから。
そう静かに言うと、杏はゆっくりと離れて行った。
力なく洗濯場に戻り、上の空で仕事を終えた。
酷すぎる。
しかし、自分に出来る事は何もなかった。恐らく、すぐりは捨て置かれるだろう。その後には、自分も同じ運命を辿らぬとも限らないのだ。
そう、海狼が去れば、洗濯場の女の言ったように他の男に下げ渡されるのだろう。族長の寵を得た女は、捨てられてさえ、部族の戦士にとって特別な意味を持つものらしい。そうする事によって、族長の力を少しでも得ようとするのだと洗濯場の女達は言った。
自分に、それが耐えられるだろうか。
心を海狼に囚われたまま、そのような事が。
だが、その運命を受け入れるしかないのだった。
遂に最後の夜が来た。
海狼は湯桶に浸かりながら言った。
「何も恐れる事はない。全ての話は付いた。お前は唯、私の側を離れずにいるだけで良い」
海狼の言葉を全く理解できず、菫はその黄金の洗い髪を乾かし、梳 った。この人の船が去ったら、最早、自分に生きている意味などなくなってしまう。
「明日には、あなたは去っておしまいになるというのにですか」
「まさか」
笑いを含んだ海狼の言葉に、菫は愕いて手を止めた。
「お前を置いて行くなど、考えた事もない。最初から言って来た
そうだった、海狼はそう囁き続けていた。だが、それは手練手管に長けた男の戯れ言ではないのか。
「私はお前を、妻として迎える、と言ったはずだ」
それも、閨での睦言の一つではないのか。菫は海狼の髪を梳かし終えると、香油を手にした。この見事な髪に触れるのも、これが最後だ。
「奴隷女が、族長の妻になど、なれるはずがありませんわ」
それが、現実だ。だが、海狼は振り向いて菫を見た。その目には、真剣な光が宿っていた。
「私の母は奴隷だった。そして、父の妻で、唯一人の女だった」
族長の母親が奴隷など、信じられなかった。余程の事情があって、奴隷に落とされたのだろう。
「あなたのお母さまは、そうだったのかもしれません。でも、わたくしは、あなたに相応しいでしょうか」
「私の母は由緒正しき代々の奴隷だった」海狼は微笑んだ。「弟の出産で生命を落とすまで、立派に族長の妻としての役割を果たしたと私は思っている。却って、お前に私は相応しいのだろうか、と思う」
それに――と海狼は続けた――お前は海神の娘の目を、有している。
真実なのかどうかと逡巡しながら、菫は香油を丁寧に塗った。
「海での誓いは神聖なものだ。明日、船上で皆の立ち会いの許で正式に求婚しよう。エルガドルは元より、私の部下達は承知の事だ」
だから、お前に付ける女を二人、選べ。
一瞬、その言葉が信じられなかった。
「気心の知れた者がいた方が、お前も新しい土地で暮らし易かろう」海狼は言った。「その位の事しか、してやれんがな。何、お前を手放したがらぬイルゴール殿を口説くには手間取ったが、それに較べれば大した事はない。奥方は殊に、お前の事を気に入っておられたようだが、あの宴席にいた以上は、拒否は出来ぬ。本来ならば、お前は宴には出されぬ事になっていたらしいからな、私は幸運だ」
快活に笑うと、海狼は少し身を起こした。
「ああ、私は実に、幸運な男だ。大した苦労もなくお前を見い出せたばかりではなく、こうして我が物にする事さえ、出来たのだからな」
海狼は上半身を捻って菫の顔を見た。
「誰にも、お前をは渡しはしない。根の国からでさえも、取り戻してみせる」
その表情は、これまでに見た事がない程に、厳しいものだった。
数日後には、北海の七部族長の集会が開かれる。
そこで何が話し合われ、何が決まろうとも、娘には関わりのない事だった。ただ、多少の運命の変化はあるのかもしれないが、それほど重要とも思えなかった。この身に何が起ころうとも、首に付けられた鎖は変わらない。
もう、自分がどこで産まれ育ったのかも忘れてしまった。両親の顔も声も、他に家族がいたのかも、もはや思い出せなくなってしまっていた。幼い頃から、この地でずっと同じ生活をしてきた。初めは重かった鎖も、今では身体の一部のようにしか感じられなかった。
午前中は文字の読み書きが出来たので写本師を手伝い、午後は機織りを中心に、糸の染めに使用する材料や薬草の採取を行う事もある。急ぎの仕事のある時には、他の娘達が草採りに出かけても
だが、来年は――
生死すらも、定かではない。
そういうものなのだ、所詮、奴隷というものは。
十年以上、生かされてきた、というだけでも幸運な方だろう。一年と経たずして生命を落とす者も少なからずいる。特に、南方から連れて来られたり、重労働に従事させられる者は、ここの冬を過ごせない者も多い。
ここでは、生き残る事が全て。過去がどうあろうと、今、この時があるのみなのだ。北海とは、そういう場所。奴隷とは、そういう存在だった。
彼方には船影が見えた。
いよいよ、族長達が集まり始めたのだ。
この丘からは、集落への入り船を最も遠くから見つける事が出来た。禁足地でさえなければ、族長集会が近付くと人々はここで船を見張っていた事だろう。
知らず、籠を持つ手に力が入った。
自分は、この日の為にのみ、生かされて来たのかもしれない。他の、何人もの機織り
集落に戻ると、迎え船が出て行ったところだった。
初船はどこの族長なのか、物見高い人々が浜に集まっている。中には、屋根に登っている者もいた。
何と言っても、七年振りのこの島での族長集会だ。他部族からの珍しい話も聞けよう。集会土産の物品もあろう。旧友とも会えよう。戦士階級の者や自由人にとっては待ちに待った瞬間だ。
集落の人々のはしゃぎように、娘はそっと溜息をついてその場を通り過ぎ、染色小屋へと向かった。
独特な臭いに満ちたその小屋では、娘と同じく首に鎖を付けられた男達が働いていた。
「茜草と、少しばかりですが、紫根です」
「紫根か」
染色小屋の親方が籠を検めた。
「これっぽちでは、どうにもならん。もっと探して来るんだな。族長が紫を多用した胴着を好まれる事は、分かっているだろう」
そう文句を言いながら、紫根を特別な甕に入れた。
紫根の価値は、その発色の美しさは無論の事、稀少性にあった。族長好みである理由も、そこにあるらしい。だが、根を採り尽くしてしまっては、元も子もない。例え、群生地を見つけたとしても、全てを採取してしまうと、次の年から何も生えて来なくなる。それは、染め用の植物だけではなく薬草にも言えることだったが、染色にしか従事して来なかった親方には埒外の事なのかもしれない。
「もうしわけ、ございません」
娘は謝った。新しい親方の小言にも、慣れた。親方になって間が無いこの男は、まだ自分の権限に自信が持てないのだろう、しょっちゅう怒鳴っていた。
先代の親方は、自由人でありながらも娘には優しかった。子の無い人だったからだろうか、魔女の目にも臆する事なく、幼かった娘に染料の材料や媒染について様々な事を教えてくれたし、こっそりと食べ物もくれた。その死を悲しんだものだった。
染色小屋を辞し、族長の館にある機織り小屋へ入った。いつもはいる仕切り
「族長集会の初船が来たらしいわ」
娘の右隣の織り女が言った。「慌てて飛び出して行ったわ、あの婆あ」
その言葉に、あちらこちらから、くすくす笑いが聞こえた。
「でも、遅かったわね、後で叱られるかもよ」
左の織り女が言った。
「そうね、でも、しかたのないことだわ」
娘は
「わたしたち、どうなるのかしら」誰かが溜息混じりに言った。「みんな、お払い箱だ、って仕切り女は言っていたわ。あなたが一番、長くここにいるのでしょう、
娘――菫は首を振った。
「わからないわ。わたしに織りを教えてくれたのは、随分と歳のいった
「なら、あたしは無理」見事な赤い髪の娘が言った。「無地しか織れないのだもの。あんただったら、残れるでしょうけど」
「そんなふうに言わないのよ、すぐり」
左隣の娘、
「不安なのは、みんな一緒なんだから。一番不安なのは、長くいる菫のほうだと思うわ」
そうだ、この機織り小屋で、自分が一番長く、ここにいる。
菫は改めてそう思った。
前の集会の時には、まだ若すぎた。その前となると、幼かった。二度とも、ここから妙齢の娘達の行く末を見て来た。それを、この六年で集められた機織り女達に話す気にはなれなかった。
