第6章・邪なるもの

文字数 20,542文字

 海狼の指示に従い、海神の使者という、ねじくれた形の不気味な魚は、布に乗せられ男達によって岬の先端にある塚に丁寧に運ばれて行った。そして、正装に着替えた海狼の唱える海神への祈りの言葉と共に、葬られた。
 不思議な光景だった。この島では、族長が祭祀長も兼ねるのだとは知っていたが、実際にリィルが目にしたのは初めてだった。いや、祭祀長ばかりではない。死に行く人への祈りと慰撫の言葉も、新しく生まれた生命を祝福するのも、その役目だった。海狼不在の際には、今まではエルドが代行していたが、これからはリィルがそれを行わねばならないのだった。
 マイアの言葉は、直ぐに集落に広がったようだった。儀式の間も人々は落ち着かず、何度かエルドとエルガドルが咳払いをして静める程だった。
 凶兆――邪眼だの魔女の目だのと、(そし)られることには慣れていた。だが、何やら正体の分からぬ、ぼんやりとした不安を掻き立てるマイアの言葉には、どう対処すれば良いのか分からなかった。部族の中でも解釈は分かれているのか、どことはなしに、人々の視線によそよそしいものを感じるようになった。
 自分の何が、そのように人々の不安を煽るのか、リィルには見当もつかなかった。最初は歓迎してくれていた筈の人々が、何故、そのように変じるのか、理解できなかった。
「気にしなくても、大丈夫だ」海狼はそう言った。「その内、皆、忘れる」
 身の回りの世話をしてくれる者達の態度が変わらぬのが、せめてもの救いであった。少し起きて活動出来るようになり、リィルは久し振りにサリアの淹れたお茶を飲みながら話す事も出来た。少なくとも、サリアはソエルと上手くやって行けているようだった。
 館にいれば、少なくとも民の間に広がる不安を気にせずに済んだ。
 だが、部族の中に広がる不安の理由をもたらしたのは、ソエルだった。
 嵐から二日経った午後、書物庫に海狼を(おとな)うと、中からソエルの声が漏れ聞こえた。その声は、聞かれる事を恐れぬ程の大きさと剣幕だった。聞くつもりはなくとも自然に耳に入り、リィルはその場から動けなくなった。
「――どうして兄さまは、そんなにあの(ひと)の肩をお持ちになるのです。皆が不安がっていることくらい、おわかりでしょう」
それに対する海狼の答えは、聞き取れなかった。
「今まで海神の使者は凶事しかもたらしてはいないではないですか。なのに、今回は吉兆だなんて、誰が信じたりするものですか。あの女が紫の目をしているから、というのは、理由になりませんわ。あの女は人の子ですもの。海神の娘などではありません。それに、もし、そうだとしたら、海神が娘を取り戻しに来る時、部族は滅ぶと言うではありませんか」
「だから、どうだと言うのだ。海神に取り戻されたくなければ、それなりの礼を尽くすべきだろう。以前にも言ったが、お前はリィルに対して、族長の妻への敬意を払うべきだ」
 苛立ったような海狼の声が聞こえた。
「兄さまは、皆がどう言っているのか、ご存じないのでしょうね。あなたの奥方は、気がふれているというもっぱらの噂ですわよ」
「馬鹿な事を言うな」叱咤するような声だった。「誰がそのような噂をしているかは知らんが、根も葉もない事だ」
「本当に、そう言い切れまして」ソエルが言った。「毎日のように夜中に悲鳴を上げたり、療法師が付き切りで――それに、長とあの赤毛の女くらいしか部屋に入れないなんて、普通ではありませんわ。先だっての嵐の後も、まるで子供のように、つまらない貝殻を大事そうにして」
 美しいものを美しいと思っては、いけなかったのだろうか。リィルの身体は震えた。あの貝殻は、海狼と拾ったものだった。今は暖炉の上、例の紫の石の横に飾られている。
「お前の口出しする事ではない」海狼は声を荒げた。「リィルは今、恐怖で全てを忘れてしまうような過去と戦っている最中だ。お前のように恵まれた娘には分からぬ事かも知れんが、リィルについてとやかく言う資格は誰にもない。私はリィルにブランとの過去を打ち明けた。だが、お前は、私とブランの間に本当は何があったのかは、知るまい。長く共にいてさえ、お前はエルガドルの過去を知らぬだろう。あれは、私にさえも傷の由来を語った事はない。誰もが、お前のように全てを曝け出して平気な訳ではない事くらい、理解できる歳だろうが」
「エルガドルの過去がどうあろうと、兄さまの片腕ではありませんか。役目はきちんと果たしていますわ。でも、あの女は違います。どれほど、兄さまの奥方としての――族長の奥方としての役割を果たせておりますの」
「私に不満のない以上、リィルはその役割を充分に果たせている。いや、むしろ満足している。至らぬのだとすれば、それはリィルではなく、私だ」
「兄さまは本当に、変わられたわ。わたしは、正気でない方を一族に迎えるのは、ごめんこうむりますから」
「私の妻は、お前などより余程、正気だ。つまらぬ事に惑わされぬようにと反省させる為に離れに移したが、却って逆効果だったようだな」
「どうせ、奥方の差し金でしょう。あの女、わたしのことが嫌いですもの」
 それ以上は、聞いてはいられなかった。震える脚で、その場から逃げ出すのが精一杯だった。
 気が付くと、中庭に出ていた。
 そう、自分は、族長の妻として相応しいのだろうか。
 あの日から一度も、海狼の代理として果たさねばならない祭祀について教わる事はなくなっていた。それでは、海狼が不在の折の義務は果たせない。エルドに肩代わりをしてもらうしかないのならば、以前と何が違うというのだろうか。
 それだけではない。後妻を娶るというのは、人々にとり、族長家の新たな生命の誕生を期待するものである事も、知った。鯨の胎児(はらご)を食すというのも、子が出来るようにと祈念するものだとミルドは言った。それも、無理だ。
 妻としての最低限の義務である、湯浴みの世話や共寝も出来ぬままだ。
 辺り一面に見えない悪意が渦巻いているような気がして、眩暈を起こしたリィルは強く目を閉じて(うずくま)った。世界中が、敵のように感ぜられた。
 側に何かの気配を感じ、込み上げてくる涙と戦いながら目を開けると、少年の細い脚が見えた。
 見上げると、イルガスだった。ようやく味方を得たような気がしたが、少年の表情は硬かった。
「イルガスさま」