奴隷とはいえ、機織り女は族長の館で表に出て使われる奴隷に次いで、待遇は良い。朝晩の食事も時間と量はともかくとして、きちんと与えられるし、手が綺麗でなくてはいけないので清潔にもさせて貰える。手が荒れないように、ほぼ香りが抜けているとはいえ香油まで塗らせてもらえるのだ。そして、自分以外は皆、美しい。
――美しいからと言って、幸せになるとは限らない。醜いからと言って、不幸とは言い切れない。それが、わたしたちのような女の運命なのだよ。
人々から嘲笑され、忌まれたその
見た目はどうあろうとも、菫は柊が好きだった。その手から魔法のように綴られる模様は当然の事ながら、その人なりが好きだった。奴隷の身でありながら、どれほど嘲られようとも、常に凜とした姿勢を崩す事がなかったからだ。密やかに言われていた事だったが、元々、柊は身分のある美しい女であり、その地がこの部族に襲撃された時、自ら火を顔に押し当てたのだという。笑い者にしながらも、集落の男達がその目を向けられると言葉を失い、気まずそうに立ち去る姿を何度となく目にした。だから、それは本当の事だと今でも菫は信じていた。
そのような女性から、菫は手ほどきを受けた。幼い内から織り続ける事が肝要なのだと、言われた。
そこそこ
の物は織れるようになる、と。しかし、族長や奥方が手放したくなくなるような技を身に付ける事が、ここで生き抜く術であるとも教わった。そう――そこそこでは、駄目だ。
だからこそ、菫は一心に織った。だが、今の族長の娘の普段着から晴れ着へと、その生地が使われるようになった頃、突然、柊は生命を断った。
――ああ、これでようやく、わたしは自由になれる。お前が、わたしを自由にしてくれた。
それが、菫にかけられた最後の言葉だった。
柊は、族長の奥方の晴れ着になるはずだった豪奢な生地を織り上げ、それを見に来た奥方の目の前で、神々にこそ相応しいようなその布を、笑いながら火に投じた。狂乱した奥方は、すぐさま柊の首を刎ねさせた。
それ以来、一番の織り女はまだ若い菫となった。
それが、「自由」なのだ。
自分達のような奴隷にとっては、生命と引き換えででもなければ手に入らぬもの。病気や老齢で死したとしても、決して外される事のない鎖。
「自由」を手に入れるという考えは魅力的ではあったが、恐ろしく、また、危険なものだった。
だからこそ、菫はその事をなるべく考えないようにしていた。
自分が今、織っている豪奢な生地は、明日には仕上がる。そうしたら、すぐさま族長の娘の晴れ着に仕立てられるだろう。集会後の宴席で、娘はそれを着て、他の族長達や後継ぎ、側近らに紹介される。それは、人々の目にどう映るのだろうか。衣装が娘を引き立て、見染める者は現れるのだろうか。
族長や奥方がそれを期待しているのは明白だった。七部族の長が一堂に会する席に娘を披露できるのは七年に一度。これ以上の好機があるだろうか。当人同士抜きの話し合いよりは、ずっと効果的だ。
だが、もし、縁談が纏まらなかったら、その矛先は自分に向けられるであろう事も分かっていた。如何に理不尽であろうとも、それを受け入れなくてはならないのが、奴隷だ。
代償は、最悪で死。良くても交易島で売られる事になるのだろうか。
写本が出来るからと言っても、容赦はされまい。例え、この部族の収入源の少なからぬ割合をそれに負っていたとしても、代わりは幾らでも手に入るだろう。
幼い頃に美しい文字が書ける、という理由で手伝う事になった写本。機織りも好きだったが、写本の仕事はまた、違った意味で好きだった。写本師は気難しい人だったが、気まぐれながらも幼い菫に目を掛けてくれた。文字を読み書きできる者はいつでも歓迎だと言い、文字や装飾を写すだけではなく、写本には内容の理解も必要なのだと、更なる読み書きも教えてくれたので、書物を写しながらも遠い世界、自分とは縁のない美しい世界を知る事が出来た。また、装飾は織物の文様に生かす事も出来た。
この部族では、人々は書物に商品以上の価値を認めてはいなかった。また、興味もないようだった。それでも掠奪に欠かせないのは、市で高額で取引きされる事もある為だった。奪われた書を買い戻す為に法外な銀を支払う者や、実物と見分けがつかないほど精巧に制作された写本を実物と勘違いし、結構な値をつける者までいると写本師は話した。だが、族長の中には書を好む者もおり、そして、その目は厳しい、と。
掠奪――この地のように寒冷で限られた作物しか育たぬ島では、冬を越す為にも豊穣の地より収穫物を掠奪する事によって、ようやく冬をしのげる事も多い。実入りの少なかった年には、多くの奴隷が生命を落とす事になる。
北海の海賊七部族――そう、
そう呼ばわった囚われの男は当然、部族の者の逆鱗に触れ、他の奴隷への見せしめの為、広場に打たれた杭に縛り付けられた。飢えと渇き、老若男女を問わずの
その頃にはこの生活に適応していた菫には、そこまでして反抗する意味が分からなかった。何にも逆らわず、ただ、命令されるがままに、主人達の機嫌を損なわずに生きて行くのが良い、と思った。また、誰かにそのような事を言われたような気もしていた。
何があっても、生き延びろ、と。
時には、自由に行動できる部族の人々を羨ましいと思う事もある。注文や期限を切られるのではなく、自分の好きなように機を織りたいと思う事もある。だが、ここで以外の生活を思い出す事も出来ない身の上に慣れてしまうと、最早、生き延びる、というその一事のみが大切になるものだ。
「あぁあ、どこかの族長さまの目に留まって、ここから出たいものだわあ」すぐりが言った。「そしたら、あたしだって楽ができるのに」
「何を寝ぼけた事を言っているの。わたしたちは、どこまでいっても奴隷よ。この鎖がある限りはね」
自分の鎖を引っ張って杏が言った。
その通りだ――と、黙々と機を織りながら菫は思った。その通りだ。この首の鎖がある限り、自分達は主人にとっては財産であり、
もの
でしかない。家畜と同じで、簡単に取引され、殺され、自分の意志を持つ事すらも許されない。しかも、この鎖は鍛冶屋によって、決して外れないように継ぎ目を潰されている。一生、外れる事はない。柊のようにならぬ限りは。すぐりの言ったように、族長やその側近に気に入られてこの地を出た女奴隷もいる。だが、逆に、他所での集会で族長や戦士達が連れ帰った美しい女奴隷達の行く末がどうであったか――運が良ければ愛人として留め置かれるが、飽きれば捨て置かれ、子を産んでもその身分は変わらない。そして、その若い生命を落とす事も少なくはなかった。
「ま、十日間もあるのだから、せいぜい頑張りなさいな。あなたがどこかの馬鹿なお坊ちゃまでも引っかけることができれば、奇跡だと思うけど」
「そんなこと言って、後で吠え面かくんじゃないよ」
普段から仲の悪い二人だったが、今回はいつもの諍いの域を遙かに越えていた。仕切り女がいないという事もあるだろうが、自分達を待ち受けているものが何なのか、不安で押し潰されそうになっているのは明白だった。集会後に何が待ち受けているのか、知る者はいない。
「いいかげんにしなさいな」
今にも摑みかからんばかりの二人に、誰かが言った。「いつ、あの婆さんが帰ってくるかわからないわよ」
表情までは見えなかったが、菫には二人とも不服そうなのが分かった。ここでは、不安も不満も、全て心の奥底に沈めておかなくてはならないのだ。
機織り女は、身体に傷が付くような罰は与えられない。鞭打ちも焼き印もなし。機織り場の女奴隷は、集会の饗応の場に出されて給仕や酌をする役を担わなくてはならないからだ。
その為に、七年に一度のこの時期に年頃を迎えるここの女奴隷は、他の者達よりは、大切にされて来たのだ。
だが、その饗応は――
明日の事を誰が知ろう。ましてや、十日も先の事を。
菫はただひたすらに、機を織り続けた。
一心に織り続けた成果か、思ったよりも早くに生地は完成した。それを見に、奥方と十六になったばかりの娘本人がやって来た。
「本当に、お前の織る生地はいつ見てもいい出来だね」
菫は
しきたり
の一つだった。そして、紫色の魔女の凶眼を人に向けてはならない、というものも。「お母さま、早くこれを仕立てさせましょう。急がせれば、気になるところを直させる時間もたっぷりあるわ」
娘のはしゃぎ声に、奥方も上機嫌だった。
「そうね、すぐにそうさせましょう。それからお前、今日は褒美に特別に機織りは免除しましょう。薬草なり染料なり、草摘みに行っておいで」
余程、機嫌が良かったのだろう、脇に控えた仕切り女が愕く程の特別な計らいだった。