 縋るような気持ちで、リィルは言った。だが、少年は表情を変えなかった。
「あなたは嘘つきだ」
 少年は言った。
「マイアが、あなたがぼくにかまうのは、ぼくが父上の後をつぐのにふさわしくないことを見せるためだって、言っていた。あなたに父上の子供がうまれたら、ぼくはいらないんだって」
「そのようなことはありません」リィルは首を振った。「あなたは、族長になられるお方です」
「役に立たないぼくは、母上がそうだったみたいに、父上に殺されるんだって」
「そんな…」
 リィルは絶句した。このような幼い心に、マイアは何という恐ろしい事を吹き込んでいるのだろうか。それとも、マイアは、自分の信じている事をそのまま、伝えているに過ぎないのだろうか。
「誓って、イルガスさま、お父上はそのようなことをなさってはおりませんし、なさいません。わたくしも、あなたに仇なす気など、毛頭ございません」
「マイアはうそは言わない。ぼくのことを心配しすぎかもしれないけれど、うそは、言わない」
 少年は、リィルに背を向けて走り去った。
 掌から砂がこぼれ落ちて行くような無常感が、リィルを襲った。
 ふらふらと立ち上がり、族長室へ向かった。
 取り敢えずは、眠ろう。
 全ては、夢なのかもしれない。
 幸せも、不幸せも。
 恐怖も不安も。
 喜びも悲しみも――この世界の全てが、夢なのかもしれない。


 ただ、眠っては起きるだけの生活が続いた。昼も夜も定かではなく、何日経ったのかも分からなくなった。
 時にはローアンの姿があった。また、それは療法師の長やミルドの事もあった。
 海狼がいる時には、側でリィルの手を取ったり、黙って穏やかな眼差しで見つめる事が多かった。無言でそうしてくれるだけでも、リィルの心は少しは休まった。
 自分は、どうなってしまったのだろうか。
 何の感情も無く、眠り、目醒めはしたが、時間と日にちの感覚を無くしてしまっていた。
 そう言えば、海狼とは(にしん)漁の話をした事があった。樽に塩漬けにすると聞いた。干物にするとも言っていた。だが、それがどうなったのか、関心もなくしてしまった。二人で島を巡るという話も、したはずだった。
 夢と現実の境目も曖昧になっていた。全てが捉えどころがなく、幻のようだった。
 これが、正気をなくす、という事なのだろうか。ぼんやりとした頭で、リィルは思った。
 どのくらい、そのような日々が続いたのか分からなかった。
 ある日、急に目の前が明るくなったかと思うと、久し振りの明るい声が聞えた。
「さあさ、いつまでも寝ていては、却って身体に悪いわ」サリアだった。「少しくらいなら起きて、外を見てもいいんじゃないかしら」
 サリアはリィルの身体を起こした。そして、支えながら窓辺の安楽椅子へと座らせた。
「ほら、風が気持ちいいでしょう」
 その言葉に、見るともなくリィルは跳ね上げ窓の外に目をやった。
 眩しい光に一瞬、目がくらんだ。
 ようやく光に目が慣れると、外の景色を見た。そして、息を呑んだ。
 何を話しているのかは聞えなかったが、ローアンと海狼がそこにいた。二人が中庭にいるのは珍しくはないだろう。だが、海狼は嫌がる素振りのローアンの腕を引いていた。
「どうかしたの」
 サリアがリィルの側にやって来て、窓を覗いた。
「あ」サリアは小さな声を上げた。「あっちへ行きましょうか」
「なぜ、その必要があるの」
 リィルは訊ねた。何かを、サリアが隠そうとしているように思った。
「いい気はしないでしょう。あの二人は、今では色々と取り沙汰されているのだし」
 そんな話は、知らない。そう言いたかったが、言葉が出なかった。もう、噂は聞きたくはない。
「あなたがよくならないのは、あの二人がそうさせているんじゃないかって」
「どういう、ことなの」
 心臓の鼓動が早まった。
「あなたが、邪魔なのよ。病弱で寝たきりの奥方は、海狼には相応しくないって。お飾りでかまわないって。それよりも、健康で子供もたくさん産めそうな側女が必要なんじゃないか――て」
 そんなはずがない、とリィルは思った。ローアンはとても良くしてくれる。それに、海狼は優しい。
 再び外へ目をやると、ローアンが海狼の制止を振り切って歩き出すところだった。
「今はローアンも人目を気にしているけど、時間の問題なんじゃないかしら。あの子、玉の輿にあこがれていたし」
 憎み合い、傷付け合っても離れられないのが、運命。
 海狼はそのように言わなかっただろうか。あの、自分を見ていた穏やかで優しい目は、憐れみだったのだろうか。
「ごめんなさいね、わたしはあなたに近付いちゃいけないことになっているの。そうでなかったら、もっと、かまってあげて、注意しておいたのに」
「どうして、あなたが…」
 リィルは愕いた。ソエルの世話をしているとはいえ、今までは普通に出入りしていたものを、なぜ、急にそのようにするのか、理解できなかった。
「わたしがあなたの側にいると都合が悪いのでしょう。偶然、さっき、二人を見せてしまったようにね。あなたを、全てから閉め出したいのよ。いろいろと、あなたに知られたくないことが多いのでしょう」サリアは溜息を吐いた。「でも、そろそろローアンが戻るでしょうから、わたしはこれで失礼するわ。わたしが来たことは秘密ね。また、隙を見て来るわ」
 一言もリィルに言わせぬまま、サリアは部屋を去った。
 暫くして、部屋の外で話し声が聞えてローアンが入って来た。そして、リィルを見るなり愕いた顔になった。
「だめじゃない、無理をして。ずっと横になっていたから、身体が弱っているのよ。ここまでも大変だったでしょうに」
「外の空気を吸いたかっただけだから」
「だったら、使用人頭でも呼べばよかったのよ。そうしたら、連れて行ってくれるわ」
「そうね、すっかり、忘れていたわ」久し振りにローアンと話す気がした。「ミルドも、わたしの世話をしてくれているのかしら」
「ええ、あんたが夢うつつでいる時でも、あの人ならあたしより心得ているようだから、時には頼むようにしているの」
 少しの間、ローアンは黙った。
「――ごめんなさい、きついことを言ったわ。あんたの性格じゃあ、人に何かを頼むのは無理よね。本当は、だから、一人にしたくはないのだけど、族長が、いつも誰かの気配があるようだと、あんたが心底、休めていないんじゃないかって」
「その点では、ベルクリフさまに感謝するわ。もし、おかしな寝言でも言ったりしたら――」
「ばかね」叱るようにローアンは言った。「言いたい奴には言わせておけばいいの。あんたはそこまで、気をまわさなくていいのよ」
 ローアンはリィルを支え、再び寝台にその身を横たえさせた。
「ベルクリフさまは、わたしに月の障りのないことをご存じだったわ」
 とても、重大な事のように思えた。長が他人にそのような事を話すとは思えなかった。長が話したのだとすれば、誰の事も信用できなくなってしまうように感じた。
「話さなければ、長は殺されていたかも。大げさかも知れないけれど」ローアンは肩を竦めた。「族長は、あんたの良人だわ。話さないわけにはいかなかったのよ。でもね、あなたが望むのなら、治療をする気でいると答えられたわ。大丈夫よ、心配しないで。あんたのことを心配するあまりのことなんでしょうけど、男が口出しすることではないわ。これは、女の領分よ」
 リィルは黙った。
 イルガスの事を思えば、もう、どうでも良いと思った。だが、それは海狼の意図とは異なっていた。二人の子を持つ、という事を望まぬ訳ではなかったが、それよりも、あの少年の心を守りたかった。それ故に、イルガスが弟妹の存在を脅威と思うならば、必要はなくなる。だが――自分の本心はどうなのだろうか。海狼の子を本心から欲しいと思っているのか。それが、自らの生命と引き換えであったとしても。
「でも、どうして元気にならないのかしらね」ローアンの言葉がリィルの思いを破った。「あんたは眠ってばかりだし、長の薬の効き目がこんなにも悪いのは、初めてらしいわ」
 サリアの言った事は、やはりただの噂なのだ、とリィルは思った。ローアンは、一生懸命になってくれているではないか。
「あんたは治療らしい治療も受けたことがないんだから、よく効くはずなのよ。最初の眠り薬は効きすぎるくらいに効いたのに。今は、体力をつけるための薬だわ。もっと元気になってもいい頃なのに」
 ローアンは何かを考えているようだったが、リィルはそのまま眠りに落ちていった。


 次に目が醒めた時には、傍らの安楽椅子に海狼が座し、リィルの手を撫でていた。
「痩せたな」海狼は静かに言った。「これ以上痩せると、危険だ。食事も碌に摂れない状態だからな」
 と、リィルの手を唇に当てた。
「長は、お前には生きる気力が見られない、と仰言った。何故(なぜ)、生きようと思わない。過酷な年月を生き延びたお前ではないか」
 自分とは関わりのない所で様々な動きがあり、それが自分に返って来る。どれ程努力しようとも、その甲斐もない。摑みきれずに変転する人の心に疲れて、全てが虚しくなった。
 それを、この人に伝える事は出来なかった。
「わたくしは、今、夢の中にいるのでしょうか。それとも、現実にあなたのお言葉を聞いているのでしょうか。本当は、わたくしはまだ、あの島にいるのではないでしょうか」
「人の生は、神々にとっては夢かもしれないが、私もお前も、夢ではない。お前は確かに、この私、海狼ベルクリフの恋人にして妻だ」
 力を振り絞ってリィルは起き上がり、海狼の首に齧り付いた。触れた肌の温もりが、やはりこれは夢ではない、と教えてくれた。そっと、背に腕が回されると、更にその思いは強まった。
「お前の過去は、今ではもう、遠い夢だ。夢の中で何が起ころうとも、お前を実際に傷付ける事はない。終わった事なのだ。だから、早く私の許に帰って来てくれ。私に笑顔を見せてくれ――そして、元気になったら、お前に馬に乗る事を教えよう。兼ねてからの予定通り、二人で馬に乗って島を巡ろう。泥炭堀りや羊飼い達を(おとな)おう」
 溜息と共に海狼は言った。リィルは涙を抑える事が出来なくなった。真実も虚偽も区別が付かなかった。だが、確かに海狼はここにいる。ローアンとの事は、飽くまでも噂に過ぎないのだ。真実とは、限らない。
「わたくしは、生きていてもよろしいのですか。あなたや、あなたの部族に厄災をもたらすのではないのでしょうか」
「海神の使者の事を言っているのならば、心配する事はない。吉凶は裏表だ。誰かにとっては凶であっても、他の者には吉であったりするものだ。今の世には、それをしかと言う事の出来る者はいない。私は、真実、お前がこの島に来た事を海神が言祝(ことほ)いで下さったのだと信じている。そう捉える者も、少なくはない」
「でも、わたくしは、自分の過去はおろか、夢すらも思い出すことができずにいるのです。わたしは、本当に正気なのでしょうか」
「正気でない者は、自分が正気かどうかを疑ったりしないものだ」海狼の言葉は穏やかだった。「お前には話さなかったが、我々が遠征で解放した者の中には、お前のように、それまでの緊張から解き放たれて悪夢に悩まされる者も少なくはない。特に、悲惨な光景を目にした子供や、乱暴された女にはある事だ。遠征に出る者はその事を知っている。この島へ着くと、そのような者達は直ぐに療法師の館で特別な治療を受ける。幼ければ幼い程、立ち直るのは早い。養父母を本当の親と思い込む事もあるくらいだ。しかし、女の中には、結局は立ち直る事が出来ずに自ら生命を断つ者もいる程に、それが辛く、厳しいものである事を、私は知っている。隔離されて治療されるが故に、島で産まれ育った者の中には、そのような事を知らぬ者も多い。そういった者達は、何かと言う事だろう。だが、お前の苦しみを理解し、気に掛けている者も多くいる事を忘れるな。お前は、一人ではない」
 リィルは更に力を込めて抱き付いた。
「そのように強く抱き付かないでくれ」海狼は低く笑った。「私が誓いを忘れても良いのか――既に破ってはいるが、それ以上に破らせて、私を完全な破戒者にするつもりなのか」
「誓いなど、忘れて下さい。わたくしは、あなたを信じております。あなたはそう言って、わたくしをからかっていらっしゃるだけ。無茶を強いる方でないことは、わたくしにはわかります」
「あの時のように、魔が差す事があるかもしれないのに、か」
 リィルは黙って頷いた。
「そこまで信用されていては、何も出来ないな。だが、このくらいは許して貰おう」
 海狼はそう言うと、リィルの首筋に唇を押し当てた。
 自分は弱い、とリィルは思った。過去を乗り越えるのに、どのくらいの時間がかかるのだろうか。表面上だけでも平静を装う事が出来れば、どれ程良いだろうか。