「奥方さまの特別なご配慮なんだからね、いい気になるんじゃないよ」仕切り女は険しい顔で言った。「怠けたら、分かっているだろうね」
皆が、二日続けて外に出られる自分を羨ましがっているのが、痛いほど分かった。それも、日が暮れるまで。監視がいない分、ある意味での自由だ。
行って参ります、と言い残し、大きめの籠を手に菫は機織り小屋を出た。
朝から何度か迎え船が出ている浜は大層、賑わっていたが、菫はそれには目もくれずにいつもの海の見える丘へと向かった。
続けて草摘みに出かけるのは、ここでの長い生活でも初めてだった。風は心地よく、集落を一望できる丘の草は爽やかな音をたてて
機織り女の誰もが、自分だけの草摘み場を持っていた。菫が受け持つこの丘は、あの柊から受け継いだものだった。草摘み場は、薬草や染料の材料となる植物が多数生えている場所だ。ここでは、余程の事がない限り、家畜の放牧は禁じられている。たまに逃げた羊や山羊が迷い込む事があったが、それは家畜番の罪となる。人の出入りも許されぬ、禁足地だった。
夏の終わりには、また、男達は掠奪の遠征へと向かうだろう。食糧の為だけではなく、奴隷も連れ戻って来る。その様子も、この丘からは見えた。
夏には鯨や鯱を追い、それが終われば陸地を襲う。長い冬はその手柄話で酒をあおる。それが、この島の戦士達の一年だ。他の部族もそうは変わるまい。時には、戦いの為に戦っているようにすら見える事もあった。
今年は何人の奴隷が死ぬ事になるのだろうか。自分の知っている者、いや、自分もその中に入る事になるのだろうか。集会までは機織り女としていられるだろうが、その後は分からない。
そう思うと、気持ちよかったはずの風が、急に冷たく感じられた。
ぶるっと身を震わせると同時に、菫はその不吉な考えを振り払った。そして、草を摘み始めた。
前の日には染料を摘んだので、この日は薬草にした。特に必要とされるのは、傷や痛みに効くもの。あるいは、長い冬の間の、子供の為の解熱効果のあるものだ。そういう薬草を中心に摘み帰れば、まず、間違いはない。時には貴重な薬草も見つかったが、それは季節の最後まで残しておくつもりだった。どのみち、奴隷には縁のないものだった。
丘の中ほどまで進んで行くと、少し上あたりに、何か異質な物がある事に気付いた。この丘には、自分より他に足を踏み入れてはならないはずだった。
だが、確かに、誰かがここに来たのだ。
その者が、証拠となる品を落として行った。
それが誰であれ、何であれ、手を触れる事は出来ない。盗んだと言われて、何人もが無実の罪で仕置きを受けている姿を見て来た。だから、無視しようとした。
しようとした――が、出来なかった。
そこにあったのが、書物であったからだ。
革で装丁された、小さいながらも分厚いその古い書物には見覚えがあった。
写本師が特に手をかけて書き写していたものだ。だが、まだそれには古色加工を施してはいなかったはずだ。
古び具合からも、明らかに写しではなく、原本。
誰が――なぜ。
様々な疑問が浮かんでは消えた。
これには決して手を触れてはいけない。
余りに貴重なものだ。
くすんではいたが題名や小口には金があしらわれており、菫のような者が手に取っている所を見られでもすれば、即刻、死を賜るであろう、禁忌。
だが、見てみたい。
ずっと、そう思っていた。
中にはどのような装飾が施されているのか。どのような絵が描かれているのか。革表紙に浮き出ている複雑な植物文様を、もっとはっきりと確かめてみたかった。
書物の名前だけでも、知りたい。
菫はそっと近付いた。
手にしては、いけない。
書物は裏を向いていた。
触れてはいけない――そう分かっていながらも、菫は手を伸ばしていた。
恐れ、それとも昂ぶりからか、震える手でそっと革表紙に触れた。
一旦、触れてしまうと、もう抑えがきかなかった。
手に取り、金で捺した書名を見たが、そこには理解の出来ない難解な言葉が並んでいた。
角度を変えると、浮き出した複雑な文様が全体にあるのが分かった。革の深い色と黄色を組み合わせると、この表紙のような効果が出るかもしれない。
得心ゆくまで表紙を眺め、開いてみる。中の羊皮紙には、表紙よりも細やかで、美しく彩色された縁飾りが描かれており、それは次の頁も、その次の頁も同様であった。恐らく、全ての頁が、この美しい文様で彩られているのだろう。絵のない、文字ばかりの書ではあったが、美しさでは本文の飾り文字も素晴らしく、美麗な絵を多く入れた物と較べても、全く遜色ないものだった。
内容ははやり、菫には難しすぎて理解出来なかった。知らない言葉も多く、これは一体、誰が何の為に書いたのだろうかと思わずにはいられなかった。
菫は夢中で書を繰った。
よく見ると、頁を彩る文様も少しずつ異なっている。何という手間のかかった物なのだろうか。写本師が、誰にも触れさせなかったのも道理だった。
「そこで何をしている」
突然、男の低い声がした。菫の心臓は大きく跳ね上がった。
慌てて書物を置くと平伏した。身体が大きく震えた。禁を犯した。この場で切り捨てられても仕方のないような、恐ろしい禁を。なぜ、この禁足地に男がいるのかなど、思いも及ばなかった。
影が、自分の上に差したのが分かった。
「これは、お前が見つけたのか」
「もうしわけございません」
殺されるかもしれない、と思うと、身体だけでなく声も震えた。
「何を謝る」
存外の穏やかな声に愕きながらも、身構え続けた。
「わたくしのような者が、そのような貴重なお品に手を触れるなど、あってはならぬことでございます。でも、決して盗もうなどとは…」
「何を言っている。むしろ、感謝するのは私の方だ」
思いもかけぬ言葉に、菫は顔を上げた。
そこに立っていたのは、集落の男ではなかった。
いや、そもそも、集落だけでなく、この島の者がここに立ち入る事はないのだ。
緩やかに波打つ肩より長い金色の髪に青い目、潮焼けした肌の者なら、山ほどいる。だが、この男にはそれ以上の何か――島の族長にすらない
何か
があった。そして、それを言い表す言葉を菫は知らなかった。まるで、神々の一人のようだ、としか思えなかった。長身で痩せており、身なりも良かった。腰に佩いた長剣は部族の物に較べると細身で長く、部族の男達が正面に佩く何と、美しく立派な人なのだろうか。
菫は目が離せなかった。集落の者に、そのような形容を思い浮かべた事などなかった。物語に登場する美しい男、というのは、このような人を差すのだろうかと思った。
ゆっくりとした動作で、男は書物を拾い上げた。
「文字が読める――のか」
「多少は」
慌てて菫は目を伏せた。凶眼で見つめてしまった。これは重大な過失だ。声の震えをどうする事も出来なかった。畏れは恐れに変わっていた。
「珍しいな。書物に興味のある
揶揄うような物言いだったが、悪い気持ちはしなかった。そこには嘲笑ではなく感嘆が感ぜられたからだ。そして、穏やかな低い声は、いつまでも聞いていたくなるような気持ちにすら、させた。
「こちらの写本師から無理矢理手に入れた物だ」訊ねもしないのに、男は言った。「この辺りを散策している間に懐から落としたらしく、途方に暮れていたところだった」
言葉も荒くない。本当に、この人は北海の戦士なのだろうか、と思った。
それにしても何故、この人は奴隷である自分に対して、こうも丁寧な話し方をするのか。
「取り敢えず、礼を言おう。今は少し、急がねばならん。機会があれば、是非とも何か礼をしたいのだが」
名は、何と言う――
男の問いかけに、菫は再び平伏した。
「お礼など、とんでもございません。わたくしのような者に、そのようなお気遣いは無用にございます。でも、どうか、大切なお品にふれましたることは、ご内密にお願い申し上げます」
「相分かった。ただ、私とても、稀少な書を失いかけたとは言えんよ」男は笑った。「さて、そろそろ陽も傾こう。娘子が一人で戻るには、足元が危うかろう。送って行こう」
愕いた事に、男は菫に手を差し出した。まるで、身分のある女性ででもあるかのように。
菫は混乱し、慌てて籠を手にした。幸いにも充分な量は採取できていた。
「わたくしめは慣れております。お許しをいただけますなら、これにて失礼しとう存じます」
「――紫の目とは。何とも珍しく、美しい」男は言った。「許すも何も、私はこの地では何の権限も持たぬ
その言葉に、菫は弾かれたように立ち上がり、丘を駆け下りた。
一度だけ途中で振り向いてみると、男は先程のまま、じっと菫を見つめていた。心臓が、締め付けられるようだった。
次の日、普段のように写本師の許を訪れると、あの稀覯本はもとより、写し終えた物の内、出来の良い物ばかりがなくなっていた。その中に自分の写本が含まれている事に気付いて、菫は少しばかり嬉しくなった。どこの誰かは分からなかったが、価値を認められたように思った。
「族長集会が終わるまで、織物に専念させろ、との事だ」
写本師はそう告げた。「族長二人で寄ってたかって、この有様だからな。人手が欲しいのは山々だが、集会の為の急ぎの仕事があるそうだ」
集会の間、各部族長やその部下達は、集落の物品を購入したり交換したりして行く。交易島に較べて種類は少ないが、注文に直ぐに対応できるのが直接取引の魅力だと言う。
機織り小屋では、装飾品を数多く織るようにと仕切り女が言った。男女問わず、細帯、飾り紐、女性用の小物袋…数時間で織り上がり、直ぐに仕立てられる物。
各色ごとに分けられ、山のように積み上げられた糸から、必要な物を各自、取っては織る。今回は、大物用の
菫には、特別に意匠の指示があった。各部族長の呼称に合わせた飾り帯を言い付かったのだ。
龍心エリアンドには龍の図柄の中に心臓をあしらう。
黒鷲ディオンは愛鷲と聞く黒い海鷲を。
乱雲ドルファは飛び行く雲を意味する尾を引く渦巻き。
熊殺しアルリードには、絵でのみ知る熊に素手で立ち向かう人物。
信天翁ボイドルは、その名の通りに大きな翼の信天翁を。
そして、この島の族長、狂戦士イルゴールには、獣の皮を被って剣を振りかざす戦士というお気に入りの模様を、派手目にという事で贅沢に金糸を織り込む事にした。初めての座の取りまとめ役として、威厳を示したいのだろう。だが、この金の糸は女奴隷の髪だった。菫の髪は金糸にするのは色が薄すすぎたが、誰か、豪華な金髪の女奴隷がこの為に髪を切られたのだ。そして、再び、その為だけに伸ばされるのだ。
菫はイルゴール以外の誰もその姿を目にした事はなかった。全ては想像で織るしかなかった。気に入ってもらえるよう、似合っているようにと祈るしかなかった。もし、そうでなかった場合には、すぐさまこの小屋を追われるか殺されるかするかもしれない。
せめて、もう一度、あの
どこの誰とも分からぬ人。
世の中には、あのような人もいるのだ。
だが、あの
そうしなければ、この北海の七部族は生きて行く事は出来ない。灰色の冬の海と白く覆われる大地は、厳しすぎる。
分かってはいたが、哀しかった。
あの穏やかさの陰に、残酷で冷たい戦士の顔があるのだ。希望や期待を持ってはいけない。勝手な幻想を抱いては、いけない。
「大丈夫なの」機に
「族長たちへの贈り物を言いつかったのですもの、しかたないわ」
「――それは分かるけど、多少、手を抜いても、あなたのなら分かりはしないわよ。この五日で他にも言われているのでしょう。無茶よ。もっと早くから織らせてくれなくては。お嬢さまがなかなか模様を決められなかったせいもあるし。あの族長にそっくりなご面相にそばかすだらけじゃあ、何を着たっても、そう変わりはしないのにね」
「心配してくれて、ありがとう。でも、手を抜いたものを出す訳にはいかないわ。それに、お嬢さまにとっては一生に一度の晴れ舞台ですもの」
「本当に、真面目ね、あなたって」呆れたように杏は言った。「まあ、だから、あなたなのでしょうけど、損な性分よね」
菫は自分でも弱いと思いながらも微笑みを返した。
そう、七本の男物と、それぞれの奥方への飾り帯。全てを異なった文様と色で、しかも、二人並んだ際に違和感のないように織らなくてはならない。市に出す用の生地とは違って早く織り上がるが、知恵を絞らなくてはならなかった。だが、それはそれで苦しくはあったが、達成感のある仕事だった。
違う世界に住む人々が自分の織った布を纏い、あるいは飾ってくれる――それは不思議な感覚だった。北海の片隅で奴隷の鎖に縛られている自分の織物が、世界のどこかに存在する。それが、自分の代わりに海を渡り、世界を見ているのだ。
本当に、自分が魔女の目を持っているのならば――と菫は思う事があった――織物に忍ばせた文字を通じて世界を見る事が出来るのに。
だが、自分にはそのような力などありはしない。人々が勝手に恐れているだけだ。もしかしたら、この紫の目のお陰で生き延びる事が出来るかもしれない。しかし、逆に、この目のせいで、厄災を背負って
だが、今はそのような事を考えている場合ではなかった。
菫は再び機織りに集中し始めた。
族長集会の初日、二十人余りの年頃の機織り女達は、朝から仕事を免除された。族長の館で働く
誰かの着古しではない衣、というのは初めてのような気がした。
黙々と、下女達は準備を進めて行く。普段の族長の館での宴席では、この女達が給仕をする。だが、集会に関しては、女奴隷の中でも年頃の者を集めた機織り女が行う事になっていた。それに関しては、二度の集会を知っている菫とて、はっきりとした理由を知っている訳ではなかった。
何故なら、給仕に出た女が機織り小屋に戻る事はなかったからだ。
小耳に挟んだところでは、捨てても惜しくはないから、いう理由だった。
酒が入って何か揉め事が起こり、万が一、長剣に掛けられた和平の紐を切って剣を抜く者があっても、機織り女ならば、殺しても弁償をすれば良い。酌をするのに若い女が必要だが、その為に、集会に合わせて年頃を迎える美しい娘を用意しているというのだ。館の下女では、普段の仕事に加えて館に泊まり込む族長達の世話に差し障りが出るかもしれないからだ。また、若く美しい者の数も足りない。
酔ったまま娘を立たせて矢を射てみたり、乱暴をするといった残酷な仕儀の事も聞いた。族長達はさすがにわきまえているが、若い後継者達や側近達は――
恐ろしくて仕方がなかったが、鎖の身では、それを拒否する事は許されない。
拒否して速やかな死を選ぶか、生き残れるかもしれない道を選ぶか――それは不安以上に恐ろしかった。
給仕についての説明は殆どなかった。
皿が空になる前に新しい料理を置き、杯をあおった者には、すかさず酒を注ぐ。
そのくらいのものだった。
代わりの者は幾らでもいる。だから、多少の粗相での暴力や無礼打ちは仕方がないという事なのだろう。賠償金も入るのだから、族長に損はない。
皆、緊張しているのが分かった。あのすぐりでさえも蒼ざめた顔をしている。
そうであっても、すぐりも杏も…他の皆も何と綺麗なのだろうか。そして、さして美しくも無い自分が、魔女の目を有している自分がなぜ、ここにいるのだろうか。
菫は思った。
若く、美しい盛りの者達が、饗宴の犠牲になるかもしれないなど、余りにも残酷だ。
自分は、地べたにへばりつき、茎を伸ばして花を咲かせても気付かれずに踏み躙られる野草から、名付けられた。そういった人生であっても、特に人目を引く事なく、ひっそりと生き延びる事が出来れば幸いと言うべきなのかもしれない。
過去の美しい女奴隷達に落ちた残酷な運命の
身に覚えのない罪を着せられて殺されるか、役に立たなくなったと判断されて餓死させられるか、海が荒れて船が出せぬ時の神への供物にされるか、あるいは死者に殉じる者として殺されるか――いずれにしても、その生命でさえ自分の自由に出来ない。
大広間の一段、高くなった所には族長達が半円形に座す。中央には今回の議長のイルゴール。椅子の背には、象徴である獣の毛皮が掛けられていた。その左には昨年の議長の海狼ベルクリフで、右は来年の議長を務める黒鷲ディオンだと告げられた。
下座は後継者を始めとする族長の息子達と、同行者の中でも戦士長や舵取り等の重要な地位にいる者達だった。
その他の戦士兼船乗りは野外で食事と酒を振る舞われる事になっているが、こちらは構わなくとも良い、との事だった。そこには男達によって酒樽が幾つも運び込まれていた。直接、樽に杯を突っ込んで飲め、という事だ。食事の給仕をするのは部族の戦士の家使いの女奴隷だった。