 リィルの脳裏に、ローアンが浮かんだ。
 あのような目に遭ってさえも、今は人を支える側に回っている。強い人だ、と思わずにはいられなかった。
「わたくしは」リィルは思わず口に出していた。「わたくしは、ローアンのように強くなれるでしょうか」
 暫しの沈黙の後、海狼は口を開いた。
「誰かのように、ではなく、お前はお前自身であって欲しい。強くしなやかで、心優しいお前でなくては、駄目だ。全てを包み込む、海のようなお前でなくては、駄目だ」
「あなたはわたくしを理想化しすぎていらっしゃいます。わたくしは、そのような人間ではありません。もっと、弱い人間です」
「私には、そう見える。初めてお前と眼差しを交わした時に、私にはそれが見えた」海狼はそっと身を離してリィルを見つめた。「その瞬間に、私はお前が運命だと悟った。私はお前に生涯を捧げるのだと知った。私は、お前の下僕だ。私の全てだ」
 その真剣な表情に、リィルは気圧された。そして、それに答えるべき言葉を持たなかった。
「例え、お前がその海神の娘の目を有していなくとも、私はお前を愛しただろう。姿形が変わろうとも、お前がお前である限り、私はお前を愛しただろう」
 その思いは、リィルとて同じであった。だが、それを伝える事は出来なかった。


 その翌日には、目を開ける事すらも億劫に感じるようになった。何も考える事なく、夢すらも見てはいないような気がした。
 幻のように、自分を訪れる人々の姿が見えた。
 海狼、ローアン、ミルド、そして、サリア。
 だが、誰もがぼんやりとして、その言葉も耳に入っては来なかった。
 自分が生きているのか死んでいるのかも、定かではなくなった。
 その代わりに聞えて来たのは、不思議な囁きだった。
 ――いつまでたってもよくならないあなたは、皆の負担なのよ。
 誰の声なのだろうか。それとも、自分の心の声なのか。リィルには分からなかった。
 それは、絶え間なく囁き続けた。
 ――皆に迷惑をかけるだけ。それなら、いっその事、いなくなった方が皆の負担を軽くできるのではないかしら。どうせ、あなた一人がいなくなったところで、何も変わりはしないのだから。
 でも、そうしたら、ベルクリフさまが哀しむ。
 ――あの男に、そんな感情などありはしない。全ては偽り。あなたを妻の座に据えた以上は、あなたに愛情のある

をしなくてはならないから。妻を愛する良人の義務を果たさなくてはならないだけのこと。身体の弱かった前の奥方さまを見殺しにしたように、妻殺しの疑いをかけられないようにしたいだけ。現に、ローアンを口説き始めているのではなくて。
 あれは、誤解。きっと、そう。
 ――断言できないなら、それは真実ではないわ。(はた)を織れないあなたは、もう、邪魔なだけの存在。あなたは元々、その腕を買われてここへ来たのよ。そのために、海狼はあなたを妻に迎えたの。それができないのなら、解放してあげるのが、あなたの愛情ではなくて。あなたに関わる全てから、この一族を解放してあげましょう。どうせ、あなたは必要とされはいないのだから。
 必要とされていない。
 ――そう、もはや、期待されていたように機を織ることもできなくなった。子を産むという妻としての務めも果たせない。正気ですらない。そんなあなたを、誰が必要としていると言うの。
 ベルクリフさまは、わたしとの間に子はいらない、とおっしゃったわ。
 ――男が自分の子を欲しがらない理由は一つだわ。

、ということよ。
 わたしの血はいらない。
 ――そう、正気ではないから。
 わたしは、正気だわ。
 ――皆、そう言うわ。でも、そうじゃない。
 ……。
 ――言い返せないのが、その証拠よ。もう、あなたは正気を失っているのよ。だから、この部屋に閉じ込められているの。いいえ、正気を失うように、ここに閉じ込められたのだわ。誰も信じちゃだめ。あなたに親切なふりをして、機会をうかがっているの。
 誰が、何の目的で。
 ――決まっているでしょう。海狼しかいないじゃないの、あなたを人目に触れさせないようにできるのは。信じちゃだめよ。恐ろしい北海の部族長なのだから。妻殺しを忘れたの。
 あれは、誤解。
 ――海狼がそう言ったのなら、それは何とでも言えるわ。自分に都合のいい話を作り上げることなんて、簡単なことよ。それに、あなたのようなお人好しは騙されやすいわ。
 そんなことは、ない。決して、あれは嘘ではなかった。
 ――男という生き物は、結局は花を散らせて踏みにじって、後を振り返りもしないものよ。ローアンを思い出して。あの()がどんな目にあったのかを。
 あの人は、あのような(けだもの)のような男たちとは、違うわ。
 ――どうしてそう言い切れて。あなたは惑わされているだけよ。自分をあの島から連れ出してくれた海狼を、いい人だと勘違いしているだけ。でも、そんな人間じゃない。ただの北海の男にすぎないのよ。
 ベルクリフさまは、族長だわ。
 ――もっと悪いわ。同じ族長だったイルゴールはどうだったかしら。女奴隷を寝所に引き込んでも、飽きれば簡単に捨てていたじゃないの。
 あの人は、わたしを妻に迎えてくれた。
 ――五年も独り身でいて、そろそろ後妻が必要だったから、でしょう。それに、この部族は交易で必要な物を欲しがっていたわ。あなたは誰もが認める織物の天才だったわ。それは過去のことだけど。でもね――
 ――でもね、もし、あなたが今、ここから姿を消したら、もう海狼の妻の座につきたがる女性はいないでしょうね。娘を嫁がせようとする族長もいなくなるでしょうし、何よりも、娘たちが恐れるわ。一人目は不審な産褥死。二人目も、あっと言う間に姿を消した、となればね。ローアンを側女にして子を産ませることもできなくなるでしょうよ。そうすることで、あなたは、永遠に海狼の妻であり続けられるの。簡単なことよ。
 簡単なこと…。
 ――そう、とても、簡単なこと。
 ――こっそりと部屋を抜け出して、貴婦人の断崖へ行けばいいのよ。あそこは、普段は人はいないから、誰にも気付かれずに行けるわ。そこから一歩、踏み出すだけ。たったそれだけのことで、あなたは自由。海狼も部族も自由。どうせ、あなたには行く場所も帰る場所もない、待つ人もないのだから、そうやって姿を消してしまうのが一番よ。