一見、最も危険なのが野外にいる者達のように思える。だが、本当に性質が悪いのは下座にいる者達だと聞いていた。野外の者は腹がふくれ、浴びるほどに蜜酒を呑んでしまえば、最後は酔い潰れてしまう事が多い。喧嘩もするが、それはさすがに館の家令や規律に厳しい年長者の仲裁が入る。そして、族長以外の者は長剣の鞘に付けられた和平の紐を鍔に掛ける事を義務付けられている。長剣は戦士の誇りである為に持ち込みが許されているが、それ以外の武器――小太刀や短剣は島には持ち込めない。それらは船に置かれる事になっていた。集会での部族間の遺恨は誰しもが避けたいものだからだ。また、寝床に誰を引き込もうが黙認されているが、もし、家使いの奴隷を傷つけたり殺そうものなら、賠償額は跳ね上がる。
下座には若く、血気盛んな族長の息子達がいた。すぐに腕自慢をしたがり、また、その側の族長の副官や戦士長もそれを止める事はない。むしろ、煽り立てるものだった。殴り合いくらいは大目に見られる。自分達の族長の後継者を自慢したいのであろう。
多少の誇張はあるにせよ、過去二回の集会で菫が聞いた耳を覆いたくなるような酷い所業は、この者達によるものだった。
そのような中に、放り出されるのだ。
その事を考えたくない為、菫は宴席の
中央の壁にはイルゴールの旗印が飾られていた。そして、それぞれの族長の席の後ろにも、色とりどりの旗が飾られている。横長の物もあれば、縦長の物もある。変わった物では長い三角形の物も、あった。全く飾りのない物から縁取りの施してある物や周囲を房で飾った物まで、それぞれ個性的だった。この旗印ばかりは、奴隷女が手掛ける事はない。族長一族の女達の手によってのみ、織られ、刺繍され、仕立てられるのだ。航海の安全と武運を祈って、心を込めて。
菫は自分の織った意匠が、族長旗と大きく異なっていない事に安堵した。
族長達の椅子の背には、菫の織った飾り帯が垂らされていた。寡夫のエリアンドとベルクリフは男物のみである。
卓には杯が並べられていた。高座は縁を金で覆った銀の豪華な杯だった。下座は錫だ。
また、下座は高座のように高い背凭れと肘掛けの付いたゆったりと座れる椅子とは異なり、背凭れのない長椅子か床几だった。例え後継者であっても、明らかに差があった。族長、というのは、それほど特別な地位なのだ。
全ての支度が整うと、後は男達が入って来るのを待つばかりだった。
「高座の最初の一杯は奥方さまとお嬢さまがお
そして下女頭は皆を見渡して、特に見目の良い十人を選んだ。その中には杏とすぐりも含まれていた。
「五人ずつ、左右に分かれて注ぐんだよ。終わったらさっさと戻るんだ。乾杯が終わったら、酒入れを渡された者は手分けして注いでまわるんだ。そうでない者は食事を運びな」
その言葉が終わるや、男達が宴席に入って来た。下座の方では席順で少し揉めていたが、それも直ぐに収まった。
「さ、お行き」
十人は背中を押されるようにして、宴席へと行かされた。
高座では、イルゴールの奥方と年頃の娘とが、族長達に酒を振る舞っているようだった。機嫌の良い奥方の笑い声が、聞こえた。
暫くして十人が戻り、その手から引ったくられるようにして酒入れが取り上げられ、新しい物が直ぐに渡された。菫も、錫の酒入れを持たされた。つんとした匂いの奥に、微かに甘い香りがしていた。これが、蜜酒なのだろうと菫は思った。
宴席ではがたがたという、皆が立ち上がる音がした。イルゴールの声がしていたが、菫の耳にその言葉は入って来なかった。食事を運ぶ給仕よりも、酌婦の方が何らかの騒動に巻き込まれやすそうだった。
大音声が部屋を揺るがし、菫は危うく酒入れを取り落とすところだった。だめだ、最初に選ばれた十人はきちんと役目を果たしたではないか。それに――
あの
野外にいる人ではない、絶対にここにいる人だ、と菫は確信していた。向こうは憶えていないかもしれない。だが、それでも良かった。自分は、あの顔と声を、決して忘れる事はないだろう。
「さ、お行き。ゆっくりと、走ったりするんじゃないよ」
その声に現実に引き戻された。
逃げ出したい気持ちを抑え、先を行く娘に続いてゆっくりと歩を進めた。宴席で杯を満たしながらも、菫は顔を上げる事も出来ず、また、男達の声を聞き分ける事も出来なかった。奥方の甲高い笑い声が、がんがんと頭に響いた。
あちらこちらから酒を要求する声が響き、酒入れは直ぐに空になった。奥に戻るや、直ぐさま新しい物が渡され、再び宴席に出る。この男達にとり、酒も水も同じようだった。注ぐはしからあおってしまい、卓上の山と盛られた食事も、見る見るうちに減っていった。
何度、行き来しただろうか。
「高座にお行き」
と下女頭が苛々したように菫に言った。「誰もいないじゃないか。お前は高座におつき。酒はとびきり上等の蜜酒だからね、下座には注ぐんじゃないよ」
「承知いたしました」
菫は族長達用の酒入れを渡された。銀で作られた上等な物だった。
誰からも声を掛けられぬように、壁に沿って移動した。そして、族長達の後ろについた。
そこは下座の喧噪が嘘のようだった。当然ながら食事を摂り、杯を手にはしていたが、大声とも、我先にという賑わいとも無縁だった。ここだけが、違う時間が流れているように感じられた。
「おお、一杯、貰おうかい」
龍心エリアンドが声を掛けてきた。白い髪と髭を長く伸ばした老人だったが、精悍さは失われてはいない。そして、威圧感も。
これが、族長なのだ、と菫は思った。下座にいる者達には、この荘厳さは備わってはいない。圧倒的な存在感もない。老族長の背後から正面に回り、微かに震える手で蜜酒を注いだ。
次にイルゴールがぐいと杯を突き出した。その顔は左に向けられたままだった。
「――私の娘などはどうかね。貴殿も、そろそろ後添えを考えるべきだろう。五年も独り身で、如何に男子とは言え、子が一人ではこの先、不安ではないのか」
島の族長でありながら、これほど近付くのは初めてだった。柄が大きく、幼い二人の息子――殊に年下の少年も、体格が良かった。先代も大男だったので、家系なのだろう。
「あのように若い娘子ならば、幾らでも縁談はありましょうに」
低く穏やかな返答に菫はどきりとした。「後妻はともかく、いきなり五歳の子の母親というのは、十七の花の盛りの乙女には残酷すぎましょう」
ゆっくりと、菫はイルゴールの話し相手に目を向けた。
金色に輝く髪と髭に青い目。正装の肩には白い獣の毛皮を掛けている。
あの人だ。
身なりの良さも、立ち居振る舞いの上品さも、全ては族長であった故だったのだ。そう、それに、丘でも長剣には和平の紐を掛けてはいなかったではないか。それが許されるのは、族長のみだ。小太刀の佩刀を許されるのも。
海狼ベルクリフ。
七部族長の中で最も若い族長。最北の島に住まう、謎に包まれた異教の部族の
「それ程までに亡くなった奥方に
椅子の背に巨大な黒鷲を止まらせた族長、黒鷲ディオンがそう言い、杯を上げた。
「奥方一筋の貴方に言われるとは思いませんでしたな」皆に低い笑いが起こった。「だが、私とて女っ気がない訳ではありませんぞ、黒鷲殿」
ディオンが杯を口に運び、再びそれを上げた。
震える脚を懸命に動かして、菫はディオンの杯を満たそうとした――と、衣の端がぴんと張られた。
一瞬、族長達の動きが止まった。
なにか粗相でもしでかしたのかと、恐る恐る菫は引っ張られた衣の裾に目をやった。
靴が――海狼ベルクリフの
「今宵の獲物は、一際、珍しい」
六部族長は、こぞって手足を打ち鳴らし、大笑した。
その後に起こった事を、菫は全く理解できなかった。
イルゴールの命で、下女に奥に引っ張って行かれた。ずっと奥まった場所から外へ連れ出され、小屋に入れられた。そこで大きく浅い木桶――湯桶になみなみと湯が張られ、衣が引き剥がされるとその中に入らされた。有無を言わせぬどころか、誰もが無言で――むしろ不機嫌そうに、肌が擦り剥けるのかと思うほど強く、身体や髪を洗われた。そして、今朝に与えられた物とは比べ物にならないくらい上等な香油を塗られ、手足の爪まで検分された。髪は編まれなかった。
そして、新しく渡された衣も真新しいだけではなく、ひりひりとした肌に優しい滑らかで、上等な物だった。麻でも羊毛でも、なかった。
ついといで、と険しい顔の下女頭が菫に顎で示した。
館に戻ると、灯火が点されてもなお暗い廊下を、黙ってついて行くしかなかった。幾つもの扉の前を通り過ぎ、やがて下女頭は歩みを止めた。
「この中で待っておいで」
そう言って菫の手に、心許ないくらい短い灯心しかない灯火皿を押しつけた。「火でも出したら、生かしちゃおかないからね」
それだけを言い捨てると、下女頭は立ち去った。
灯火皿を手に、菫は扉を見た。
今しも獲物に跳び掛からんとしている下半身が魚の獣――海狼ベルクリフの横長の三角旗が、そこには下がっていた。
ゆっくりと、扉を開けた。中は真っ暗で、しんと静まりかえっている。
そっと、中へ入って扉を閉めた。
小さな灯りに、ぼんやりと部屋の中が照らし出された。安楽椅子の背には脱ぎ捨てられたままの衣服が、座面には普段使いの長剣と書物が置かれていた。燭台のある卓子にも書物が数冊と巻物が数巻。例の稀覯本は、その一番上にあった。更に、寝台の上にまで、何冊もの書物。開かれている物も幾つかあった。
写本室から書を持って行ったのは、やはり、この人だったのだ。
読むのだろうか。
売るのだろうか。
それとも、飾っておくのだろうか。
あの丘での海狼の言動から察するに、恐らくは読むのであろう。それにしても、何という量なのか。だが、ここにある分だけでは写本室からなくなった分の半分にしかならないだろう。写本師は「族長二人」と言ったが、族長とは、戦士と何と異なっている事か。
ゆらめき、微かになりつつある灯火に、菫は我に返った。
燭台の傍らには書物がある。
菫は燭台を手にすると火を移した。そして、暖炉の上に、ほぼ消えかけている灯火皿と共に置いた。鯨油蝋燭の灯りに、部屋が明るく照らし出された。
あの容姿からは想像も出来ない事であったが、几帳面、という訳ではなさそうだった。船から運び込まれたのであろう海狼の紋章が彫られた
やはり、身分のある人だった。集落の戦士とは、違いすぎたのも頷けた。
菫は床にへたり込んだ。
境遇の差を、身をもって知った。
会いたい、などとは思ってはいけない人だったのだ。言葉を交わす事すら、本来ならば有り得ぬ人だった。遠くから見つめるだけでも、畏れ多い人だった。
だが、もう遅い。
恐らく、自分は海狼の長剣の錆にもならぬまま、消えて行くのだろう。せめて、その時には柊のように堂々と生命を差しだそう。知らぬ事とはいえ、族長をこの紫の目で見つめてしまったのだ。一度ならず二度までも。この真新しい衣も、上等な香油も、族長への供物なる
そうして…生命を差し出した後、海狼は全てを忘れて再び元の生活へと戻って行くのだろう。自分の死は、その心に何も残さぬままに。
それでも、自分は幸せだったではなかっただろうか。
菫は思った。
神々と見紛うばかりの人を間近に目にする事が出来た。言葉を交わせた。数日でも、再び
それは、幸福な時間ではなかっただろうか。
全ては自分の無作法のせいだった。ここで最初に言われた事を守らなかったからだ。自らの凶眼を、忘れてしまったからだ。
それが恐らく、海狼の逆鱗に触れたのだ。あの穏やかな表情と声の陰に、激しさを秘めている人なのだろう。
ああ、それでも――と菫は思った――それでも、あの方の手に掛かるのなら、かまわない。最後に会えるのであれば。
そう思った途端、目からはらはらと涙がこぼれた。
不思議と、声は出なかった。ただ、涙だけが、流れてゆく。
どのくらいの時間が経ったのか、扉が軋んで開く音がした。
海狼ベルクリフだった。
後ろ手に扉を閉めると、眉を顰めて海狼は近付いて来た。
「どうした、泣いているのか。誰か、お前に何かしたのか」
その声は愕いているようでもあった。「何が、あった」
菫は止まらぬ涙を拭う事も忘れて跪き、
「ご無礼の儀、お許し下さいませ。どうぞ、ひと太刀にてお願い申し上げます」
一瞬よりも少しばかり長い間があった。そして、海狼の抑えた笑い声が聞こえた。
「何を言うかと思えば」ぐいと顎を持ち上げられた。思ったより近く、海狼の顔があった。息は上等の蜜酒と同じ匂いがした。族長は床に片膝をついており、その顔から目を逸らす事が出来なかった。「お前を
節が高く、長い指が菫の涙を拭った。
「勘違いも甚だしい。お前は何の無礼も働いてはいないし、例え、ここではそうであったとしても、私自身が何とも思わなければ、それは無礼の内には入らん」
ゆっくりと、海狼は菫の手を取って立ち上がられた。
「恐ろしい思いをさせたようだ。済まぬ事をした」その顔は苦笑いに変わっていた。「少し気取った言い方をしてみたくなったに過ぎない。それに、年上の連中は、何かと煩いからな」
そのように自分に話しかける人は初めてだった。どう接すれば良いのか菫には皆目、見当もつかず、目を伏せた。
「その美しい目を何故、伏せる」
海狼という猛々しい呼称とは思えぬ程、その声は静かだった。菫はその言葉に愕いて顔を上げた。穏やかな微笑みが、そこにはあった。
「他部族では紫の目は忌まれているようだが、我が部族では女神の石として、その色の石が良く採れる。
海神の娘。
菫は、どこかでその言葉を聞いた気がした。だが、直ぐに海狼の青い目に囚われてしまった。
それ故にこそ――と海狼は続けた。
「今宵の伽を、申しつけた」
※ ※ ※
次の朝、菫はぼんやりとして寝台に腰を掛けたまま、海狼の事を思い返していた。
伽、という言葉を理解できないでいると、やにわに抱き上げられ、寝台に押し付けられた。置いてあった書物が落ちそうになり、思わず伸ばした手を海狼は押し止めた。
床に、書物の落ちる鈍い音がした。
――この際には、無粋な物でしかないな。
…。
その後に起こった事を思い出すと、顔が火照った。繰り返し繰り返し耳許で囁かれた言葉も、現実とは思えなかった。
朝まだきに隣で誰かが起きる気配に、寝過ごしたのかと慌てて起き上がり、寝台から落ちてしまった。普段は床に寝ていた為だ。自分は機織り女の小屋にいるのだと勘違いしてしまった。
それにも、海狼は笑いながら手を延べてくれた。どれ程、恥ずかしかった事か。自分の迂闊さも、一夜を共にした人の顔を見るのも。
更に菫を戸惑わせたのは、それから直ぐに身支度を整えた海狼の言動だった。
まだ早いのでゆっくりと休め、と言われた。そして――
――私がここに滞在している間は、お前はずっとこの部屋で過ごし、湯浴みは唯論、私の身の回りの世話だけをするよう伝えておこう。この手に、本当はさせたくはないのだが、洗濯もして貰わなくてはなるまい。書は、自由に読むと良い。
一夜限りの気紛れと思っていた。
あの丘での礼だとするならば、それで充分だろう。例え、一夜でも族長の寵を得るのは名誉な事だ。
だが、海狼は違っていたようだった。あまつさえ、跪いて菫の両手を取り、そっとその指に唇付けたのだ。
族長が。
奴隷女に。
有り得ない。全ては夢なのだろうか、とさえ、思った。だが、先程、一度は部屋を出た海狼が新しい衣と食事を持って来た時に、これは現実なのだとようやく、信じる事が出来た。
衣は館の下女と同じ物だった。真実、海狼は自分の身辺の世話を任せるつもりなのだ。
その海狼は再び――今度は集会の為に出て行った。
食事は朝食の席からくすねて来たのだろうか、
奴隷に自分の小刀を持たせる。
普段から刃物を扱っている一部の特別な奴隷ならいざ知らず、ただの奴隷女に小刀を持たせるなど、有り得ない。いや、長櫃から自分で探せ、という言葉も信じられなかった。
それ程に、自分を信用してくれているのだろうか。
それとも、これは何かの試しなのだろうか。
一日の内、いつ与えられるか分からない食事や、痛みかけの食べ物ですら有り難い生活をつい昨日まで送っていたというのに――それでもまだ、他の奴隷に較べればましだったのだが――まだ温かく、柔らかいであろう良い香りのする麵麭と分厚い乾酪を前にして戸惑うばかりだった。
海狼ベルクリフという人が、何を規範としているのか、菫には理解できなかった。族長の全てがそのような人物ではない事は、イルゴールを見れば分かる。
のろのろと、菫は衣を着替えた。海狼の持ってきた物は衣だけで、帯は自分の物を渡された。二重に巻かなくては下げの部分が長すぎる程だった。
――ある意味、この女には手を出すな、という事だ。
海狼は腰帯を渡す時、そう言って笑った。
部屋の隅に設えられた台に洗面用の容器を置き、水を注いで顔と手を洗った。使った水は下の桶に流す。そして、櫛を手にした。
昨日、木の櫛で
今、その鏡に映じるのは、初めて見る人間ではないような気がした。もしかしたら、忘れてしまった父か母が、このような感じだったのだろうかと思った。だが、やはり、思い出す事は出来なかった。
震える手で髪を梳き、三つ編みにした。
月光のような髪、と海狼は評した。
海狼の事を考えると、きりがなかった。全ての仕種、全ての言葉が、心に残っていた。海狼自身はそこまで考えてはいないだろう。だが、菫は優しくされる事にも大事に扱われる事にも慣れてはいなかった。何ひとつ、忘れたくはなかった。