 そんなことは、できない。ベルクリフさまはわたしを運命と呼んでくださった。故郷になると言ってくださった。生涯を捧げてくださる、とも。
 ――男の言葉を真剣に受け取るなんて、愚かなことだというのが、まだ分からないの。口先だけの言葉にだまされるほど、あなたは愚かなの。
 口先だけの言葉ではなかった。ベルクリフさまは真剣だった。それを疑うことなんて、できない。
 ――なら、余計に、身を引くべきでしょう。迷惑な存在になりたくはないでしょう。解放してあげなさい。それが、愛情というものではないかしら。そして、永遠に手に入れるのよ。それは、とても素晴らしいことではなくて。あなたがいなくなった後は、海狼は一生、独り身で過ごさなくてはならないのよ。
 何度も何度も、

は同じ事を囁き続けた。リィルは、死を誘惑する「声」と必死で戦った。
 その戦いが、どのくらい続いたのか。恐らくは五日、もしくは十日か。
 リィルは、枕頭に置いている海狼からの贈り物である片刃の小太刀を取り出して見た。鍔のない柄は鯨の骨で出来ており、海狼の紋章が刻まれていた。海狼の持ち物に較べると、短剣のような長さだった。刃物に怯えるリィルに、海狼は護り刀として持つようにと言った。悪霊から身を護る為にも、枕頭に置くように言われていた。それは、海狼が自分の武器を置くのとは意味が異なっていたが、納得して常に据えている物だ。
 それを、細やかな装飾を施した革の鞘から半ば引き抜くと、銀色の金属の表面に浮かぶ不吉にも思える黒い文様に見入った。海狼の長剣にも、同じ文様があった。龍の息吹、と呼ばれる極上の刃物である証だと、海狼は言った。あらゆる悪から護ってくれるだろう、と。
 実際はどうだろう。この刀は、リィルを怯えさせるだけで、夢からも噂からも護ってはくれなかった。どこから聞えて来るのか分からぬ、死を示唆する声からも。
 はらはらと涙がこぼれた。
 自分には、この島の異教の神々の恩寵はないのだろうか。
 決して、(ないがし)ろにした訳ではない。自分なりに精一杯に仕えようとした。それでも、神々は自分を受け入れては下さらないのだろう。如何に海神の娘の目を有していると海狼が言おうとも、神々の心は明らかではないか。
 いっその事、この小太刀でひと思いに全てを終わらせる事が出来れば良いのに、とリィルは思った。だが、刃物のきらめきを見ると、恐怖心の方が勝った。また、この場を血で穢す事への躊躇いもあった。
 ここは、海狼が自分の為に全てを整えてくれた場所だった。僅かな日々であったとしても、愛を交わし、その悦びを知った場所だった。
 そのような場所を、死で穢す事は出来なかった。
 だが、同時に、考える事に疲れてしまった。
 海狼の言ったような、過去から遂に立ち直る事が出来なかった女の一人が、自分なのだろう。幼かったので、乱暴をされた訳ではなかった。だが、どのような悲惨な光景を、自分は見たのだろうか。思い出してはならないと思う程に、それは哀しく、残酷なものだったのだろうか。
 頭の中の言葉の言う通りにするのが、正しい気がした。
 ――さあ、まだ、力の残っているうちに、行動しましょう。
 その囁きに抗う力は、最早、尽き果てていた。


 ぼんやりとした頭で、リィルはゆっくりと寝台から降りた。そして、掛け布の上にあった薄い肩掛けを羽織った。最上級の白く細い羊毛で織られたその肩掛けは、リィルのお気に入りでもあった。それだけを夜着の上にまとい、裸足である事にも気付かぬまま、部屋を出た。
 何も、目に入らなかった。集落の人々が奇異な目で自分を見ている事にさえ、気付かなかった。何人かが自分に声をかけたのも耳に入らなかった。或いは何処(いずこ)へか駆けて行く者がいたのも、目に入らなかった。
 行き先は、分かっていた。
 そこへ行けば、全てが終わる。
 誰もが楽になり、幸せになれるのだ。
 その思いだけでリィルは重い足を引きずりながら歩き続け、集落を出た。
 草原を風が吹き渡って行き、リィルのまとっていた肩掛けをさらった。その事にも気付かなかった。乱れた髪も気にならなかった。ただ、一歩一歩、確実に進んで行く事しか、頭になかった。
 誰もが、幸福に生きて行く事は出来ないのか。
 楽土は、地上には存在し得ないのか。
 ならば、他の者の負担となる者が、そこを去ればどうだろうか。
 そうすれば、その分だけ、奴隷のいないこの島は楽土へと近付くのではないだろうか。
 貴婦人の断崖へと続く洞窟の入り口には、誰もいなかった。
 (きざはし)は暗く、その下は光も届いてはいなかった。まるで、根の国への入り口のようだった。
 根の国の神からでも自分を取り戻すと言ってくれたのは、誰だったのか。確かに、そのような言葉を聞いたような気がしたが、それも、もう、遠い過去の事のように、ぼんやりとしか思い出せなかった。
 海神が紫の目をした自分の娘を取り戻す時、部族が滅びるというのならば、皆が自分を見てその予言に怯えるというのならば、自ら海神の許へ赴けば、その言葉は意味を失うのではないだろうか。そこまで人を怯えさせるとは、結局のところ、この紫の目は厄災しか意味しないのであろうか。海神ですら、自分を護ってはくれないのだろうか。人の身でありながら、その娘と同じ色の目を有している事が、不興を買ったのであろうか。それとも、今まで生きて、人を愛した事こそが、その護りであったのか。
 隧道(ずいどう)は漆黒の闇に包まれていたが、岩壁に手を添え、リィルは進んだ。恐ろしくはなかった。
 ごつごつとした岩肌で足の裏が傷付き、血が流れたが、何も感じなかった。
 ゆっくりと、だが、確実に歩を進めて行くと、やがて外からの光が差す場所に辿り着いた。
 明るい陽光に満ちたそこは、波音が一際、大きく聞えた。
 海からの生命を海へと還す。そこには何の不思議もなかった。自分は、ただ、還って行くだけなのだと、リィルは思った。帰るべき場所へと。
 そうだ、自分には、帰る場所があったではないか。
 北海という、恐ろしくも素晴らしい場所が。
 もはや自分の産まれも思い出せない身なら、生を受けた地よりも長くこの北海にいる身であるならば、この海こそが、自分の居場所ではないのか。