普通は生で食べる事のない木苺を口にすると、酸っぱい懐かしい味が口の中に広がった。このような物を口にする機会は今までなかった。ここに連れて来られる前に食べた事があるのだろうか、と思った。そうでなくして、何故、懐かしいと思うのだろうか。また、海狼の島では、このようにして食べるものなのだろうか。
食事を終えると、結局は夜着となってしまった上等な衣、海狼が身に着けていた衣服、洗面用の手拭い、そして、そこに残された痕跡に赤面しながらも、寝台の敷布を取りまとめた。
洗濯場に行くにも勝手が分からなかった。取り敢えず部屋を出て左右を見ていると、同じように洗い物を抱えた下女が来た。
「洗い場は、こっちだよ」
無愛想に下女は言い、自分について来るように菫を促した。
外に出て館をぐるりと回ると、何人もの女が、既に物干しに取り掛かっていた。
誰もが、菫を見ては眉を顰めた。中には、憐れむような目を向ける者もいる。
誰一人として、話しかけも教えもしてくれなかったので、菫は見よう見真似で洗濯を始めた。機織りには慣れていたが、洗濯は初めてだった。その内、洗い物を持って来る者と洗う者に分かれており、洗濯女は館の者から一段低く見られているらしい事に気付いた。
「あんただろ、昨夜、族長さまの寵を受けたっていうのは」
昔は美しかったであろうと思わせる女が言った。皆がその女と自分に注目しているのが分かった。もう、知れ渡っているのだ。
「ま、今のうちにせいぜい可愛がられておくんだね。どうせ、集会が終われば他の男に下げ渡されるんだからね」
密やかな笑いが広がった。
ああ、それこそが、やはり、今までに起きた事だったのだ。例え、誰かの目に留まったとしても、それは集会の間だけ。運が良ければ、その地へ連れて行かれるかもしれないが、結局、起こる事は同じなのだ。イルゴールやその戦士達が連れ帰った者に降りかかったのと同じ運命が、自分にも待ち受けているに過ぎない。
だが、自分は一夜限りの慰み者であったのかもしれなかったのだ。それを、十日の間、共に過ごせる――その事だけで、充分ではないか。
その後は、どうなろうと構わない、と菫は思った。先を考えても詮ない事。最早、自分は海狼に捕えられてしまったのだ。
洗濯を終えて部屋に戻ると、今度は散らかった部屋を整えた。だが、書物――その中には菫の書き写した物もあった――を丁寧に積み重ね、剣帯や、船上で身に付けていたのであろう厚手の緋色の外衣を畳んで長櫃の上に置いてしまうと、他に何もする事がなくなってしまった。
そんな事は初めてだった。
洗濯女からは、乾くのは早くても昼過ぎになるだろうと言われていた。
せめて、小さな物でも織る事が出来れば、と菫は思った。随分とくたびれた帯も新調する事が出来るのに。
だが、機織り小屋に行く事は出来ない。それに、海狼からはこの部屋に留まって身辺の世話をするようにと言われていたではないか。
張りもなく、ほつれた帯を手に思いを巡らせていて、はっとした。
あのような人が、これ程くたびれきった帯をしている、というのは、亡くなった奥方からの贈り物なのかもしれない。
どのような方だったのだろうか、それ程にまで愛された女性というのは。
美しく素晴らしい方であったに相違ない。この島の男達は、妻を亡くすと直ぐに再婚する者が多い。女達も、そうだ。しかも男は、妻が健在であってさえ、財力と権力を備えていれば側女を置く者も珍しくない。女っ気がない訳ではない、と海狼はあの席で言っていたが、それでも族長でありながら五年も新しい奥方を娶らずにいるのは、やはり、それだけ愛していた、という事なのだろう。
胸が、痛んだ。
海狼の為にでもなく、亡くなった奥方の為にでも、なかった。
自分の境遇の惨めさに対してだった、海狼の好意という、望んではいけないものを望む自分の、愚かさに対してだった。
海狼の事を想うだけで、胸が苦しくなる。だが、同時に海狼以外の事は何も考えられなくなり、何も気にならなくなってしまう。
この気持ちは、一体、どういう事なのだろう。
自分を身分ある女性のように扱ってくれるからなのか、奴隷という身分を忘れさせてくれるからなのか。
それだけではない。
初めて出会ったあの時、青い目に囚われた瞬間、何かが自分の中で確実に変わった。二度とは元には戻れぬ程に、変わってしまった。
それまではただ、生き延びる事だけを考えていた。それで精一杯だった。
だが、この数日は再びその姿を目にする望みを胸に
誰もが不安の中にいたというのに、自分はその事よりもあの人――海狼の事を考えていた。夢見る事が出来た。
菫はどきりとした。
そう、杏やすぐり達はどうしたのだろうか。
自分は早々に連れ出されたが、あの後、何があったのか、考えもしなかった。
皆は大丈夫だったのだろうか。野外の喧噪は、自分が海狼の腕の中で
幸福な夢を見ていた間にも、誰かが酷い目に遭っていなかったとも限らない。
それなのに、自分は安全な場所で自らの幸せに酔っていて、そこまで思い至らなかった。
何と薄情な人間なのだろうかと、思わずにはいられなかった。
六年もの間、寝食を共にして来た者達よりも、出会って数日の人に既に心が向いてしまっている。
その理由は、もう一度、皆に会えば分かるのだろうか。
そう思いながらも、菫は恐れていた。
会って、どうなるというのだろうか。
今更、皆は自分を受け入れてはくれまい。
数日後には、全てを失ってしまうのだろう。
それまではせめて、夢の中に身を委ねたかった。
その日の夕刻、菫は暗くなりつつある部屋に灯りを点した。暖炉の燭台の側に火打ち石があったので、それを使った。野外で行われる集会も終わる刻限だった。
ややあって、外から大勢の人の声が聞こえていた。集会から、人々が戻ったのだ。
菫は部屋を一渡り見回した。
多分、これで片付いているはずだ。
長櫃の中に手を触れるのはどうしても出来なかった為、海狼の衣服と帯は整えて上に置いてある。書物も大きさに合わせて書き物机に積んであった。
無造作に椅子の上に置かれていた三尺はある長剣も、剣帯に着けて椅子の背に掛けた。柄や鞘に見事な装飾を施した長剣は、ここの戦士達よりも半尺は長い。それは、鍔のない片刃の小太刀にしても同じだった。短軀の者の長剣くらいの長さはある。だが、海狼の得物は、部族の戦士の物とは異なり、恐ろしくはなかった。自分に対して振るわれる事がないと信じられるからだろうか。
自らの所有物を持たぬ生活であった為に、何をどのようにすれば良いかも分からなかった。これで不興を買う事になっても致し方なかった。
廊下に長靴の足音がして、菫は身構えた。まだ、部屋に戻って来る時間ではないはずだ。
「もし」
男の声が扉の前でした。「申し、宜しいですか」
海狼よりも低い声だった。菫は思わず部屋の隅に隠れた。
しかし、扉は開かず、暫しの沈黙の後、再び同じ事が問われた。
それでも返事が出来ないでいると、今度は「海狼殿の使いで参りました」と男は言った。「お開けしても、宜しいですか」
その丁寧な物言いに、菫は震える声で「どうぞ」と応えた。
扉が開いて入って来たのは、がっしりとした黒髪の男だった。左頬には大きな傷跡があり、髭はそれを隠すどころか、余計に強調しているように見えた。
北海の戦士だ。
菫は身体の震えをどうする事も出来なかった。
しかし、その男の口から出た言葉は、穏やかで丁寧なものだった。
「夕食をお持ちしました」
盆を書き物机の隙間に置いて、男は言った。そして、部屋を見て感嘆の声を上げた。
「集会で、あの方の部屋がこのように整ってるのを見るのは初めてですな。相変わらずの書物の多さには愕かされますが」
そして、菫に目を向けた。
「海狼ベルクリフ殿の副官を務めさせて頂いております、エルガドルと申します。何か御入用の物や、不自由な事が御座いましたら、何なりと御申し付け下さい」
そう言うと、エルガドルと名乗った男は持って来た杯に何かを少し、注いだ。そして、菫の方に近付くと「失礼します」と言って暖炉の上の水差しを手にした。
「御婦人方の好まれる
気に入るも何も、酒など口にした事もなかった。蜜も、そうだ。
「御済みになりましたら、部屋の外に置いて頂ければ片付けますので」
エルガドルは杯に水を注いだ。「ごゆっくり、どうぞ」