 お前の帰るべき場所はここだ、と海が言うようだった。私は全てを受け入れよう。生も死も、幸いも厄災も、喜びも哀しみも、希望も絶望も、全て託するが良い、と。
 海神は、自分を拒否したのではない、招いていたのだ、ずっと。
 知らず、リィルは断崖の出口にいた。そこから見えるのは、輝かしい光景だった。多くの海鳥が舞い、向かいの崖の上には青い空が広がっていた。下の岩場に打ち寄せる波音が、耳を満たした。
 手を伸ばしさえすれば、失った全てが取り戻せるような気がした。幸福な夢や、今は亡き優しい人達を。
 (いざな)うような波音に、リィルは暫し、目を閉じて耳を澄ませた。
 懐かしい音だった。その中に、思い出の中の声が聞えるようだった。
 後、一歩で、それが手に入る。
 足を踏み出しかけた、まさにその瞬間だった。
 勢いよく胸の下を引かれ、リィルは後ろに倒れ込んだ。何が起こったのか、理解できなかった。余りにも急に強く引っ張られた為に、息が詰まった。もう少しで、幸せだった頃を取り戻す事が出来たのにと、それでもリィルは再び立ち上がろうとした。
 だが、リィルを引き止めたものは、震えながらも、決してそれを許さなかった。むしろ、前よりも強く後ろへと引くのだった。
「リィル、リィル」
 自分の名を呼ぶ声に、リィルは気付いた。
 熱く、荒い息が顔にかかった。激しく上下する胸が背に感じられた。魚の臭いがリィルを包んだ。それは、どこか安らげるものだった。
「良かった、間に合った」
 絞り出すようなその言葉と共に、熱い液体が顔に落ちてきた。ゆっくりと顔を上げると、そこには青い目があった。熱い液体は、そこから降り注いでいた。
 美しい青い色。そして、いつまでも眺めていたくなるような、美しい顔。
 リィルはゆっくりと手を伸ばし、その頬に触れた。
 その仕種に、リィルを抱き締めていた両の腕の片方が、震えながら重ねられた。ゆっくりと、しかししっかりと唇に当てられた。
 そうだ、この人だ、わたしが生命を捧げてもよい、と思ったのは。わたしが最も傷付けたくない人。わたしの、帰るべき場所。
 リィルは、まだ霞がかった頭で思い出した。
「兄上、この者共は如何なさいます」
 息は荒いが、これも、良く知った人の声だった。
「さっさと殺しなさいよ。今すぐにやればいいわ」
 その声に、リィルは震えた。何故、その声がここで聞えるのか。そして、何故、殺せと言うのか。
「いや、殺さぬ」リィルを抱き締めたまま、冷たく低い声で海狼は言った。「決して、殺さぬ」
 徐々に、頭の中の霧が晴れて来た。
「最奥の獄へ入れろ」
 ひっと息を呑む音が聞えた。悲鳴に近い音だった。
「そればかりは、お許しくださいませ」
 マイアの声だった。
「暗闇の中で、日に一度の麵麭と水のみで、波音を聞きながら朽ち果てるが良い。何時まで正気を保てるか、見物(みもの)だな。頑健な男とて五日で髪は白くなり、精神(こころ)は月がひと巡りする迄、保たんからな」残酷な笑いが、そこにはあった。「お前達は、死してもそこからは出さぬ。他の、深奥の獄に繋がれた者共と同じく、そこに放置されるのだ。自らの骨を波が洗う音を聞くが良い。恩知らずのお前達には、それでも軽い刑だろう」
「いやよっ」サリアの叫ぶ声がした。「そんな…そんな死に方は」
「ならば、何故(なにゆえ)、私の妻に仇なした。お前を解放したのは、リィルであろう」
 飽くまでも、その声は冷たく静かだった。だが、リィルはそこに、今まで海狼が見せた事のない深い怒りを感じる事が出来た。ぞっとする冷たさに、一つ大きく身震いした。
「ずっと、気に食わなかったのよ。何もかも分かったような顔をして、わたしたちなんて、馬鹿にしか見えなかったのでしょうね」そのようなつもりは、毛頭なかった。そのように思われていたとは、俄かには信じられなかった。「学もあったようだから、結局はお上品な身分だったんでしょう。それが奴隷なんて、いい気味だったわ。なのに、一番の織り手で奥方のお気に入り。あの饗宴でめちゃくちゃになってしまえばよかったのよ。奥方が仕切り()に、その子は外すようにと言っているのを聞いた時には、はらわたが煮えくりかえったわ。どさくさにまぎれて、饗宴に出るように連れ出したのに――よりによって、上座に回されて見染められるなんて。不公平だわ。なぜ、その女にばかり、幸運が訪れるの」
「それはお前の性根の問題だろう」エルガドルの声がした。「策を弄して人を陥れようとする者に、神々の恩寵は与えられない。それに、族長が奥方様を運命と見定められたのは、それよりも前の事だ。運命同士の間に、引き合う力が働いたに過ぎない。饗宴にいらしたのならば、お探しするように言われていた我々の誰かが、いずれ、気付いたであろうしな」
「性根の問題、ですって」吐き捨てるようにサリアは言った。「わたしが何をしたって言うの。わたしの母は戦士の愛人だったわ。正妻の子より、大事にされていたわ。裳着の儀式も父の指示で行われたわ。それが、父が亡くなった途端に、お前は所詮は奴隷なのだから、と売られたのよ。お上品な人達にね。わたしは、何も悪いことはしていないわ。父親の愛情がある者が、権威を持つのは当然よ。それを、正妻の子だというだけで、それまで日陰でいた者が、わたしから全てを奪っていいとでも言うの。その女だって、北海に来なければ、あいつらのように人を踏みつけにしても平気だったはずよ」
 サリアにそのように思われていたとは、リィルには俄かには信じられなかった。リィルはサリアを見た。
「どうして――あなたは、いつでも親切だったわ」
 やりきれなさに、その思いが口をついて出た。
「親切は自分のためよ。奥方に目をかけられていたあなたに親切にしておけば、いいこともあったでしょうしね。それに、ほら、現に、あなたはわたしを解放してくれたじゃないの」
 あからさまな嘲りの言葉に、リィルは思わず目を伏せた。身体の震えを、どうする事も出来なかった。ただ、海狼に縋り付いていた。
「それも、これで終わりだ」サリアに抜き身の長剣を突き付けていたエルドが言った。「義姉上にこのような事を為して、兄上が御赦しになるはずがなかろう」
「そうね、なら、ついでにもう一つ、いいことを教えてあげるわ」サリアは不敵な笑みを浮かべた。「ローアンがああなったのは、わたしがそう仕組んだからよ。本当は、リィル、あんたが、そうなるはずだったのに。男どもに穢されるだけ穢されて、最後は家畜小屋でくたばるなんて、いい気味だと思ったのに」
「なにを…」
 エルドがひるんだ隙に、サリアはその刃から逃れた。
「わたしは捕まりはしないわ」
 そう叫ぶと、サリアはリィル達の傍らをすり抜け、崖へと身を躍らせた。
「サリア」
 リィルは海狼の腕を振りほどいた。自分でも、どこからそのような力が出て来たのか分からなかった。
 這いつくばって崖下を覗き込むと、さっと大きな手がリィルの目を覆い、引き戻した。
「駄目だ、見るな」
 だが、リィルの目は、既に遥か下の岩場を捉えていた。そこには、人間の原型も留めぬ肉片を、赤い波が洗い流しているばかりだった。
 ゆっくりと手が離れ、リィルはマイアに目をやった。
「あなたさえ――あなたさえ、いらっしゃらなければ、何もかもが今まで通りだったのに」
「それでは、お前はイルガスを族長にはしたくはなかったのか」
 エルドが問うた。
「まさか、あのお方をおいて、どなたが族長を継がれるとおっしゃるのですか。わたしの可愛いお嬢さまのご子息を差し置いて」
「リィルとの間に子が恵まれなくとも、お前が側にいる限り、私はあの子を後継者とはしないだろう」海狼は冷たく言い放った。「エルドか、その子に継がせれば済む事だ。我々が長子相続に拘泥(こだわ)らぬというのは、そういう意味でもある事を忘れたか」
「そんな――」
 マイアは言葉を失ったようだった。
「第一、私にリィルの居場所を報せに来たのは、イルガスだ。お前はイルガスに、リィルの後を付けている所を見られている」
 マイアの口から、声にならない悲鳴が迸り出たように、リィルには思えた。
 やにわに、マイアはエルガドルの長剣の切っ先を握ると、それを自らの胸に突き立てた。
 その瞬間、リィルの目の前が赤く染まったようになった。全てが、甦った。
「せめてもの、慈悲だな」
 海狼は何の感情もこもらぬ声で言った。だが、リィルにはその声は遠くから聞えているように感ぜられた。直ぐに、全てが暗転した。

    ※    ※    ※

 小さな城砦と集落からなる、こじんまりとした浜辺の領地だった。
 父は、領主。名はヨーレン。
 リィル・エプ・ヨーレンとは、ヨーレンの娘リィルの意。
 母はフィアラ。
 父は、整った顔立ちで薄い金色の髪に海のような青い目をしていた。誰よりも武芸に秀でており、時には教えを請いに他領の者が訪れる程だった。領民にも慕われていたのだろう、城砦は誰に対しても開かれており、村の子供も自由に出入りしていた。村人の中に入るのも厭わぬ、気取らぬ人でもあった。
 母も、父と同じ色の髪をしていた。目は空色で、肌の色も白く、とても儚げで美しい人だった。手仕事も上手で、いつも何かを作っていた。優しく歌いながら、よく髪を梳いてくれたものだった。幼いリィルに草の摘み方を教え、織物の手ほどきをしてくれたのも、母だった。
 幸せな家族だった。
 平和な生活だった。
 父はよく、見晴らしの良い城壁でリィルを抱き上げ、水平線を見せてくれた。
 ――お前は、海神が我々に下された娘だ。
 そう、父は言ったものだった。
 ――菫色の目が、その証だ。何があろうと、お前には海神の御加護がある事を忘れるな。母のように美しく、賢明に育て。女であろうと学問を怠るな。何があろうと、歩みを止めるな。何時の日か、お前の手を欲する男が現れた時に、その度量を見極める目を持て。そして、幸せになれ。お前の父母がそうであるように、比翼連理が如く生きよ。
 穏やかで落ち着いた声だった。決して荒げられる事がなく、常に快活で、慈しみに満ちた話し方をする人だった。
 母と乳母をはらはらさせながらも、他の子供達と岩場に登った。その姿を、父は笑って見ていた。
 時には、父の船に乗せて貰って沿岸を航行する事もあった。舳先から艫へ、艫から舳先へと甲板を走り回り、男達を笑わせた。
 両親と共に浜辺を散策する事もあった。老人の昔語りや、漂泊の詩人(バルド)の歌を他の子供達と聞いた。
 父も教えたという老教師は、まだ見ぬ土地や様々な事を話してくれた。
 二人は何時でも優しい笑みを浮かべながら、リィルを見守ってくれた。城砦の人々や集落の大人達も、そうだった。
 そして――母の胎内には、新しい生命が息づいていた。徐々に大きくなって行く腹部にそっと手を当てたり、頭を凭せ掛けると、胎内で動くものを感じる事が出来た。その時間は、穏やかなものだった。
 だが、それは同時に、儚いものでもあった。
 定例の、父と領民代表との会合での事だった。そこで何が話し合われたのかは、分からない。誰もが難しい顔をしており、特に、父の表情は、見た事もない程に硬かった。リィルを見た瞬間、皆に笑顔が戻ったが、それは、幼い心に残った。
 幼すぎて、何も分からなかった。
 家庭内では決して見せる事のない、領主としての父の苦悩には気付く事が出来なかった。何が出来ると言うのでもなかったにせよ、だ。
 だから、リィルにとり、全ては突然にやって来た。
 その夜も、いつものように静かだった。そして、突如、半鐘が鳴り響いた時には、既に遅かったのだ。
 愕いて起き出し、外を見たリィルの目に映ったのは、燃える集落だった。
 母と乳母が、急いでリィルに身支度をさせた。父が、やって来た。常になく厳しい顔で鎖帷子を着け、長剣を手にしていた。
 ――奴らが、来た。
 その一言で、母は全てを察したようだった。一つ頷くと、父の許へ歩み寄った。
 ――ご武運を。
 そう言うと、二人は唇を合わせた。
 ――リィルと、腹の子を頼む。奴らとて、女子供の生命までは取るまい。
 父はリィルを抱き締めた。今生の別れと知っているようだった。
 ――リィル、我が愛しき娘、海神の娘よ。お前は何があっても生き延びよ。お前が生きている限り、我等の血が滅ぶ事はない。
 返事を待たずに父は身を離すと、振り返る事なく出て行った。
 母は、リィルと乳母、そして剣を手にした老教師を伴って城砦の奥の部屋に入った。閉ざされた事のない城門の閉じる、重々しい音がした。
 ――どうして、父さまが出て行ってしまわれたのに門を閉じるの。どうして、村が燃えているの。
 リィルを抱き締めて、母は答えた。
 ――北海の海賊が襲ってきたのよ。何てこと。取り引きを拒否しただけだというのに、何てひどい。