一言も言えずに佇んでいる菫に、エルガドルは微かに眉を顰め、顎髭に手をやった。
「しかし、その格好は頂けませんな。もう少し良い物を明日にはお持ち致しましょう。着替えも必要でしょうし。そういった事には門外漢ではありますが、館の下働きの者と同じ衣服とは、
一礼をして、エルガドルは部屋を辞した。
菫は大きく息を吐いた。
怯えたりして、悪い事をしたと思った。奴隷である自分に丁寧に接してくれたというのに。
身に染みついた北海の戦士への恐れは、どうする事も出来ないのであろうか。
エルガドルの持って来た食事は、菫には多く思われた。普段は、その半分も食べさせては貰えない。調理したてなのか、まだ充分に熱く、良い匂いがしていた。
初めて口にする蜜酒も、舌を刺すような刺激と共に、香りと同じく微かな甘い味がした。
今までの事を思うと、食事を残すのは気が引けた。だが、無理をして食べる事も出来ない。胸が痛んだが、部屋の外に置いた。
大広間と野外では、宴会が続いているようだった。
昨夜は気付かなかったが、エルガドルは副官という事ならば、下座にいたのだろう。それは、どことはなしに場違いな印象を受けた。あの喧騒の中にいたとは信じられぬ程に、エルガドルは穏やかな話し方をする人だった。
それは、自分が海狼とこの集会の間は共に過ごすと聞いたからだろうか。
この日々が終われば、どのような運命が自分に待ち受けているかは分からない。それまではせめて、という憐れみもあったのだろうか。
どのくらいの時間が経ったのか、廊下に再び靴音がして、菫ははっとした。寝台に座って書を読んでいる内に、いつの間にか、うとうととしていたようだった。
何事かを話しながら、その音は近付いて来た。そして、部屋の前で止まると暫くして海狼が姿を見せた。朝に出て行ったのと同じ赤錆色の正装に身を包み、儀式用の長剣と小太刀を佩いていた。その視線が菫に止まると、破顔した。
「退屈ではなかったか」
菫は
長剣もそのままに、海狼は菫の横に腰を下ろした。
「エルガドルに言われた。気の利かない事で済まなかったな」
「いいえ」
ようやく、それだけを言った。隣にいる海狼の存在が大きすぎた。
「食事は毎回、エルガドルが運んで来る。散々、小言を食らった。朝食の席からくすねて来たような物を食べさせてはいけない。生け垣から取って来た木苺など、とんでもない。衣服も考えろ、とな。私は、どうも、その辺りの事には気が回らない」
族長なのだから仕方のない事だと、菫は思った。集会では様々に心を砕かねばならないだろうから、
「それなりに遇しなければ誤解されるだろう、と」
何をどう誤解するのか、菫には分からなかった。それなりに、の意味すら、汲み取れなかった。
「だが、まあ」海狼は菫を見て苦笑した。「忠告には従わせて貰う。愛想を尽かされては、困るからな」
菫は、返す言葉を知らなかった。
事件を知ったのは、四日目の朝だった。
集落の女性と同じような衣服に身を包み、いつものように洗濯場に出た菫は、遠目に見覚えのある数人に付き添われた赤い髪の娘に気付いた。
すぐりではないだろうかと思ったが、その様子はどこか、おかしかった。
洗い物を途中で放り出すと、菫はそちらへ駆け寄った。
赤い髪の娘は、やはりすぐりだった。
そして、はっとして足を止めた。
美しかったすぐりの顔は赤黒く腫れ上がり、右眼には血の滲んだ布が巻かれていた。そして、両側から支えられていないと歩く事も出来ない様子だった。
「いったい、なにがあったの…」
思わず出た言葉に、娘達は一斉に菫を見た。一瞬、その目が見開かれた。
「あなたには関係ないことでしょう」
一人が冷たく言い放った。「あなたは海狼とよろしくやっているんだから」
今まで自分に向けられた事のなかった冷ややかな視線に、菫はどきりとした。
「やめなさいよ」弱々しくすぐりが言った。「菫のせいじゃ、ないわ。何もできやしないのは、誰だって同じよ」
「そうね、だから、関係ないって言うのよ。何も知らないくせに」
強い口調に菫は茫然とした。やはり、皆は自分を受け入れてはくれないのだ。
そっと腕に触れる者があり、菫はびくりとした。杏だった。
「ちょっと――」
杏は菫を皆から少し離れた所に引っ張って行った。
「昨日、すぐりはあの赤い髪が気に入らない、と言って殴られたの。何度もね。しかも、族長達が退席した後、何人もの男達に乱暴を――」
ああ、と菫は両手で顔を覆った。人を人とも思わぬ所業。海で、戦で鍛えた戦士が女を殴ればどうなるのか、分かりそうなものなのに。酔っていたにせよ、酷すぎる。奴隷だから、そうされるのか。
「すぐりの右眼は、見えなくなったわ。もう、織り女としてはやってはいけない。下働きとしても、無理かもしれないわ」
「そんな――」
菫は絶句した。決して良い織り女とは言えなかったが、下働きすらも無理だと判断されれば、死を宣告されたも同然だ。
「今は皆、気が立っているの。そっとしておいてほしいのよ」
――誰もが、あなたのように幸運を摑むのではないのだから。
そう静かに言うと、杏はゆっくりと離れて行った。
力なく洗濯場に戻り、上の空で仕事を終えた。
酷すぎる。
しかし、自分に出来る事は何もなかった。恐らく、すぐりは捨て置かれるだろう。その後には、自分も同じ運命を辿らぬとも限らないのだ。
そう、海狼が去れば、洗濯場の女の言ったように他の男に下げ渡されるのだろう。族長の寵を得た女は、捨てられてさえ、部族の戦士にとって特別な意味を持つものらしい。そうする事によって、族長の力を少しでも得ようとするのだと洗濯場の女達は言った。
自分に、それが耐えられるだろうか。
心を海狼に囚われたまま、そのような事が。
だが、その運命を受け入れるしかないのだった。
遂に最後の夜が来た。
海狼は湯桶に浸かりながら言った。
「何も恐れる事はない。全ての話は付いた。お前は唯、私の側を離れずにいるだけで良い」
海狼の言葉を全く理解できず、菫はその黄金の洗い髪を乾かし、
「明日には、あなたは去っておしまいになるというのにですか」
「まさか」
笑いを含んだ海狼の言葉に、菫は愕いて手を止めた。
「お前を置いて行くなど、考えた事もない。最初から言って来た
はず
だ――お前は私の運命だと」そうだった、海狼はそう囁き続けていた。だが、それは手練手管に長けた男の戯れ言ではないのか。
「私はお前を、妻として迎える、と言ったはずだ」
それも、閨での睦言の一つではないのか。菫は海狼の髪を梳かし終えると、香油を手にした。この見事な髪に触れるのも、これが最後だ。
「奴隷女が、族長の妻になど、なれるはずがありませんわ」
それが、現実だ。だが、海狼は振り向いて菫を見た。その目には、真剣な光が宿っていた。
「私の母は奴隷だった。そして、父の妻で、唯一人の女だった」
族長の母親が奴隷など、信じられなかった。余程の事情があって、奴隷に落とされたのだろう。
「あなたのお母さまは、そうだったのかもしれません。でも、わたくしは、あなたに相応しいでしょうか」
「私の母は由緒正しき代々の奴隷だった」海狼は微笑んだ。「弟の出産で生命を落とすまで、立派に族長の妻としての役割を果たしたと私は思っている。却って、お前に私は相応しいのだろうか、と思う」
それに――と海狼は続けた――お前は海神の娘の目を、有している。
真実なのかどうかと逡巡しながら、菫は香油を丁寧に塗った。
「海での誓いは神聖なものだ。明日、船上で皆の立ち会いの許で正式に求婚しよう。エルガドルは元より、私の部下達は承知の事だ」
だから、お前に付ける女を二人、選べ。
一瞬、その言葉が信じられなかった。
「気心の知れた者がいた方が、お前も新しい土地で暮らし易かろう」海狼は言った。「その位の事しか、してやれんがな。何、お前を手放したがらぬイルゴール殿を口説くには手間取ったが、それに較べれば大した事はない。奥方は殊に、お前の事を気に入っておられたようだが、あの宴席にいた以上は、拒否は出来ぬ。本来ならば、お前は宴には出されぬ事になっていたらしいからな、私は幸運だ」
快活に笑うと、海狼は少し身を起こした。
「ああ、私は実に、幸運な男だ。大した苦労もなくお前を見い出せたばかりではなく、こうして我が物にする事さえ、出来たのだからな」
海狼は上半身を捻って菫の顔を見た。
「誰にも、お前をは渡しはしない。根の国からでさえも、取り戻してみせる」
その表情は、これまでに見た事がない程に、厳しいものだった。