 老教師がリィルに、北海の海賊達が領地を襲わぬ代わりに食糧と銀を要求して来たのだと言った。
 母は震えていた。恐怖だったのか、怒りであったのか、それはリィルには分からなかった。どのくらいの時間が過ぎたのか、城砦全体を揺るがすような音が何度か、した。そして、城砦の衛士達の叫び声が聞えた。
 城門が、破られたのだ。
 金属が激しくぶつかり合う音と叫びが、徐々に近くなって来た。
 リィルは母にしがみついた。全てから、耳を閉ざしたかった。
 やがて、それも治まった。
 ――おい、出て来い。
 その声は、城砦の大広間からしているようだった。
 ――お前達の領主は、俺が討ち取ったぞ。
 母の顔が蒼白になった。同時に、その震えも止まった。
 制止する乳母と老教師を無視して、母はリィルの手を引いて部屋を出た。その顔は、ついぞ見た事のない領主夫人のものだった。
 広間の中央に、身体の大きな男が立っていた。血(まみ)れの兜の下からは、編んだ金色の髪と暗い青い眼が見えた。そのような姿の戦士を目にするのは初めてだった。その男は、血刀と

を下げていた。
 ――聞きしに勝る美女だな。腹ぼてなのが残念だが。
 その男の野卑た言葉に、後から来た他の男達が笑った。皆、その男と同じように(から)が大きく、髪や髭を編んでいた。誰もが血で汚れており、まだ血の滴る長剣や斧を手にしていた。
 ――お前の旦那は、この俺が討ち取った。
 男は手にした物を、ぐいと差し上げた。
 リィルは思わず、母の衣にしがみ付いた。
 それは、父の(こうべ)だった。男は血に汚れた薄い色の髪を摑み、母の前に突き出した。
 母は、リィルの手を衣から引き剥がし、男へと向かった。
 ――我が良人の首をこちらに。
 母は、男と対峙すると静かに言った。その気丈さに気圧されるように、男は首を母の伸べた手に渡した。
 ――ヨーレンさま…。
 母は跪き、愛おしそうにその首を抱き締めた。
 ――さあ、これで気はお済みでしょう。立ち去ってくださいませ。
 ――そういう訳にもいかなくてな。
 男は笑った。
 ――皆殺しにせよとの命令だ。
 その瞬間、母の顔色が変わった。
 ――わたくしには、もう少しで子が産まれます。娘はまだ、幼うございます。
 ――その胎の子が男なら、俺達に血讐を仕掛けんとも限らんからな。だから、根絶やしにするのさ。勿体ないが、女子供もな。北海の部族に逆らう奴らへの見せしめだ。あんたがその腹でなければ、充分に楽しませて貰ってからだっただろうがな。
 男達が、笑った。
 父を討ったと言った男は血塗れの長剣を持つ手を上げ、その切っ先を母の胸に突き立てた。
 母さま。
 思わずリィルは叫んだ。誰かが、飛び出して行こうとするリィルを抱き止めた。
 がくりと母の(こうべ)が垂れ、父の首が力なくなったその腕から滑り落ちた。
 リィルの傍らから、叫びながら老教師が剣を振り上げて駆け出した。
 だが、男は動じる風もなく、他の者が一刀のもとに老人を切り捨てた。
 乳母に、抱き竦められた。
 ――ついでに、男か女か、見てやろう。
 男は母の身体を足蹴にし、ぴくりとも動かぬその胸から剣を引き抜いた。
 母の衣の裾で血を拭い、長剣を収めると、男は、不気味に光る小太刀を母の腹部に刺し、すうっと引いた。
 血と共に、水のようなものが流れ出た。そして、小さな身体が転がった。手足が、動いていた。
 ――おい、生きていやがる。
 誰かが言った。
 ――始末しろ。
 そう言われた男は、小太刀を、今にも声を上げそうな赤子に突き立てた。
 ――男だ。
 リィルは悲鳴を上げる事も出来なかった。
 乳母は、何事かを繰り返して呟いていた。神々への祈りだったのかもしれない。このような残酷な仕儀を助けてはくれない神々への恨み言であったのかも、しれない。
 父は討たれた。
 母も、目の前で殺された。
 あれ程、楽しみにしていた弟も失った。
 次は自分の番だ、と思った。
 無理矢理、乳母が連れて行かれた。自分を呼ぶその声を聞きながらも、リィルは不思議と落ち着いていた。そして、自分を殺そうとしているのであろう男を見た。
 ――この娘、魔女の目をしていやがる。
 その言葉に、乱入者達の間に動揺が走るのが、リィルにも分かった。
 海神の娘の証、と父が言ってくれた紫の目。それは、この北海の海賊にとっては魔女の目なのか。
 ――殺すな。呪われるぞ。取り敢えず、連れ帰って族長の指示を仰ぐしかない。
 取り乱したように男は言った。
 長剣で脅されながら、城砦を連れ出された。振り向くと、一つ所に集められた城砦の使用人達に剣が振るわれるところだった。乳母も、その中にいた。
 浜辺のあちらこちらに、死体が転がっていた。遊び仲間もいた。優しかった老人もいた。幼い子を守るように息絶えた母親も、いた。城砦の衛士も。涙は出て来なかった。ただ全てが現実の事とは思えなかった。
 北海の男達の笑い声が響き、女達の悲鳴が聞えた。乱暴されている姿が、目に入った。運良く森へと逃れた者がいるのかどうかも分からない。誰も武器らしい武器を手にしていない事から、この襲撃がいかに素早く行われたのかが、幼いリィルの目にも分かった。
 ――お前の親父には手こずらされたぜ。まさか、あんな優男風に五人も殺られるとはな。
 男の言葉も、(うつつ)のものとは思えなかった。
 浜の隅に、竜頭船が三隻引き上げられていた。
 警戒していたはずの城砦の衛士達が気付かなかったのは、沿岸に沿って、この吃水の浅い船が来たからなのだと、知った。見慣れた船では、ここまで近寄る事は出来ない。
 竜頭船の一隻に放り込まれた。曙光が射た。あの女達も殺されたのであろうか、全てが死の静寂に包まれる中、男達が様々な物品を船に積み込んだ。
 そして、そのまま北海の島へと連れて行かれた。
 時の族長はイルゴールの父親だった。褐色の髪と髭をした巨体のその男は、父母を殺した男の話を聞き、満足そうに頷いた。だが、リィルの目を見ると顔をしかめ、牲贄(いけにえ)にするには幼すぎる。年頃になるまで生かしておけ、と言った。
 そうして、リィルは機織り小屋に入れられ、名を奪われた。五歳の時だった。
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